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士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp

山中城跡と山中新田[1]

山中城跡公園 山中新田

▲山中城跡(やまなかじょうあと)と山中新田の道標
慶応4年(1868)5月、沼津藩下の香貫村林忠崇・遊撃隊らは待機していたが、東西での連携を企てていた彰義隊が上野で破れ、西の遊撃隊への警戒も次第に強まる中、人見勝太郎が旗下の第一軍を率いて箱根関門へ出陣する。
残る本隊も先鋒を追い三島を経て19日に箱根間近で要路にあたる豆州山中村に本営を構えたという。
伊庭八郎は箱根湯本に陣を構え、林忠崇は山中本営で箱根方面を睨みながら、同時に背後の三島方面からの沼津兵の進軍を警戒した。

山中新田は元和年間(江戸時代の初め)に成立した新田集落の一つで、三島宿と箱根宿の間の宿として茶店や旅籠が営まれた。※それまでは現在の元山中(関所跡の碑がある)が「山中」と呼ばれていた。

箱根旧街道 箱根旧街道の解説

箱根旧街道
箱根旧街道は慶長9年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)区間である。
旧街道には通行する人馬の保護のため松や杉並木が作られ、正確に道のりを示す一里塚が築かれた。またローム層上の滑りやすい道なので竹が敷かれたが、延宝8年(1680)頃には石畳の道に改修された。
平成6年度に三島市がこの腰巻地区約350m区間を復元整備した。発掘調査で石畳は付近で採掘したと思われる安山石を用いて幅2間(約3.6m)を基本とし基礎を造らずローム層上に敷き並べられ、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線状に配置されていたとみられる。

遊撃隊らもこの街道を経て出兵、そして5月26日の山崎の戦の追撃を受けることとなる。

富士山に臨む山中城 三島市街と駿河湾方面

▲西ノ丸付近は標高580mで、富士山、愛宕山、そして三島市街と駿河湾を見渡せる。
戊辰戦争から時代は遡って戦国時代の山中城は箱根山の地形を利用し、北条の出城の徳倉城・獅子浜城・泉城、そして豊臣軍の北条征伐に耐えた韮山城を俯瞰できる位置に築城した。

 

史蹟山中城
山中城は小田原に本城を置いた後北条氏により戦国時代末期の永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築された。
天正17年(1589)10月に北條氏直により修築が行われ、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて西の丸や岱崎出丸等の増築が始まった。
しかし翌年天正18年(1590)3月29日に増築が未完成のまま、豊臣軍4万の総攻撃を受けた。
羽柴秀次が中村一氏、田中吉政、堀尾吉直(吉晴、)山内一豊、一柳直末等を率いて包囲し、家康を小田原口の先鋒として元山中の間道より進軍させた。
必死の防戦も約17倍の人数には適わず、北條氏勝は相模玉縄城に逃れ、山中城はわずか半日で落城したと伝えられる。
この時の北条方の守将松田康長(まつだやすなが)・副将間宮康俊(まみややすとし)の、豊臣方の一柳直末等の武将の墓は今も三の丸跡の宗閑寺に苔むしている。

三島市が公園化を企画し、昭和48年から全面発掘に踏み切り山城の規模・遺構が明らかになった。特に掘や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪(くるわ)の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みに取り入れた縄張りの妙味と、空堀(からぼり)・水掘(みずぼり)・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最期の姿を留めている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

 

載せきれないのでまず山中城の特徴の畝掘(うねぼり)・障子掘(しょうじぼり)を中心に…

西櫓掘 西ノ丸畝掘から曲輪

▲西櫓掘(にしやぐらぼり)と、西ノ丸畝掘から曲輪の様子
西ノ丸の畝掘は五本の畝により区画され、畝の高さは堀底から約2m、更に西ノ丸の曲輪に入るには9m近くもよじ登らなければならない。
ローム層を台形に掘り残しほぼ9m間隔に8本の畝が堀の方向に直角に作られている。畝の傾斜度は50~60度と非常に急峻で平均した掘底の幅は2.4m、中央の長狭9.4m、頂部の幅は約0.6mで丸みを帯びている。
西ノ丸掘は「北条流掘障子」の変形でより複雑に谷に連なっている。
現在は遺構保護の為に芝や樹木を植林しているが、当時は滑りやすいローム層が露出しており、人が落ちれば脱出不可能であったと推測される。

西ノ丸畝掘 西ノ丸掘

後北條の城独自の特徴「障子掘」は、障子のように堀の中を区画して畝を掘り残されている。中央区画には水が湧き出て南北の堀へ排出され、水掘と用水池を兼ねた珍しい構造である。

元西櫓下の堀 三の丸掘 山中城跡案内板

▲元西櫓下の堀、三ノ丸掘
三ノ丸掘は、自然地形を加工して作る他の曲輪掘とは異なり自然の谷を利用した二重掘で、長さ約180m、最大幅約30m、深さ約8m。中央の畝を境に西側の堀は空堀として活用していた。

掛橋のある二の丸虎 箱井戸跡 田尻の池

▲左写真の二ノ丸(北条丸)虎口から降りた湿地帯に在った箱井戸と田尻の池
三ノ丸掘東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理した。高地の箱井戸から広い田尻の池(約148m²、馬用の飲み水として使われたようだ)へ水を落すことにより水の腐敗や鉄分による変色を防いだと思われ、用水地として工夫がなされている。
箱井戸・本丸の間の下った場所が現在の山中新田の地域。

山中の芝切地蔵尊 山中城跡縄張りと案内図

▲かつての旧箱根街道沿いに在る芝切地蔵(しばきりじぞう)
山中新田の旅籠に泊まった巡礼姿の旅人が急な腹痛をおこして死に際に、この旅人の故郷の常陸が見えるように芝塚を積んで地蔵尊として祭れば村人の健康を守りましょうと遺言を残したという。村人はその通りに地蔵尊を祭り毎年7月1日を縁日として供養した。
縁日に出された腹掛けや参拝者の接待用の「小麦まんじゅう」が美味しいと評判になり、沼津方面からも参拝者が集まり山中村が潤ったといわれる。
山中城跡の案内図は右側が北。

饅頭ではないが、現在は観光案内所売店の「寒ざらし団子」が名物になっている。
上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことによるネーミングだ。
表面はシャクシャクと歯ごたえがあり、蓬の風味と合っている。じっくり温めたタレをかけた焼団子を寒空の下食べると殊更美味だった。

山中城跡公園(国指定史跡・日本100名城選定)
所在地:静岡県三島市山中新田、田方郡函南町字城山

日金山東光寺[1]戊辰戦役請西藩士戦死の地

日金山地蔵堂 広部正邦と秋山荘蔵の墓

東光寺地蔵堂と請西藩廣部与惣治正邦(新字体で広部)・秋山荘蔵の墓

慶応4年(1868)幕府は解体するが、徳川家再興を望む旧幕府親衛隊の遊撃隊脱走兵が、上総国望陀郡の請西藩(千葉県中部の木更津市)に赴き、藩主林昌之助(忠崇)は自ら脱藩して請西兵と共に出陣した。
上野の彰義隊と東西で呼応する目的で諸藩脱走兵を加えながら箱根方面を目指し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の協力を得て館山(千葉県南部)から真鶴港に渡った
しかし箱根関門攻めで和解した小田原藩が寝返り、5月26日山崎の戦いで総督府軍(新政府の軍)に後押しされた小田原藩の大軍が、圧倒的に数で劣る遊撃隊・諸藩脱走兵先鋒を破り、更に追撃戦となった。

本営で指揮をとっていた忠崇は再起を図るため深夜に箱根撤退を決議。本隊と関門まで辿り着いた兵達は鞍掛山から日金(ひがね)山を超え熱海へ到り網代から旧幕府艦隊に拠って27日夜に館山へ脱出した。

敗走兵回収や、三島方面から背後を突かれる恐れのある沼津藩兵の警戒のため各所に配されていた請西兵は、散り散りになった敗走兵と同じく追撃を受けることとなる。
小田原兵は東海道と温泉路(今の国道1号線)に分かれて徹底的な掃討体勢をとった。27日には芦ノ湖で更に兵を分け、一隊は山中三島方面に向かい、もう一隊は脱走兵本隊と同じルートで日金山に向かう。

十国峠を越えた捜索隊は、夜8時頃に峠を少し降りた所に在る日金地蔵堂(東光寺。巨大な地蔵仏が安置されている)に到着した。
潜伏者2名が居るとのことで地蔵堂を射撃するが無人であり、隣の坊に潜んでいるとみて熱海坊を三十数人で囲んで撃ちこんだ。
反撃が止んだ所で踏込むと、潜んでいた2名とも重傷で、一人は足首を斬られている状態であったため抵抗もなく斬られた。
もう一人は布団を被って竦んでおり、布団をはぎ取ると「待ってくれ、一言申したいことがある」と訴えたが藩兵数人で刺し殺したと、小田原兵が証言している。

討たれたのは請西藩士で一人は西森与助ともされるが、戦後、地蔵堂裏手に「廣遍正邦居士」「秋山宗義居士」と刻まれた篤志家建立の墓が残されており、廣部(広部)正邦と秋山荘蔵の2名ということになる。
この墓は平成20年に修復され、請西藩士廣部周助(※)の玄孫である廣部雅昭(薬学者、静県大学長、東大名誉教授。熱海市伊豆山在)氏による追善の卒塔婆と碑文が建つ。
※戊辰戦役に従軍し生き延びた廣部周助上根岸の豪家で忠旭の代から林家に仕え士分待遇を得、戦時・戦後ともに忠崇の為に奔走した。
周助の次男の廣部精(中国語教育者。陸軍省。大隈重信や渋沢栄一らと「孔子教会」を設立)が父の林家復興の志を継ぐ。明治26年に林忠弘が授爵となる。

廣部与惣治・秋山宗藏は浜寺の請西藩士供養碑にも箱根宿端で討たれたと思われる西森与助達と共に名を刻むまれている。

日金山東光寺地蔵堂 請西藩士終焉の地解説

日金山は海抜774m、山頂に火牟須比命(ほむすびのみこと)を祀る神社が有ったことや火山であるためか、古くは火が峯とも書かれる。中世から「死者の霊の集まる山」として地蔵信仰の本場として栄えた。

日金山最高峰の丸山の頂は樹木がなく平やかで、快晴時には北~東まで相模・武蔵・下総・上総・安房の5国、東南~南西まで遠江国と伊豆五島(伊豆諸島)、西~北西まで駿河・甲斐・信濃の4国、合わせて十国(十州)が見渡せるため十国峠(じっこくとうげ )・十州峯などと呼ばれる。
北に箱根峠、南に熱海峠。

ケーブルカーを登り十国峠から見た真鶴半島 熱海峠から見た風景
▲十国峠から請西の方向を望む。晴れた日にはもっとはっきり真鶴半島が見える。右は熱海峠で撮影
今でも房総の鋸南(勝山藩が在った)辺りから伊豆・箱根の山々が見えるが、十国峠からもコンデションが良ければ真鶴の更に向こうの上総まで十国の名前の由来通り見える(見えた)のだろうか?

所在地:静岡県熱海市伊豆山968
東光寺サイト:http://higanesan.com/

大蓮寺-遊撃隊士戦死之墓

大蓮寺本堂 戦死之墓

大蓮寺と境内の「明治紀元歳次戊辰五月」戦死之墓
西海子小路にある稲荷山大蓮寺は浄土宗で純栄開山、大道寺駿河守政繁の母実地院が中興開基し、実地院の法名から「大蓮寺」と号した。
慶応4年(1868)5月に小田原場外脱出時や三枚橋で戦死した遊撃隊士のため、後に元隊士や縁者が「戦死之墓」を建立した。

碑の名前 大蓮寺山門

世話人、寄附金者として第一軍人見寧、人見隊の遊撃隊士和田考之進、第二軍一番隊の遊撃隊士石川次郎三郎、第三軍の岡崎藩士玉置弥五郎左ヱ門、軍目の遊撃隊士澤録三郎らがの名が刻まれている。

稲荷山一花院大蓮寺
所在地:神奈川県小田原市南町2-4-9

霊山寺-遊撃隊が滞在

沼津略絵図 霊山寺

霊山寺(りょうぜんじ)と寺所有の沼津略絵図
「カヌキ山」麓の絵図。境界に狩野川霊山寺の寺域は千三百七十坪で現代も広い敷地を持つ。
慶応4年(1868)5月5日~18日まで遊撃隊・林忠崇と請西兵等諸藩脱走兵は香貫村(かんき、かぬき。駿東部)霊山寺と付近の農家4、5軒に滞在した。

それより先の閏4月15日に一行は韮山へ着き韮山代官所に協力を求めた。沼津藩は隊士達を御殿場に待機させ、その後隊士達は旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)らの説得に対し新政府の総督府に差出す上意の返事を甲府で待つことを取り決めた。
約束の期日に返事は来ず再度説得が行われ、旧幕臣の使者の顔をたてて沼津城下最寄りの香貫村でひとまず謹慎となる。
謹慎中は沼津藩の監視下におかれ、警固にあたる非常組(沼津藩主水野忠敬は甲府城代に任命されており、甲州警備に兵力を割いたため沼津守備のために増員した農兵。後に「常整隊」として訓練を受ける)が厳重に旧幕府脱走兵達を警戒したという。
霊山寺山門 霊山寺の梵鐘

▲山門と梵鐘
霊山寺は「れいざんじ」の通称で呼ばれる曹洞宗永平寺派の寺。
はじめ真言宗であったが弘治3年(1557)機外永宜和尚が中興開山し曹洞宗に改宗した。
向かって右の「不許葷酒入山門」は生臭(ネギ類などの臭い野菜「葷」や肉)を食らい飲酒した者は立ち入りを禁ずるという仏教的な意味。
梵鐘は貞治3年(1364)府中見付の蓮光寺に奉納との銘があり県文化財。

霊山寺のある本郷町は上香貫の中住町・黒瀬町・住吉町等の一部がまとまった地域で、昔は上香町の本村(もとむら)であったため本郷の名になったとも伝わる。
上香貫村は後に合併して楊原村になり、更に大正12年の沼津町との合併で沼津市が誕生した。

兜率林霊山寺
所在地:静岡県沼津市本郷町25-37

参考図書:『新風土記』
参考サイト:沼津市HP http://www.city.numazu.shizuoka.jp/