会津武家屋敷[1]復元西郷頼母邸

会津武家屋敷入口階段の上に冠木門 会津武家屋敷案内板

会津武家屋敷
鶴ヶ城追手門前にあった会津藩家老西郷頼母邸を復元。
戊辰戦争で武具・家財と共に焼失してしまった会津の武家屋敷の様子を、信州高遠(たかとお)に現存する武家屋敷の遺構を勘案しながら再現し、会津天満宮(西郷邸に在った)等ゆかりの建物を配して、藩米精米所、旧中畑陣屋(重文)、麟閣を再現した茶室、白壁土蔵造りの資料館・くらしの歴史館・西郷一家自刃の場が再現された第二資料館等を備えた歴史散策ゾーンと
会津物産ショップと会津郷土料理亭、室井東志生の仏画を展示する美術館・青龍などが併設されている屋外博物館(ミュージアムパーク)です。
坂本龍馬を斬ったという京都見廻組与頭の会津藩士佐々木只三郎の墓もここに移されました。
 

家老屋敷 家老屋敷見取り図

▲復元された家老屋敷・西郷頼母邸
西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で代々家老職を勤めた千七百石取りの家柄でした。
約4000坪の面積、けやき・ひのき・杉材を使った和様建築の復元家老屋敷面積は280坪、。8室で畳の数328枚。
冠振ぐしに九曜紋をつけた鬼瓦は格式高い西郷家ゆえに許された特権だそうです。

表門 式台玄関

▲九曜紋を掲げた表門式台玄関
片長屋に沿って行くと上級武士だけが通される四脚(しきゃく)表門があります。
式台玄関は家老屋敷の正面に位置する表玄関。

御成御殿 御成の間

御成御殿御成の間
藩主はじめ重役以外は通されることがなかった格式の高い部屋です。
御成の間は藩主の御成りになった(来訪)時だけ使用された部屋で、人形は中央が松平容保、手前に西郷頼母が控えています。

書院壱の間 厠の内部

書院壱の間、御成御殿専用の砂雪隠(すなせっちん)
上に武家屋敷守護。
厠(かわや。トイレのこと)の中は畳敷きで、床下には砂を敷いた箱車が木製レールの上に置かれており、使用する度に箱車を引き出して健康状態を調べた後に砂ごと後始末するそうです。

使者の間 奥一の間

使者の間奥一の間
鎖の間~使者の間は西郷家臣が執務や警備に使用。
奥一の間・奥二の間は家族が使用する部屋。書院造りの奥一の間は家老の寝室として使われ、写真の人形は父の寝室で遊んでいる子供達を母の千重子が叱っている場面です。

風呂場 子供部屋

風呂場子供部屋・化粧の間
家族が使用した檜造りの風呂で、火災予防の為に竈が無いので邸内で唯一火を使える裏手の台所で湯を沸かし、手桶で運んだそうです。半開きで外に出ているのが、窓の重さで自然に締まる突出し窓。
子供部屋は長男は家督を継ぐことから板の間がある右側の部屋を与えられ、次男以降は中央の部屋を一緒に使用したそうです。化粧の間は頼母の妻千重子が化粧や身支度を整えた部屋。

奥玄関 台所

奥玄関台所
奥には使用人が使う部屋。台所では数十人の食事を作り、天井の無い吹き抜けで、雪に耐える太い柱で支えられています。台所がパーク内施設としてお土産屋さんになっているのが面白いですね。

幕米精米所内部 白河藩小峰城址賄所

幕米精米所白河藩小峰城址賄所の略図
今から二百年前の文化10年(1813)頃造られ、白河藩で使用されていた、直径4mの水車・16個の石臼で四斗俵(約60キロ)の玄米を一日に16俵精米できる東北一の精米所が移築されています。

会津武家屋敷サイト:http://www.bukeyashiki.com/
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字院内1番地

※続き→会津武家屋敷[2](旧中畑陣屋等)