江戸の軍艦操練所跡

軍艦操練所跡 軍艦操練所跡地

軍艦操練所跡
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府が
旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習やオランダから輸入した軍艦の運転練習をさせるため、この地に軍艦操練所を設立した。

安政4年(1857)4月11日、幕府がこの地に在った築地講武所内に軍艦教授所を創設。
永井尚志(ながいなおゆき。旗本)が総督、長崎海軍伝習所修業生の矢田堀鴻(やたぼり こう。景蔵。後に讃岐守)を教授方頭取、佐佐倉桐太郎(浦賀奉行与力)・小野広胖(こうはん。友五郎。笠間藩士)・鈴藤勇次郎・浜口與右衛門・岩田平作・山本金次郎・石井修三・中濱萬次郎を教授方
尾形作右衛門(鉄砲方)・土屋忠次郎・関川伴次郎・村田小一郎・鈴木儀右衛門・小川喜太郎・塚本恒輔、近藤熊吉を教授方手伝となる。
7月19日から有志者を入所させ始業。日割で測量並算術、造船、蒸気機関、船具運用、帆前調練、海上砲術、大小砲船打調練の稽古が行われる。
実習には観光丸・昌平丸・君澤丸などが使われた。

安政6年(1859)2月に長崎海軍伝習所が閉鎖され、実習で使用されていたオランダ製軍艦「咸臨(かんりん)丸」「朝陽(ちょうよう)丸」、運搬帆船「鵬翔(ほうしょう)丸」等が築地に移る。

万延元年(1860)正月26日に講武所が神田小川町(現千代田区)に移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。
文久2年(1862)7月4日船手を向井将監(むかいしょうげん)とし、勝麟太郎(海舟。講武所砲術師範)が頭取となる。

元治元年(1868)3月10日築地西本願寺西隣の火事で類焼し焼失。25日に南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓/ながみち)下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。

慶應元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置く。
慶應2年(1866)7月、海軍所と改称。
11月に類焼し、現在の浜離宮庭園の地に移る。

京橋南築地鐵炮洲絵図

▲案内パネルの『京橋南築地鐵炮洲絵図』

跡地には慶應3年日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館(東京築地異人館)を竣工。翌年、中央に塔を立て前面に木造平屋を付属させる木造二階建て煉瓦張りの洋式建築が建設されるが、明治5年2月26日の大火で焼失。再び海軍用地となる。

采女橋 采女橋案内

▲采女橋
かつてこの地に在った松平采女正の屋敷跡が采女ヶ原と呼ばれ、明治2年に采女町となる。
現在の采女橋は築地ホテル館と銀座の柳を題材にした意匠で高欄等が整備されている。

所在地:東京都中央区築地6丁目20番地域