大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、篤志・教育家としての後半生

大河内三千太郎の略歴・後半(前半→大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取

北海道空知監獄署に奉職(前半続)
明治22年(1889)5月空知監獄署の看守長代理となる。
この年の8月奈良縣吉野郡十津川郷の大洪水で被災し依る所のない住民600戸は官費での集団渡道を決め、最初の十津川移民789人が小樽港に上陸、10月31日に市来知に到着し、空知監附属の撃剣場等を移民の宿泊所に充て囚人が炊出しを行った。移民達は天長節の祝賀を願い出て11月3日まで滞在する。
この天長節について川村たかし(ドラマ化された『新十津川物語』作者)の新聞連載『十津川出国記』に、空知監の看守と十津川移民とで剣術試合を行ったことが書かれている。
幕末剣士達が看守となっているため腕自慢の郷士達でも歯が立たなかったが、中でも「看守長の大河原は鎖鎌の妙技を披露して驚かせた」という。三千太郎は剣術と共に鎖鎌術にも優れ度々披露していることから、この「大河原」という看守長は「大河内」のことであろう。
※この後、老人や子供は囚人の手で運ばれ空知太に入植し新十津川村(現在の新十津川町)が開かれる

 

上川郡道路開削従事囚徒の引率
明治23年(1890)4月に三千太郎は石狩国上川郡(現旭川市)の忠別太(ちゅうべつぶと。忠別/チュップペツ)から伊香牛までの北見道路開鑿と、永山屯田本部と官舎(兵屋300戸を樺戸・空知監が請負った)や授業場等の建築のため囚徒270名を引率する。
永山本部の後方に囚徒小屋を作り、三千太郎は永山に居て、時々忠別太に置かれた空知集治監派出所へ行った。(『鈴木規矩男『上川発達史』の三千太郎本人談)
7月22日に監獄署は集治監に名称を戻す。9月20日に神居(かむい)村・永山村・旭川村の三村が置かれる。

また『神居村神楽村村史』に明治32年に榎本武揚が旭川を訪れ、かつて箱館戦争に加わっていた三千太郎も神居から駆けつけ謁見し土地の価格について等に答えたと書かれているが、その頃は政界を引退し個人で学会等の会長を兼任し公的な記録が乏しく真偽不明。
『旭川史誌』等に明治23年9月に樞密顧問官榎本武揚が上川を視察とあり、再会が事実ならこの年であろうか。

 
空知監獄署出張所の跡碑と出張所があったとされる付近
『明治ニ十三年旭川地図』美瑛川端に空知出張所が書かれている。現在は当時と川筋が変わり中洲にあたるという

明治24年(1891)永山村の樺戸出張所第一外役所の炊所勤務であった樺戸看守白石林武(しげたけ。明治19年9月1日樺戸監職員に採用)の勤務記(『北海道集治監勤務日記』)4月3日に「空知出張所看守大河内氏ヘ過日押送相成候囚七拾弐名、朝飯壱度分相渡置候事、拙者囚弐名引率ノ上渡済…」とあり「空知看守大河内 氏太刀鎌能シ」と、日々撃剣稽古に励んでいた白石らしい付記を加えている。
5月に永山屯田兵舎落成。6月屯田兵第三大隊本部が札幌から永山に移転。

 
樺戸監獄署出張所の跡碑(事務所等跡地)と初め事務所があった農作物試験事務所棟
明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作物試験所建物(現神居1条1丁目忠別太駅逓第一美瑛舎)に樺戸監獄署出張所が置かれた。ただし、獄舎、看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は、新道工事のほか屯田兵屋の建築にあたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。
上川郡農作物試験所は明治19年に建ち20年に樺戸監に移管され忠別派出所事務所となり、22年に貸下げられ官設駅逓(人馬車継立兼休泊所)となり、8月15日に忠別太驛逓第一美英舎が開駅した。

白石林武の勤務記にみられる通り、空知出張所の三千太郎は樺戸監とのやり取りもあった。

 

神居村総代人となる
6月に退職し、空知監囚人外役所があった神居村番外地(ニ通り1丁目、後の美瑛町1丁目)に移住して荷物の運搬業を営んだ。
※上川市街地計画上での神居第一・第二市街の測量区外。第三市街地は旭川
三千太郎の住む二通り1丁目は、美瑛駅逓所から1町(約109m)程の距離で、神楽(25年2月4日に神楽村となる)には新しく忠別川に忠別橋、美瑛川に美瑛橋(後の両神橋)が仮設され、翌年旭川に旭川駅逓所が置かれて運輸の需要が大いにあった。
そして三千太郎は神居村の第1期の総(惣)代人を引継ぎ、33年3月(第5期)までの全期間を歴任した。
※この頃の総代人は村民から2名が選ばれ村の事業等について評決し、戸長が施行した

明治27年(1892)12月4日に疋田新助、掛場吉右エ門らと共に村民72名の連署を以って忠別太53万3500坪を共有地として貸下出願が認可される。
明治28年(1895)4月、札幌連隊区徴募区徴兵参事員となる。8月、神居村に公立忠別小学校(10月に忠別尋常高等小学校に改称)の分校を開くため三千太郎所有の倉庫と金二十円を寄付
9月27日に三千太郎らが申請していた雨紛原野2万3325坪の基本財産貸下が認可。

明治30年(1897)8月31日忠別尋常高等小学校の神居分校が開校。
明治31年(1898)8月15日旭川に鉄道(空知太間の上川線)が開通。三千太郎は開通式の発起人の一人である。
明治32年(1899)2月10日に三千太郎らは神居分校の独立を決議し3月13日認可、4月に神居尋常小学校と改称、新築して開校となった(ロ通り右6、ハ通り右6左6)

 
▲現在の神居小学校と北海道庁立上川二等測候所跡
総代人らの協議会は神居尋常小でされ、三千太郎は村の共有財産確保や教育に貢献した。
「候所跡」は『明治ニ十三年旭川地図』市街予定区画外(番外地)にある空知監獄署出張所のすぐ西の区画内に書かれている。明治21年7月1日に樺戸監獄署忠別太派出所事務所の一室で気象観測を始め、23年7月23日に新築移転し31年7月末までこの地(ホ通り4丁目/3号)に在った。

測候所が旭川に移った頃に旭川駅が開通し翌年には第七師団の旭川移駐が内定、次第に旭川市街が上川郡の中心街となっていく。

 

旭川に私立校を設立、中学校警察師団等の嘱託教師として剣術、剣道を教授
明治33年(1900)4月10日水田開発のための灌漑溝の開墾についてので熱弁。
6月に学科と剣道の教授の場として、藤本本蔵・馬場泰次郎等と旭川市街予定地宮下通14丁目右5号に「文武館」を設立し、三千太郎が塾長となる。
※8月に旭川村は旭川町に改称

明治34年(1901)7月に有志家の援助を得て、旭川町一条通9丁目左7号に「上川尚武館」として大河内剣道道場を移転し、三千太郎が館主となる。門下は300余名を数え、60余名が通学したという。
文武館は来海實を館長として私立中学「上川文武館」として引継ぎ、三千太郎も剣道を教えた。夜学を開始し生徒約80名となるが、3年後に休館。

 
▲上川尚武館跡地と文武館跡地付近
明治36年(1903)5月1日に上川中学校(現旭川東高等学校)が開校、剣道教師となる。
6月に尚武館に講道館流柔道部新設、教師は齋木藤之助。

……明治34年昨年6月21日東京市会議所で星享を短刀で暗殺した伊庭想太郎へ9月10日に酌量減等の上無期徒刑の判決、翌年4月19日の控訴審で無期徒刑が決まり東京の小菅監獄に収監。
この想太郎が網走に送還された時に三千太郎が付き添った風聞もあるが、想太郎は明治40年10月31日に小菅監獄で胃癌で病死している。付添いを裏付ける資料は無く、三千太郎は少年時代に伊庭道場の門下であったともいわれ箱館戦争では想太郎の兄の伊庭八郎らと共に戦っており無期徒刑からの連想だろうか。

 
▲現在の旭川東高等学校。また三千太郎は第七師団の工兵隊にも剣の指導をした

大正2年(1913)8月4日に伊藤くにが亡くなり、9月一郎とくにの墓を建てる。
大正5年(1916)妻のみや(みと)が64歳で亡くなる。
大正7年(1918)4月まで上川中学校に勤続した。三千太郎は長い白髭を蓄えた晩年まで近隣の学校、旭川警察署などにも出張指導し、時には式典で直心影流剣術や鎖鎌術の演武を披露したのである。
11月24日に上川尚武館にて73歳で卒去。尚徳院大與武道居士。

 
▲養子の武雄と門人の建てた三千太郎の墓(正面は前編に掲載)
大河内三千太郎墓」「大正七年十一月廿四日 逝享年七十三 法諡 尚徳院大與武道居士
男 大河内武雄  門人一同 謹建焉

前半・大河内三千太郎[1]

■■不二心流と木更津「島屋」■■