木挽町の象山塾と狩野画塾

佐久間象山塾跡 木挽町

佐久間象山塾跡
嘉永3年(1850)信濃国(長野県)松代藩士の佐久間修理(象山)は、江戸深川の松代藩下屋敷で門弟たちに西洋砲術を教えていました
嘉永4年(1851)に象山は木挽町(こびきちょう)の戸川弾正宅跡を買取り住居とします。地主は旗本諏訪庄助の弟の浦上四九三郎。
5月28日ここに塾を開き、砲術と経書を教授しました。

塾は二十坪程の規模で、入門者は百二十人に達し、常時三十~四十人が学んでいたといいます。
門下には勝麟太郎・吉田松陰・橋本左内・河井継之助・坂本龍馬等多くの有能な人物が集まりました。

木挽町塾跡 銀座みゆき通り

▲象山塾と狩野画塾の地付近を撮影
嘉永6年改正の絵図に後述の狩野勝川(かのうしょうせん。幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向い合う場所に「佐久間修理」象山の名が見えます。隣に浦上四九三郎の名前もありますね。

 

木挽町狩野派画塾跡 狩野画塾跡の案内板

木挽町狩野画塾(かのうがじゅく)跡
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家全て中央区内に拝領屋敷がありました。

狩野家の祖先正信は小田原出身で京に出て将軍義政に仕え室町幕府の御用絵師となり、子の元信(古法眼)の時に狩野派が大成しました。元信の孫の永徳は豊臣秀吉の命で聚楽大坂二条の金壁に書き、永徳の門人の山楽(京狩野祖)は秀吉の命で大坂四天王寺の壁に聖徳太子の縁起を書きました。
永徳の孫の探幽(たんゆう、守信)が海内独歩と呼ばれた大家で、勅命で紫宸殿の賢聖障子を書きました。

探幽守信が【鍛冶橋】狩野家の祖
・探幽の弟の尚信(自適斎、主馬)が【木挽町】狩野家の祖
・その下の弟の安信が【中橋】狩野家の祖
・尚信の孫の岑信(みねのぶ)が分家して【浜町】狩野家の祖
として幕府奥絵師の狩野四家となります。

尚信は寛永7年(1630)に江戸竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になり、安永6年(1777)六代典信(栄川)の時に老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って画塾を開きました。

木挽町狩野家は千石も与えられて栄え、諸大名からの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修業を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つと言われました。
この狩野画塾からは多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに木挽町狩野家最期の雅(うた)信(勝川)の門下生です。

 

浜町家は岑信が徳川幕府6代将軍家宣の寵愛を受けて「松平」から一字賜わり「松本友盛」と改名して木挽町家から分かれ、一時は狩野派の総上席になりました。※後に狩野姓に戻します
葛飾北斎ははじめ勝川派でしたが、浜町狩野派5代目寛信(融川/ゆうせん)に入門したため勝川派を破門になったという逸話も伝わっています。

寛信の子助信(友川)は木挽町狩野家8代目栄信(伊川)五男の中信(なかのぶ。幸川のち董川/とうせん、全楽斎)を養子にして継がせますが、幕末の上総請西藩藩主林忠崇浜町でこの幕府奥絵師法眼董川に画を学び、画号を如雲と号しました。

所在地…佐久間象山塾跡:東京都中央区銀座6丁目15番地域
狩野画塾跡:東京都中央区銀座5丁目13-9~14付近

参考図書
・横井時冬『日本絵画史
・帝国審美協会編輯部『日本古近現代書画家名鑑』
・山本元『書画鑑賞の栞』