畑宿本陣跡と一里塚

箱根路東海道の碑 本陣跡案内板

旧箱根街道畑宿本陣
畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。

畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、郷土の伝統工芸「箱根細工」が生まれ育ったところです。
畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。
江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。

安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否すすて関所側とトラブルを起こしてしまいます。
下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。
ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る見本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡の碑も建てられています。

旧茗荷屋庭園 畑宿本陣

▲旧茗荷屋庭園と畑中本陣跡地
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。
ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。

 

畑宿一里塚 畑宿一里塚案内板

箱根一里塚
江戸時代はじめ、徳川幕府は街道や宿場を整備し、交通基盤を整えました。さらに、距離を明確にするため、街道の一里(約4km)ごとに一里塚を置きました。
東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長9年(1604)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長17年(1622)であったと考えられています。

畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を元に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現在に伝えるものです。
山の斜面にあるこの塚は、周囲を整地した後、直径が5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標識樹として、畑宿から見て右側にモミが、日取り側にはケヤキが植えられていました。

一里塚は、旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。※箱根町による案内文より

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿

 

畑宿は戊辰戦争時に林忠崇旗下の請西藩兵が駐屯し(忠崇自身は箱根関所で指揮をとっていたと思われます)、山崎の戦いで負傷した遊撃隊士伊庭八郎がそこで治療を受けました。