林家と史蹟」カテゴリーアーカイブ

林家や史蹟のことなど。最後の大名と言われる林忠崇については→請西藩主 林忠崇※年表

西上総文化会報第83号「請西藩の時事でたどる藩財政抄録」掲載

西上総文化会の会報『西上総文化会報』創立70周年記念号(第83号)が発行され、17日の『新千葉新聞』にて紹介されました。

※記事画像は新聞社の転載了承済です

拙稿「請西藩の時事でたどる藩財政抄録」は林氏が大名となって以来
大御所徳川家斉の薨去に伴う忠英の罷免と減封、忠旭の代の印旛沼古堀普請手伝、湾岸警備と貝渕から請西への陣屋移転、忠交の伏見奉行就任による上洛と急死、忠崇戊辰出陣で取潰しとなるまで藩情勢は目まぐるしく、それだけに経済面での負担も甚大でした。
そこで本稿は大名林家の文献上の時事を辿りながら、それに伴う藩財政に焦点を絞り摘記した次第です。

なお今回校正ミスが数か所あり、次号にて正誤補記予定です。
また前号の拙稿「請西藩士大野家について」はコロナ禍中につきコラム相当の掲載でしたが、大野家についても掲載後に分かった事柄もあり来年には追報できるよう精進してまいります。


表紙は昭和30年に会員達が往年を偲び草鞋を履いて鹿野山詣をした際の写真とのこと。
今号掲載の論文・随筆・文芸・活動報告等内容、会報購入や入会の問合せ先は上掲新聞記事をご参照下さい。

本誓寺の林忠旭寛永寺奉納石燈籠

 
▲江東区有形文化財「石造燈籠 林忠旭奉納寛永寺旧蔵

奉献 石燈籠 一基
東叡山
文恭院殿 尊前
天保十二辛丑年 閏正月晦日
従五位下林播磨守源忠旭

天保12年(1841)閏正月に逝去した十一代将軍德川家斉(文恭院)の霊廟に奉納するため、東叡山寛永寺へ諸大名が寄進した葵御紋入り灯籠の一基。
林忠旭は文政2年(1819)従五位下に叙されている。
なお、天保12年の4月に父である貝渕藩初代藩主林忠英若年寄を免職され減封、7月に隠居し忠旭が家督を継いだ。
 
文政10年(1827)に忠英が一橋家の徳川治済(最樹院。家斉実父)尊前の石燈籠を寛永寺に奉献しており、払い下げを経て昭和25年に千葉県木更津市の貝渕日枝神社へ献納された。
この忠旭奉納石燈籠もまた、住職さんの話では檀家の庭に在ったもので、忠英奉納石燈籠と似た経緯で本誓寺に渡ったのだろう。
江東区HPにも昭和58年に檀家総代の方から奉納された旨が記載されている。4年後に区文化財に登録となった。
 

当知山重願院 本誓寺
江戸時代には浄土宗江戸四カ寺の一つといわれ朱印寺領30石を与えられた
文亀元年(1501)相州小田原で飯沼弘経寺第三世曜誉酉酉冏創建。本尊の阿弥陀如来は漁師が海でみつけ安置されたものという。
天正18年(1590)の戦災により江戸桜田に移る。
文禄4年(1595)八重洲海岸に移り寺地5773坪を領して再興し改めて開山とした。
慶長10年(1605)馬喰町へ移り水戸徳川頼房の養母英勝院が修築。朝鮮通信使の宿舎にもなった。
天和3年(1683)に現地に移転。関東大震災後に称名院を合併。
(参考『東京名所図絵』『江戸川区史』)
本誓寺所在地:東京都江東区清澄3丁目4-23

林忠崇の書[3]大日本帝國軍大勝利祈願成就碑

 

大日本帝国軍大勝利祈願成就の碑
明治27年開戦の日清戦争の必勝祈願として、大網氏を願主とし、三山敬愛講の行人が祈祷したという碑です。
林忠崇侯と親しい大網氏が、出征をうたう人物として相応しいと頼んだのでしょう。
裏の歌は磨耗していますが「元請西藩(主)林昌之助源忠崇」の字は比較的鮮明に読めます。
【注※】昨年末の木更津市史編さん事業の講演では確か「日露戦争の碑」とおっしゃっていたので、もしかすると日露戦争の勝利祈願で明治三十七年と刻まれているかもしれません

三山敬愛講は、木更津では中島敬愛講が有名で、今も正月七日に金田海岸で梵天立てが行われています。

日枝神社日枝神社の門柱も忠崇公の筆です
所在地:千葉県木更津市請西2-15-31

 * * *

※撮影時は工事中のため急いで裏表を撮ったのみなので、後日改めて確認に行く予定です。
 磨耗が激しい場合は建立時の資料がないか探してみます。

請西藩林家由来の江戸本所林町

▲元禄六年『江戸大絵図』に林信濃の名。「二之橋通り」に面し、北に堅川(たてかわ)、南に彌勒寺(みろくじ)や五間堀が在ります。

本所林町(ほんじょはやしちょう)
貞享2年(1685)収公された代地として元禄元年(1688)に浅草瓦町等の商戸を移し始めて林町とし、明治44年まで「本所林町」の地名で呼ばれていました。
この「林」の町名は一丁目南裏通りの幕臣林藤四郎の居住地から採ったことが『町方書上』等に記されています。

請西藩林家の祖である小笠原光政から数えて9代目の林信濃守忠隆は、大番頭に出世して貞享3年(1686)には3千石の大身旗本となりました。
西ノ久保(港区虎ノ門)に屋敷があり、ほど近くの青松寺(港区愛宕)を忠隆の代から菩提寺としています。
そして貞享5年(1688)5月19日、本所へ屋敷を移しました。(『寛政呈譜』)この直後から浅草の一部の住人が移転し、林信濃守邸から名をとって「林町」が起立したのです。

林邸は南・北側55間(約100m)、道に面した東・西側は42間3尺6寸(約77.5m)、坪数2340坪の大名並の広大な敷地で、北は土手になっていました。
その後も林家代々の屋敷として江戸絵図で年代ごとの当主の名前が確認できます。

文化2年(1805)1月12日、14代目の林忠英が大名小路と呼ばれる呉服橋御門内に屋敷を授受され2月5日に移り、文政8年(1825)一万石の大名へと登り詰めました。忠英は請西藩最後の藩主林忠崇の祖父にあたります。

 
▲竪川に架かる二ツ目橋(二之橋)から旧林町一丁目(現立川一丁目)を望む
明治4年 昇齋一景作『東京名所四十八景』本所三ツ目橋より一ツ目遠景(案内板より)
江戸に近い側から一之橋から五之橋が架けられた二つ目の橋で長さ10間(18m)幅3間(4.5m)程ありました。

 
萬徳山聖實院弥勒寺と葛飾北斎『冨嶽三十六景本所立川』
現在、林邸の在った場所は立川(たてかわ)一丁目にあたります。堅川(たてかわ)を分かりやすく「立川」としたのが新しい土地名に採用されました。
林邸の隣に在った弥勒寺(真言宗山城三寶院末派。御府内八十八ヶ所霊場第46番礼所。川上薬師如来)は慶長15年柳原に開山し天和2年(1682)移転。杉山検校こと杉山和一(わいち。綱吉の時代の総検校1610~1694)の墓所として知られています。

 
▲五間堀公園。五間堀は幅五間(約9m)の堀で、かつて弥勒寺の脇から弥勒寺橋が架かっていました。

* * *

林町の呼称がすっかり消えたこの地に建つ「喫茶店ハヤシヤ」さんが唯一といっていい林邸の名残ではないでしょうか。マスターに店名の由来を伺ったところ偶然ではなく、林町に因んてハヤシヤの店名をつけられたそうです。

 
軽いカフェメニューの他にフードセットもあり、どの時間に行っても淹れたて出来たての美味しい飲食物と落ち着ける空間が堪能できる純喫茶です。江戸本所散策の折にはぜひ。

・「喫茶店ハヤシヤ」所在地:東京都墨田区立川1丁目11-1
・「弥勒寺」所在地:東京都墨田区立川1丁目4-13
・「二之橋跡」所在地: 東京都墨田区両国4丁目1
・「五間堀公園(五間堀跡)」所在地:東京都江東区森下2丁目30-7

林家の江戸屋敷
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考資料
・『柳営日次記』
・『戸田茂睡全集』『御當代記
・『寛政重修諸家譜』
・『江戸町方書上』
・東京市市史編纂係『東京案内
・『江戸名所図会
・角川書店『日本地名大辞典
・『江戸大繪圖』『江戸全圖』『本所大繪図』等江戸絵図
他、案内板、リンク先ページ記載の史料等

木更津「請西藩戊辰殉難者慰霊碑」

 
請西藩戊辰殉難者慰霊碑殉難者の霊に捧ぐ詩碑
明治30年鹿野山に請西藩殉難者招魂之碑が江戸城を見守る位置に建立され
そして近年、請西藩地にも慰霊碑が置かれました。

「戊辰殉難者の霊に捧ぐ」作詞 石井武敏
時の流れは   悲しくも
献兎賜杯の   誉れさえ
始祖光政と   土の中
無念の涙は   露となり
山の緑に    今光る

いざや大義の  道なれば
差し違えても  悔いはなし
忠崇出陣の   馬を蹴る
箱根の関所の  敗退は
小田原藩の   寝返りか

生き永らえる  その身こそ
死したる者より 辛かりき
ああ諸霊よ   安かれと
朝暮に祈る   法華経の
自我偈の声や  美しき

からす鳴き 十七代で戊辰かな
立つ瀬なくすも 時流か勝せり
永らえし くしき縁の 真武根台
菩薩に祈らん 親義の人々を
             東生
平成七年九月十八日吉日 宮野高美 建之

陣屋跡地周辺の新興住宅地開拓が進められる中で、永代の哀悼の場として静かに佇んでいます。