小豆坂古戦場

小豆坂古戦場跡 小豆坂古戦場の碑

▲史蹟小豆坂古戦場跡の碑石
県道26号線沿いに355㎡の緑地がある。小豆坂(あずきざか)古戦場碑は大正6年1月13日に建立されたものを昭和62年に移設し、平成5年に槍立松や血洗池の碑も該当地からここに移したもの。

 

■小豆坂の戦い
徳川家康登場以前の三河は、東は駿府の今川・西は尾張の織田両氏に挟まれ度々戦火に見舞われた。
三河を統一した松平7代清康(きよやす。家康の祖父)が天文4年(1535)に尾張の守山で家臣に殺され、家督をめぐる内紛がおこり、清康の遺児の千松丸(広忠/ひろただ。家康の父)は流浪の身となるが、今川氏に助力を頼んで天文6年(1537)に岡崎城に入ることが出来た。
織田信秀(信長の父)の三河侵攻が激しくなり天文9年(1540)6月6日に松平氏の重要な拠点の安祥城が落とされ、以降今川氏との結びつきをより深めて今川・松平軍と、織田軍の対立が明確となる。

天文11年(1542)8月10日、織田氏の矢作川東岸部への出撃を阻むために今川義元は兵4万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、小豆坂で織田勢4千と交戦したといわれる。
織田の小豆坂七本槍と呼ばれる将達の活躍が尾張側に語り継がれているが、この年に合戦については確証がない。

天文17年(1548)3月、織田信秀が大軍で三河に侵攻し、今川義元松平広忠を救うため太原雪斎(たいげんせっさい)を大手の大将・副将に朝比奈泰能・搦手に朝比奈泰秀・軍将を岡部長教として援軍を送った。
松平勢は今川軍を今切本坂まで迎えに出て合流し、二手に分かれて先陣の岡部隊は山中藤川に陣し、8日には小豆坂近くに陣を取った。
同日、織田勢は織田信広(信長の異母兄)・津田信光(信秀の弟)等四千騎で上和田(岡崎市上和田町)の砦に移る。
10日に今川勢は上和田城を攻めるために藤川を出て、織田勢は馬飼原へ向かい信光を軍将として小豆坂を登りかかった時に、今川勢と行き当たった。今川勢が坂の上から押しかかり乱戦となる。
今川勢が苦戦するが、松平勢が命がけで横合いから突入し今川勢は攻撃を休めず、持久戦は不利とみた織田勢は上和田城へ引き返した。

一進一退の織田家と今川家の対立は永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いまで続く。
そして桶狭間の戦い以降、独立を果たした松平(徳川)家康の最初の難関が三州一向一揆(いっこういっき)である。
永禄6年(1563)9月に一向一揆が各所で起こるが、松平氏と反目する豪族や、松平譜代の家臣の中でも現状に不満を持つ者や一向宗に帰依する者達が一揆側に加わってしまった。
家臣の半数が寝返り、門徒側についた三河武士は131人、一揆軍の総勢は1万人と伝えるものもある。
11月25日に針崎(はりさき)一揆軍が上和田に迫り、大久保忠世(ただよ)が大久保党170余人を率いて小豆坂に陣して一揆勢を食い止めた。

永禄7年(1564)正月3日、家康は大久保党に再び針崎の一揆勢の制圧をさせようと大久保弥三郎に案内をさせ、盗木戸から小豆坂を登った時に、作岡大平を焼いて帰って来た一揆軍と行逢い交戦。11日にも上和田を目がけ土呂(とろ)・針崎等の一揆軍と合戦となった。
13日、家康の出陣を内通者が漏らして伏兵が敷かれ、知らずに小豆坂に従者を残して進んだため窮地に陥るが家康は馬上から弓を射ながら単騎北へ逃げきったという。
2月に至り一揆側の将達が次第に討たれ、説得により松平への帰順を願う家臣も出て一揆は収束していく。家康は大久保忠俊らの勧めで和議へ運んで鎮静させた。

小豆坂合戦状況図 小豆坂古戦場案内板

▲天文11年の小豆坂合戦状況図と
麝香塚、絵女房山に並て小豆坂あり、千人塚あり。みな軍機にある戦場なり。七月十六日の夜はそのあたりの人々亡霊まつるとて、手ごとに巨松振りかざし、あまたうちむれのぼる也。千人塚は、千人の頭埋めし処といふ。此塚は大樹寺にもありて不断念仏堂あり。三年に一度回向あれば、仏舎を千日寺という。小豆坂の事は世に人知れり。
──菅江真澄『筆のまにまに 八巻』文政七年申申六月八日 日記(案内板より)

※井田古戦場の念仏堂・千人塚と別に、現在の東岡崎の明大寺町にも「千人塚」があり、松平5代長親の時に永正3年(1506)8月の伊勢新九郎(後の北条早雲)との戦いでの戦死者を埋葬したものとも伝わる

槍立松 血洗池跡

▲近年移設された「槍立松」「血洗池」の碑
かつて槍立松は頂の作手街道の東にあり、一度植え継ぎ足されて残っていた。小豆坂七本槍の者たちが槍を立てて休息したと伝わる。麓には「鎧掛松」もあった。
血洗池(ちあらいいけ)は小豆坂の前に細長い池があり、池の水で槍刀についた血を洗い清めたと伝わる。

所在地:愛知県岡崎市戸崎町牛転