正永寺[2]林館次郎の墓所と小鹿神社

請西藩主林忠交の子林館次郎の墓 林館次郎の墓側面

請西藩林忠交の三男林館次郎の墓
『林館次郎氏墓』『大正六年一月二十二日卒 小鹿野町有志建之』

君者旧請西藩主之次男也。別興一家、或官、或商、北陸南海、具嘗辛酸而常不遇、志遂不成、落魄困憊一家離散、僅 索一道之光明、於旧領之誼、訪菊池氏于斯地。
菊池氏群二郎夙富任侠志、乃謀郷党、使君守鎮守社殿、贈米塩補其生計、年又年、君、清廉潔白、仕神恪勤、起敬神会、神威頓加。
偶為二豎所犯、不孝遂不起。年當五十有五。郷人悼其死功矣。乃相議葬於菊池氏之塋域、弔祭盡誠、慰其霊。嗚呼、 名門之出、漂浪落泊者甚多。然如君得能死所者亦少矣。抑君温良恭謙之餘徳、依神稜之加護耶非耶 田嶋小弥太識

林館次郎は文久3年(1863)9月24日に林忠交の三男として生まれた。
林忠崇の義弟にあたり、忠崇が脱藩した後に林家を継いだ忠弘の実弟である。

館次郎の子供の出生届が明治33年に福島県、明治38年に山形県、明治40年に栃木県、明治42年に新潟県と変わり、碑文の通りの漂白の日々が窺われる。
明治45年(1912)に分家し、かつて請西藩領であった小鹿野町の有徳者である菊池氏の計らいで小鹿神社に奉仕する運びとなった。

菊池家には、晩年も旧藩主の忠崇と親交を続けていた元請西藩士檜山省吾が籍を置いており、碑文の田嶋小弥太は、省吾と菊池家の娘のこうとの間に生まれた小弥太である。
省吾は明治37年(1904)に没したが、その周囲が館次郎を手厚く迎えたことが想像できる。

館次郎は大正6年(1917)1月22日に没し、省吾と同じ正永寺の菊池氏の墓地に葬られた。

小鹿神社 小鹿神社境内
▲小鹿神社と境内から望む小鹿野町

■小鹿神社
景行天皇の御世、皇子の日本武尊が東征の折に下小鹿野で休憩し
筑波根をはるか隔てゝ八日見し妻恋ひかぬる小鹿野の原」と詠んだという。
そして日本武尊は春日四柱神を奉して小鹿野明神社を創立したと伝わっている。

幕府直轄領であった江戸時代初期に上小鹿野の町並みが整えられ、寛永4年(1627)2月にに現在の小鹿神社の地(上ノ森)に大久保から諏訪大明神社を遷座した。
慶安5年(1652)2月には下小鹿野から小鹿野明神を町並みの入口にあたる春日町(明神)に移し、町の東西に鎮守した両社の間で毎年2月と7月の27日の祭礼で交互に御輿渡しが行われて(『岩田家文書』)

その後、上小鹿野は請西藩領、明治元年に岩鼻県(9年に埼玉県)管轄となり明治5年に村社、明治16年に郷社となる。
明治38年の地震後の明治43年の水害で小鹿野明神の境内が陥没する恐れがあり、本殿だけを残してその他建造物を腰之根の諏訪大明神に移して合祀し社号を「小鹿神社」とした。

飛び地境内に残された元宮(旧小鹿野明神)の「小鹿神社旧本殿」は宝暦10年(1760)、現在の小鹿神社本殿(旧諏訪神社本殿)は安永4年(1775)の建立とみられ、共に町文化財に指定された。
元宮の地名が諏訪なのは、江戸時代の祭礼で諏訪大明神を上諏訪社・小鹿野明神を下諏訪社に見立てた名残であろう。

小鹿神社祭神:春日四柱神(天児屋根命・武甕槌命・経津主神・比蕒神)
合祀:諏訪大神(建御名方命)・大己貴命・大山積神・菊理媛神・崇徳天皇

小鹿神社所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1432