東京都」カテゴリーアーカイブ

武蔵・江戸の歴史・史蹟

請西藩林家由来の江戸本所林町

▲元禄六年『江戸大絵図』に林信濃の名。「二之橋通り」に面し、北に堅川(たてかわ)、南に彌勒寺(みろくじ)や五間堀が在ります。

本所林町(ほんじょはやしちょう)
貞享2年(1685)収公された代地として元禄元年(1688)に浅草瓦町等の商戸を移し始めて林町とし、明治44年まで「本所林町」の地名で呼ばれていました。
この「林」の町名は一丁目南裏通りの幕臣林藤四郎の居住地から採ったことが『町方書上』等に記されています。

請西藩林家の祖である小笠原光政から数えて9代目の林信濃守忠隆は、大番頭に出世して貞享3年(1686)には3千石の大身旗本となりました。
西ノ久保(港区虎ノ門)に屋敷があり、ほど近くの青松寺(港区愛宕)を忠隆の代から菩提寺としています。
そして貞享5年(1688)5月19日、本所へ屋敷を移しました。(『寛政呈譜』)この直後から浅草の一部の住人が移転し、林信濃守邸から名をとって「林町」が起立したのです。

林邸は南・北側55間(約100m)、道に面した東・西側は42間3尺6寸(約77.5m)、坪数2340坪の大名並の広大な敷地で、北は土手になっていました。
その後も林家代々の屋敷として江戸絵図で年代ごとの当主の名前が確認できます。

文化2年(1805)1月12日、14代目の林忠英が大名小路と呼ばれる呉服橋御門内に屋敷を授受され2月5日に移り、文政8年(1825)一万石の大名へと登り詰めました。忠英は請西藩最後の藩主林忠崇の祖父にあたります。

 
▲竪川に架かる二ツ目橋(二之橋)から旧林町一丁目(現立川一丁目)を望む
明治4年 昇齋一景作『東京名所四十八景』本所三ツ目橋より一ツ目遠景(案内板より)
江戸に近い側から一之橋から五之橋が架けられた二つ目の橋で長さ10間(18m)幅3間(4.5m)程ありました。

 
萬徳山聖實院弥勒寺と葛飾北斎『冨嶽三十六景本所立川』
現在、林邸の在った場所は立川(たてかわ)一丁目にあたります。堅川(たてかわ)を分かりやすく「立川」としたのが新しい土地名に採用されました。
林邸の隣に在った弥勒寺(真言宗山城三寶院末派。御府内八十八ヶ所霊場第46番礼所。川上薬師如来)は慶長15年柳原に開山し天和2年(1682)移転。杉山検校こと杉山和一(わいち。綱吉の時代の総検校1610~1694)の墓所として知られています。

 
▲五間堀公園。五間堀は幅五間(約9m)の堀で、かつて弥勒寺の脇から弥勒寺橋が架かっていました。

* * *

林町の呼称がすっかり消えたこの地に建つ「喫茶店ハヤシヤ」さんが唯一といっていい林邸の名残ではないでしょうか。マスターに店名の由来を伺ったところ偶然ではなく、林町に因んてハヤシヤの店名をつけられたそうです。

 
軽いカフェメニューの他にフードセットもあり、どの時間に行っても淹れたて出来たての美味しい飲食物と落ち着ける空間が堪能できる純喫茶です。江戸本所散策の折にはぜひ。

・「喫茶店ハヤシヤ」所在地:東京都墨田区立川1丁目11-1
・「弥勒寺」所在地:東京都墨田区立川1丁目4-13
・「二之橋跡」所在地: 東京都墨田区両国4丁目1
・「五間堀公園(五間堀跡)」所在地:東京都江東区森下2丁目30-7

林家の江戸屋敷
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考資料
・『柳営日次記』
・『戸田茂睡全集』『御當代記
・『寛政重修諸家譜』
・『江戸町方書上』
・東京市市史編纂係『東京案内
・『江戸名所図会
・角川書店『日本地名大辞典
・『江戸大繪圖』『江戸全圖』『本所大繪図』等江戸絵図
他、案内板、リンク先ページ記載の史料等

麹町教授所学頭・元飯野藩の儒者服部栗斎

服部栗斎(はっとりりっさい)
名は保命、字は佑甫、通称は善蔵
享保21年(1736)4月27日飯野藩領摂津国豊島(てしま)郡浜村で飯野藩上方領代官の服部梅圃の四男として生まれる。母は上月(こうづき)氏。※頼春水『師友志』では小曽根の人とする
寛延2年(1749)14歳の頃に懐徳書院(懐徳堂)の五井蘭洲(ごいらんしゅう)に儒学を学び、特に中井履軒(なかいりけん。中井竹山の弟)と親交を深めた。

 
▲懐徳堂(かいとくどう)跡地と懐徳堂舊址碑

宝暦5年(1755)11月12日に父梅圃が70歳で死去。父の跡は兄が継ぐが、善蔵は兄とは別に俸を受けて飯野藩江戸藩邸に在り、飯野侯(保科正富)世子(保科秀太郎、後の正率であろう)の伴讀(伴読。貴人に書を読み聞かせる教師)役に抜擢される。
後に病で役を辞して、浪人儒者として静養の傍ら学を深めた。

江戸では村士玉水(すぐりぎょくすい。名は宗章、号は一斎。通称行蔵または幸蔵)に学ぶ。玉水の家塾「信古堂」は駿河台下の水道橋の辺に在った。
玉水によると佑甫(善蔵)は善く崎門(きもん。山崎闇斎の学統)を学んだという。
師弟の名は「西に久米訂斎と西依成斎あり、東に村士一斎と服部栗斎あり」と言われる程に高まっており、善蔵は尾張侯に招かれ講じて十口糧を由優賜されるなど厚遇を受けた。

安永5年(1776)1月4日、病に罹った玉水は善蔵に後を託し48歳にして死去。
遺言通りに善蔵が信古堂を継ぎ、築地に移る。

天明4年(1784)愛宕下の三斎小路(現在の港区虎ノ門1丁目。三斎は細川忠興のことで細川邸に通じる路から由来)に転居。
高山彦九郎(正之、仲縄)や頼春水ら学者・思想家の日記にも善蔵との交友がみられる。
以下例として寛政元年の高山彦九郎江戸日記より抜粋
十月三日…(略)…赤坂田町壱丁目を出て 愛宕の下三齋小路服部善藏所へ寄りて 子錦中風のことを告ぐ ※佐藤子錦(尚綗)が中風に罹った話をする
六日…(略)…服部善藏今朝予を尋ね来りしよし 出でゝ新大橋を渡りて濱町秋元侯の邸 水心子正秀所に寄る
十一日…(略)…三齋小路服部善藏所に入りて黒沢東蒙を□訪ふ語りて ※11月
二十五日…(略)…服部善藏所へ寄りし時に壹分を借りる事あり ※12月。彦九郎が金銭を借用

寛政3年(1791)10月、陸奥白河藩藩主松平定信の支援もあり、幕府により麹町善國寺谷の服部織之助の地590坪の内250坪を貸渡され麹町教授所を設立。善蔵が学頭となった。
『御府内往還其外沿革図書』の「寛政四子年之形」には善国寺跡傍、善国寺谷通東側2軒目に「服部善蔵拝借地」が書かれている。※それ以前は小川左兵衛。
麹渓書院(郷土史では麹渓塾、麹渓精舎などもある)を称し、昌平坂学問所の付属の役割をし学生を広く受け入れ進学生徒を排出する。麹は麹町、渓は善國寺谷の谷であろう。

 
▲善国寺谷・麹町教授所跡を望む

寛政4年(1792)7月21日巳刻(午前10時頃)麻布笄橋より出火した火災の飛火により学問所借地が類焼。
9月に林大学頭(林羅山から続く儒家当主。幕府儒官)・柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)ら昌平黌の教授達により善蔵が火事の手当金50両を受取ることが勘定奉行に認められた。(『御触書』)

 
名刹鎮護山善国寺碑と善国寺坂上
坂の上に鎮護山善国寺があったことから善国寺坂と名付けられ、坂の下は善国寺谷や鈴振坂と呼ばれた。善国寺は寛政10年(1798)の火事で焼失して牛込神楽坂替地に移転。跡地は火除地に召上られた。

寛政5年(1793)10月、病死した兄の住む借地を返納。12月永続手当として平河町に165坪の町屋舗を賜り、その税を学校の費用に充てたという。

 
▲中坂から町屋敷跡を望む。案内板の古地図の現在地の箇所に「教授所附町屋敷

寛政8年(1796)5月に善蔵は病を患い、12月に教授を辞した。
善蔵の正妻(大橋氏)に子はなく、庶子のうち男子は順に長太郎、順ニ郎、彌三郎。
長太郎は夭折し、教授を継がせる子の順次郎は幼年(この時8才)であったため門人に托した。
文化5年の絵図には「服部順次郎拝借地」となっている。

寛政12年(1800)5月11日善蔵死去。65歳(66とも)。麻布山善福寺に葬る。
善成院喜道居士
(現在、磨耗の進んだ「栗齋服部先生之墓」は立替により墓前灯篭の先に置かれ、中央に新しく関係者子孫の方により栗齋服部先生之墓が建立されている。墓所は撮影不可)
善蔵の門下として頼春水、頼杏坪(らいきょうへい。芸藩)、櫻田虎門、秦新村、都ツ築訓次、宮原龍山、宮原桐月、池田貞助、集堂三五郎ら多くの学者を輩出した。

 

■その後の麹町教授所
文化4年(1807)2月、順次郎が教授を継いだ。
文化9年(1812)6月、順次郎は周囲の期待に沿わず禁固罪を蒙り、町屋敷を取上げ年々金30両ずつ地代金の内より被下とした。
文化12年(1815)順次郎が病死。弟もこの時既に亡くなっており、順次郎の子も幼く病弱であったため養子を願うが叶わず麹町教授所の後継が途絶えてしまった。
文化13年(1816)12月に教授地は学問所(昌平黌)の持地となる。

天保13年(1842)2月に林大学頭が摂津守へ教授所再設を進達。(麹町教授所御再建一件帳)
5月15日に松平謹次郎を教授方に任命し、6月6日麹町教授所の再開を布令。
松平謹次郎は、御所院番本多日向守組松平兵庫助の弟。この時38歳。
文久元年の絵図には「松平謹次郎 学問所持地」とあり、謹次郎は元治元年(1864)まで教授を勤めた。

その後も御牧又一郎、大島文二郎、大久保祐介(敢斎)他一人を順に教授とし継続。
明治元年7月20日に鎮守府により接収される。その後敢斎に預けられ8月23日教授再開を東京府に命じられ11月10日敢斎は大得業生となる。12月27日学制改革により免職。

尚、信古堂は玉水の同門下で善蔵の親友である岡田恕が善蔵の意志を継いで経営に努めた。

 
▲平河天満宮と麻布山善福寺(墓所は撮影禁止)
平河天満宮(平河天神)
 江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明十年(一四七八年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)
 慶長十二年(一六〇七年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
 徳川幕府を始め紀州、尾張両德川井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
 また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
 現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰厚く合格の祈願等も多い。(境内の御由緒書より)

・「平河天満宮」所在地:東京都千代田区平河町1-7-5
・「懐徳堂旧址の碑」所在地:大阪府大阪市中央区今橋3丁目5-12 日本生命本店

講武所跡

講武所跡 講武所跡の案内パネル

講武所跡
ペリー来航後の政情から水戸中納言斉昭等を中心に軍制改革を提唱する動きがあり、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせ士気をあげるために江戸幕府が武芸訓練場として設けた講武所(こうぶしょ)が、この案内板の前の道から神田川までの一帯に在った。

 

講武所の歴史
嘉永の末(1853頃)、直心影流の剣客男谷下総守精一郎(おたに。信友。勝海舟の伯父※系譜上は従弟)が武技の訓練所設立の建白を上申。

安政元年(1854)5月13日の老中阿部伊勢守正弘は、浜苑(現在の浜離宮)南側の泉水蓮池等を埋立てて幅1町半・長さ三町ほどの広場に大砲操練の場「校武場」を創るための調査を目付に命じたが、設立は中止となる。
10月8日に「講武場」建設場所の調査を行わせ、12月2日に鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷の上地、越中島調練場、筋違橋門外四谷門外(設置見合わせ)にそれぞれ建設を命じる。

安政3年(1856)春に築地堀田邸の地に総建坪1601坪余、1609畳・細畳3畳の講武場が落成。
3月24日に阿部正弘が「講武所」として創建を布達。
4月4日に久貝因幡守正典(くがいまさのり。旗本。娘が林忠交に嫁ぐ)・池田甲斐守長顕を総裁方とし、次席に跡部甲斐守良弼・土岐丹波守頼旨、先手に男谷精一郎等各役を定め、教授方として剣術は伊庭軍兵衛(惣太郎。心形刀流。伊庭八郎の養父)ら、砲術の頭取に下曾根金三郎・勝麟太郎(海舟)・江川太郎左衛門(英敏)らが任命されている。
4月13日講武所開場を前に、将軍徳川家定が私的に来臨。
4月25日に講武所の開場式が行われる。多くの来賓や見物人が集まり、教授方の弟子達による槍剣の試合や砲術打方演武が披露された。
5月6日に男谷精一郎が先手過人となり剣術師範役として出仕。
11月5日に将軍家定が公式に来臨。以降移転前まで年々臨場があった。
12月28日幕府は合薬座を設け、講武所附属とする。

安政4年(1857)閏5月に築地講武所構内に軍艦教授所(後に軍艦操練所)が設けられ、手狭になった講武所は移転を余儀なくされた。

安政5年(1858)正月14日深川越中島調練場完成。講武所の大規模な砲術調練は越中島で行われることになる。
10月、神田小川町(千代田区三崎町)の越後長岡藩(藩主牧野備前守忠恭)上屋敷周辺の土地7千坪への移転が決まり、翌年7月11日より起工。

安政7年(1860)正月15日講武所総裁を講武所奉行に改称。
26日小川町牧野邸の地に1970余坪の建物が完成し、講武所を移転。
2月3日に大老井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)らの臨席で開場式が行われる。

築地の講武所では剣槍砲の三術に水泳を加えて教授したが、場所の関係で水泳は軍艦操練所で行われここでは三術に柔術と弓術が加わった。(文久2年10月に柔弓術は廃止)
また兵学の講義は西洋流よりも伝統的な山鹿流が主流であったという。

3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺され、この騒動の万一の備えとして11日より講武所に臨時泊番を置く。

文久元年(1861)4月5日、桜田門外の変を受けて将軍周辺の警護の強化が必要となり幕府は新たに親衛職の「奥詰」を新設し、講武所から伊庭軍兵衛ら50余人が登用された。
7月に稲葉兵部小輔正巳(いなばまさみ。安房館山藩藩主)が講武所奉行となる。

文久2年(1862)3月19日移転後初めて将軍徳川家茂が来臨。
4月8日、大関増裕(おおぜきますひろ。下野黒羽藩藩主)が講武所奉行となる。
11月15日大久保忠寛(ただひろ。一翁/いちおう)が講武所奉行に任じられるが、沙汰あって23日に罷免。
12月、講武所奉行大関増裕が陸軍奉行に転じる。

文久3年(1863)家茂上洛の際には伊庭八郎ら講武所の者達が随伴した。
家茂は大坂滞在中、玉造に臨時講武所を開設する。大坂講武所は城代1、加番2の3藩があたり、定番に武術稽古をつけるため講武所世話役45人を世話役とした。(飯野藩からは勝俣音吉等)

慶応2年(1866)11月18日、講武所が陸軍所へ引き渡される形で、講武所は廃止となる。
砲術師範達は陸軍所修業人頭取となり、残りの剣槍師範と職員達は遊撃隊に編入された。

維新後、講武所の地は陸軍の練兵場として使用される。
明治23年(1890)三菱会社に払い下げられて三崎町(みさきちょう)の市街地が開発された。

講武所の江戸復原図 江戸飯田町駿河臺小川町繪圖の講武所

▲江戸時代の切絵図と江戸復原図(案内パネルより)

■講武所付町屋敷(こうぶしょづきまちやしき)
幕府は筋違御門(すじかいごもん。現在の秋葉原にある万世橋と昌平橋の中間)外の加賀原(本郷代地~四ヶ町代地)を町屋に編入して講武所の維持費にあてたという。
明治2年に神田旅籠町(はたごちょう)と改称される。
この講武所上納代地は後に芸者街となり、俗に「講武所」と呼ばれていた。

講武所跡案内板所在地:東京都千代田区三崎町2-3-1 日本大学法学部図書館前

参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・東京市『東京市史外編3 講武所
・清水晴風『神田の伝説』
・勝安芳『海舟全集7

江戸の軍艦操練所跡

軍艦操練所跡 軍艦操練所跡地

軍艦操練所跡
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府が
旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習やオランダから輸入した軍艦の運転練習をさせるため、この地に軍艦操練所を設立した。

安政4年(1857)4月11日、幕府がこの地に在った築地講武所内に軍艦教授所を創設。
永井尚志(ながいなおゆき。旗本)が総督、長崎海軍伝習所修業生の矢田堀鴻(やたぼり こう。景蔵。後に讃岐守)を教授方頭取、佐佐倉桐太郎(浦賀奉行与力)・小野広胖(こうはん。友五郎。笠間藩士)・鈴藤勇次郎・浜口與右衛門・岩田平作・山本金次郎・石井修三・中濱萬次郎を教授方
尾形作右衛門(鉄砲方)・土屋忠次郎・関川伴次郎・村田小一郎・鈴木儀右衛門・小川喜太郎・塚本恒輔、近藤熊吉を教授方手伝となる。
7月19日から有志者を入所させ始業。日割で測量並算術、造船、蒸気機関、船具運用、帆前調練、海上砲術、大小砲船打調練の稽古が行われる。
実習には観光丸・昌平丸・君澤丸などが使われた。

安政6年(1859)2月に長崎海軍伝習所が閉鎖され、実習で使用されていたオランダ製軍艦「咸臨(かんりん)丸」「朝陽(ちょうよう)丸」、運搬帆船「鵬翔(ほうしょう)丸」等が築地に移る。

万延元年(1860)正月26日に講武所が神田小川町(現千代田区)に移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。
文久2年(1862)7月4日船手を向井将監(むかいしょうげん)とし、勝麟太郎(海舟。講武所砲術師範)が頭取となる。

元治元年(1868)3月10日築地西本願寺西隣の火事で類焼し焼失。25日に南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓/ながみち)下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。

慶應元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置く。
慶應2年(1866)7月、海軍所と改称。
11月に類焼し、現在の浜離宮庭園の地に移る。

京橋南築地鐵炮洲絵図

▲案内パネルの『京橋南築地鐵炮洲絵図』

跡地には慶應3年日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館(東京築地異人館)を竣工。翌年、中央に塔を立て前面に木造平屋を付属させる木造二階建て煉瓦張りの洋式建築が建設されるが、明治5年2月26日の大火で焼失。再び海軍用地となる。

采女橋 采女橋案内

▲采女橋
かつてこの地に在った松平采女正の屋敷跡が采女ヶ原と呼ばれ、明治2年に采女町となる。
現在の采女橋は築地ホテル館と銀座の柳を題材にした意匠で高欄等が整備されている。

所在地:東京都中央区築地6丁目20番地域

靖国神社の練兵館跡と斎藤弥九郎

練兵館跡の碑 練兵館跡の案内板

幕末志士ゆかりの練兵館跡

練兵館(れんぺいかん)は神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣客斎藤弥九郎(やくろう)により、文政9年(1826)飯田九段下の俎板橋付近に開かれ、天保9年(1838)3月に類焼したので、この地(麹町三番町の九段坂上)に移り、その後約30年間隆盛を誇った。
明治4年(1871)に招魂社(明治2年に東京招魂社が建てられ明治12年より靖国神社に改称)の敷地になり、牛込見付に移転した。

後に「技の千葉」北辰一刀流千葉周作の玄武館、「位の桃井」鏡新明智流桃井春蔵の士学館と共に「力の斎藤」の練兵館として幕末の三大道場と呼ばれ
高杉晋作、品川弥次郎、師範代も務めた桂小五郎(木戸孝允)や渡辺昇など幕末の志士が多数入門し、伊藤俊輔(博文)も出入りしていたと言われる。

練兵館と招魂社と靖国神社の位置

▲安政五年江戸切絵図の弥九郎の敷地と明治九年東京全図の招魂社の敷地と、現在の靖国神社の敷地を合わせた、おおよその位置。
火災で移転し大きな道場が建ったので「練兵館の焼太り」などと講談でも揶揄されている。

靖国神社南門 練兵館跡地

▲靖国神社の南門を入ってすぐに練兵館跡の碑がある。写真の碑の右奥に拝殿。

 

■齋藤彌九郎善道
弥九郎は名は善道(よしみち)、字は恵郷、通称彌(弥)九郎。
寛政10年(1798)1月13日、越中国氷見郡仏生寺村で農業を営む齋藤新助信道と母磯(いそ。宮下市郎右衛門の娘)の長男として生まれる。斉藤家は藤原朝臣利仁の後裔と伝わる。
文化7年(1810)13歳で高岡に奉公に出るが文化9年(1812)に江戸を目指す。郷里の土屋清五郎(清水家家臣)の斡旋で幕臣能勢祐之丞(のせすけのじょう)の従者となり、18、9歳頃に岡田十松吉利の神道無念流「撃剣館」道場に入門。
文政3年(1820)に江川英龍が18歳で撃剣館に入門し2年の寒稽古をなし、初めての仕合相手が21歳の弥九郎であった。

文政9年(1826)29歳の時に英龍の後援で独立して飯田九段下俎板橋界隈に、後に幕末の三大道場と呼ばれる練兵館(れんぺいかん)を開く。
天保6年(1835)5月4日に英龍が家督を継ぎ韮山代官となると弥九郎は江川家御目見御用人格四人扶持として召抱えられ、名を左馬之助と称した。

天保8年(1837)2月19日の大塩平八郎の乱の際に韮山に居た弥九郎は討伐を願い出て大坂へ急ぐも、着いた前日に大塩父子は自殺を遂げていた。
その後平八郎の残党が韮山代官領内の甲州に潜伏したと風聞があり、英龍と供に刀剣商を装って探索と民情視察に管内を巡った(甲州微行

この年、蘭学者幡崎鼎(はたざきかなえ)が国禁を犯して捕われ、長崎から江戸へ送られる際に、英龍は鼎を獄中で苦労させまいと金十枚を贈りたかったが、厳重な護送中の駕籠に警史の目を誤魔化し包装した金と書簡を投げ入れる難題を弥九郎がやってのけた。
後に「山師の弥九郎」と綽名されるほどの才能である。

天保9年(1838)3月に練兵館が類焼したので麹町三番町に移る。
天保10年(1839)正月、目付鳥居耀蔵(とりいようぞう)の江戸湾備場巡検時に副使に任じられた英龍に随い参加。
その際に英龍は様々な不安を感じるが争いを避け、英龍の意志を弥九郎が担って江戸の渡辺崋山(かざん。三河国田原藩家老)を訪問した。崋山は高野長英に相談し測量技術に長けた門下を推挙するに至る。
※崋山は弥九郎に三人扶持を与え田原藩の剣術指南とするほど親交があった

天保12年(1841)5月9日、弥九郎の西洋砲術の師である高島秋帆(たかしましゅうはん)の徳丸原(とくまるがはら)の縦隊操練・大小砲の打方見置に江川家臣らと参加、弥九郎は砲隊員に加わる。
※高島秋帆が長崎に在る時にオランダ商人から買付けたゲベール銃を大坂に密送した。江戸にまでは届かないことを惜しむ英龍の為に弥九郎が大坂へ向かい、無事江戸の本所南割下水(みなみわりげすい)の江川邸に送致し、周囲の者は驚嘆した。
この頃、佐久間象山が江川塾へ入門する仲介を弥九郎に頼んでいる。

英龍の後援と共に水戸藩で烈公(斉昭)を支持する藤田東湖と同門である誼もあり斉昭に知られ、天保12年8月1日水戸弘道館設立時に招かれ、師範として召抱えられる話を辞退したが、水戸からは顧問として扶持米を受け、また武田耕雲斎とも懇意となった。
弥九郎の練兵館には長州や越前の藩士も出入りしたため(桂小五郎や大村藩士の渡邊昇ら志士達が練兵館の塾頭となっている)弥九郎は水戸と長州の間で調和役もつとめていたと思われる。

天保14年(1843)5月、江川家の家臣望月直好の嗣が途絶えた折に下総に直好の甥の存在を知った弥九郎は韮山に甥を送り届けた。江川家はその忠誠に酬いようとしたが弥九郎は受けなかった。
5月18日水野忠邦の改革中に英龍が鉄砲方に登用されたが、閏9月の忠邦失脚に伴い鉄砲方を罷免されると弥九郎はすぐに英龍を訪ねた。時勢をよく知る理解者の慰めに英龍は喜んだという。

嘉永6年(1853)8月英龍が品川台場の築造方を命じられると弥九郎は現場監督を務め、秋に英龍が本郷湯島桜馬場に鋳砲所設置の命を受けた時は監督方となる。

安政2年(1855)1月16日に担庵が病没すると落胆し、この頃から篤信斎(とくしんさい)と号し長男新太郎に弥九郎を襲名させた。
担庵の嗣子英敏は13歳の幼年だったため家臣の柏木総蔵と共に計り幕府に内願して芝新銭座の地に江川塾を移し、大鳥圭介らを招いて門人の養成に努めた。

明治元年(1868)維新の折は朝廷に味方し、代々木の山荘に隠居していた篤信斎は彰義隊の誘いを蹴り、老齢ながら密かな動きも大村益次郎の書簡で窺われる。
7月14日に71歳で徴士として召され、8月26日に徴士会計官判事試補、9月5日に会計官権判事となり大阪に在職。
明治2年(1869)7月23日に造幣局権判事となり11月4日の造幣寮の火災の際に一人猛火の中へ飛び込み重要書類を救い出し人々を驚嘆させた。
明治3年(1870)5月25日に鉱山大佑に転職するが病を患い東京に帰る。
明治4年(1871)10月24日牛込見附内の自宅で死去。享年74。遺言により神式で代々木山荘に埋葬。明治40年5月27日に従四位を賜る。

※2014年7月8日の記事内「齋藤彌九郎善道と江川英龍」から移動しました

みたままつり靖国神社の拝殿

靖国神社http://www.yasukuni.or.jp/
所在地:東京都千代田区九段北3-1-1

参考資料・サイト
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・笹川臨風『類聚伝記大日本史10義人・武侠篇
・大坪武門『幕末偉人斎藤弥九郎伝』
ほか案内板等
・昭和50年に栃木県で名前を継承した「練兵館」:http://renpeikan.jp/