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伊豆・駿河の歴史・史蹟

世古六太夫と幕府遊撃隊箱根の役前日譚

 ※画像は世古六太夫碑より

世古六太夫(せころくだゆう)
通称は六之助、諱は直道
天保9年(1838)1月15日、伊豆国君澤郡川原ヶ谷村(静岡県三島市川原ヶ谷)の栗原嘉右衛門正順の次男として生まれる。
栗原氏の祖は甲斐源氏流武田氏で、清和源氏流武田系図によると11代当主武田刑部大輔信成の子の十郎武続(甲斐守。七郎とも)が甲斐国山梨郡栗原邑(山梨県山梨市)に居住し栗原を称した。
嘉永2年(1849)4月に駿河国七間町(静岡市葵区)山形屋某に雇われ、翌年8月に帰郷。(山田万作『岳陽名士伝』)
14歳で伊豆国田方郡の三島宿(三島市)一ノ本陣・世古家に入り、家業を手伝う余暇に文武を磨き、学問は津藩士斎藤徳蔵正謙に学んだ。15歳で世古清道の嗣子となる。世古家を継ぐと、本陣主として六太夫を名乗った。
安政4年(1857)長男鑑之助(後に六太夫の名を継ぐ)が生まれる。
安政5年(1858)三島宿の問屋年寄役となる。

 
世古本陣表門を移設したとされる長円寺「赤門」と世古本陣址
本陣は大名・公家・幕府役人などの宿場施設で大名宿とも呼ばれた。世古本陣は参勤交代では尾張侯の御定宿であった。

 
問屋場址と世古本陣付近の三島宿復元模型模型画像は樋口本陣址パネルより
江戸時代の運輸は人馬を使って宿場から次の宿場へ送り継がれ、この公用の宿継(しゅくつぎ)は問屋場を中心に行われた。問屋場には問屋年寄、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり、問屋場の北側の人足屋敷には雲助と呼ばれた駕籠かき人夫が詰めていた。

文久2年(1862)駿河国駿東郡愛鷹山麓の長窪村(長泉村)の牧士(牧の管理者)見習となる。(明治には牧士として「瀬古六太夫」の名がある)
文久3年(1863)韮山農兵調練所が設けられ、江川太郎左衛門代官管内の農民子弟凡そ70名を集めて軍隊調練を行った。六太夫は韮山農兵の世話役を勤めた。
慶応3年(1867)箱根関所を破り逃走した薩摩の浪士脇田一郎ほか2名を、六太夫は代官手代と協力して原宿一本松で召し捕る。

 
農兵調練場址三島代官所跡
宝暦9年(1759)韮山代官所と併合し治所を韮山に移した。
三島陣屋の空き地は江川坦庵の創意で農兵調練場とした。維新後は小学校の敷地となる。

慶応4年(1868)倒幕を遂げた明治新政府と旧幕府の抗戦派による戊辰戦争が開戦した。
3月24日、新政府が大総督府を置き東征させる折、三島宮神主矢田部盛治(もりはる)は矢田部親子と社家等70余人を沼津~箱根両駅間の嚮導(先導警護)兵として奉仕する願書を先鋒総督に送る。(『東海道戦記』)伊豆伊吹隊(息吹隊)と名づけて25日に嚮導して三島宿は難なく官軍を休憩・通過させることが出来た。
閏4月上総国(千葉県)から出陣した旧幕府遊撃隊と請西藩藩主林忠崇ら緒藩兵による旧幕府隊が沼津に向かい、兵を引くよう江戸から遣わされた旧幕府重臣(既に新政府に恭順)との交渉上沼津藩監視下の香貫村に駐屯し、返事の約束の日を過ぎても音沙汰ないまま足止めされていた。
5月18日、上野山の彰義隊蜂起の報が届き、やむなく旧幕府遊撃隊人見勝太郎が抜け駆けの形で自軍(第一軍)を率いて加勢に向かうことを決意する。
夕方に三島宿へ「澤六郎・木村好太郎」の名で、翌日夜の宿割と人足(宿場町が提供する運送者)を問屋役人の六太夫らに命じに来た。軍目(憲兵兼監察役)澤六三郎らによる林忠崇を筆頭に全軍が通過する準備とみられ、人見の行動は切迫した状況打破のために林忠崇公らと示し合わせた(おそらく沼津藩主水野出羽守の温情もあっての)策であったことを窺わせる。

19日朝、連日の大雨で氾濫した川を渡り脱した人見隊が三島にたどり着く。
しかし明神前に新政府によって俄作りの新関門が置かれていた。
旅籠松葉屋に居た関門長の旧幕府寄合松下加兵衛重光(嘉兵衛、嘉平次。下大夫。4月25日から三島駅周辺警守にあたる)が駆けつけ、通過を阻まれた人見隊は、大鳥居に木砲2砲構え、白地に日の丸の旗を翻して関門を威嚇する。
一触即発の危機に、問屋役の六太夫や三島宮神主矢田部が取成して、矢田部が松下を佐野陣屋(現裾野)に報告に行かせる機転で、事なきを得たという。

後発の旧幕臣本隊が、伊庭八郎率いる第ニ軍を先頭に東海道を真っ直ぐ進み昼過ぎに三島に到着。
宿場には徳川家康以来幕府に恩がある者が多く、六太夫ら問屋役人一同は千貫樋(せんがいどい。豆駿国境にある灌漑用水路の樋)まで出迎えたという。
世古本陣の西に在る脇本陣・綿屋鈴木伊兵衛に林忠崇を総督とする本営を置き休憩。
人見らの救援として前田隊を急行させてから、本隊も山中村へ向かった。
こうして三島宿を戦禍の危機から救った六太夫だが、新政府軍に幕府方内通者との嫌疑がかかり、これまで新政府に尽くしていた矢田部らの嘆願も聞き入れられず捕えられてしまう。佐野の獄舎にて詰責を受けたという。病のため矢田部家に預かりになり縛後31日目に釈放。
7月18日三島関門が撤廃される。

 
▲三嶋大社鳥居前と矢田部式部盛治像大人銅像(澤田政廣氏作)
矢田部盛治は掛川藩家老の橋爪家からの養子で、安政の大地震で倒壊した社殿の復興を果たし、祇園山隧道を開鑿し新田開発を行うなどで三島宿の民から慕われた。

明治3年(1870)明治政府により本陣が廃止される。
明治5年(1872)六太夫が戸長となる。
明治7年(1874)に第四大区一小区副区長となる。
明治12年(1879)三島に小学校の前進になる新築校舎建設に協力。
明治17年(1884)7月24日三男の松郎誕生。(後に兄の六太夫廣道の後を継ぎ、大正10年に市会議員となる)
明治20年(1887)沼津に移住。
明治28年(1895)に沼津・牛臥に海水浴場旅館「三島館」を建て、三島の旧宅を修築し「岳陽倶楽部」とし、各界著名人と交遊を深めた。
明治36年(1903)に妻のナツが61歳で死去し、長円(ちょうえん)寺に葬。法名本修院妙道日真大姉。
大正4年(1915)12月31日78歳で死去し、妻と共に長円寺に眠る。法名本行院直道日壽居士。

 
正覚山大善院長圓寺・世古六太夫夫妻の墓
維新後の六太夫は教育の推進者として伝馬所跡に私立学校開心庠舎(かいしんしょうしゃ)を開設し、実業家として沼津停車場前に通信運輸事業を展開して郵便事業の基礎を築く等、郷土に貢献した。

三島宿 歌川広重「東海道五十三次之内 三島 朝霧」(沼津市設置の路上パネルより)
東海道五十三次の三島
慶長6年(1601)德川家康によって東海道五十三次の11番目の宿場に指定され、古くからの交通の要所であり伊豆一宮の三島明神(現在の三嶋大社)もあり隆盛した。
一ノ本陣・世古六太夫、二ノ本陣・樋口伝左衛門
脇本陣3、他旅籠74軒(天保年間)

・「長円寺」所在地:静岡県三島市芝本町7-7
・「三嶋大社」所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1-5

参考資料
当記事と請西藩関連記事中明記の文献の他、案内板(三島市教育委員会、本町・小中島商栄会設置)、郷土資料館展示・収蔵史料等。閲覧許可ありがとうございました。

三島から河口へ

慶応4年(1868)閏4月16日の午前、請西藩藩主林忠崇伊庭八郎人見勝太郎旧幕府遊撃隊ら一行は韮山(静岡県伊豆の国市市)を出発。
甲府を窺うため三島(静岡県三島市)を経て深夜に御殿場(ごてんば。静岡県御殿場市)に着いた。

 三島から富士山までの展望図

三島宿の三嶋大社
右画像、山中(静岡県)からの展望図だと左手の三島から、右手の富士山が見える方向へ向かうこととなる

2御殿場と富士山 御殿場駅

▲現在の御殿場駅富士山口周辺と、箱根側(乙女口方向)

 

17日に、田安侯の使いとして山岡鉄太郎が説得に来訪。翌日忠崇は上意を新政府軍の総督府に差出を依頼し、甲府(山梨県甲府市)で10日再命を待つと取り決めた。
19日に御殿場を出発。巣走(須走。静岡県駿東郡)、山中(山梨県南都留郡)吉田(山梨県富士吉田市)等を過ぎ川口(山梨県南都留郡)に宿陣する。
須走 吉田

▲一行は須走(写真左)から山中を経て吉田(写真右)まで北上する

河口湖駅 河口湖と富士山

河口湖駅と河口湖。「川口村」は、現在の現在の富士河口湖町

「韮山反射炉」構造と歴史

現在の韮山反射炉 明治の補修前の反射炉

▲現在の韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)と補修直前の反射炉
韮山反射炉は幕府の許可により大砲鋳造の目的で、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)らにより、安政元年(1854に着工、3年後英敏の代に完成した、銑鉄(せんてつ。鉄鉱石から還元した鉄で不純物が多い)を溶かして良質な鉄を得るための洋式の金属溶解炉。
反射炉と呼ばれるのは、燃料(石炭)を燃焼させる炎や熱を、炉のドーム状の天井に反射させ、一点に集中させた反射熱を利用して金属を溶解する方式による。
創立当時は漆喰塗の白亜の塔だった。明治41年1月に煙突部分を鉄帯で補強し周囲に鉄柵を巡らせ、昭和年代に構造用形鋼と鉄筋で耐震補強されている。

連双二基4炉の韮山反射炉 連双二基シャチ台

連双二基の炉、当初あったシャチ台
反射炉は銑鉄を溶解する炉体と煙突から構成され、連双二基(溶解炉を2つ備える)南炉・北炉の計4炉を同時に稼動させることができる。
かつては北東側(上の写真)には鋳型を出し入れするための「シャチ台」があった。

・敷地面積は南北約59m、東西約52mの3,068㎡
・炉と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m
・南炉・北炉は各5.9m×5.1m、炉床形で容量2~3t級

煙突が高いのは燃焼時に、ふいご等の人力に頼らない自然送風を確保するため。
上部に行くほど細くなっているが、内部はの穴は上から下まで同じ大きさ。

・炉体部(低層部分)外部伊豆石構造、炉内は耐火煉瓦のアーチ積
・煙突部(高層部分)煉瓦組構造(創立当時は漆喰塗り)

耐火煉瓦(焼石/やきいし)は賀茂郡梨本村(現河津町)に設けられた登り窯で生産され
賀茂郡中村・梨本村で採掘した白土を使用し、1700度まで耐えられる。

韮山反射炉と坦庵像 明治42年補修時の反射炉

▲反射炉を背にする江川坦庵公像。右は反射炉補修時の周囲の様子
天保11年(1840)のアヘン戦争で2年後に清が大敗しイギリスの半植民地化したことで、日本でも欧米諸国の進出に対する危機感が強まり、薩摩・佐賀・水戸など開明的な藩主のいた藩や、幕府でも蘭学に通じた先覚者達により、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになる。
嘉永3年(1850)6月に佐賀藩主鍋島直正は佐賀城西の築地に大砲製造方を置きオランダのヒュゲーニン著『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳させ工夫を加え7月に反射炉の建造着手し1基竣工。以降2年間で4基を完成させ操業に成功。
嘉永6年(1853)夏に薩摩藩主島津斉彬による集成館事業(洋式産業群)の一環で磯邸内で試作炉を、完全な2号炉は安政4年(1857)夏に完成させた。

幕府でも、江川英龍が海防の必要性と江戸湾防備の具体策──台場を構築し異国船に備える等──を幕府に建言し、嘉永6年のペリー艦隊の来航等を受けて聞き入れられる。
台場に設置する大砲は、従来のものより長射程で堅牢、かつ低コストの条件を満たすためには、鉄製で口径長大な砲の製作が必要であるが、それを想定していた英龍は『ライク~鋳造法』を石井修三と矢田部卿運に『和蘭国製鉄炉法』として翻訳させる等しており、幕府の許可が下りてすぐに、反射炉建造に着手。
はじめ建設場所を伊豆賀茂郡本郷村(現在の下田高馬付近)とした。

嘉永6年(1853)12月に本郷村で建設準備。
安政元年(1854)3月27日、伊豆本郷村の工事中の反射炉に、近くにある下田港に入港していたペリー艦隊の水兵が侵入する事件が起きたため、建設地を急遽、韮山代官所に近い田方郡韮山中村村に変更することとなった。
5月29日本郷村から資材を運び出し、沼津香貫村に荷揚げ。
6月に現在の場所、田方郡中村で着工。翌月1日から土台、閏7月18日に耐火煉瓦を積み始め22日板鉄鋳造。
安政2年(1855)1月16日に英龍が江戸屋敷で病没。子の英敏が意志を継いで工事は続行される。
2月21日に1番反射炉半双。8月に幕府を通じて佐賀藩の協力を要請し、12月に承諾を得る。
安政3年 (1856)4月11日タール製造所で完成。この年発行の『鉄煩鋳鑑図』入手。
※この年3月に水戸藩で反射炉完成
安政4年 (1857)2月5日佐賀藩より技師の杉谷雍助(翌年3月9日帰国)・田代孫三郎および職人達(翌年3月22日帰国)が到着。
7月1日南炉試鋳。9月9日に最初の18ポンド砲の鋳込みが行われる。
安政5年(1858)3月連双2基が完成。
製造した18ポンド砲は良好だったが、その後度々の天災や粗悪な銑鉄使用の弊害等が重なり、鋳砲の困難が記録に見られる。安政6年から銅製砲を鋳造。

完成した大砲の28門が品川台場に据付られたという。
幕末期から国内で幕府直轄4、藩営6、民間3箇所の反射炉が作られ、8箇所が完成したといわれる(幕府直轄は韮山のみ)が、現存するのは山口県萩(試験炉とみられる)と韮山のみ、実際に稼動運用し当時の姿をほぼ完全な形として残すものは韮山のみとなった。

古絵図文久3年9月 古絵図

▲古絵図(文久3年9月)
古地図によると韮山反射炉は現存している反射炉本体のまわりに砲身をくり抜く錐台小屋など敷地内は一連の作業小屋を含めた製砲工場であった。
これらの小屋を見ると、本錐台小屋、御筒仕上小屋、鍛冶小屋、板倉、詰所、門番所などがあり、他に古川の上流に仮小屋、タタラ炉が配置されている。

炉の構造案内 炉と鋳台の位置

▲位置と構造
鋳台下に約30cm角の松の角材が碁盤の目のように敷き詰められ、炉の下には松杭が打ち込まれている。
高レベルな基礎工事により、安政元年(1854)11月14日の安政の大地震でも工事中の反射炉に大きな損害は無かった。

韮山反射炉東側 韮山反射炉南側

▲東側と南側
東側写真、右に北炉と出湯口、左が南炉で横に焚口鋳口が見える。
南側写真、右が南炉で下に灰穴、左が北炉で横に焚口と鋳口、手前は源材料置場。

灰穴内部 炉の構造

▲炉のしくみ。写真の穴は灰穴

反射炉焚口 焚口解説

△[工程1]焚口(たきぐち)
小さい四角が焚所(燃焼室)に石炭(筑後・常盤等)などの燃料を入れる焚口。
最初、木炭(天城炭)の弱火でロストル(火格子/ひごうし。固体燃料を載せる格子状の装置)を温め、この上に木屑と薪を置き
石炭を堰(えん。燃焼室と溶解室を区切る煉瓦積みの仕切り)よりやや高くなる程度に入れ、数千百度まで温度を上げる。

反射炉鋳口 反射炉鋳口解説

△[工程2]鋳口(いぐち)
焚口より大きいドーム型が、溶解室に銑鉄等を入れる鋳口。燃焼ガスの集合により最も高温になる所。
炉床面は出湯口に向かってゆるやかな下り勾配になっていて、不純物を含んだ銑鉄が溶けると傾斜に従い出湯口に向かう。出湯口の手前で上に煙道が伸びる。

反射炉出湯口と鋳台場所 反射炉出湯口側説明

△[工程3]出湯口(しゅっとうこう)
出湯口から溶解した鉄が流れ、鋳台(いだい。鋳型を置く台)に設置された大砲の鋳型(いがた)へと注がれる。
南北の炉が出湯口側で直交する(直角に位置する)のは、多量の鉄湯を必要とする時に、合わせ湯を便利にさせるため。
手前のコンクリート枠(補修時の目印のためにある)の位置が鋳台場所。鋳台は縦横4.6m角で深さ2.7mの箱型。

反射炉灰穴 反射炉灰穴案内

焚所風入口灰穴
灰穴は焚口のある焚所(燃焼室)の下に位置し、焚所への自然送風口と共に、焚所で燃えた燃料の灰を落とす所。
上部の鉄桁の上にロストルを敷き、この上に燃料を置いていた。

水車 22水力三連錐台の図

水車(みずぐるま)と三連錐台の図
当時の大砲は砲身の内部にあらかじめ芯の鋳型を挿入する中子法から、鋳造後に砲身をくり抜く工法に移っている。
鉄を溶かして鋳型で固めた、鉄の塊でしかない砲身を、水車で回転させ削孔(さっこう)させる工作機械「三連錐台」で行われた。昼夜休みなく回る水車によって約1ヶ月かけて穴が開けられたのだ。
反射炉が古川沿いに築造されたのも、水力を必要とするためである。
図は『鉄煩鋳鑑図』より。

韮山古川

今も古川はそばに流れている。
その後の韮山反射炉は…
慶応2年(1866)4月に幕府直営から江川家私営となるが、維新後は明治6年(1873)3月に陸軍省に移管、設備・付属品等を造兵司に引き渡し決定。
大正11年(1922)3月8日に内務省に移管し、国史跡に指定される。
平成19年(2007)11月30日に経済産業省より近代化産業遺産群33に指定される。

国指定史蹟 韮山反射炉
所在地:静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268の1

参考資料
・山田寿々六『韮山反射炉 構造の概要と写真集』『反射炉に学ぶ』
・日本耐火物協会『耐火物年鑑4』
ほか反射炉の案内パネル・リーフレット等
関連サイト
・伊豆の国市HP:http://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/

■■韮山代官江川家と担庵■■

韮山反射炉の記念建立物等

韮山反射炉の現在の敷地内にあるもの

青銅製二十九拇臼砲 青銅製二十九拇臼砲

青銅製二十九拇臼砲
臼砲(モルチール砲)は45度の角度で砲弾を射出し城壁などの上を越えて攻撃する砲口装填式の滑空砲。
拇(ドイム)は、昔のオランダの長さの単位で幕末頃はcmと同じ。
反射炉築造前に三分の一サイズの反射炉を江川邸に作り、寺の壊れた釣鐘を溶かして試作
碑の右側の臼砲に「伊豆韮山長谷川刑部秋貞造」と銘。

20ドイムモルチール砲 20ドイムモルチール砲口

青銅製20ドイムモルチール砲
室内展示の臼砲。説明文によると、反射炉で鋳造されたと思われ、この2門は外形寸法に差があり別の鋳型で鋳造されたようだ。

鋳鉄製24ポンドカノン砲 鋳鉄製24ポンドカノン砲口

鋳鉄製24ポンドカノン砲のモニュメント
二十四听加農砲は、韮山反射炉で最も多く鋳造されたと考えられている大砲。
全長は3.502mで重さは3.5tある。
このモニュメントは江川家家臣の長沢家に遺る古図を元に清水町の木村鋳造所が複製した。
くろがねの色!

 

反射炉碑 反射鑪詩碑

反射鑪碑反射鑪詩碑
「元帥陸軍大将大勲位功二級戴仁親王(ことひとしんのう)篆額(てんがく)」
反射鑪碑の上額は戴仁親王による題字と、韮山反射炉と江川家についての碑文。

江川坦庵像 片岡春吉翁胸像

江川坦庵公像片岡春吉翁胸像
江川坦庵は有事の兵の糧食・保存用のパンを広め「パン祖」とされ
この片岡春吉氏は日本製パンの功労者として、胸像が建てられた。

大正11年(1922)沼津市に「富士家製パン」創業。
春吉は横浜フランスパン店のフランス系技術を習い、石窯を使ったパンを焼いた。
大正15年(1926)から菓子パン、昭和9年(1934)から食パンを作り始めている。
創業から昭和18年(1943)までイースト種を使わずホップス種(酒種)を使用し続けた。
昭和17年(1942)2月に第二次世界大戦の食料統制下の製パン企業保護のため「静岡県東部製パン有限会社」設立。社長となる。
戦後も昭和24年(1949)に「静岡県食パン工業協同組合」の結成メンバーに加わる。
解散後に結成の「静岡県パン協同組合」にも連なる。

沼津市本郷町の「冨士家製パン所」がお弟子さんの引き継いだ後継のよう。
静岡県パン工業協同組合の照会文は「昭和初期から使い続けている日本で唯一と思われるレンガの窯でパンを焼いています。昔から変わらぬあきのこない味を守り続ける事にこだわりを持っています」とのこと。給食用のパンも作っている、地元に愛されているパン屋さんだ。

・沼津の冨士家パン http://fujiyapan1926.blog.fc2.com/

 

韮山古川 韮山反射炉周辺の案内板

古川の流れと砲弾型?の欄干
幕末の洋式砲弾にしてはくびれて細長すぎる、まるで徹甲弾…。砲弾色々ってスタンスかな?
付近は茶畑やホタル自生地がある。

■■韮山代官江川家と担庵■■

「パンの祖」江川坦庵の兵糧パン

担庵の兵糧パン

日本に初めて洋式のパンが現れたのは、応仁の乱後のポルトガルとの南蛮貿易の時で、パンの語源もポルトガル語のpãoと考えられています。
米食が浸透した日本にはパン食は広まらず、更に天正15年(1587)豊臣秀吉のバテレン追放令で、パンが姿を消すことになります。
その後の江戸時代でもパンが作られたのは長崎の出島のオランダ人向けで「白カステラ」と呼ばれ、西洋文化の域を出ません。

江戸時代後期の天保11年(1840)清とイギリス間でアヘン戦争が勃発し、日本でも国防の危機感から西洋技術を取り入れる動きが強まります。
まず長崎出身の洋式砲術家の高島秋帆(しゅうはん)が、腐りやすい米飯に代わる兵糧として、乾パンに着眼したともされます。
秋帆は韮山代官江川英龍(坦庵/たんなん)の西洋砲術の師です。

天保13年(1842)4月2日付けで江川英龍が天城・江梨山へ鹿や猪の狩猟の際に試しにパンを携帯したらとても便利であったことや、
秋帆の配下でパン製法を知る長崎の作太郎が江戸に滞在している間に、彼から技術を得るようにと、書簡を江戸詰の柏木総蔵(手代の柏木忠俊)へ宛てています。
英龍は饂飩粉をベースに「味が良くなる卵や砂糖を加え…」と書いているので、菓子パンのような美味しさも考慮していたようです。

柏木はすぐに英龍の指示に従いパンを試作し、薪の量や火加減から窯のことまで製法が事細かに書いて、8日付けで返事を出しています。
「小麦粉一品に塩で味を付け……大きさは厚さ三分(約1cm)ばかり、差渡し三寸(直径約9cm)ばかり、それを一度に一つ半、大食らいの者は二つも食べ、その後湯茶水を飲めば腹の中で増える…」と、菓子よりも主食としての味付けを優先し、より長期の保存、軽さ、腹持ちを考え、農兵の携帯食として適した形を挙げています。

江川邸の兵糧パン焼き釜 兵糧パン焼き釜上部

パン焼き窯鉄鍋
江川邸内にもオランダ式の窯が築かれ、パンの改良を進めました。
展示されているのはパン焼き窯を形作っていた伊豆石(いずいし)の一部で、本来は上に載せてある鉄鍋が入る、もっと大きなものだったようです。
洋式兵法を学ぶため英龍の元へと津々浦々から集まった門人達が各地へパンを広めたことでしょう。

 

嘉永6~7年(1853-4)にアメリカのペリー、ロシアのプチャーチンが艦隊を率いて開国を迫るという緊迫した外交に対して、有事の時に役立つ兵糧パンの需要が高まり、水戸(安政2年/1855に藩医柴田方庵がオランダ人コンプラから製法を教わる。兵糧丸)や、薩摩(蒸餅)、長州(備急餅)藩等でも貯蔵用のパンが量産されるようになります。

ところでこのロシア艦ディアナ号が11月4日に下田で談判中に大地震が起こり、沈んでしまいました。幕府は英龍にロシア人と協力して伊豆の戸田村で造船を命じ、英龍はロシア人のためにパンを給食しています。
このような形でも英龍のパン作りが役に立ちました。

 

昭和28年に全国パン協議会は、パンを全国に広めた坦庵を「パン祖」として顕彰して、江川邸の庭に記念碑「パン租の碑」が建ちました。碑文「パン祖江川太郎左衛門」は徳富蘇峰(とくとみそほう)によります。

近年、坦庵の直筆のパン製法書が発見され、彼が初めてパンを邸内の窯で焼かせたのが天保13年4月12日と推定されることから
4月12日がパン業界指定のパンの日になりました。

江川坦庵の兵糧パン製法

明治維新後に西洋文化が積極的に取り入れられるようになり、明治2年(1869)に芝日陰町木村屋(現・銀座木村屋總本店)がパン屋を開業しました。酒饅頭の製法を元に米麹から酵母を創り、明治7年には日本独自の餡パンが生まれます。
そして陸軍が日清戦争後に従来の「道明寺乾飯」を改良して発酵菌による乾パンを作り携帯食にすると、一般での需要も増えました。
後にイーストの輸入があり、海軍でもパン食が採用されます。

参考図書
・北岡正三郎『物語 食の文化
・矢田七太郎『江川坦庵』
・『パンの明治百年史』
・糧友会『製パン教程』
ほか江川邸のリーフレットなど

■■韮山代官江川家と担庵■■

* * *
おまけ。
韮山反射炉のお土産、伊豆倶楽部の「パン祖のパン
原材料は小麦粉(全粒粉)・塩・米糀(こうじ)の3種のみで、二度焼き製法で水分を少なくし、170年前の坦庵のパンを再現!

パン祖のパン

堅い上に厚さがあるので、売店で購入後に湯茶に漬けながらとはいえ、よくご年配の方がその場(イートイン)で食べていくと聞いて驚きです。

▼日鐵需要か私の地元でも売っている「くろがね堅パン」で鍛えていても丸かじりはキツかったですはい
  ←堅パン画像はAmazonリンクです
堅パンは大正末期に官営八幡製鐵所(現:新日鐵住金八幡製鐵所)が従業員の栄養補給食として開発した、長期保存用に水分を少なくすると鉄(くろがね)のように堅いお菓子、だそうです