保科家に関わる人々」カテゴリーアーカイブ

飯野藩や保科氏の関連人物を紹介するブログ記事です。
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麹町教授所学頭・元飯野藩の儒者服部栗斎

服部栗斎(はっとりりっさい)
名は保命、字は佑甫、通称は善蔵
享保21年(1736)4月27日飯野藩領摂津国豊島(てしま)郡浜村で飯野藩上方領代官の服部梅圃の四男として生まれる。母は上月(こうづき)氏。※頼春水『師友志』では小曽根の人とする
寛延2年(1749)14歳の頃に懐徳書院(懐徳堂)の五井蘭洲(ごいらんしゅう)に儒学を学び、特に中井履軒(なかいりけん。中井竹山の弟)と親交を深めた。

 
▲懐徳堂(かいとくどう)跡地と懐徳堂舊址碑

宝暦5年(1755)11月12日に父梅圃が70歳で死去。父の跡は兄が継ぐが、善蔵は兄とは別に俸を受けて飯野藩江戸藩邸に在り、飯野侯(保科正富)世子(保科秀太郎、後の正率であろう)の伴讀(伴読。貴人に書を読み聞かせる教師)役に抜擢される。
後に病で役を辞して、浪人儒者として静養の傍ら学を深めた。

江戸では村士玉水(すぐりぎょくすい。名は宗章、号は一斎。通称行蔵または幸蔵)に学ぶ。玉水の家塾「信古堂」は駿河台下の水道橋の辺に在った。
玉水によると佑甫(善蔵)は善く崎門(きもん。山崎闇斎の学統)を学んだという。
師弟の名は「西に久米訂斎と西依成斎あり、東に村士一斎と服部栗斎あり」と言われる程に高まっており、善蔵は尾張侯に招かれ講じて十口糧を由優賜されるなど厚遇を受けた。

安永5年(1776)1月4日、病に罹った玉水は善蔵に後を託し48歳にして死去。
遺言通りに善蔵が信古堂を継ぎ、築地に移る。

天明4年(1784)愛宕下の三斎小路(現在の港区虎ノ門1丁目。三斎は細川忠興のことで細川邸に通じる路から由来)に転居。
高山彦九郎(正之、仲縄)や頼春水ら学者・思想家の日記にも善蔵との交友がみられる。
以下例として寛政元年の高山彦九郎江戸日記より抜粋
十月三日…(略)…赤坂田町壱丁目を出て 愛宕の下三齋小路服部善藏所へ寄りて 子錦中風のことを告ぐ ※佐藤子錦(尚綗)が中風に罹った話をする
六日…(略)…服部善藏今朝予を尋ね来りしよし 出でゝ新大橋を渡りて濱町秋元侯の邸 水心子正秀所に寄る
十一日…(略)…三齋小路服部善藏所に入りて黒沢東蒙を□訪ふ語りて ※11月
二十五日…(略)…服部善藏所へ寄りし時に壹分を借りる事あり ※12月。彦九郎が金銭を借用

寛政3年(1791)10月、陸奥白河藩藩主松平定信の支援もあり、幕府により麹町善國寺谷の服部織之助の地590坪の内250坪を貸渡され麹町教授所を設立。善蔵が学頭となった。
『御府内往還其外沿革図書』の「寛政四子年之形」には善国寺跡傍、善国寺谷通東側2軒目に「服部善蔵拝借地」が書かれている。※それ以前は小川左兵衛。
麹渓書院(郷土史では麹渓塾、麹渓精舎などもある)を称し、昌平坂学問所の付属の役割をし学生を広く受け入れ進学生徒を排出する。麹は麹町、渓は善國寺谷の谷であろう。

 
▲善国寺谷・麹町教授所跡を望む

寛政4年(1792)7月21日巳刻(午前10時頃)麻布笄橋より出火した火災の飛火により学問所借地が類焼。
9月に林大学頭(林羅山から続く儒家当主。幕府儒官)・柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)ら昌平黌の教授達により善蔵が火事の手当金50両を受取ることが勘定奉行に認められた。(『御触書』)

 
名刹鎮護山善国寺碑と善国寺坂上
坂の上に鎮護山善国寺があったことから善国寺坂と名付けられ、坂の下は善国寺谷や鈴振坂と呼ばれた。善国寺は寛政10年(1798)の火事で焼失して牛込神楽坂替地に移転。跡地は火除地に召上られた。

寛政5年(1793)10月、病死した兄の住む借地を返納。12月永続手当として平河町に165坪の町屋舗を賜り、その税を学校の費用に充てたという。

 
▲中坂から町屋敷跡を望む。案内板の古地図の現在地の箇所に「教授所附町屋敷

寛政8年(1796)5月に善蔵は病を患い、12月に教授を辞した。
善蔵の正妻(大橋氏)に子はなく、庶子のうち男子は順に長太郎、順ニ郎、彌三郎。
長太郎は夭折し、教授を継がせる子の順次郎は幼年(この時8才)であったため門人に托した。
文化5年の絵図には「服部順次郎拝借地」となっている。

寛政12年(1800)5月11日善蔵死去。65歳(66とも)。麻布山善福寺に葬る。
善成院喜道居士
(現在、磨耗の進んだ「栗齋服部先生之墓」は立替により墓前灯篭の先に置かれ、中央に新しく関係者子孫の方により栗齋服部先生之墓が建立されている。墓所は撮影不可)
善蔵の門下として頼春水、頼杏坪(らいきょうへい。芸藩)、櫻田虎門、秦新村、都ツ築訓次、宮原龍山、宮原桐月、池田貞助、集堂三五郎ら多くの学者を輩出した。

 

■その後の麹町教授所
文化4年(1807)2月、順次郎が教授を継いだ。
文化9年(1812)6月、順次郎は周囲の期待に沿わず禁固罪を蒙り、町屋敷を取上げ年々金30両ずつ地代金の内より被下とした。
文化12年(1815)順次郎が病死。弟もこの時既に亡くなっており、順次郎の子も幼く病弱であったため養子を願うが叶わず麹町教授所の後継が途絶えてしまった。
文化13年(1816)12月に教授地は学問所(昌平黌)の持地となる。

天保13年(1842)2月に林大学頭が摂津守へ教授所再設を進達。(麹町教授所御再建一件帳)
5月15日に松平謹次郎を教授方に任命し、6月6日麹町教授所の再開を布令。
松平謹次郎は、御所院番本多日向守組松平兵庫助の弟。この時38歳。
文久元年の絵図には「松平謹次郎 学問所持地」とあり、謹次郎は元治元年(1864)まで教授を勤めた。

その後も御牧又一郎、大島文二郎、大久保祐介(敢斎)他一人を順に教授とし継続。
明治元年7月20日に鎮守府により接収される。その後敢斎に預けられ8月23日教授再開を東京府に命じられ11月10日敢斎は大得業生となる。12月27日学制改革により免職。

尚、信古堂は玉水の同門下で善蔵の親友である岡田恕が善蔵の意志を継いで経営に努めた。

 
▲平河天満宮と麻布山善福寺(墓所は撮影禁止)
平河天満宮(平河天神)
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両德川井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
 現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の御由緒書より)

・「平河天満宮」所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
・「懐徳堂旧址の碑」所在地:大阪府大阪市中央区今橋3丁目5-12 日本生命本店

飯野藩上方領代官服部梅圃と上月氏の墓

服部梅圃(ばいほ。篤叟)
名は行命、通称は與右衛門、号は梅圃。
服部氏は播磨国加東郡穂積村(兵庫県加東市)の名族で、與右衛門の父である服部道存飯野藩領の浜村(大阪府豊中市)に移住したとされる。母は前川氏。

父を継いだ與右衛門は飯野藩上方領代官となり、40年勤続。
また京の三宅尚齋(みやけしょうさい)の門下となり儒学を修めた。
梅圃は職務・学問共に徳高く、摂州内で令名をはせたという。
宝暦5年(1755)11月12日に死去。觀音寺の服部家の墓所に葬る。70歳。

 

 

貞粛媪上月氏之墓
服部梅圃の妻の墓。
上月(こうづき)氏の娘で、子は四男三女を生む。長男與一郎は若くして亡くなる。次男の藤五郎、三男の源八郎、末子善蔵共に学問に秀で、善蔵こと服部栗齋は江戸の麹町教授所の学長となった。
明和7年(1770)に亡くなり、梅圃の墓の側に手厚く葬られる。

 

 

上月氏も服部氏と同じく播磨の出で、飯野藩上方領の代官を勤めた。
現在の大阪府豊能(とよの)地域の上月氏は、赤松氏遺臣の中村氏らと共に播磨(兵庫県)から旧岡山村(大阪府豊中市)に移住したとされる。

 

応頂山西琳寺中村重直之墓
浄土真宗西本願寺末。本尊阿弥陀仏。
中村治右衛門重直は本願寺第12代宗主准如(じゅんにょ。顕如上人の3男)の弟子となり、宗善と法名し寛永5年(1628)に岡山村辻野に西琳(さいりん)寺を創立した。

中村家の墓域には上月氏の墓碑も点在している。

上月元右衛門範存の墓碑
岡山村の出で保科侯に仕え、濱村で安永9年(1780)に55歳で病没、郷里岡山村に葬った旨が刻まれている。

 

上月氏は村上源氏流赤松氏の支族で、『上月系図』では赤松頼則の三男の赤松右馬充則景から起きる。則景は建久2年(1191)7月4日に西播磨の佐用荘園の地頭となった。
則景の子の上月刑部少輔景盛(上月次郎)が上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
※建武3年(1336)11月築城、景盛の子上月三郎盛忠の居城、他異説あり。
嘉永年間に上月氏の宗家は絶え、永禄年間に傍流上月十郎が浮田の家臣として上月城を守る。

中村氏も上月氏と同様に赤松氏族で、赤松三十六家のうち御一族衆に上月氏、當方御年寄に中村氏。
『播磨鑑』では加東郡の服部氏祖の郷里近くに在る金鑵城(金釣瓶城、かなつるべ)城主の孫中村六郎左衛門尉景長を祖とする。
景長は赤松侍従季房の六世の孫。左馬助光景、弾正少弼正景と子孫が続く。

同じく加東郡の堀殿城(河合城の支城小堀城)は、上月伊予守盛時(系図の盛忠と異なるが、景盛の嫡子とする)の居城として「上月城」と呼ばれた。

観応3年(1352)の光明寺合戦で大将赤松刑部少輔正資の侍として上月四郎、上月五郎、中村駿河守らが集った。
嘉吉元年(1441)8月に赤松兵部少輔祐則(祐之)の岩屋城が、兄の赤松満祐の反逆により細川勢に襲われ、上月・中村氏が岩屋城防衛に加わり勝利した。
長禄元年(1457)12月2日夜に中村弾正忠貞友ら中村一族や上月左近将監満吉ほか赤松家の遺臣達が吉野の南方両宮を襲撃し、中村貞友と上月満吉は二宮の首級を討ち取った件(長禄の変)の注進状(文明10年8月)が『上月記』に記されている。

────摂播にはいくつかの上月、中村氏(清和源氏多田氏族等)が存在する中、碑文等から推測すると共に岡山村に移ったのは上記の服部氏の故郷近辺を領していた東播磨の上月、中村氏ではないかと思われる。
※浜村陣屋の飯野藩士については模索中。時間をかけて調べていきます

 

▲西琳寺門前の天保2年(1831)建立のおかげ燈篭に「岡山村」
岡山村は寛永年間船越駿河守から明治まで代々旗本船越氏が領した。

西琳寺所在地:大阪府豊中市曽根東町5-4-5

下総国多古藩の多古陣屋跡

多古藩陣屋跡 多古陣屋鳥瞰図

多古陣屋跡と『千葉県多古町鳥瞰図』
多古(たこ)陣屋の南西、古峰神社のある多古台に多古城があったとされる。
天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い、信濃国(長野県)高遠城保科正直(まさなお)が下総国多胡(千葉県香取郡多古町)1万石を与えられ、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の勝利により徳川家臣の旧領が復活し、子の正光(まさみつ。飯野藩正貞の兄。会津藩主保科正之の養父)が高遠2万5千石で元の封地に戻るまでの約10年間保科家が統治した。

江戸時代は寛永12年(1635)駿河国(静岡県)の旗本久松(松平)勝義(かつよし)が8千石の領主となり、正徳3年(1713)松平勝以(かつゆき)が1万2千石の大名となって多古藩を立藩し、藩丁を陣屋に置いた。
松平氏は陣屋内でなく多古台下の屋敷に居住したが、保科時代の武家屋敷を引き継いだとも思われる。
以降明治4年の廃藩までの230年余りの間、久松松平家が藩主であった。

廃藩置県で多古県庁舎になり、多古県廃止後の明治6年に競売にかけられ、明治8年に御殿は多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれた。
昭和8年製作の多古町鳥瞰図の小学校(陣屋跡)の隣に久松子爵邸が描かれている。

多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣 多古陣屋跡石垣
多古陣屋の石垣跡
陣屋は現在の多古第一小学校の建つ標高15m程の小高い丘にあり、校庭の一部に相当するが遺構は僅かに高野前稲荷社天神社の裏に石垣が残されているのみである。
藩丁が置かれ、行政・居住のための邸地・長屋、倉庫、稲荷社等が建ち、馬場も備わっていた。
東側の陣屋下の南北に伸びる下馬通り(県道)沿いに表門・中門・裏門が並び、石垣下の堀に朱塗りの橋が正門へと架かっていたという。堀は表門周辺から陣屋の北側を囲うように直角に折れ、木戸谷(きどやつ)奥の池(小学校正門前付近)に続いていた。
競売記録に邸地800坪、山地(森)500坪、囚獄(しゅうごく、牢獄や番小屋等)囲地100坪とあり、その他建造物をふまえると陣屋面積は15000㎡はあったようだ。

多古陣屋下総名勝図絵

多古と千葉氏
多古地域は古くは千田荘(ちだのしょう)と呼ばれる荘園であった。
平安時代の公家藤原下総守親通は、保延2年(1136年)に下総の在地領主千葉常重から領地を取上げたという。親通の子の親盛もまた下総守として領地を継ぎ、平清盛の嫡男平重盛に娘を嫁がせ平家との繋がりを深めた。
親盛の子の親政は千田荘領家判官代として千田氏を名乗る。
治承4年(1180)源頼朝が平氏方に敗れて房総に渡った際、千葉荘の千葉常胤(常重の嫡男)は頼朝を迎え、平氏一門への抵抗を顕にし、親政の目代(代官)を成敗した。
9月14日千葉荘へ大軍を率いた親政を、常胤の嫡孫小太郎成胤が僅か数騎で迎打ち生捕りにし頼朝へ差し出した。(『吾妻鏡』)
千田荘は成胤の娘千田尼(北条時頼の後室)、甥胤綱が千田次郎を名乗り継いでいく。
胤綱の娘、その子宗胤が、永仁2年(1294)元寇で元軍と戦い肥前国で命を落した父大隅守頼胤に代わって九州に赴くと、留守を任された弟の胤宗がを千葉惣家を掌握してしまう。

千葉氏本領の千葉荘は胤宗の子貞胤が、千田荘は宗胤の子の胤貞が継ぎ「千田殿」と呼ばれた。
建武元年(1334)12月1日胤貞は肥前国小城郡や千田荘の総領職を子胤平に譲る。
その翌年から南北朝の戦いで千田貞胤と千葉胤貞が敵味方分かれ、結果、貞胤側が宗家を存続する。
千田荘は胤平の弟の胤継に渡り観応元年(1350)胤継が千田荘の倉持阿弥陀堂に免田を寄附している。
※多古にまつわる千田氏は次浦(多古町)本貫の次浦八郎常盛の孫千田次常家の末裔等、諸系統あり『千葉大系図』等では千葉常胤の弟千田次郎胤幹(松蘿館本系図の千田弥ニ郎胤鎮と同一か)が領主で、子の次郎太郎胤氏が継いで多古胤氏を名乗り、三男の胤満の子の胤春が千田荘の地頭となって再び千田氏に戻したようだ

 

関東動乱期の多古城
文安元年(1444)には宗家の千葉胤直(ちばたねなお)が領していた。
享徳3年(1455)古河公方(こがくぼう。鎌倉公方)足利成氏(しげうじ)と関東管領上杉憲忠(のりただ)の対立で、どちらにつくか千葉一族で勢力が分かれてしまった。
康正元年(享徳4年)4月、分家の馬加康胤(まくわりやすたね)と執権原胤房(はらたねふさ)らが亥鼻(いのはな。千葉)城を急襲し、胤直の子の胤宣(たねのぶ)は多古城に避れた。
8月12日に多古城は落ち、胤宣はむさ(武射か)の阿弥陀堂で自らの血で「見てなげき聞きてとむらふ人あらば 我に手向けよなむあみだぶつ」と壁に辞世を書き遺して自刃した。未だ15歳(12歳とも)の美男で、共に割腹した従者も年若い者ばかりであったという。14日に胤直の志摩砦も陥落し、翌日胤直は多古妙光寺で自刃した。尚、胤直の弟胤賢の子孫が千田氏称している。

妙光寺山門 妙光寺本堂
妙印山妙光寺総門と本堂

戦国時代の多古城
千田氏支族の牛尾(うしお)氏は、千田庄牛尾郷(多古町牛尾、うしお)を本拠とした。
多古領主であった三浦入道を滅ぼして多古城に入り、新たに城を整備して城山に移ったという。
天正13年(1585)7月に多古城主牛尾能登守胤仲(たねなか)は飯櫃城(山武郡芝山町)主の山室常隆(やまむろつねたか)の子の氏勝(うじかつ)との戦いに破れ、隠棲する。
『山室譜傅記』では、弘治元年(1555)6月12日胤仲は山室常陸と佐野原で戦い胤仲の弟の薩摩守が討たれた。胤仲は再起を図り閏10月3日に飯櫃城を攻めるが落せず、逃れた小原子の妙光寺を囲まれ果てたとされる。しかし胤仲が娘の病気快癒祈願に妙光寺へ寄進した鰐口に「天正五年丁丑月六日 大旦那牛尾右近大夫胤仲」と刻銘があり、弘治以降も生存しているはずである。

天正18年(1590)8月徳川家康の関東入封に従い保科正直が多古1万石を与えられる。
12月27日近隣を支配していた山室氏の反抗に対し、家督を継承した正光は大熊大膳対馬守を大将として飯櫃城へ進軍、翌日落城し山室常陸守光勝(氏勝の子)は自害した。
※前述の『山室譜傅記』によるので創作の可能性もあるが、実際にこうした在郷勢力の抵抗はあったのだろう
飯櫃の記録と飯高の正則の墓正直が信仰した樹林寺の位置関係から、保科家の領地は八日市場の飯高(匝瑳市)~小見川の銚子道に沿った地域、芝山町の旧千代田村を領したと思われる。

多古に移って間もなく正光は文禄の役や上杉攻めで家康に従軍し、関ヶ原の戦時に浜松守備、戦後に越前の庄城の城番となる等で多古を離れていたため、多古の民政は家老北原采女佐光次篠田半左衛門隆吉一ノ瀬勘兵衛らに任せていたようだ。

 

江戸時代の多古陣屋
慶長6年(1601)正光が高遠へ転封し翌年には幕府直轄地となり、関東代官頭長谷川七左衛門が管轄。
慶長9年(1604)に田子(多古)村含む5千石は越中国(富山県)布市(ぬのいち)藩1万石の藩主土方雄久(ひじかたかつひさ)が替地として宛がわれる。
※田子は本領ではないが、慶長13年(1608)雄久が本領能登石崎より田子に陣屋を移したとの記録から田子藩が成立したとの解釈もされている。
慶長13年(1608)11月12日雄久が死去し、次男雄重(かつしげ)が遺領の散地1万石と田子5千石を継ぐ。
元和8年(1622)雄重が陸奥国窪田(くぼた。福島県いわき市)藩主となったので、多古は御料地として代官南条帯刀(たてわき)支配所となる。

元和9年(1623)多古の一部の南玉造等が生実(おゆみ。千葉県千葉市)藩主酒井重澄(さかいしげずみ)の領地となり、その後、寛永10年(1633)の領地替えまで佐倉藩主大炊頭土井利勝(どいとしかつ。江戸老中)が領する。

寛永12年(1635)11月9日松平勝義が駿河の領地を多古牛尾諸村8千石に移す。
勝義は、家康の異父弟久松康俊の娘婿の子で、康俊の妹が保科正貞の母多劫である。
多古領は勝義の次男勝忠(かつただ)が継ぐ。
正徳3年(1713)勝忠の末弟の勝以が加増され1万2千石の大名となり多胡藩を立藩した。
以降、勝房(かつふさ)、勝尹(かつただ)、勝全(かつたけ)、勝升(かつゆき)、勝権(かつのり。井伊直弼の兄)、勝行(かつゆき)まで代々続いた。
戊辰戦争時藩主であった勝行は、徳川家との決別の意を示すために久松姓に戻し、版籍奉還により知藩事に任じられた勝行は隠居し、多古藩は長男勝慈(かつなり)の代で廃藩を迎えた。

多古小学校校庭前 志摩城方面
▲多古陣屋の敷地であった校庭と志摩城(島)方面(多古城址はこれより右方向)

多古町高野前稲荷社 多古町切通天神社
高野前稲荷社社・天神社城山の天神社
久松氏の先祖は菅原氏とされ、松平勝義は多古陣屋の森に天満宮(菅原道真)を守護神に祀り、信仰していた正一位稲荷大明神を総本社伏見稲荷より分祀し、同一社屋に祀った。
昭和56年多古第一小学校建設の為、社屋取壊しの上、妙光寺裏の高台に仮安置され、平成12年3月25日この場所に遷座した。
(碑の神社由来要約。表に菅公の詩東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
多古城の在った多古台は土地開発で均されてしまった。
天神社が鎮座する丘は「城山」と呼ばれ、多古城の出城であったという。
古くは丘が繋がっていたが、後年、道路を作るために切り開かれて独立した丘になったことから「切通」という地名になった。

多古町立多古第一小学校所在地:千葉県香取郡多古町多古2547

▼関連サイト
多古町:https://www.town.tako.chiba.jp/
▼参考図書
・多古町史編さん委員会『多古町史』
・多古町教育委員会『多古町名所百選』
・芝山町史編さん委員会『芝山町史 山室譜伝記』
・芝山町教育委員会『総州山室譜伝記』
・『千葉県香取郡誌
・清宮秀堅『下総国旧事考
・千野原靖方『戦国房総人名事典』
・『下総古城趾』
他、記事中記載の史料、案内板等

保科正則夫妻の墓

保科正則夫妻の墓 飯高法華寺

大乗山法華寺保科正則夫妻の墓
保科家は信濃国(長野県)高井郡保科郷から伊那郡藤沢郷へ移り、正則は代官職を務めた。嫡男の正俊は藤沢城主、孫の正直は伊那高遠城主となった後に下総多胡(千葉県香取郡多古町)に転封となる。
正則の妻は、甲州武田家臣と思われる甘利備前守の娘とされる。
この墓碑が海音比丘により再建された元禄3年は高遠建福寺の保科家の墓の再建と同じ頃なので、会津藩松平家3代藩主松平正容(保科正之の子)の請願であった可能性が高い。

明治の頃、正則夫婦の墓は平山氏が守っておられ、旧飯野藩保科正益侯の御子息の妻、北白川宮能久親王第三王女保科武子様の知る所となり幾許か永代供養料を納めたとの話だ。
今も寺の方か檀家の方が管理されているようで、墓の周りは綺麗に保たれていた。

 

■飯高・法華寺周辺の歴史
飯高地域は古くは北条庄と呼ばれ、鎌倉時代は千葉家一族の飯高氏が地頭であった。
今の字(あざ)城下、飯高寺(はんこうじ)~飯高神社(旧妙見社)境内に飯高城が在ったとされる。

この法華寺の境内は古くは千葉氏支族の新藤田縦空(じゅうくう。新藤太とも)の城址で
延慶3年(1310)縦空入道は千葉氏の本領千葉庄の妙見宮で妙見菩薩のお告げを受けて帰郷すると、水田の中に亀の背で白蛇に抱かれた妙見菩薩像が輝いていた。縦空は喜んで昌山に妙見宮別当の社を建て妙見山妙福寺と号し、この地は由来から亀田蛇が洞と呼ばれるようになった。(『下総名勝図絵』)
妙福寺は真言宗であったが、千田庄(多古町)を領する千葉胤貞の猶子日祐(にちゆう)が再興し法華経の一乗妙法の道場とする。

 

■戦国期~保科家多古移封時の飯高
天正5年(1577)京都から妙福寺に訪れた蓮成院日尊に、飯高城主の平山刑部少輔常時(新藤田の子孫ともされる)が帰依する。
天正8年(1580)平山・若林らの懇請で妙福寺住僧の日因が、飯塚光福寺の講務を辞した教蔵院日生上人を迎えた。飯高氏流の椎名氏で妙福寺6世、飯高4世となる日圓(にちえん)も日生に学ぶ。
天正13年(1585)3月に平山常時は日生を開基、日尊を開山として飯高城内に法輪寺を建立し、妙福寺の講席を移した学寮が後の飯高檀林の基となった。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際に常時は北条方であり、小田原落城後は帰農し、北条氏の旧領へ移封となった徳川家康に城地を寄進した。
飯高のすぐ西に位置する多古には高遠城主保科正直(正則の孫)が入り、病身の正直は子の正光に家督を譲り、湯治等をし療養の生活に入る。
保科家は諏訪神氏の家系であり下総でも諏訪神社を信奉し、仏道においても信心深く領内の寺社に寄進している。

 

■保科正則の晩年
正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう。
下総善龍寺の開山廣琳荊室は、正則の孫の源蔵(内藤昌月)を養子に迎えた内藤信量の次男で、幼くして上州長生寺で剃髪し、大泉山補陀寺(群馬県安中市松井田町)の的雄和尚に学び天正10年(1582)正月28日満行山善竜寺(高崎市箕郷町)に住職する。
この年、織田家の伊那侵攻により保科家は内藤昌月を頼って上州箕輪城へ逃れ、高遠城奪還を期した。

天正18年(1590)的雄和尚の遺命で補陀寺に転院していた廣琳は、羽柴秀吉の北条攻めの頃は院を移し討死した大檀を弔った。この後、徳川家康の関東入封に従い高遠城主保科家は多古へ移る。
そして高齢の正則は多古に廣琳を招き善龍寺の開基となり、隠棲したと想像できる。

天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺(もりんじ)や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わっており、彼らは廣琳と共に上州へ戻り──箕輪城は井伊直政の居城になっており、かつてのように内藤家を頼ることが目的でなく──信仰と共に余生を過ごしたのかもしれない。

また、正則が多古転封以降に没したなら100歳前後になることを考慮すれば、天正10年に上州箕輪を訪れた時に上州で没している可能性もあり、下総の善龍寺は正則の位牌を安置するために箕輪の善竜寺と寺名を同じくして正俊か正直が建立したとも解釈はできる。
そして夫の墓を守るために正則の妻は下総に残ったのだろう。
※この頃に廣琳は保科家の縁で高遠城内の法幢院に移るとも伝わるが、まだ保科正光は多古に在る。想像するに廣琳は補陀寺の引継ぎと、正俊や正則を弔うため上州と下総善龍寺と往復していたのではなかろうか

慶長6年(1601)正光は高遠へ転封となる。9月29日に正直が高遠城で死去。
慶長7年(1602)6月20日に正則の妻が亡くなる。
法幢院は高遠城内にあった諏訪神社と共に龍ヶ澤に移転し龍澤山桂泉院と改号する。
その後、高遠城を継いだ保科正之が寛永13年(1636)最上(山形)転封の際に当時の桂泉院住僧英呑が付き従い長源寺に住、会津移封で泉海が下総の善龍寺と同じ号で祥雲山善龍寺を創建し正則夫妻の位牌を守った。会津善龍寺に家族の墓のある西郷頼母の西郷氏は保科家の一族である。

保科前筑前守正則公之墓 保科正則の墓
▲保科正則の墓
法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士
保科前筑前守正則公之墓
天正十九年辛卯年九月六日薨去
奉再建元禄三庚午年海音比丘之

保科前筑前守正則公妻之墓 保科正則妻の墓
▲保科正則の妻の墓
法妙 長清院殿梅月香大姉
保科前筑前守正則公妻之墓
慶長七寅六月二十日薨去
奉再建元禄三庚午年海音比丘之

所在地:千葉県匝瑳市飯高字馬場

高遠城

白山橋から臨む高遠城址公園 高遠城大手門

三峯川に沿う約80mの崖を利用した天然塁塞の高遠城址と伝高遠城大手門
高遠城は三峯(みぶ)川と藤沢川が合流する要衝の、それぞれの川に削られた河岸段丘上の突端に築かれた平山城である。
江戸時代に大きく改修されたが、各郭は深い空堀で隔てられ、周囲は石垣でなく地形を巧みに利用した高い土累が廻らされた戦国期の遺構の面影は残されている。

高遠(長野県上伊那郡)は甲斐(山梨方面)・諏訪から伊那へ、南信濃から駿河・遠江(静岡方面)へ進出する交通や軍事的に重要な地にあり、古くは諏訪氏、南北朝の頃より諏訪支族(諸説あり)の高遠氏が一円を治め、後に大名家になる保科氏も高遠氏に従い諏訪・甲斐方面の防衛地である藤沢の代官を務めた
天文年間(1532~55)に武田晴信(信玄)が伊那に侵攻して高遠を支配し、天文16年(1547)3月に鍬立て(くわだて。起工の地鎮祭)を行い山本勘助が縄張(なわばり。設計等)をしたとされる。
信玄は高遠を南信州の拠点として、信任が厚い家老衆の秋山虎繁(とらしげ。武田二十四将)・親族衆の諏訪四郎勝頼(すわかつより。信玄4男)を高遠城代とした。
信玄が亡くなり武田家当となった勝頼は、弟の仁科五郎盛信(にしなもりのぶ。信玄5男)を城代に任じて防備を固めさせた。

天正10年(1582)仁科盛信が織田勢の大軍と戦い壮絶な最期を遂げ、そして武田・織田家が滅びた後、高遠城には徳川家康についた保科が入る。
豊臣天下となると保科正直は家康の関東移封に従い下総多古に移るが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川方が勝利すると正直は高遠城に戻ることができた。
江戸時代には高遠藩3万石が置かれ、正直の子の正光が、その養子の正之が治めた。

寛永13年(1636)二十数万石の大藩、出羽(山形県)山形(最上)藩藩主鳥居忠恒(とりいただつね)は病弱で、死の間際に養子とした弟の鳥居忠春(ただはる。忠治)は幕府の定めた末期養子の禁令によって違法となり、所領没収となった。しかし、忠恒の祖父・徳川家の忠臣鳥居元忠(もとただ)の功績が考慮されて取り潰しは免れた。
当時、徳川秀忠の御落胤であることが公になって第3代将軍家光に寵愛された高遠藩主保科正之の20万石への加増、入れ替わりの形で忠春が3万2千石入り高遠藩主となる。
寛文3年(1663)に忠春が侍医の松谷寿覚(まつたにじゅかく)に斬られた傷がもとで没し、長男の忠則(ただのり)が継ぐが、元禄2年(1689)6月に家臣高取権兵衛が江戸城あかず御門の守衛任務の際に御側衆平岡和泉守頼恒の妾宅を覗いたとして訴えられ、家内不取締(家臣の罪は当主の監視不届きという幕府の刑罰)でに閉門を命じられ獄死。
鳥居家は減封で能登下村藩(石川県七尾市)へ移され、高遠は一時幕府領として松本藩主水野忠恒の預かりとなる。

元禄4年(1691)2月内藤清枚(きよかず)が高遠3万3千石の藩主となり、廃藩まで8代、180年間にわたって内藤家が城主であった。
明治5年(1872)新政府から城郭の取壊しが命じられ、城跡は明治8年頃から旧高遠藩士の手で桜の木が植えられ明治9年(1876)公園化し、現在コヒガンザクラ樹林は長野県の天然記念物とされ、花見の一大名所となって毎年4月は恒例の高遠さくら祭で賑わっている。

大手坂大手門石垣 高遠城大手門跡 高遠城郭の図大手坂石垣
大手枡形の石垣と大手坂上の大手門跡地
武田氏の築城当初、表門の大手は比較的なだらかな城東に、裏門の搦手(からめて)は城の背後を守る岸壁のある西側にあり、江戸初期に情勢が安定すると新たな城下町が形成された西側(現在の大手跡)に代わったとされる。
明治政府により大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門(やぐらもん)は全て取払われたが、三の丸に移設された旧高遠高等学校正門(記事一番上の写真)が、形は変わってしまったが旧大手門と伝わる。

高遠藩の藩校進徳館の門 高遠藩の藩校進徳館の建物
■高遠藩の藩校進徳館表門と二棟。正面軒上に内藤家の家紋「左十字」の鬼瓦が見える。
万延元年(1860)閏3月24日、高遠藩8代藩主内藤頼直(よりなお)は三の丸の老職内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて「三ノ丸学問所」を開校。その後「進徳館」と名づけられた。
文学部、武学部の2部からなり、藩士の子弟を中心に8~25歳までの生徒が幼年・中年の部に分かれて学んだ。
内藤邸は当時珍しい茅葺平屋八ツ棟造りで、この建物に続いて南北隅に筆学所、北裏に広い稽古場を設けた。
現存するのは写真の大玄関と脇玄関奥、東棟に生徒控所と寄宿寮。右の西棟に教場二部屋や教授方詰所。奥に儒学の祖孔子廟と高弟四賢人の五聖像が安置されている。

桜雲橋 問屋門
■桜雲橋と城下町の問屋門
現在は鉄筋コンクリートの桜雲橋(おううんきょう)の場所には当時は木橋が架かっており、当時も本丸側に櫓門がある作りで本丸の守衛となっていた。
問屋(とんや)門は昭和20年代に本町の問屋役所にあった門を移築したもの。

南曲輪 桜雲橋下の空堀 南曲輪からの中央アルプスの展望
南曲輪
本丸の南に位置し、幼少の幸松(保科正之)と母お静と移住した所と伝わる。
方形で、周囲は土塁で囲まれ、本丸とは堀内道で(現在ある土橋は近年通行の為に造られたもので橋は無かった)、二の丸とは土橋で繋がっていた。写真の堀の先が南曲輪。
中央アルプスが展望できる景勝地で、かつては南曲輪に茶室や庭園があったのか、古い絵図には瓢箪形池が描かれている。

保科正之とお静の母子像 高遠歴史博物館の保科正之像
▲高遠歴史博物館の保科正之・お静の母子像
正之像は保科の並九曜の紋服。3体のお地蔵様も幸松の成長祈願をし目黒成就院に寄進した地蔵菩薩を模して建立された。
高遠城本丸跡 太鼓櫓
本丸跡と時を報じる太鼓楼
本丸は段丘の突端に置かれ、二の丸、三の丸を廻らせた城郭三段の構え。
天守閣は無く、本丸中央一杯に平屋造の本丸御殿(藩主の住まい)が建ち、他に櫓や土蔵などがあった。
太鼓櫓は元々は搦手門の傍らにあり、楼上に3鼓を備え、時刻になると番人が予備の刻み打ちの後に時の数だけ時報の太鼓を打った。廃城後に有志により対岸の白山に新設されたものを明治10年(1877)頃に本丸と現在の位置に移され、朝6時から夕6時まで偶数時刻を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。

高遠城二の丸跡 高遠閣 高遠城二の丸を繋ぐ空堀
二ノ丸跡と高遠閣、三ノ丸からの虎口の空堀
本丸の東から北に廻っている広大な曲輪で外周は堀切で防備を固めた。
役所向きの建物が置かれ、厩や土蔵等もあった。
二の丸の北東に、木造二階建て入母屋造の公会堂「高遠閣」が昭和11年に伊藤文四郎工学博士の設計で建設され、現在は有形文化財。

新城盛信神社 白兎橋 高遠城法幢院曲輪の堀
■新城・藤原神社と白兎橋、堀で隔てられた法幢院曲輪
天保2年(1831)7代藩主内藤頼寧(よりやす)は家臣中村元経の嫌疑により、天正10年織田の大軍を引き受け高遠城で壮烈な最期を遂げた仁科盛信の霊を五郎山より城内に迎え新城(しんじょう)神として祀った。先代内藤頼以(よりもち)が内藤家祖神藤原鎌足公を勧請した藤原社を合祀し、廃城跡の明治12年(1879)に建てられた。
法幢院(ほうどういん)曲輪は二の丸から堀内道に通じ、城郭の南端に位置し、東方に幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。かつて法幢院という寺があり、高遠城落城の際に法要が営まれたが、一般にも参拝できるよう月蔵山の麓に移し桂泉院(けいせんいん)として現在に至る。
法幢院曲輪へと架かる白兎橋も近年造られ、文政の頃の高遠藩仕送役の酒造者で町の発展にも尽くした廣瀬治郎左衛門雅号・白兎(はくと)を、その曾孫が私有地となっていた法幢院曲輪を買上げて公園として寄付した折に架けた橋に名付けた。

高遠城勘助曲輪 高遠城勘助曲輪神戸邸跡 高遠城三ノ丸背後の新館橋
■勘助曲輪(かんすけぐるわ)と武家屋敷・神戸邸跡、高遠城の北面
曲輪の広さ769坪(2542㎡)で櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社(西高遠相生町に移転した勘助稲荷)等があった。
山本勘助に由来する名称だが、当初はこの曲輪は無く、大手を西に移動した際に新しい大手の備えとして新造されたようだ。
北は武家屋敷と三の丸があり、かつては三の丸に沿って塀が設けられ、塀の外側は藤沢川の方向に切り立ったこの急斜面で、容易には攻め入られない造りであった。
写真は城北の藤沢川にかかる新館橋越しの高遠城。

高遠城二の丸東の堀と高遠閣 高遠城東搦手の大堀切 高遠城東搦手
二ノ丸の土塁東搦手の大堀切
二の丸を囲む空堀から高遠閣の裏手を見ると、高い土累が盛られているのが分かる。かつては更に土塁の上に塀があったようだ。
空堀からの道は、次の大堀切まで鍵の手を描いており主郭への容易な進入を防いでいる。当時は焼き払って通行を止められる木橋が架かっていたと思われる。
戦国時代は大手側で、他の3方に比べ、防備の弱い地形の東側を大きな二重の堀切で、城を島のように孤立させ防御性を高めた。
天正10年の織田信忠の軍も川と坂に阻まれた裏手でなくこちらの正面から攻め入っている。

高遠城は東武家屋敷の地 高遠藩士有賀家跡 絵島の囲い屋敷
▲高遠城の東面と高遠藩士有賀家跡、復元された絵島囲い屋敷
高遠城の東側に武家屋敷があった。
正徳4年(1714)に大奥の粛清に遭って遠流となった絵島が幽閉された囲み屋敷も城の東の花畑(場所の名)にあった。現在、高遠歴史博物館で復元されている。

高遠藩藩医馬島家 伊沢修二旧宅 坂本天山屋敷跡天山井戸
▲高遠藩士の邸宅跡(馬島家伊澤修二生家)と天山井戸
武士の邸宅は原則的に藩から貸与された。市指定有形文化財となっている政治家伊澤修二(音楽教育の草分けとなった)の生家は下級武士、藩医馬島家は上級武士の住まいの特徴が見ることができる。
天山井戸は高遠藩砲術師範の坂本天山が蟄居した殿坂の槃澗居(はんかんきょ)の井戸跡。

国史跡高遠城址公園
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2295(高遠閣)

▼高遠城関連サイト
伊那市:http://www.inacity.jp/
2016年高遠さくらまつり:http://takato-inacity.jp/h28/
▼参考資料
・『高遠町誌』
・伊那市教育委員会『高遠城跡ガイドブック』
・長谷川正次『高遠藩史』『シリーズ藩物語 高遠藩
・『高遠藩の参勤交代』
他、古地図、観光案内パンフレットや説明板等