井田野古戦場と千人塚

西光寺と井田野古戦場跡 西光寺本殿

西光寺井田野古戦場跡
長親山西光寺(さいこうじ)境内には永禄3年(1560)に松平9代元康(後の徳川家康)が桶狭間の戦いの後に大樹寺に逃げ込んだ際、追手の織田方と戦って倒れた多くの僧を葬った大衆塚もある。

■井田野合戦
井田野は岡崎市岩津町から井田町地内にわたる古戦場で、松平氏が発展していく過程で周辺各地勢力との戦いが繰り返され、戦死者達の霊の苦悶の声が聞こえるため魂魄野や魂場野とも呼ばれていた。

応仁元年(1467)8月23日、松平3代信光(のぶみつ)と子の親忠(ちかただ。松平4代目)が、尾張の品野・三河の伊保の兵と井田野で戦い勝利。

明応2年(1493)10月2日(13日とも)、碧海郡上野城(うえの。豊田市上郷町)の阿部孫次郎と、加茂郡(豊田市)──挙母城(ころも。豊田市中心部)中條出羽守・寺部城(てらべ。寺部町)鈴木日向守・伊保城(いぼ。伊保町)三宅加賀守・八草城(やくさ。八草町)那須宗左衛門──の土豪の軍が三千騎で岩津城を攻め、松平親忠が二千(または千・千五百)の兵を率いて井田野で奮戦し勝利。

天文2年(1533)12月、松平7代清康が、三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。

天文4年(1535)12月5月に松平清康が尾張の織田弾正忠信秀(信長の父)を攻める最中に守山(名古屋市)の陣中で急死したため、織田信秀が三千騎を率いて三河に押し寄せて大樹寺に陣取り岡山城を攻めようとした。
清康の子の広忠はまだ10歳のため、広忠の伯父の三木蔵人信孝・松平十郎三郎康考兄弟が12日に兵八百を率いて井田野で食い止め撃退した。
※ここでは岡崎市の郷土史料・案内板を参考に、松平側の視点で書いています

 

千人塚 千人塚の南無阿弥陀仏

千人塚
応仁元年(1467)の井田野合戦に勝った松平親忠は、戦死者のために念仏堂(今の西光寺)を建て、敵味方区別無く埋葬して塚を築いて弔い、後に千人塚と呼ばれるようになった。

今も西光寺の南方の林中に低い円墳状の地の墳頂に約2m程の石碑が建てられている。
碑銘は「南無阿彌陀佛」左側面「井田埜戰亡精靈金臺」
右側面「元禄九丙子年八月五日 大樹寺廿八世忍譽碑銘焉」
その他小さな碑や墓が二十基程たち並ぶ。市指定史蹟。

西光寺所在地:愛知県岡崎市鴨田町向山38-1

 

井田城跡 井田城跡解説

井田城址と晴明白龍大神の由緒書
岡崎城と大樹寺を結ぶ直線上に位置する井田城跡の側に、三河武士魂を晴明白龍大神と神格化して奉斎した神社がある。

酒井氏の居城で、伊田城とも記される。後世徳川四天王と呼ばれる酒井忠次もここで生まれた。
かつて井田城の傍に有った回向院は大樹寺に移ったが、現在も回向院は大樹寺に隣接し、酒井氏2代氏忠(うじただ)から7代忠善(ただよし)まで酒井家六代の墓がある。

井田城址所在地:愛知県岡崎市井田町城山
※辺りが暗くなってしまったので再来訪時に撮りなおします