旧滝沢本陣

松平容保パネル 旧滝沢本陣跡

松平容保旧滝沢本陣
容保公画像は会津新撰組記念館パネル。撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました
戊辰の役での本営となった滝沢本陣(たきざわほんじん)は、江戸へ通じる旧白河街道筋に位置し歴代藩主の参勤交代や領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社参詣などの際の殿様の休息所として使用された。

 

慶応4年(1868)白河口を完全に押さえた新政府軍は7月29日に二本松城を陥落させた。
8月17日に列藩同盟軍が奪回を試みるも失敗。これまでに新潟と越後口の戦いで勝利を収めた新政府軍は会津総攻撃へ向かう。
8月20日に二本松を発ち、約三千の兵を母成峠(ぼなりとうげ。現福島県郡山市、猪苗代町の境)に投入。

対する会津は街道の要所である勢至堂口に会津藩家老内藤介右衛門率いる主力を配置。
次に相馬・仙台への本道山中口に重点を置き、母成口は手薄で猪苗代城代田中源之助隊はじめ旧幕・二本松兵合わせて300に過ぎなかった。

北関東から転戦してきた伝習隊の大鳥圭介が、本松城に集結する新政府軍の動きを見て母成口の増強を具申するが、会津藩は勢至堂口に拘り聞き入れられなかった。
母成口の兵と伝習隊、山口次郎(二郎。斎藤一)率いる新撰組合わせおよそ900人で守備する。

21日午前6時、新政府軍は玉ノ井から三隊に分かれて進み、母成峠東から白河口総督府参謀伊地知正治(薩摩藩)・板垣退助(土佐藩)隊の右翼隊・石筵から中央隊が大鳥隊を砲撃し、大鳥隊を後退させる。
合流した右翼・中央隊が大砲二十数門を一斉射撃し、大鳥隊は大敗。猪苗代へ撤退する。
新撰組も伏兵に遭い四散したが、山口は酸川野(すかわの)で伝習隊の大島寅雄の後送を助け、七連発銃で防戦したという。途中退却行を共にした二本松城藩士黒田伝太とはぐれ、猪苗代に至る。

戦の後に奥羽越列藩同盟の藩・庄内と榎本武揚と合流できる仙台に向かうことを決めていた土方歳三(兵の要請手配のためか母成峠の戦には直接参戦していない)と、戦に参戦し引き続き会津を護ろうとする山口が意見が分かれ(もしく協議の上で)、土方は新撰組主力を大鳥圭介に託し庄内へ。
山口ら13人、兵卒合わせ20人程は会津に残ると決めた。
猪苗代城城代の高橋権太夫は亀ヶ城(猪苗代城)を焼き若松城下に向かう。

22日に土方は滝沢峠から鶴ヶ城に入り、山口は残兵をまとめながら猪苗代から大寺街道を通って入城し、母成峠の敗戦を報告。
前会津藩主松平容保は救援のため自ら残存兵を率いて出陣し滝沢の郷頭横山宅に本陣を構えた。
滝沢本陣には容保付添の会津藩士の他、容保の弟前桑名藩主の松平定敬(さだあき)や飯野藩士らも集った。

16、7の少年で結成される白虎隊のうち士中一番隊は会津藩主松平喜徳(のぶのり)と城へ残り、容保の身辺警護には土中二番隊があたった。

この時新政府軍は、総督府隊左翼の薩摩四番隊に属する川村純義隊が、猪苗代湖北西日橋川にかかる十六橋(会津への架け橋となる要所)へ向かい、橋を壊そうとしていた会津兵に一斉射撃を浴びせ戸ノ口まで前進していた。
戸ノ口原守備の為、白虎士中二番隊にも出動命令が出された。

またこの時、土方も滝沢本陣に訪れているという。

 

旧滝沢本陣(旧滝沢本陣横山家住宅)
所在地:福島県会津若松市一箕町滝沢122

 

会津若松駅白虎隊士の像

▲会津若松駅の白虎隊士の像

■■伝習隊と新撰組■■