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早雲寺[1]遊撃隊戦死士墓

早雲寺本堂 遊撃隊戦死士墓

早雲寺本堂と遊撃隊戦死士墓
旧幕府側として箱根戊辰の役で亡くなった隊士のため明治13年(1880)6月に人見寧(勝太郎。遊撃隊第一軍隊長)が「游擊隊戰死士墓」を建立した。隣に碑が並ぶ。
石材は小田原の根布川石。

碑文
明治戊辰之難、幕府遊撃隊士等相率去府下拠函嶺、五月廿五日、與
官軍会湯本村、短兵塵戦一以當百、奮撃而死者数十人、而瘞屍于
茲地者凡九人、掘屋良輔、小笠原正七郎、市川元之丞、越多三郎、森多
三助、島村善太郎、武田幸二、大原敬、竹内利平者為某君某君、皆余舊
盟也、今茲庚辰、土人等慨其死事、與同志議将建碑以表焉。請余誌之、
嗚呼、追憶当時、倐忽十三周、恍乎如昨夢不勝感愴、乃不辭拙陋略記
事実以勒于碑陰。  明治十三年六月 静岡県士族 人見寧

碑には以下9名の名が刻まれている。

第一軍
掘屋良輔(遊撃隊士。小田原城脱出時に戦死)
竹内利平(一番隊勝山藩士。三枚橋で戦死)

– – –
越多三郎
島村善太郎
武田幸二

第二軍一番隊
森多三助(三枚橋で戦死)
小笠原正七郎(堂ヶ島で討死)
市川元之丞(堂ヶ島で討死、境内に埋葬)

第二軍二番隊
大原敬(駿府藩士)

他、堂ヶ島で討死した9名の首を早雲寺に埋葬したとされ、また小田原城脱出時の戦死者や山崎で戦死した隊士も弔った。

游撃隊戰死士墓 遊撃隊戦死士墓の弔文

金湯山早雲寺(臨済宗)
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
サイト:http://www.souunji.jp/

本尊 釈迦三尊仏(室町時代)
開山 以天宗清(大徳寺八十三世)
開基 北條氏綱
創建 大永元年(1521)
寛永四年(1627)再建。本堂は寛政年間建立、昭和三十年代の改修まで茅葺寄棟造

※北条5代の墓地等は別途記事にします

畑宿本陣跡と一里塚

箱根路東海道の碑 本陣跡案内板

旧箱根街道畑宿本陣
畑宿の本陣は屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡です。家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残されました。小規模ながら旧街道に日本庭園として他に無かったようです。

畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落で、郷土の伝統工芸「箱根細工」が生まれ育ったところです。
畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北条氏時代までさかのぼります。
江戸時代畑宿は箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足を止めました。

安政4年(1857)11月26日、米国初代領事で伊豆下田に於けるお吉物語で有名なハリス・タウゼントが江戸入りの途中、ここに休憩鑑賞しました。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
下田から籠で上京したハリスが箱根関所で検査を受ける際、ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否すすて関所側とトラブルを起こしてしまいます。
下田の副奉行が中に入って、ハリスを馬に乗せて籠だけ検査をすることを提案し、関所側は妥協しました。
ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通り、そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る見本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすごぶる良好になったといいます。

明治元年十月八日明治天皇が東京遷都の御途次や翌年皇后の京都還幸の御途次等で小休ならせらした聖跡の碑も建てられています。

旧茗荷屋庭園 畑宿本陣

▲旧茗荷屋庭園と畑中本陣跡地
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。
ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。

 

畑宿一里塚 畑宿一里塚案内板

箱根一里塚
江戸時代はじめ、徳川幕府は街道や宿場を整備し、交通基盤を整えました。さらに、距離を明確にするため、街道の一里(約4km)ごとに一里塚を置きました。
東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長9年(1604)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長17年(1622)であったと考えられています。

畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を元に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現在に伝えるものです。
山の斜面にあるこの塚は、周囲を整地した後、直径が5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標識樹として、畑宿から見て右側にモミが、日取り側にはケヤキが植えられていました。

一里塚は、旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。※箱根町による案内文より

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町畑宿

 

畑宿は戊辰戦争時に林忠崇旗下の請西藩兵が駐屯し(忠崇自身は箱根関所で指揮をとっていたと思われます)、山崎の戦いで負傷した遊撃隊士伊庭八郎がそこで治療を受けました。

山崎の戦い・伊庭が負傷した三枚橋

箱根山崎古戦場絵葉書 

▲古い絵葉書の山崎古戦場と現在の山崎ノ古戦場の碑
旧幕府遊撃隊伊庭八郎は三枚橋(地域)の松並木の下で斬られたというが、絵葉書や案内板の風景の頃は古戦場にまだ松が茂っている。
かつての湯場道は明治時代に国道1号線(第一号国道)として開通(人力車や馬車も通れる広さに整備)した。

慶応4年(1868)5月20日の遊撃隊・林忠崇ら旧幕臣兵による箱根関所占拠で佐幕に転じた小田原藩へ、23日に三雲為一郎軍艦の総督府は錦旗奉行穂波経度を藩主大久保忠礼の問罪使として派遣する。
24日因州・長州・備州・伊州(藤堂)4藩の兵が酒匂と飯泉の二方面から迫ると、藩主忠礼は城を出て菩提寺の本源寺に謹慎して新政府に恭順の意を示した。
小田原藩は林・遊撃隊らの追討を決めたが、一説にはそれを不服として藩を離れ遊撃隊に協力した小田原藩士もいたという。

湯本村に進駐していた100人程の先鋒隊を率いていた伊庭は小田原城に談判に出ていたが、25日朝までに退去通告を受けた。
伊庭は小銃弾を浴びせられたが控えていた遊撃隊士が応戦する。脱出の際に第一軍の隊士4名が城付近で戦死、石垣山で佐山清五郎が小田原藩兵に射殺された。
湯本村に戻った伊庭は湯本茶屋を本陣として、入生田・山崎に兵を置き、強襲に供えて上り坂に土俵を4、5尺積んで砲塁を築く。彼らの陣地は小田原方面よりも高く位置し地の利があった。

追討軍は新政府側の4藩からなる総督府軍二千人と小田原藩兵千人の大軍であったとされ、はじめ総督府軍は背後からの監視についていた。
小田原藩大砲方は加藤丈之助らが早川方面・仰徳隊が入生田の二隊に分かれて進む。

26日の朝、伊庭率いる第二軍遊撃隊と二番隊元駿府藩兵、第一軍一番隊元勝山藩兵・二番隊元前橋藩兵ら旧幕脱兵軍先鋒隊へ砲撃が開始された。
山と早川に挟まれた街道を進む小田原本隊を、遊撃隊らが丘の上から撃ちおろし、木立の中や民家に身を隠して側面からも狙撃する。
小田原兵が数で優位であっても押されているのを見ると、控えていた長・因・津兵が戦闘に加わり激戦となった。

午後になると遊撃隊らは弾丸が尽きて持ちこたえられず早川の対岸早雲寺付近まで退却を決めるや否や、長州軍が抜刀突撃を号令し全隊突撃で襲いかかり山崎の入口で激しい混戦となった。白兵戦となると伊庭は草影から姿を現し3人を斬ったという。

夕刻、負傷兵を助けるために街道へ出た伊庭が腰に被弾し、長州兵と交戦中、深く敵陣に入り込んでいた小田原藩兵高橋藤太郎(鏡心一刀流とも描写される)を味方と誤認して左手首を斬られ、即座に伊庭の従者の坂田(坂本)が高橋の顔面に銃を向けて2間離れた街道まで撃ち飛ばした。(伊庭が右手で斬り伏せたとも伝わる)

伊庭八郎奮戦図
大蘇芳年(月岡芳年)『競勢醉虎傅』伊塲七郎(伊庭八郎のパロディ)

三枚橋では竹内利平が討死し、山崎駒爪から三枚橋までの数町の間に遺棄された遊撃隊・旧幕臣らの死体は22名であったという。
資料により異なるが小田原藩兵は戦死者8名・負傷者は家老渡辺了叟ら22名。

勝山藩士32人のうち戦死15名・戦傷10名・行方不明2名という壊滅状態。
伊庭の第二軍28名中戦死4名・戦傷5名・行方不明8名を出し、隊長の伊庭が重傷を負った。
第二軍として遊撃隊に加わっていた駿府(静岡)勤番も上野惣兵衛と川辺栄之丞の2名が戦死し、8人が戦傷、二人が行方不明となった。

三枚橋方面 山崎古戦場案内板
▲山崎から三枚橋方面を撮影。右は「箱根戊辰の役」案内板

 

伊豆山中本営で東海諸藩へ協力を煽っていた第四軍総督の林忠崇も箱根に移り関所から各方面の注進を指揮した。
小田原藩兵の別働隊が石垣山より進んで側面から撃とうとし、派遣されていた兵と畠ノ平で戦闘があった。

山崎から脱した遊撃隊らは畑宿や箱根宿に入る。重傷の伊庭も部下の助けで戦線を離脱し深夜0時頃に忠崇旗下の請西藩士が居る峠に到り、忠崇が畑宿に医師を手配させたとみられる。
三島方面の警戒も強まり、旧幕脱兵軍は包囲される形へ追い込まれた。
夜更けに関所へ引き上げた隊士達のうち、遊撃隊は再起を図り東北に転戦することを主張、岡崎藩士らは自決を主張し意見が割れたが、忠崇が戦友の死を無駄にせず再起を願うと決断し、皆はこれに従い箱根撤退が決まった。

追撃は徹底的に行われ、27日には鞍掛山方面の芦川で4人が見付かり2人が射殺され、2人は逃走中に生捕りにされ小田原へ送られた。請西藩の吉田周作と逸見静馬で、後に小田原藩に召し抱えられたという。
伊豆の山中村でも6人が捕らわれ斬殺された。
夜8時頃に箱根日金山東光寺の地蔵堂に2名(広部正邦と秋山荘蔵)が潜んでいるとして捜索、熱海坊を三十数人で囲んで銃撃し、踏み込んで小田原藩兵数人で有無を言わさず刺殺した。

28日に石垣山で大原主馬介と信州の農兵松蔵が捕われ、箱根峠付近で請西軍に小者として加わっていた百姓の平助が生捕りにされた。平助は5、6年後に許されて故郷に帰った。
昼頃に宮城野橋の袂で前田条三郎ら10人が発見され、木賀渓谷まで逃亡し堂ヶ島温泉宿の近江屋に潜伏した。ここで9名が射殺され、1人は米櫃へ隠れて難を逃れた。
近江屋を出た小田原藩兵は仙石原でも2人を討っている。

過酷な掃討を受けながらも熱海へ辿り着いた遊撃隊・旧幕臣兵達は押送船で網代へ出て、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に乗り込み館山へ戻った。

 

三枚橋付近の古写真 現在の三枚橋の上

三枚橋(さんまいばし)付近の古写真と現在の同地
江戸時代後期の三枚橋は長さ22間(約40m)幅1丈(約3m)余の土橋(川に架ける土橋は木製の橋の上面を土で均して歩きやすくしたもの)で、今のように岸をつなぐ高い橋桁の形ではなく、川にだけ架かっていた。
明治時代に岸から伸びた石の堤にかかる木橋となり、写真は明治43年(1910)水害で落橋した後のもので、後に再び写真手前に三枚橋が架けられる。
路の左右に山の峰が幾重も連なりとうとうと早川の水声が響く名勝の地で、かつては橋辺りに茶舗が軒を並べて湯本細工や米饅頭を販売していたという。
現在三枚橋がかかる付近は三枚橋の地名で呼ばれている。

伊庭が負傷した場所は「街道から二間離れた」「松並木の下」との証言がある。
後に忠崇(山崎の戦いには直接参加していない)が描いた伊庭八郎負傷の画では背後から右腕を斬られ、左腕で敵を斬ったとする。
また当事者以外の聞き語りや伝記を元にした講談では三枚橋の「橋の上」で斬られるシーンが主流だが、箱根の役当時とは異なる明治以降に架け変えられた橋をモチーフに描かれたものも多い。

現代の三枚橋 現在の三枚橋2

▲現在の三枚橋
木橋の頃より両岸の幅が狭まり、橋はやや湯本寄りに架かっている。

早川に架かる三枚橋は江戸時代の東海道と湯本路との分岐点にあたり、橋を渡らず温泉場へ向かう道は「湯場道(ゆばみち)」と呼ばれた。
小田原北条氏時代は川幅が広く、中州が2つあり地獄橋・極楽橋・三昧(さんまい)橋の3枚の橋が架かっていて、橋を渡り切ると北条氏の菩提寺早雲寺の総門だった。
早雲寺に駆けこめば犯罪人も罪を免れて極楽橋まで逃げると助かったので、次の橋を「これからは仏三昧に生きよ」という意味で「三昧橋」と名付け、その名が今は「三枚橋」として残ったという。(箱根観光協会の案内文より)

所在地:神奈川県足柄下郡箱根町

幕末の佐貫藩

佐貫城址 佐貫城跡案内板

佐貫城跡の入口
上総国天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市)の地は康正2年(1456)に真里谷武田氏が領有し、城(亀城)を文亀・永正年間(1501~21)に築城したとされます。※文安年間に長尾氏、応永年間に武田氏の築城説有
天文年間(1532~55)に里見氏の居城となり、一時は対岸の北条氏に勢力を後退させられますが、永禄10年(1567)の三舟山合戦で里見義弘方が勝利して子梅王丸が入城します。

天正18年(1590)徳川の支配地となってからは徳川家臣の内藤家長が城主となります。
政長忠興と続いて内藤家は元和8年(1622)に陸奥国磐城平藩(いわきたいら。福島県)へ転封となります。

10月に松平忠重(桜井松平氏)が入りますが寛永10年(1633)に駿河田中城へ転封となり、翌年から佐貫領は幕府天領として幕府代官熊沢佐衛門佐が支配します。

寛永16年(1639)より能見(のみ)松平氏の松平勝隆(寺社奉行兼奏者番)が城主となり、次の重治が貞享元年(1684)に会津若松に幽閉され改易となり、会津藩預かりとなります。領地は代官池田新兵衛、次に平岡三郎佐衛門が支配しました。

元禄3年(1690)に柳沢吉保(よしやす。第5代将軍徳川綱吉に重用され宝永3年に大老格にまで昇進)が佐貫領を与えられ、元禄7年(1694)正月7日に武蔵国川越に移った後は廃城となり、領地は代官川孫右衛門、樋口又兵衛が支配しました。

その後、阿部家初代佐貫藩主となる阿部正鎮(まさたね、因幡守のち民部少輔)が宝永7年(1710)5月に三河国刈谷(かりや。1万6千石)より上総国佐貫へ移封となり、天羽・長柄郡内に1万6千石を領して8月に移り、正徳4年(1714)佐貫城を再興します。
少年藩主であった正鎮は移動の行列には加わらず享保4年(1719)4月4日に佐貫城に入りました。
享保9年(1724)2月に大坂加番となり宝暦元年(1751)11月4日に52歳で逝去。浅草東光院に葬られました。法名は了義院殿即峯玄性大居士。

 

幕末の最後の藩主は、阿部家第8代佐貫藩主の正恒(まさつね、幼名倫三郎)です。
天保10年(1839)9月29日に江戸で阿部家第7代佐貫藩主正身(まさみ、駿河守)の子として出生しました。
※余談ですが佐貫の宮醤油店は天保5年創業です。
正身は天保13年(1842)に池之台大坪山に砲台を築いて海防にも努めました。弘化4年(1847)5月22日に大砲の試放も行っています。

安政元年(1854)7月3日に妾腹の正恒を嫡子とする届出をし、25日に父正身が病気を理由に隠居(元治元年7月3日に「菊山」と号します)、正恒は27日に家督を相続、12月16日に諸大夫・因幡守となりました。
安政2年(1853)5月佐貫へ始めて入部します。
安政6年(1859)8月16日に竹橋御門番、12月1日に江戸城本丸普請に金八百両上納。
文久元年(1861)2月5日に大岡越前守代として大坂加番を仰せつけられ、翌年帰り屋敷替。
文久3年(1863)9月2日に日光御祭礼奉行代を務めました。11月3日には新徴組の1人を佐貫藩が預かっています。
元治元年(1864)7月3日に駿河守に改めました。12月2日に佐貫藩で天狗党の水戸浪士の一部を預かり、負傷者の治療にもあたっています。獄中の水戸浪士の博学な講釈では佐貫藩の藩校「誠道館」にも影響を与えたといいます。

 

慶応4年(1868)の戊辰戦争時には徳川譜代の阿部家家臣は佐幕に傾いていましたが、文久の頃に京・大坂へ赴き情勢を知っていた勤王派の歌人相場助右衛門の説得で藩主は尊王を採りました。
佐幕派の家臣たちは相場の行動を専権犯上の行為と見て相場の排除を企てます。
4月28日午後3時頃、大手下馬先の林藪中に潜んで、清水坂を下って帰宅中の相場を狙撃。胸に被弾した相場は屈せずに傷口を押さえながら抜刀して応戦しますが、手負いの上に多勢が相手、遂に斃れました。
相場の墓は花香谷の安楽寺にあり、近年顕彰碑が建てられました。
加害者の佐幕派藩士31人はその後、忠義からの行いとしてお咎めはありませんでしたが、相場は阿部家からの養子を戻されてお家断絶・一家追放という重い処分を受けました。つらい仕打ちに相場の妻の寿美子は二年後の明治3年に48歳で自害したようです。

続いて佐幕派の家臣達は、木更津に駐屯していた旧幕府脱走の撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい。房州では自ら義軍府と名乗りました)に数十人の援兵を出しました。

閏4月3日に請西藩藩主林忠崇の請西兵と旧幕府親衛隊の遊撃隊が真武根陣屋を出陣し、富津陣屋に協力を強談した際にも、撒兵隊(第四・第五大隊が真里谷駐屯)と佐貫藩兵41人が参加し、共に包囲しています。
佐貫藩でも、その後南下した請西・遊撃隊が訪れた折に金三百両と兵器若干を提供しました。

その頃撒兵隊第一・第二大隊は3・4日に下総国の市川・船橋等で東海道先鋒総督府の軍(新政府側の軍)に敗退し、総督府軍は5月に東の佐倉そして7日には沿岸の上総国に進み五井・姉ヶ崎の撒兵隊第三大隊を破って南下します。
撒兵隊も敗走して士気が落ちた木更津・真里谷駐屯中の佐貫藩兵は8日には撤退しますが、既に林請西兵と遊撃隊軍は6日に佐貫を去った後でした。
もぬけの殻となった木更津を出発した総督府軍が迫ると、佐貫藩は佐貫城を放棄して恭順の意を示します。
14日に入城した総督府軍参謀渡辺清左衛門(大村藩士)は、佐貫藩による富津陣屋襲撃と、先に新政府が佐貫藩に官軍を援け賊徒の警戒を命じていたにも関わらず主従が城を放棄し空にしたことを咎めます。
午後に藩主正恒は城郭と武器弾薬を明け渡し自らは花ヶ谷村(花香谷)の勝隆寺に籠居となりました。
翌日総督府軍は引き揚げ、城郭と領土は佐倉藩の管理下に置かれました。

5月18日に貫義隊が佐貫城を夜襲し、佐倉藩士の小谷金十郎・三浦蔵司が戦死しました。三宝寺に二人の墓があります。
25日に正恒は佐倉藩と協力して賊徒を追討することを贖罪として総督府へ願い出ますが、聞き入れられませんでした。
7月11日に花ヶ谷村の円龍寺で謹慎中の父が50歳で死去。同村の勝隆寺に葬られました。法名は大成院殿光誉正身菊山大居士。

10月7日に藩主正恒の謹慎が許され、明治2年(1869)6月17日に版籍奉還、22日に正恒は佐貫藩知事に任じられます。
明治4年(1871年)5月に佐貫城は廃城となりました。6月22日に東京の外桜田邸の引渡しを命じられ8月8日に引渡。7月15日に正恒は廃藩置県で藩知事を免職され、華族令によって子爵に叙せられました。
明治32年(1899)に従三位に叙されますが、10月6日に死去。享年61歳。勝隆寺に葬られました。

勝隆寺佐貫藩主阿部家の墓所 佐貫城主阿部家累代の墓側面

勝隆寺佐貫城主阿部家累代の墓(八代阿部正身・九代正恒・十代正敬家族)
※奥の正身・正恒の墓は別途紹介します

佐貫城址の様子

佐貫城跡の名標には阿部家の家紋、丸の内右重鷹羽(丸に違い鷹羽)
戦国(里見・北条)時代~の佐貫城は後々別途記事にします。
幕末についても、もう少し佐貫藩側に立った視点で調べてみたいところです。

所在地:千葉県富津市佐貫字城跡1217-1他

三宝寺[1]-勝山藩士福井小左衛門と楯石作之丞の墓

三宝寺山門 三宝寺

瑞龍山三寶寺山門と本堂
三宝寺は貞譽祖閑が永禄年間に開山、天正6年(1578)5月20日にに戦国大名の里見義弘が没し、嫡男義賴が菩提のため義弘の法名「瑞龍山」を号して創建したとされます。
現在の富津市佐貫にあり、本寺は千葉市の浄土宗鎮西派竜沢山大巌寺(だいがんじ)です。

境内に、幕末の戊辰戦争の際に三宝寺に新政府軍の屯所が置かれており、林忠崇請西藩兵・旧幕府遊撃隊にと共に箱根で戦って生還した勝山藩の19名が差し出され、地蔵堂に監禁されています。
加担した首謀者として、勝山藩の罪を贖うために慶応4年(1868)6月12日に三宝寺で切腹した福井小左衛門と楯石作之丞の墓が有ります。

福井小左衛門と楯石作之丞墓

福井小左衛門と楯石作之丞の墓
左が福井「超善院忠覺理傳居士」・右が楯石「月崇院忠岳清慧居士」
共に「慶応四辰年六月十二日」と側面に刻まれています。
加知山藩(勝山藩から改称)は、永代月牌料としてそれぞれに金五円ずつ供えました。

勝山藩大目付の福井は禄高五十石の上級藩士で、この時27才、独身でした。
楯石は禄高六石吟味役から指令司となった下級将校で、この時35才、志うという4才の娘がいました。
介錯人は平井国宝といわれています。

 

三宝寺は明治31年(1898)から無住でしたが45年(1912)に第十八世晃譽大仙上人が就き、大正10年(1921)1月13日に花香谷の勝隆寺を合併、寺号を「三宝山 勝隆寺」と改称して、現在の三宝寺の地に本堂を再建(震災後にも建直し)しました。

花香谷の勝隆寺は浄土宗鎮西派に属し京都知恩院の末派で、天正18年(1590)に佐貫城主の内藤家長が甥の三州松応寺の演譽馨香を招いて開山しました。
慶長5年(1600)8月1日、関ヶ原の戦いの前に伏見で家長が戦死し、遺髪を持ち帰った家臣達がこの寺で殉死しました。子の正長が父の菩提のため家永の法名をとって花香山慶相「善昌寺」としたようです。
寛永16年(1639)に能見松平氏の松平勝隆が佐貫藩主となり善昌寺を菩提寺として覺雲山本誓院「勝隆寺」としました。

昭和28年(1953)には、勝隆寺の末寺の薬王山光源寺(佐貫町亀田)も併合しました。
現在の山門は元の「瑞龍山 三宝寺」になっています。

※三宝寺には戊辰戦争の最中に佐倉藩が佐貫藩を預かっていた折に戦死した佐倉藩士2名の墓があり、佐貫城主の墓は元の勝隆寺(富津市花香谷、染川を渡った先)にあります。

瑞龍山三寶寺
所在地:千葉県富津市佐貫106

参考サイト
鋸南町:http://www.town.kyonan.chiba.jp/