上総・安房の歴史」カテゴリーアーカイブ

上総・安房(千葉県の中~南部)地域の歴史

麹町教授所学頭・元飯野藩の儒者服部栗斎

服部栗斎(はっとりりっさい)
名は保命、字は佑甫、通称は善蔵
享保21年(1736)4月27日飯野藩領摂津国豊島(てしま)郡浜村で飯野藩上方領代官の服部梅圃の四男として生まれる。母は上月(こうづき)氏。※頼春水『師友志』では小曽根の人とする
寛延2年(1749)14歳の頃に懐徳書院(懐徳堂)の五井蘭洲(ごいらんしゅう)に儒学を学び、特に中井履軒(なかいりけん。中井竹山の弟)と親交を深めた。

 
▲懐徳堂(かいとくどう)跡地と懐徳堂舊址碑

宝暦5年(1755)11月12日に父梅圃が70歳で死去。父の跡は兄が継ぐが、善蔵は兄とは別に俸を受けて飯野藩江戸藩邸に在り、飯野侯(保科正富)世子(保科秀太郎、後の正率であろう)の伴讀(伴読。貴人に書を読み聞かせる教師)役に抜擢される。
後に病で役を辞して、浪人儒者として静養の傍ら学を深めた。

江戸では村士玉水(すぐりぎょくすい。名は宗章、号は一斎。通称行蔵または幸蔵)に学ぶ。玉水の家塾「信古堂」は駿河台下の水道橋の辺に在った。
玉水によると佑甫(善蔵)は善く崎門(きもん。山崎闇斎の学統)を学んだという。
師弟の名は「西に久米訂斎と西依成斎あり、東に村士一斎と服部栗斎あり」と言われる程に高まっており、善蔵は尾張侯に招かれ講じて十口糧を由優賜されるなど厚遇を受けた。

安永5年(1776)1月4日、病に罹った玉水は善蔵に後を託し48歳にして死去。
遺言通りに善蔵が信古堂を継ぎ、築地に移る。

天明4年(1784)愛宕下の三斎小路(現在の港区虎ノ門1丁目。三斎は細川忠興のことで細川邸に通じる路から由来)に転居。
高山彦九郎(正之、仲縄)や頼春水ら学者・思想家の日記にも善蔵との交友がみられる。
以下例として寛政元年の高山彦九郎江戸日記より抜粋
十月三日…(略)…赤坂田町壱丁目を出て 愛宕の下三齋小路服部善藏所へ寄りて 子錦中風のことを告ぐ ※佐藤子錦(尚綗)が中風に罹った話をする
六日…(略)…服部善藏今朝予を尋ね来りしよし 出でゝ新大橋を渡りて濱町秋元侯の邸 水心子正秀所に寄る
十一日…(略)…三齋小路服部善藏所に入りて黒沢東蒙を□訪ふ語りて ※11月
二十五日…(略)…服部善藏所へ寄りし時に壹分を借りる事あり ※12月。彦九郎が金銭を借用

寛政3年(1791)10月、陸奥白河藩藩主松平定信の支援もあり、幕府により麹町善國寺谷の服部織之助の地590坪の内250坪を貸渡され麹町教授所を設立。善蔵が学頭となった。
『御府内往還其外沿革図書』の「寛政四子年之形」には善国寺跡傍、善国寺谷通東側2軒目に「服部善蔵拝借地」が書かれている。※それ以前は小川左兵衛。
麹渓書院(郷土史では麹渓塾、麹渓精舎などもある)を称し、昌平坂学問所の付属の役割をし学生を広く受け入れ進学生徒を排出する。麹は麹町、渓は善國寺谷の谷であろう。

 
▲善国寺谷・麹町教授所跡を望む

寛政4年(1792)7月21日巳刻(午前10時頃)麻布笄橋より出火した火災の飛火により学問所借地が類焼。
9月に林大学頭(林羅山から続く儒家当主。幕府儒官)・柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)ら昌平黌の教授達により善蔵が火事の手当金50両を受取ることが勘定奉行に認められた。(『御触書』)

 
名刹鎮護山善国寺碑と善国寺坂上
坂の上に鎮護山善国寺があったことから善国寺坂と名付けられ、坂の下は善国寺谷や鈴振坂と呼ばれた。善国寺は寛政10年(1798)の火事で焼失して牛込神楽坂替地に移転。跡地は火除地に召上られた。

寛政5年(1793)10月、病死した兄の住む借地を返納。12月永続手当として平河町に165坪の町屋舗を賜り、その税を学校の費用に充てたという。

 
▲中坂から町屋敷跡を望む。案内板の古地図の現在地の箇所に「教授所附町屋敷

寛政8年(1796)5月に善蔵は病を患い、12月に教授を辞した。
善蔵の正妻(大橋氏)に子はなく、庶子のうち男子は順に長太郎、順ニ郎、彌三郎。
長太郎は夭折し、教授を継がせる子の順次郎は幼年(この時8才)であったため門人に托した。
文化5年の絵図には「服部順次郎拝借地」となっている。

寛政12年(1800)5月11日善蔵死去。65歳(66とも)。麻布山善福寺に葬る。
善成院喜道居士
(現在、磨耗の進んだ「栗齋服部先生之墓」は立替により墓前灯篭の先に置かれ、中央に新しく関係者子孫の方により栗齋服部先生之墓が建立されている。墓所は撮影不可)
善蔵の門下として頼春水、頼杏坪(らいきょうへい。芸藩)、櫻田虎門、秦新村、都ツ築訓次、宮原龍山、宮原桐月、池田貞助、集堂三五郎ら多くの学者を輩出した。

 

■その後の麹町教授所
文化4年(1807)2月、順次郎が教授を継いだ。
文化9年(1812)6月、順次郎は周囲の期待に沿わず禁固罪を蒙り、町屋敷を取上げ年々金30両ずつ地代金の内より被下とした。
文化12年(1815)順次郎が病死。弟もこの時既に亡くなっており、順次郎の子も幼く病弱であったため養子を願うが叶わず麹町教授所の後継が途絶えてしまった。
文化13年(1816)12月に教授地は学問所(昌平黌)の持地となる。

天保13年(1842)2月に林大学頭が摂津守へ教授所再設を進達。(麹町教授所御再建一件帳)
5月15日に松平謹次郎を教授方に任命し、6月6日麹町教授所の再開を布令。
松平謹次郎は、御所院番本多日向守組松平兵庫助の弟。この時38歳。
文久元年の絵図には「松平謹次郎 学問所持地」とあり、謹次郎は元治元年(1864)まで教授を勤めた。

その後も御牧又一郎、大島文二郎、大久保祐介(敢斎)他一人を順に教授とし継続。
明治元年7月20日に鎮守府により接収される。その後敢斎に預けられ8月23日教授再開を東京府に命じられ11月10日敢斎は大得業生となる。12月27日学制改革により免職。

尚、信古堂は玉水の同門下で善蔵の親友である岡田恕が善蔵の意志を継いで経営に努めた。

 
▲平河天満宮と麻布山善福寺(墓所は撮影禁止)
平河天満宮(平河天神)
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両德川井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
 現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の御由緒書より)

・「平河天満宮」所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
・「懐徳堂旧址の碑」所在地:大阪府大阪市中央区今橋3丁目5-12 日本生命本店

飯野藩上方領代官服部梅圃と上月氏の墓

服部梅圃(ばいほ。篤叟)
名は行命、通称は與右衛門、号は梅圃。
服部氏は播磨国加東郡穂積村(兵庫県加東市)の名族で、與右衛門の父である服部道存飯野藩領の浜村(大阪府豊中市)に移住したとされる。母は前川氏。

父を継いだ與右衛門は飯野藩上方領代官となり、40年勤続。
また京の三宅尚齋(みやけしょうさい)の門下となり儒学を修めた。
梅圃は職務・学問共に徳高く、摂州内で令名をはせたという。
宝暦5年(1755)11月12日に死去。觀音寺の服部家の墓所に葬る。70歳。

 

 

貞粛媪上月氏之墓
服部梅圃の妻の墓。
上月(こうづき)氏の娘で、子は四男三女を生む。長男與一郎は若くして亡くなる。次男の藤五郎、三男の源八郎、末子善蔵共に学問に秀で、善蔵こと服部栗齋は江戸の麹町教授所の学長となった。
明和7年(1770)に亡くなり、梅圃の墓の側に手厚く葬られる。

 

 

上月氏も服部氏と同じく播磨の出で、飯野藩上方領の代官を勤めた。
現在の大阪府豊能(とよの)地域の上月氏は、赤松氏遺臣の中村氏らと共に播磨(兵庫県)から旧岡山村(大阪府豊中市)に移住したとされる。

 

応頂山西琳寺中村重直之墓
浄土真宗西本願寺末。本尊阿弥陀仏。
中村治右衛門重直は本願寺第12代宗主准如(じゅんにょ。顕如上人の3男)の弟子となり、宗善と法名し寛永5年(1628)に岡山村辻野に西琳(さいりん)寺を創立した。

中村家の墓域には上月氏の墓碑も点在している。

上月元右衛門範存の墓碑
岡山村の出で保科侯に仕え、濱村で安永9年(1780)に55歳で病没、郷里岡山村に葬った旨が刻まれている。

 

上月氏は村上源氏流赤松氏の支族で、『上月系図』では赤松頼則の三男の赤松右馬充則景から起きる。則景は建久2年(1191)7月4日に西播磨の佐用荘園の地頭となった。
則景の子の上月刑部少輔景盛(上月次郎)が上月荘(佐用郡上月村)に住む。
建武元年(1334)上月山城築城。景盛の子の上月刑部少輔景忠が居城としたとする。
※建武3年(1336)11月築城、景盛の子上月三郎盛忠の居城、他異説あり。
嘉永年間に上月氏の宗家は絶え、永禄年間に傍流上月十郎が浮田の家臣として上月城を守る。

中村氏も上月氏と同様に赤松氏族で、赤松三十六家のうち御一族衆に上月氏、當方御年寄に中村氏。
『播磨鑑』では加東郡の服部氏祖の郷里近くに在る金鑵城(金釣瓶城、かなつるべ)城主の孫中村六郎左衛門尉景長を祖とする。
景長は赤松侍従季房の六世の孫。左馬助光景、弾正少弼正景と子孫が続く。

同じく加東郡の堀殿城(河合城の支城小堀城)は、上月伊予守盛時(系図の盛忠と異なるが、景盛の嫡子とする)の居城として「上月城」と呼ばれた。

観応3年(1352)の光明寺合戦で大将赤松刑部少輔正資の侍として上月四郎、上月五郎、中村駿河守らが集った。
嘉吉元年(1441)8月に赤松兵部少輔祐則(祐之)の岩屋城が、兄の赤松満祐の反逆により細川勢に襲われ、上月・中村氏が岩屋城防衛に加わり勝利した。
長禄元年(1457)12月2日夜に中村弾正忠貞友ら中村一族や上月左近将監満吉ほか赤松家の遺臣達が吉野の南方両宮を襲撃し、中村貞友と上月満吉は二宮の首級を討ち取った件(長禄の変)の注進状(文明10年8月)が『上月記』に記されている。

────摂播にはいくつかの上月、中村氏(清和源氏多田氏族等)が存在する中、碑文等から推測すると共に岡山村に移ったのは上記の服部氏の故郷近辺を領していた東播磨の上月、中村氏ではないかと思われる。
※浜村陣屋の飯野藩士については模索中。時間をかけて調べていきます

 

▲西琳寺門前の天保2年(1831)建立のおかげ燈篭に「岡山村」
岡山村は寛永年間船越駿河守から明治まで代々旗本船越氏が領した。

西琳寺所在地:大阪府豊中市曽根東町5-4-5

大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取、箱館へ従軍

  
▲『年寄部屋日記』の押収された三千太郎の羽織の箇所と、旭川にある三千太郎の墓

 

大河内三千太郎藤原幸昌(みちたろう、道太郎)略歴前半

■江戸で剣術修習
弘化3年(1846)10月15日に上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)で大河内一郎の長男として生まれる。
安政元年(1854)1月に幼くして江戸で心形刀流伊庭軍兵衛(伊庭八郎や想太郎の父)の門に入り、数年修行を積む。

■木更津の大河内道場で指導
木更津に帰郷後は八幡町の八劔(やつるぎ)八幡神社境内の不二心流道場で、神主八劔勝秀の長男の勝壽(かつなが。嘉永元年生)と共に剣を教えた。
文久3年(1863)7月17日に父一郎が亡くなり持宝院に葬る
慶応元年(1865)6月地曳新兵衛の娘なをを妻に娶る。7月に挙式。
慶応2年(1866)5月9日になをが亡くなり持宝院に葬る

■戊辰戦争勃発、義勇隊を率いて撒兵隊に協力
慶応4年(1868)4月に木更津に上陸した撒兵隊に協力し大河内阿三郎不二心流四代目)が義勇隊長となって島屋一門200余人を率いて、三千太郎が隊を指揮したという。
閏4月7日に五井宿・姉ヶ崎宿の合戦で撒兵隊が敗退。三千太郎は八幡宿の民家に潜伏し、千葉を経て、下総国の新政府恭順藩の捜査網にかかる危険をかい潜って北行した。
……一方、大河内の腕利きの者達が出払っている木更津村へは大河内総三郎(不二心流三代目)が潜行した。木更津に官軍が南下する情報が入ると、八劔勝秀は戦に備えて刀を差し、火縄銃の心得がある勝壽を撒兵隊分隊長に紹介している。

5月21日に大総督は佐倉藩(藩主に謹慎が命じられた佐貫藩にかわり佐貫城を管理)に富津陣屋の前橋藩と協力し房総地方の賊徒討伐を命じた。
しかし皆銚子へ逃れた後であり、佐倉藩の報告によると匝瑳郡西小笹村の喜左衛門宅(大河内本家)も佐倉藩の捜査が入ったが、18日に佐貫城を襲った賊徒として「上総国本納村元農具鍛冶職平右衛門」を誅したのみであった。
武具や被服等押収品の一つに「白絹紋附羽織 壱枚 但襟ニ義勇隊頭取大河内三千太郎藤原幸昌花印」とあり、本家に三千太郎が立ち寄ったか、形見を本家に届けるよう平右衛門に羽織を托したのだろうか。(『年寄部屋日記』)
また、この後の8月に美香保丸の難破に遭った伊庭八郎らが「伊庭軍兵衛の門弟であった大河内一郎」を頼ろうと木更津に向かうが官軍に抗って捕縛されたことを聞いている。
三千太郎も若い頃に伊庭道場に入ったとされるが父の大河内一郎は戊辰前に亡くなっており、伝聞ゆえか情報の食い違いがある。

■箱館戦争に従軍
明治2年(1869)4月11日に松前より江差に出陣。『遊撃隊起終録』には縫殿三郎(不二心流二代目の幸安とは別人)が抜刀して敵を切り伏せて進み、雨流石(雨垂石村)で砲撃の前に散った様が記されている。三千太郎も側で戦ったであろう。討死9名負傷14人という犠牲は大きかったが官軍を敗走させることができた。
『元徳川藩遊撃隊勇士年齢』に「上総浪人 大河内三千太郎 二十四才」の記録がある。
『戊辰戦争参加義士人名簿』に「第一軍一番隊(徳川脱走遊撃隊・隊長人見勝太郎士官 大河内縫殿三郎 大河内三千太郎」再編成後は「二番小隊(頭取沢録三郎)右半隊 大河内三千太郎」とあり、三千太郎が遊撃隊に加わったことが分かる。

5月17日に総裁の榎本武揚らが降伏し18日に五稜郭が引渡され箱館の寺院に入り、21日に運送船で津軽青森に送られ6月9日弘前城下に移る。
三千太郎は関昌寺に沢録三郎ら86人と謹慎となった。

■赦免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わる
明治3年(1870)7月に下谷車坂町の道場で榊原鍵吉(さかきばらけんきち)に直心影流の極意皆伝を授かる。
明治5年(1872)秋、みや(みと)と入籍。
明治12年(1879)8月25日上野公園で催された、明治天皇の上野行幸における「槍剣天覧試合」に榊原一門が出場した。当時の新聞に剣術で出場した三千太郎の名もみえる。

■北海道で集治監の撃剣教授となる
明治15年(1882)7月に空知集治監に招致され撃剣教授を勤務。
明治17年(1884)7月に役を辞任。精勤を賞して金二十円が下賜された。
※斎藤建二著『樺戸監獄と旭川』や長谷川吉次『北海道剣道史』旭川剣道連盟編集委員会『旭川剣道史追加資料』等では樺戸集治監とするが、樺戸での一次資料が確認できず、調査中。
なお樺戸集治監の演武場の山岡鉄舟の筆による「修武館」の額は明治15年に書かれたもので、翌16年から19年まで神道無念流の杉村義衛(新撰組の永倉新八)が剣道の指南番となった。


■東京に戻り警視庁撃剣世話掛となる
明治19年(1886)9月28日、北海道の市来知(現三笠市)空知監獄署(集治監より一時改称)典獄の渡邊惟精(これあき)に手紙を送る。(『渡邊惟精日記』)
明治20年(1887)2月3日、東京に帰京中の渡邊典獄の元に三千太郎が来訪。
3月に警視庁より撃剣世話掛に任命される。
5月に甲部撃剣教授となる。
8月29日東京神田黒門町19番地に在った三千太郎から渡邊典獄に手紙が届き返書。

■空知監獄署の看守長代理となる
明治22年(1889)再び北海道へ渡り、弟の伊藤常盤之助と同じく空知監に勤め三千太郎は看守長代理となる。
 
空知集治監跡地と空知典獄渡辺惟精の碑

大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となるへ続く

■■不二心流と木更津「島屋」■■

空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

前列右から2番目久代樫郎看守長の子孫所持の写真「明治廿四年二月十一日 空知集治監構内ニ寫之」「千葉縣 伊藤常盤之助」裏書有り

明治24年に空知集治監構内で撮影された看守長達の写真
後列左から2人目が伊藤常盤之助(いとうときわのすけ)

常盤助は上総国木更津村(現千葉県木更津市)南町紺屋島屋当主・幸左衛門の次男として生まれた。大河内三千太郎の一か月後か)
文久3年(1863)7月17日大河内一郎(三千太郎の父)が死去。
慶応4年(1864)の戊辰戦争では4月に不二心流島屋道場の大河内兄弟と門下の町人達が義勇隊を組織して幕府撒兵隊に協力し閏4五井・養老川の戦いに敗退、戦死または本家の西小笹等へ走り散り散りとなった。
島屋は協力した嫌疑をかけられ、8月24日に一郎のあとを継いで最後の南町島屋当主となったと思われる幸左衛門が亡くなっている。後に南町島屋の土地は明治政府に接収された。

西小笹の本家大河内喜左衛門が明治2年伊藤と改め、常盤助ら木更津の幸左衛門一族も伊藤とした。(心形刀流伊庭軍兵衛に入門し伊庭八郎とも知己であろう三千太郎は彼と同様に箱館まで従軍し戦った。放免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わり、大河内のままである)
常盤助は妻さくと共に木更津寺町(後の伊藤染店・志摩屋の場所)で暮らす。

明治8年(1875)3月の寺町火事で家屋が類焼。それからは宮本栄一郎著『上総義軍』に「ときわのすけ」が幸左衛門の後妻きた(鈴木家娘)を伴い北海道に渡ったという聞き語りがある。
北海道に渡った常盤之助は明治15年(1882)石狩国空知郡市来知村(いちきしり。現三笠市)に開庁した空知集治監(そらちしゅうじかん、しゅうちかん。刑務所)に監獄官として勤めた。
明治24年(1891)2月11日に空知集治監構内での写真に写っており、5年間勤めあげた看守は試験を経て看守長に任用されること(明治23年公布。後に短縮)から、三千太郎と同時期の22年頃より空知監の看守であったと思われる。
そしてキリスト教に感化を受け、この年に空知監に赴任した教誨師(きょうかいし)留岡幸助(とめおかこうすけ)のもとで11月29日の夜に伊藤松太郎(後に常盤之助の家業を継ぐ)も洗礼を施されている。
明治26年夏に市来知の教会堂を岩見沢へ移転する臨時集金に常盤之助は50銭を寄付。8月28日に50銭寄付。(『留岡幸助日記』)
明治27年(1894)1月常盤助が空知分監看守部長に任命される。
3月北海道集治監判任官十級俸の看守長となる。
明治28年(1895)1月から判任官九級俸となり、30年頃には市来知村に転籍を済ませて定住していた。

 

▲1882年~市来知村近傍鳥瞰図と空知集治監典獄官舎レンガ煙突(鳥瞰図北西)
典獄(刑務所長)や集治監を訪れた要人達が宿泊する官舎跡に現存する高さ約8mの煙突。明治23年に官舎が改築された時のもので囚人達によって造られた。三笠市指定文化財。※鳥瞰図は三笠市立博物館展示パネルより

 

明治34年(1901)に空知集治監が廃監となり、三千太郎が上川尚武館の館長も務める旭川町へ移住した。
明治35年(1902)四條通七丁目右十號に転籍手続きを終え、屋号紋『』の伊藤海産問屋(鮮魚・干魚乾物商)を営んだ。
松太郎を店主として大正時代には師団通りの発展と共に栄えた。
常盤之助は家族と共に日本組合派旭川基督教会の会員として大正時代の名簿にも住所と名前が確認できる。

同じ教会員として、映画化もされた三浦綾子著『塩狩峠』の主人公永野信夫のモデル長野政雄(ながのまさお)と伊藤家が親交があったことが中島啓幸著『塩狩峠、愛と死の記録』に紹介されている。
明治42年(1909)2月27日、旭川鉄道運輸事務所書記の長野政雄は名寄に出張へ行く途中で伊藤海鮮魚店に立ち寄り、友である伊藤光子に挨拶をしたという。
翌28日夕方に長野は名寄駅発4両編成の汽車の最後尾に乗る。塩狩峠の頂上付近で最後尾の連結が外れ、乗客22人を乗せたまま分離車両が峠を逆行して滑り加速していく……脱線転覆を恐れる乗客を鉄道員の長野が落ち着かせデッキに飛び出してハンドブレーキを回し、大惨事を免れたが、乗客達の命を救った長野は車両の下敷きとなり29歳の若さで殉職。常盤之助が住む伊藤家が、旭川の街で長野政雄が最後に訪れた場所となったのである。

 
▲現在の旭川の伊藤海鮮魚店跡付近

■■不二心流と木更津「島屋」■■

 

■空知集治監
 内務省は郁春別(いくしゅんべつ)川筋に沿い、東はポンベツ川・西は石狩川を境とする約10万6千haを直轄地として開拓使から引渡しを受けた。空知集治監は監獄としての役割の他、開拓・行政の責任も担い、道内の集治監のなかで最大の約三千人もの囚人が収監されていた。
 空知集治監創設時の建物は、獄舎2棟(各247坪)、事務所1棟、ほか浴室・死体室・米搗場・米庫・調度庫・小買物渡場・物置・理髪所・菜焚所・塩味噌設置所・賄所・門番所・炊事場各1棟・合宿所2棟・交番所4棟・高見張所2棟・官舎7棟等。空知集治監の建築経費は10万円(現在の約4億5千万円)と見積もられている。獄舎は直径1尺(約30cm)程のトドマツ丸太を組合せ、当時のロシア式建築による堅牢な構造。本監構内の敷地はおよそ12町余(約12万㎡)で、外側に張巡らせた黒塀の三方の隅に脱走に備えた高見張所が設けられた。

明治12年(1879)12月石狩国空知郡幌内炭礦(ほろないたんこう。炭鉱)開坑。
明治13年(1880)10月石狩国樺戸郡須部都(後の月形村)に樺戸集治監を設置。
明治14年(1881)9月3日内務省直轄樺戸集治監開庁式。
明治15年(1882)2月に開拓使が廃止し札幌・函館・根室3県を置く。
札幌県下石狩国空知郡市来知村が開村。人口908人・戸数87戸。村名は“それ[熊]の足跡がたくさんある所”を意味するアイヌ語の地イ・チャル・ウシからとり、開墾前は原野であった。
6月15日市来知に空知集治監を設置し7月5日開庁。。反政府思想の革命運動に参加・扇動した国事犯の受入れや、道路開削・炭鉱採掘の囚人労働力の需要が見込まれた。9月に空知集治監幌内外役所を設置。11月13日に幌内鉄道が開通。
明治16年(1883)空知集治監に教誨師が置かれる。7月に囚人による幌内炭礦の採掘が開始。
囚人は周辺の土地開拓を進め、炭鉱従事の他、5月~10月まで農業、11月~4月まで山林の材木または監内の工芸を課役とした。
明治17年(1884)4月17日、樺戸・空知両集治監の看守に銃器の携帯を許され、短騎兵銃50挺借用。
明治18年(1885)11月10日釧路集治監開庁。
明治19年(1886)1月26日に北海道庁を置き3県を廃止、空知集治監は北海道庁管轄に入る。
5月、市来知村から上川郡忠別太に至る上川仮道の開墾(8月竣工)
この年、市来知に札幌基督教会系の講義所が設立される。
明治20年(1887)1月4日、樺戸・空知・釧路の集治監を監獄署に改称。4月に上川仮道の改築。
7月28日新島襄・八重夫妻が空知監獄を訪れキリスト教について講話する。
明治21年(1888)囚人労役により市来知水道完成。
明治22年(1889)上川道路改築。
明治23年(1890)7月22日、樺戸・空知・釧路の監獄署を集治監の名称に戻す。
明治24年(1891)7月30日北海道集治監官制が制定され樺戸に本監、空知・釧路・網走に分監を置くとし、北海道集治監空知分監となる。
明治25年(1892)炭鉱労役が軽減。8月13日自由党総理の板垣退助らが空知分監を訪れ獄中の同志を慰問。
明治27年(1894)空知監幌内外役所を廃し、採炭事業の囚人使役を廃止。
明治29年(1896)4月1日に拓殖務省が置かれ、空知分監は拓殖務省へ移管。
明治30年(1897)9月2日拓殖務省官制廃止。空知分監は内務省直轄に戻る。
明治33年(1900)4月司法省官制が改正し、監獄局が司法省管下となる。
明治34年(1901)9月30日に空知分監廃止。

「空知集治監典獄官舎レンガ煙突」所在地:北海道三笠市本郷町205-23

忠孝の士・請西藩士諏訪数馬

 

▲請西藩士諏訪数馬の墓
数馬が館山で没し埋葬された来福寺から諏訪家の墓所に移した墓碑。郷里で諏訪家が建てたであろう奥の古い先祖の墓石にも数馬の戒名(恵光院善忠元鑑居士)がみえる。
※本家の親戚の方に伺いを立て墓参しました。現在は個人管理下のため詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

『諏訪数馬肖像并略伝』『忠考』(林忠崇の筆・明治30年)


林忠崇筆『諏訪一馬肖像並略伝』
 諏訪頼母ノ孫ナリ。幼ニシテ父ヲ喪ヒ祖父頼母ニ養ハル。性従順ニシテ謹直ナリ。幼ニシテ先藩主の側ニアリ。長シテ近侍トナル。身多病ニシテ武技ニ耐ヘズ。一藩擯斥シテ遊行ノ士トナス。戊辰ノ年久シク病床ニアリ。余出陣スルにアタリ、ソノ病躰ヲ思ヒ随行ヲ許サズ。数馬従軍ヲ請フコト再三終ニ強ルヲ以テ之ヲ許ス。従テ、房州館山ニ至る。身躰疲労シテ行歩最モ艱ナリ。自ラ思ヘラク、身躰斯ノ如シ。終ニ素志ヲ達スル能ハジト剱ニ伏シテ自殺ス。今ニ至ルマテ墓前ニ参詣スルモノ不絶。抑々其大和魂ニ感動スルカ故ナリ。嗚呼始アリ終アルモノ少シ。世人ソレ之ヲ亀鑑トセヨ。
 明治三十年十月偶数馬遺族ノ家に寓シ感慨ニ耐ヘズ依テソノ行為ヲ略記シ、併テ当時ノ像ヲ画シ以テ記念トス。
「散りてのみふかき香りのいまもなほ のこるや花のなさけなるらむ」
旧請西藩主従五位林昌之助忠崇入道一夢

(画は木更市津郷土資料館フライヤー・略伝文章は林勲『林侯家関係資料集』より引用)

 

■諏訪数馬
天保6年(1835)貝渕藩諏訪幸右衛門(兵平。地曳家から養子。林忠英忠旭の二代に仕える)と母りか(当時34歳)の間に生まれる。
嘉永2年(1849)9月4日に父を亡くし、祖父頼母(林忠英に仕え貝渕陣屋の陣代を務めた)に養われる。
幼くして請西藩主林忠交の近侍となる。
江戸浜町の請西藩邸の対岸、本所松井町(現千歳町)の中西福太郎の娘せい(数馬より4歳上)を妻とした。
文久元年(1861)頃に息子の篤太郎誕生。
慶応3年(1867)6月に忠交が伏見で亡くなると忠崇に仕えるが、数馬は生まれつき病弱で満足に仕えられないことを憂いていた。

慶応4年(1868)戊辰閏4月の忠崇決起の際、数馬は病床(労咳とされる)にあり従軍を認められなかったが、再三請いた末に同行を許された。
8日に房州館山に着き長須賀の来福寺付近に宿陣。伊庭八郎が雨中に小船で軍艦大江丸に漕ぎ着け伊豆真鶴への出航を依頼し、豪雨のため一泊し乗船を10日とした。
宿所で考え耽る時間を過ごしたのだろう数馬は、歩行すらままならず、これ以上は主に迷惑をかけるとして、その命を以って徳川と林家にかける忠義の覚悟を表明しようと決意する。
9日朝6時台、数馬は遺状を懐に入れ、剣に伏して自害した。33歳。
来福寺に埋葬された。恵光院善忠元鑑居士。

長須賀村宿陣中卯ノ下刻家来諏訪数馬自殺ス 近来多病ニシテ久ク勤役セス空シク録ヲ食ムコトヲ嘆キ請ヒテ随従シ此處マテ到リシモ歩行難儀ニシテ従行難ヲ憂ヒ死シテ素志ヲ表セント此ニ及フ
時三十歳同地長須賀来福寺ニ埋ム 『林昌之助戊辰出陣記』
 ※年齢は誤りか

 

長須賀薬師 海富山医王院来福寺
かつては来福寺の境内に数馬の墓があった。
数馬の子の篤太郎は明治6年(1873)2月22日に13歳で早世したため大井村の伊丹家から嶋治を諏訪家の養女さくの婿に迎え、明治32年(1899)に千葉県士族に編入認許される。
三代の孫にあたり市原市議会議員を務めた諏訪孝(たかし)氏が郷里の諏訪家の墓所を整える際に来福寺より数馬の墓を移し迎えた。没した館山の地で忠孝の士として拝まれていた長い年月を経ての帰郷となった。
来福寺所在地:千葉県館山市長須賀46-1

また数馬の父親の実父、大田村の惣名地曳新兵衛の家から大河内三千太郎なおが嫁いでいる。