新選組殉難地「如来堂」

如来堂 如来堂周辺

如来堂山口次郎(二郎。斎藤一)ら新選組隊士が戦った地

 

慶応4年(1868)8月21日、新撰組・反政府軍は母成峠の戦いで敗れて猪苗代に撤退。
土方歳三(母成峠の戦いに直接参戦はしていない)は滝沢峠から十六橋を渡って22日に鶴ヶ城に入り、母成峠の敗戦を報告。
奮戦した山口も残兵をまとめながら猪苗代から大寺街道(日橋)を通って入城し戦況を報告した。

夜、中島登ら新撰組半隊は天寧寺に泊まり、山口ら新撰組14人と伝習隊等歩兵達合わせて38名は鶴ヶ城下の宿に泊まる。

23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せて以降外からの増援を遮断したため、巧みに包囲をかわした山川大蔵(日光口で善戦後に駆けつけ、彼岸獅子を舞わせて官軍を欺き26日入城)等しか籠城戦へ加勢できず、城門も固く閉ざされ会津藩士以外の入城が叶わなかった。

そして大鳥圭介ら旧幕府軍、新撰組、前桑名藩主松平定敬(さだあき。前会津藩主松平容保の弟)率いる桑名藩兵等は若松北方10キロにある米沢口塩川村に転陣。大塩宿に移動、新撰組約千人が集結。

25日に土方は援軍を求め米沢庄内へ向かった。

隊士達は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と主張する山口ら誠を貫こうとする残留派と、土方の意向である仙台行を主張する新撰組副長の安富才助達は話し合いの末、互いを尊重しあって分かれたという。

26日、山口らは塩川に移り斉藤忠兵衛宅を本陣とする。
9月2日、山口らは長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で戦闘。

3日土方、庄内藩が新政府軍に恭順したために仙台へ転じる。

4日、山口らは木曾(喜多方市山都)で新政府軍と2時間もの戦闘となるも敗れる。
その後、旧幕府軍衝鋒隊と合流するため鶴ヶ城の北西4キロ、神指(こうざし)城二ノ丸跡の南西に位置する如来堂へ向かうが、衝鋒隊は既に移動していた。

5日、山口らは旧幕府軍衝鋒隊に代わり守備につくが、只見川で越後口官軍と対峙する会津兵の背後をつくために高久に向け出動した薩摩・土佐・肥後等新政府軍の進路である如来堂本堂が戦地となる。
後に新撰組隊士中島登(土方歳三に従軍)の描いた肖像画によると如来堂の隊士は13名程しかおらず、壊滅。
名前の判明している隊士は山口次郎・新井破魔男・池田七三郎・小幡三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・高橋文二郎・高橋渡・吉田俊一郎

しかし山口次郎・池田七三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・吉田俊一郎の7名は生き延び、その後も新政府軍に対してゲリラ戦を仕掛けている。

9月8日籠城中の会津藩は頼れず、弾薬補給と負傷者の治療ができないため大鳥率いる伝習隊・衝鋒隊ら旧幕府は小田付代官所(喜多方市)も会津を離れることを決意した。

 

新選組殉難地碑 新選組殉難地碑裏

如来堂(にょらいどう)
所在地:福島県会津若松市神指町如来堂

■■伝習隊と新撰組■■