彰義隊と上野戦争

河鍋暁斎「東台戦争落去之図」
▲河鍋暁斎(かわなべきょうさい)『東台戦争落去之図
沼津明治資料館パネルより。慶応4年7月の上野戦争を描く。東台は関東台嶺(上野東叡山寛永寺)を指す。

上野彰義隊の墓 彰義隊の墓案内板

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った。
東征軍(官軍)と公家の間で徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋藩主時代の側近小川興郷(おきさと。椙太)達は江戸上野山(東叡山寛永寺円頓院)に蟄居した慶喜の助命を嘆願し、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、後に彰義隊(しょうぎたい)と称し浅草の東本願寺に宿営し江戸警備を勤めた。

慶喜の水戸引退後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山に入り、二千人を超えた彰義隊は、薩賊討伐を標榜して江戸開城後の市中で新政府軍と衝突を繰り返す。
これに対し新政府軍は大村益次郎を派遣し、5月1日に江戸警備を新政府があたると布告し、名目を失わせた彰義隊の討伐に乗り出した。

5月15日大村益次郎指揮の東征軍総勢1万5千人余りが出動し、早朝に一隊が上野山に立て籠もる彰義隊の背後の団子坂に展開。
砲兵隊は不忍池対岸で構え、佐賀藩兵は加賀藩上屋敷(現在の東大構内)に4門のアームストロング砲を据える。
池之端・駒込・湯島聖堂、大川橋・千住など退路を塞ぐ為に幾重にも諸藩兵を配置した。

午前8時頃より総攻撃を開始。雨中の戦いは黒門口と谷中(やなか)口で展開される。
正面の黒門口では表と不忍池対岸からも砲弾が飛び交った。
優勢だった彰義隊が道を隔てた料理屋・雁鍋2階からの銃撃により崩れ、午後2時頃に突破された。
谷中口では雨による小川の増水が味方したが、善戦空しく突破される。

新政府軍は山内に途入し、午後5時頃に彰義隊隊士達は根岸方面へ敗走した。
政府軍の戦死者3、40人に対して彰義隊の戦死者は200余人を超えた。
彰義隊に後から加わっていた新撰組助勤の原田左之助も上野戦争で戦死したと伝わるが、生存説もある。

 

彰義隊の墓 彰義隊の碑

彰義隊の墓と碑
彰義隊の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによってこの地で荼毘にふされた。
正面の小墓石は明治2年(1869)寛永寺子院の寒末院と護国院の住職が密かに付近に埋葬したものだが後に掘り出された。明治7年(1874)に新政府の許可を得て墓を建てることができた。
大墓石は明治14年(1881)12月に小川興郷らによって建立。新政府にとって賊軍である彰義隊の文字を彫るのはばかられたが、旧幕臣山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」の字を大きく刻む。

所在地:東京都台東区上野公園一番(台東区有形文化財指定)

参考図書
・谷口研語『諸国の合戦争乱地図 東日本編

上野西郷隆盛像

余談ですが彰義隊の墓は上野公園の、江戸を戦火にさらすことを回避した顕彰として造られたという、有名な「上野の西郷さん」こと愛犬ツンをつれた西郷隆盛銅像のすぐ背後に在ります。
徳川家の菩提所・東叡山寛永寺のお堂が立ち並んでいたこの地を、明治政府が公園に変えた経緯もあって色々な想像がかき立てられる場所です。