大樹寺[3]請西藩林家祖先の林忠満・林忠時供養墓

松平家菩提寺の大樹寺には徳川家古参譜代の林家の墓域がある。
文化13年(1816)8月に林家14代の林肥後守忠英が、三河で松平家に仕えた林忠満・林忠時の墓の2基の供養塔を建てたという。
かつては一段高く門のある外柵と、それぞれの背後に宝塔が在ったようだが、今は墓碑のみが残る。

林藤助忠満の墓 林藤助墓の刻文

林家四代 林忠満の墓
上部に林家の家紋丸の内三頭左巴下に一文字が刻まれている。墓はだいぶ傾いてしまっている。
「全忠院殿明徹道光大居子」
「天文九庚子年 六月初六日 林藤助」

■林藤助忠満(ただみつ)
藤五郎、後に藤八郎または藤助。政通(まさみち)・縁正(よりまさ)
林藤助光政から数えて4代目。代々続く侍大将で、正月の御酒盃をも御一門より先に罷り出て頂戴する家柄である(※大久保忠教『三河物語』の忠満についての要約)
松平信忠・清康・広忠に仕え、各所でよく戦い、森山崩れの後で流浪の身になった年若い広忠(千松丸。松平家8代目。家康の父)が家臣達の忠義と力で天文6年(1537)に岡崎城に入った際の御感書(感状)の5名に名を連ねている。

墓に刻まれている天文9年(1540)6月6日は織田信秀(信長の父)による安祥城攻めの日で、林藤助も出陣している。
林家に伝わる『林家過去帳』林家12代忠久による『林家系譜』に林忠満の死去の日は天文九庚子年六月と書かれている。

一方で『林氏系図』『参河記』『家忠日記』等では天文17年小豆坂の戦いで討死したとする。(林家15代忠旭の『林家系譜』は天文十年戊申年とあり干支の通りなら七の脱字か)

小豆坂の合戦はまず天文11年(1542)8月10日に今川義元が三河田原に侵攻し、織田信秀が豆小坂で迎えうって「小豆坂の七本槍」と呼ばれる将達の活躍で織田軍が勝利したことが織田側の史料には書かれている。

その後の天文17年(1548)3月、岡崎城を攻めるため織田信秀は庶子三郎五郎信広(信長の異母兄)と弟の津田孫三郎信光に四千騎の兵をつけて三河に進軍させた。信広達は8月に上和田の砦に入り、10日に信秀も安祥城に着陣する。
19日に織田勢は津田信光を将として進み、小豆坂で今川勢と鉢合わせの形で合戦となる。
今川勢は苦戦し、戦況を変えるため今川方の松平勢から松平伝十郎信勝(太郎左衛門信吉の弟)、小林源之助重次、そして林藤五郎忠満達が横合いから攻め入って戦い、討死した。
彼らの決死の突撃により織田が疲労したと見て攻め続け今川勢は織田勢を押し返すことが出来た。

 

林藤七忠時墓 林藤七墓の碑文

林家五代 林忠時の墓
忠満の墓と同じく上部に林家の家紋がある。
「榮林院殿天翁淨俊大居子」
「永禄十二年己巳五月二十二日 林藤七忠時墓」

■林藤五郎忠時(ただとき)
林家5代目当主。藤五郎。政忠(まさただ)・清忠(きよただ)
松平広忠・元康(徳川家康)に奉仕。
永禄6年(1563)に一向宗門徒による三河一揆がおこり、有力豪族や今川残党勢力を巻き込み本多正信ら松平家臣までも次々に一向一揆側につく窮地でも、林忠時は元康を裏切らずに諸方を守った。

死去の日は『林家過去帳』にも墓の刻字と同じく永禄十二年己巳五月(1569年)とあるが、忠旭の『林家系譜』では翌年の元亀元年六月九日と書かれている。

 

徳川家康の江戸移封に付き従った林家貝渕藩請西藩)の菩提寺は現在の東京都の青松寺となるが
病で上総国の領地に隠居した林家6代忠政・大坂の役で戦死した7代吉忠・京都二条城守衛中に急死した8代忠勝の墓と、以降13代忠篤までの供養墓が千葉県の龍溪寺にある。