法蔵寺[1]家康修学の地・近藤勇の首塚伝承

法蔵寺山門 法蔵寺講寺本堂

二村山法蔵寺(にそんざん ほうぞうじ)山門と本堂
浄土宗西山深草派の三河三壇林のひとつ。本尊は阿弥陀如来。竹千代(徳川家康の幼名)がこの寺で手習いや漢籍(かんせき)を学んだとされ、家康の所持品や松平家ゆかりの宝物が多く残されている。境内に東照宮や松平家の墓がある。

大宝元年(701)伝承では行脚中の法相宗の僧行基はこの地に輝く杉の大木を見つける。すると突然現れた童子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて(後に大風で倒壊し移転)安置したという。
寺伝では天武天皇の后の出産の際に行基に祈願させた所、王子を出産したため、天武天皇の勅願所となり出生寺(しゅっしょうじ)の号を賜ったとされる。
後に空海により真言宗になったとも伝わる。

至徳2年(1375)9月、説法に赴いていた教空龍芸(りゅうげい)に松平家初代親氏が深く帰依して講堂を建てて浄土宗に改宗し法蔵寺と名を変えた。(または京都円福寺から教譽上人が来て浄土壇林を開いたともされる)
松平2代泰親は、親氏の菩提として僧房を建て、子(後の教然良頓/きょうぜんりょうとん)を教空上人の弟子とした。3代信光も本堂を再建。
宝徳3年(1451)3月18日(4月とも)に後花園天皇の勅額を賜い、大神光二村山と称す。
大永元年(1521)松平6代信忠の寄進により本堂を修造。

天文18年(1549)正月に8歳の竹千代(家康)が岡崎城から入学し、住職の教翁上人に手習読書を学んだという。3月(6日に父の広忠が急死)まで滞在。
※竹千代は天文16年8月に人質として駿府へ送られる際に織田方に奪われ熱田に居り、天文18年11月に岡崎に10日程帰ることが出来たが、寺伝の時期とは異なる。
修学については竹千代が駿府宮ヶ崎に居た頃に手習いを受けた僧が、後に法蔵寺の住職になった経緯で生まれた伝承とみる異見もある。法蔵寺は他にも源義家や西行法師等、伝説が多い。

永禄3年(1560)家康により守護不入の特権を与えられ7月9日に松平氏の以前からの82石余の判物を寄付される(明治元年11月30日に朝廷へ奉還)
江戸時代には、東海道に接していることから参詣者も多く、幕府の庇護も厚かったため栄えた。

法蔵寺の御草紙掛松 法蔵寺の賀勝水

御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)
竹千代の手植えで、手習いの草紙を掛けて乾かしたという。年が経ち繁殖した松は門前に移されて、成長した家康が参詣する際にこの松の下で休憩し茶を飲んだことから「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも呼ばれた。
周囲の石柵は文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往(としゆき)の寄進。平成17年8月に虫害で枯れてしまい、翌年4代目の松が植樹された。

賀勝水
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる。
竹千代が手習いに使う硯の水として使ったともされる。

法蔵寺の鐘楼 法蔵寺のイヌマキ

▲鐘楼と伝行基手植えのイヌマキ(岡崎市指定天然記念物)

 

近藤勇の首塚 近藤勇の首塚案内板

近藤勇の首塚
近藤勇の首を埋葬した場所とされ、首塚の台石には土方歳三らの名が刻まれている。

新撰組隊長の近藤勇は慶応4年(1868)4月25日、35歳で板橋刑場の馬捨場(東京都北区滝野川)で斬首された。首は塩漬にして京都に送られ、埋められた遺体は近親者が密かに人夫に掘り起こさせて、東京都三鷹の竜源寺に埋葬した。
京都の三条河原で晒された後の近藤の首の行方の諸説ある一つがこの三河法蔵寺の首塚である。
首が晒されて三晩目に、近藤が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼しようと同志が持出したが、和尚は法蔵寺の三十九代貫主として転任していたので三河国まで運んだという。
時が経ち昭和33年、戊辰の当時に世間を憚って石碑を土で覆い隠し無縁仏のように装っていた埋葬の由来が総本山の記録等から明らかとなり、石碑を覆っていた土砂を取り除き、新たに胸像を建てて供養した旨が案内板に書かれている。

所在地:愛知県岡崎市本宿町寺山1