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講武所跡

講武所跡 講武所跡の案内パネル

講武所跡
ペリー来航後の政情から水戸中納言斉昭等を中心に軍制改革を提唱する動きがあり、旗本・御家人に剣術・槍術・砲術などを学ばせ士気をあげるために江戸幕府が武芸訓練場として設けた講武所(こうぶしょ)が、この案内板の前の道から神田川までの一帯に在った。

 

講武所の歴史
嘉永の末(1853頃)、直心影流の剣客男谷下総守精一郎(おたに。信友。勝海舟の伯父※系譜上は従弟)が武技の訓練所設立の建白を上申。

安政元年(1854)5月13日の老中阿部伊勢守正弘は、浜苑(現在の浜離宮)南側の泉水蓮池等を埋立てて幅1町半・長さ三町ほどの広場に大砲操練の場「校武場」を創るための調査を目付に命じたが、設立は中止となる。
10月8日に「講武場」建設場所の調査を行わせ、12月2日に鉄砲洲築地堀田備中守中屋敷の上地、越中島調練場、筋違橋門外四谷門外(設置見合わせ)にそれぞれ建設を命じる。

安政3年(1856)春に築地堀田邸の地に総建坪1601坪余、1609畳・細畳3畳の講武場が落成。
3月24日に阿部正弘が「講武所」として創建を布達。
4月4日に久貝因幡守正典(くがいまさのり。旗本。娘が林忠交に嫁ぐ)・池田甲斐守長顕を総裁方とし、次席に跡部甲斐守良弼・土岐丹波守頼旨、先手に男谷精一郎等各役を定め、教授方として剣術は伊庭軍兵衛(惣太郎。心形刀流。伊庭八郎の養父)ら、砲術の頭取に下曾根金三郎・勝麟太郎(海舟)・江川太郎左衛門(英敏)らが任命されている。
4月13日講武所開場を前に、将軍徳川家定が私的に来臨。
4月25日に講武所の開場式が行われる。多くの来賓や見物人が集まり、教授方の弟子達による槍剣の試合や砲術打方演武が披露された。
5月6日に男谷精一郎が先手過人となり剣術師範役として出仕。
11月5日に将軍家定が公式に来臨。以降移転前まで年々臨場があった。
12月28日幕府は合薬座を設け、講武所附属とする。

安政4年(1857)閏5月に築地講武所構内に軍艦教授所(後に軍艦操練所)が設けられ、手狭になった講武所は移転を余儀なくされた。

安政5年(1858)正月14日深川越中島調練場完成。講武所の大規模な砲術調練は越中島で行われることになる。
10月、神田小川町(千代田区三崎町)の越後長岡藩(藩主牧野備前守忠恭)上屋敷周辺の土地7千坪への移転が決まり、翌年7月11日より起工。

安政7年(1860)正月15日講武所総裁を講武所奉行に改称。
26日小川町牧野邸の地に1970余坪の建物が完成し、講武所を移転。
2月3日に大老井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)らの臨席で開場式が行われる。

築地の講武所では剣槍砲の三術に水泳を加えて教授したが、場所の関係で水泳は軍艦操練所で行われここでは三術に柔術と弓術が加わった。(文久2年10月に柔弓術は廃止)
また兵学の講義は西洋流よりも伝統的な山鹿流が主流であったという。

3月3日に桜田門外で大老井伊直弼が暗殺され、この騒動の万一の備えとして11日より講武所に臨時泊番を置く。

文久元年(1861)4月5日、桜田門外の変を受けて将軍周辺の警護の強化が必要となり幕府は新たに親衛職の「奥詰」を新設し、講武所から伊庭軍兵衛ら50余人が登用された。
7月に稲葉兵部小輔正巳(いなばまさみ。安房館山藩藩主)が講武所奉行となる。

文久2年(1862)3月19日移転後初めて将軍徳川家茂が来臨。
4月8日、大関増裕(おおぜきますひろ。下野黒羽藩藩主)が講武所奉行となる。
11月15日大久保忠寛(ただひろ。一翁/いちおう)が講武所奉行に任じられるが、沙汰あって23日に罷免。
12月、講武所奉行大関増裕が陸軍奉行に転じる。

文久3年(1863)家茂上洛の際には伊庭八郎ら講武所の者達が随伴した。
家茂は大坂滞在中、玉造に臨時講武所を開設する。大坂講武所は城代1、加番2の3藩があたり、定番に武術稽古をつけるため講武所世話役45人を世話役とした。(飯野藩からは勝俣音吉等)

慶応2年(1866)11月18日、講武所が陸軍所へ引き渡される形で、講武所は廃止となる。
砲術師範達は陸軍所修業人頭取となり、残りの剣槍師範と職員達は遊撃隊に編入された。

維新後、講武所の地は陸軍の練兵場として使用される。
明治23年(1890)三菱会社に払い下げられて三崎町(みさきちょう)の市街地が開発された。

講武所の江戸復原図 江戸飯田町駿河臺小川町繪圖の講武所

▲江戸時代の切絵図と江戸復原図(案内パネルより)

■講武所付町屋敷(こうぶしょづきまちやしき)
幕府は筋違御門(すじかいごもん。現在の秋葉原にある万世橋と昌平橋の中間)外の加賀原(本郷代地~四ヶ町代地)を町屋に編入して講武所の維持費にあてたという。
明治2年に神田旅籠町(はたごちょう)と改称される。
この講武所上納代地は後に芸者街となり、俗に「講武所」と呼ばれていた。

講武所跡案内板所在地:東京都千代田区三崎町2-3-1 日本大学法学部図書館前

参考図書
・かみゆ歴史編集部『大江戸幕末今昔マップ
・東京市『東京市史外編3 講武所
・清水晴風『神田の伝説』
・勝安芳『海舟全集7

江戸の軍艦操練所跡

軍艦操練所跡 軍艦操練所跡地

軍艦操練所跡
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府が
旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習やオランダから輸入した軍艦の運転練習をさせるため、この地に軍艦操練所を設立した。

安政4年(1857)4月11日、幕府がこの地に在った築地講武所内に軍艦教授所を創設。
永井尚志(ながいなおゆき。旗本)が総督、長崎海軍伝習所修業生の矢田堀鴻(やたぼり こう。景蔵。後に讃岐守)を教授方頭取、佐佐倉桐太郎(浦賀奉行与力)・小野広胖(こうはん。友五郎。笠間藩士)・鈴藤勇次郎・浜口與右衛門・岩田平作・山本金次郎・石井修三・中濱萬次郎を教授方
尾形作右衛門(鉄砲方)・土屋忠次郎・関川伴次郎・村田小一郎・鈴木儀右衛門・小川喜太郎・塚本恒輔、近藤熊吉を教授方手伝となる。
7月19日から有志者を入所させ始業。日割で測量並算術、造船、蒸気機関、船具運用、帆前調練、海上砲術、大小砲船打調練の稽古が行われる。
実習には観光丸・昌平丸・君澤丸などが使われた。

安政6年(1859)2月に長崎海軍伝習所が閉鎖され、実習で使用されていたオランダ製軍艦「咸臨(かんりん)丸」「朝陽(ちょうよう)丸」、運搬帆船「鵬翔(ほうしょう)丸」等が築地に移る。

万延元年(1860)正月26日に講武所が神田小川町(現千代田区)に移転後、跡地一帯が軍艦操練所の専用地となる。
文久2年(1862)7月4日船手を向井将監(むかいしょうげん)とし、勝麟太郎(海舟。講武所砲術師範)が頭取となる。

元治元年(1868)3月10日築地西本願寺西隣の火事で類焼し焼失。25日に南隣の広島藩(藩主浅野安芸守長訓/ながみち)下屋敷のあった場所(下の絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転する。

慶應元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置く。
慶應2年(1866)7月、海軍所と改称。
11月に類焼し、現在の浜離宮庭園の地に移る。

京橋南築地鐵炮洲絵図

▲案内パネルの『京橋南築地鐵炮洲絵図』

跡地には慶應3年日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館(東京築地異人館)を竣工。翌年、中央に塔を立て前面に木造平屋を付属させる木造二階建て煉瓦張りの洋式建築が建設されるが、明治5年2月26日の大火で焼失。再び海軍用地となる。

采女橋 采女橋案内

▲采女橋
かつてこの地に在った松平采女正の屋敷跡が采女ヶ原と呼ばれ、明治2年に采女町となる。
現在の采女橋は築地ホテル館と銀座の柳を題材にした意匠で高欄等が整備されている。

所在地:東京都中央区築地6丁目20番地域

歴史ムック『壮絶! 幕末志士たちの最期』発売

メディアックス発行『壮絶! 幕末志士たちの最期』の伊庭八郎の記事に史料を提供しました。
私は文章にはノータッチですが、初版は該当記事に間違いがあるので一読者として訂させて頂きます。
山崎古戦場の現住所は、正しくは「神奈川県足柄下郡箱根町」付近です。
ライターさんは三枚橋城(沼津城)と取り違えたのかもしれません。

志士」と聞けば、坂本龍馬や桂小五郎ら勤皇系志士を想像する方が多いことでしょう。
このムックでは新撰組や奥州諸藩の幕臣ら佐幕系志士の壮絶な最期も扱っています。

上で指摘した通り記事にまで目を向けると誤りもありますが、画像豊富な「眺める歴史」ムックとしてボリュームある内容です。歴史物は絵や写真があると一層心が躍りますよね。
どのように生き、信念を貫いて散っていったかを扱う重いテーマに対して、月岡芳年らの華やかな錦絵が代弁しています。遺品や古写真、艶さえある錦絵の色彩の先にあった光景を想像して激動の時代の悲話を感じてみて下さい。

来年の大河ドラマ『花燃ゆ』に関わるヒロインや萩の英傑達にもスポットを当てているので、予習にもなりますよ。

請西藩林家と献兎乃記念碑

献兎乃記念碑と道祖神 献兎乃記念碑

献兎乃記念碑(木更津市上根岸の八坂神社)
徳川家の代々御嘉例(めでたい吉例)として林家が兎を献上し、年始の儀式で兎の吸物を共に祝った。
江戸時代の儀礼では正月元旦、白書院(儀式時の将軍出御の間)の上段に将軍が着座し、土器(からわけ)に盛った汁無しの兎の吸物と御酒を三方に載せて下され、吸物は足打膳に載せて御三家及び大廊下詰の諸侯に下された。礼者は、三献又は一献頂戴し、吸物の兎肉を各々白紙に包み、懐中にして退下する。
また老中、若年寄も登城して、政所に出づる以前に兎の吸物にて御酒三献を厨を掌る者が勤め、大目付の者が相伴する。

 

■献兎賜盃の発祥
家康より9代の祖先の得川有親(ありちか。世良田とも)は足利持氏(第4代鎌倉公方)の近臣であったが、永享10年(1438)6月の乱で持氏が敗北してしまう。有親は二郎三郎親氏(ちかうじ)と供に鎌倉を逃れ、故郷の上野国新田(群馬県の旧新田郡)世良田村得川へ帰る。しかし国許も安穏とは言えなかった。
永享11年(1439)3月上旬に有親父子は上州を去り、相模国(神奈川県)藤沢の清浄寺で剃髪し、有親は長阿弥(ちょうあみ)、親氏は徳阿弥(とくあみ)の名で出家する。
10月に藤沢を発ち、12月に信濃国に至る。
そしてかつては同じように持氏に取り立てられていたが讒言に遭って林郷に隠れ住んでいた小笠原長門守光政を頼って身を寄せた。

歳の暮れの29日、隠遁中で大したもてなしもできないがせめて正月の膳は豊かにしようと光政は、有親父子のために雪深い山に入る。冬場で得物の姿は無かったが、奇跡的に一疋の兎が現れ、持ち前の弓の腕で見事に狩ることができた。
翌正月元日朝、麦飯に田作の膾と兎の吸物を供した。

4月下旬に有親父子は三河国に渡り坂井郷に寓居する。この地で有親は亡くなった。
親氏は還俗して加茂郡松平村の豪族に婿入りして家を継ぎ、松平太郎左衛門と名乗り松平家の祖となる。
家を興した親氏は光政を召抱えた。
光政は親氏から林姓と丸の内三頭左巴の家紋を授かり、東三河の野田郡に居住した。

三河では長篠の菅沼の郷侍土岐大膳が親氏の敵となり、光政と協力して攻め落とす。土岐大膳は菅沼小大膳と改名して味方となる。
その後親氏は隆盛し、林郷で兎を供されたことが松平家の開運の基として代々年始の祝宴の儀となる。兎を狩った地も「兎田」として免租を許された。
一番に盃を頂戴し、御盃を一番下に置かれる儀が、林家家紋の丸の内三頭左巴の下に、一文字を加えた由来とされる。
※松平家・林家の開祖は伝承の域で、他の系譜史料との年代の違いがあります
 

■献兎賜盃の中断と再開
光政の子光友以降も林家は松平家古参の譜代としてよく仕え──三州の五本槍(岩津、安祥譜代衆者の一つとする説もあり)、光政から4代目の忠満岡崎五人衆とされ──戦功をあげた。
永禄9年(1567)家康は松平から徳川に改める。
天正18年(1590)8月から家康が関東に移封となっても翌年の正月には献兎賜盃の御祝は行われ、林家は白銀三十枚と呉服を拝領している。
                            
光政から6代目の林藤五郎忠政は17歳で眼病を患って勤めが困難になり、毎年行われていた御盃頂戴と兎献上の儀を辞して、領地に籠居したため嘉例は一時中断された。

文政8年(1825)第11代将軍徳川家斉に重用され林肥後守忠英(光政から14代目)が1万石に加増されて大名となる。
文政9年(1826)11月18日、忠英は嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を差し出しだ。
これを許されて、以降は領地の上総国望陀郡上根岸村(現千葉県木更津市上根岸)で兎を用意した。

●上根岸村の兎捕り
上根岸村では毎年12月初旬から30戸の村人達は藩から拝受した狩猟網を使い、公儀の「御兎御用」の旗を立てて貢物の兎の捕獲をしてた。
毎日二三里の山野で探し、あるいは小高い丘の山岸に罠を張って兎を追い立てて、5疋を得ると生きたまま御用かごに入れて担がせ、江戸藩邸の林侯に貢いだ。
運搬中は帯刀を許されて士分となった村役人が付き添い、上根岸から姉ヶ崎までは村人が担ぐが、姉ヶ崎からは宿場ごとに人足を継立てて、市川の御番所では番所役人はひざまずいて敬礼し、江戸川・中川を渡る時は特別仕立ての船を一艘用意して一般の乗客は許されなかった。
林侯は12月29日までに官府に献上する。
上根岸村には林侯から褒賞として毎年米一石を下賜される。

兎の彫刻 兎瑞兎奇談の兎
▲献兎乃記念碑に刻まれた兎と元の画

碑文※原文は註釈等無し
昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる(人々の話題にのぼって持てはやされ広く知れ渡る)事実也。
而して眇たる(そして小さな)我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終[つい]に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。
扨[さて]家康大将軍と為り、林氏も恩賞に預り、後年一万石諸侯の班に列したれど、乱夷ぎて先づ授與されたる采地三百石の旧此村は林家の宗領地とて、啻(ただ。強調)に献兎の命を蒙りたるのみならず、新年の賜宴には領内の首坐[座]を占め、御倉開の式は我村人の手にて行ひ、又名主は世襲ならで公選なりし等、治者被治者の間に隔なく、師走に入れば公儀への御用として、葵の旗に給附の網にて、遠近兎狩に何憚[はばか]る処なく、五口を揃へ駕籠に乗せ、附添の名主は両刀を佩し、供一人を具し、姉崎迄[まで]は村人夫に、同所より沿道人夫に舁[か]かせ(運ばせ)、道中威儀正しく、其月廿日に江戸九段の林侯邸へ送り附くるが恒例にて、為めに年米一石を給せられ、幕末迄踏襲したる美談なるも、星移り物換り、今は當[当]時を記憶する村の老人も残り少なに成り、可惜(あたら。惜しいことに)郷土誌も後世忘れらるべきを憂ひ、今歳卯年に因み、一は青年子弟の為め、一は世道人心の為め、我等識る処を録し、痩碑を樹つること如此[かくのごとし]  昭和二年丁卯三月 米崖松﨑九郎平撰

※献兎の永享12年に光政との関係は確証できず、別の代の逸話である可能性も示唆されている。

毛詩の国風 裏には『粛ヽ兎罝 施于中林 赳ヽ武夫 公侯腹心
粛粛たる(しゅくしゅく/引き締めた)兎罝(としゃ/罝は網)、中林(ちゅうりん/林の中)に施す。
赳赳たる(きゅうきゅう/勇ましい)武夫(武人)は、公侯(周の文王)の腹心(心と徳を同くすること)。

毛詩(詩経)の国風(諸国民謡編)の文王の徳化の盛んな様子を詠んだ詩が、徳川と林家の古事と重なるとして引用している。
粛粛兎罝は雪中に兎を得たこと、施于中林は信州林郷に住居すること
赳ヽ武夫は光政の武勇が優れていたこと、公侯腹心は互いに忍び暮す境遇の時に力を合わせ、そして徳川家が戦乱を収束し太平をもたらし、ついに林氏の武名を世に輝かせたことに比べているという。

上根岸八坂神社 三頭左巴紋
▲八坂神社
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、八柱御子神
地元では天王さま(牛頭天王・須佐之男命)と呼ばれていたようだ。
手洗い石の大きな三つ巴紋は、林家の家紋(丸の内三頭左巴下に一文字。請西藩ページに画像あり)が初めは盃に因んだ一文字が無かったともされるのを思わせるが、これは八坂神社の神紋の三つ巴紋であろう。

富士塚 立像庚申塔
富士山を模して石を積みあげた富士塚。富士大神の石は明治期のもの。
石像が彫られているのは庚申塔。

児守神社等摂社 上根岸橋と小櫃川
お社の裏手の左右に児守神社等の摂社。献兎乃記念碑の傍らにある石祠は道祖神。
神社の傍らに流れるのは上根岸橋の架かる小櫃川。

八坂神社所在地:千葉県木更津市上根岸171

参考図書
・井原頼明『禁苑史話
・『木更津市史
・『君津郡誌
・大畑春国『瑞兎奇談』
・『三河古書全集』
・小野清『史料徳川幕府の制度
※他、郷土史料として別途まとめます

伏見奉行所と伏見奉行

江戸伏見地図伏見奉行所

北方に奉行屋敷。道路を隔てた西方(京町裏)と奉行所南方に与力・同心等の組屋敷があった。
北門は大阪町通りの突き当たり、南門は平戸橋北方弾正町の入口に設かれた。
立石門の北に御囲米倉、立石通突当りは庭口にあたり南矢倉を置く。
本郭は中央は役所玄関口、役所の後方に火見櫓があった。

伏見奉行所跡の碑 伏見奉行所址の古写真
伏見奉行所跡
歴史のある土地に合わせたデザインを取入れた桃陵団地の入口に碑が佇む。
伏見奉行所址の古写真を見ると立派な石垣の塀で囲まれていたことが分かる。

伏見奉行所跡の石垣 伏見奉行所と兵営舎の石垣パネル
付近に石垣が残る。案内掲示板の上写真は江戸時代の石垣、下は明治期に陸軍が奉行所前の道路部分を西へ広げて建設した石垣。

 

■伏見奉行の役目
伏見奉行は伏見及び八ヶ村の政務を行った。
訴訟に関しては京都町奉行・奈良奉行・大津代官と共に京都所司代の監督下に属す。

城下町の伏見は廃城後も宿場町として栄え、西国から京に入る伏見街道・竹田街道が通り、また山科盆地から東海道に合流する地点でもある交通・経済の重要な地であった。
※西国大名が朝廷との接触を避けるため、参勤交代の大名行列は京都ではなく伏見宿を経た経路を使わせたという
港町でもあり、石川備中守時代(1714~1720)からは宇治・木津・伏見の各川筋の船舶も伏見奉行が管轄する。

伏見奉行は大名(1万石以上)が多く、万石以下の者も他の奉行と待遇が異なり役料は三千俵を給され芙蓉間詰従五位に叙される。
与力(よりき。町奉行を補佐。現米80石)10騎、同心(どうしん。与力の下で見廻り等警備に就く。現米10石3人扶持)50人、牢番1人が属す。
伏見奉行から町民に公布する幕府の法令は高札に掲げ、幕府の触書や奉行所の掟触書は奉行所詰合町村役人総代与頭に必要な分を写して更に各組で一通ずつ回達させた。常時掲げる重要な御高札場は京橋北詰西側に設けられた。

伏見奉行所の古図

■歴代伏見奉行
慶長5年(1600)9月の関ヶ原の役後、伏見は松平下野守忠吉(ただよし。家康4男)の支配下となり、忠吉の舎人の源太郎左衛門が新たに開いたとされる。伏見には伏見城の城代と奉行二人が置かれた。
慶長7年(1602)~元和元年(1615)の両奉行:柴山小兵衛定好長田喜兵衛義正
元和元~5年(1619)の両奉行:門奈左衛門宗勝山田清太夫重次
元和5年8月に伏見城が廃されて城代が無くなる。奉行に任じられた山口駿河守直友以降は1人(寛文5~8年までは3人か)となる。

元和9年(1623)12月に小堀遠江守政一(こぼりまさかず。小堀遠州/えんしゅう。松山藩第2代・近江小室藩初代藩主。遠州流茶道の租)が伏見奉行となる。
それまで奉行所は清水谷(しみずだに。旧堀内村。御陵石段下あたり)に在った。
寛永2年(1625)7月に豊後橋(現観月橋)の北の富田信濃守邸跡に伏見奉行所を築き移転。9年に緑と水が豊かな伏見の景観に合う風雅な館舎が完成した。
11年(1634)7月の将軍徳川家光上洛の折に家光は新築の奉行所屋敷に入り小堀遠州に茶を所望し、立派な庭園を賞賛した。
正保4年(1647)2月6日に69歳で亡くなる。

正保4年3月1日~寛文9年(1669)4月10日までの伏見奉行:水野石見守惟忠貞
この間の寛文5年(1665)7月6日~8年(1668)7月13日に宮崎若狭守政泰・雨宮対馬守正胤も名目上の奉行に任じられるが京の役宅に在り、両者は京の司法を任され京町奉行の初代(宮崎は東町、雨宮は西町)となる。

寛文9年7月3日に千石因幡守久邦が伏見奉行に任じられ、天和元年(1681)10月21日伏見で死去。
天和2年(1682)正月11日~貞享3年(1686)11月11日までの伏見奉行:戸田長門守忠利
貞享3年11月11日岡田豊前守善次が伏見奉行に任じられ、元禄7年(1694)2月13日に死去。
元禄7年3月28日~9年(1696)正月15日までの伏見奉行:青山信濃守幸豊
元禄9年~11年(1698)まで京都町奉行が分任。

元禄11年11月15日に再び伏見奉行を置き、建部内匠頭間政宇に任じる。
在任中に土地開拓を進め、中書島を開拓し蓬莱橋・今福橋(現在は埋立)が架かる。

正徳4年(1714)7月11日に石川備中守總乗が伏見奉行に任じられ、享保5年(1720)5月24日に病没。
享保5年6月~19年(1734)10月15日の伏見奉行:北條遠江守氏朝
享保19年10月20日~延享3年(1746)3月1日までの伏見奉行:小堀和泉守政峯(まさみね。小室藩第5代藩主)
延享3年3月1日~宝暦元年(1751)10月15日までの伏見奉行:管沼織部正定用
宝暦元年10月15日~8年(1758)11月18日までの伏見奉行:堀長門守直寛
宝暦8年11月18日に久留島信濃守光通が伏見奉行に任じられ、明和元年(1764)9月4日に死去。
明和元年10月15日に本多対馬守忠栄が伏見奉行に任じられ、安永7年(1778)9月20日に死去。

安永7年11月8日に小堀和泉守政方(まさみち。政峯7男。小室藩第6代藩主)が伏見奉行に任じられる。過去に奉行を務めた小堀家として期待されながら翌年2月27日に伏見に着任。
天明5年(1785)9月16日に後に伏見義民と称される町民達が政方の悪政を直訴し12月27日に罷免となる。      
政方は田沼意次に協力的であったため松平定信の粛清を受けたとみられ、その後親子で改易となった。

天明6年(1786)1月21日に久留島信濃守通祐(光通の子)が伏見奉行に着任し、京の東町奉行所で京町奉行丸毛和泉守政良と共に直々に、前任の奉行側と入牢中の九助ら多くの取調べをした。
寛政3年(1791)5月13日に死去。

寛政3年5月24日~7年(1795)12月8日までの伏見奉行:本荘甲斐守道利
寛政7年12月12日~12年(1800)12月28日までの伏見奉行:松平但馬守昌睦

寛政12年12月28日に加納遠江守久周が伏見奉行となる。
この頃の伏見奉行邸宅内には藤花があり、仙洞(せんとう。退位した天皇)の御覧に供す。文化4年(1807)12月20日解任。

文化5年(1806)3月~7年(1810)まで京都町奉行が分任。
文化7年10月24日に本多大隅守政房が伏見奉行に任じられ、11年(1814)10月30日に死去。
文化12年(1815)正月11日~文政2年(1819)8月8日までの伏見奉行:丹羽長門守氏昭
文政2年8月24日に仙石大和守久功が伏見奉行に任じられ、6年(1823)3月4日に死去。
文政6年3月24日~10年(1827)9月12日までの伏見奉行:堀田加賀守正民
文政10年10月12日~天保4年(1833)6月までの伏見奉行:本庄伊勢守道貫

天保4年6月24日に加納遠江守久儔(ひさとも。上総一宮藩初代藩主)が伏見奉行となり10月1日に着任。7年(1876)天保の大飢饉の被害を受けて大坂から伏見に毎日40石の給米。
天保8年(1837)2月の大坂町奉行所の元与力大塩平八郎の乱の際は与力・同心達を率いて東町奉行役宅に入り応援した。

天保9年(1838)9月24日より内藤豊後守正縄(まさつな。信濃岩村田藩第6代藩主)が伏見奉行となり12月23日着任。荒地を利用した利益を諸費用に宛てがい、桑栽培の奨励等の産業促進や、疫病の流行時は自らの資財で薬を施する等の善政を行った。安政5年(1858)に城代格に昇格し京都御所取締兼務を命じられる。安政6年(1859)8月11日に解任。

安政6年8月28日に林肥後守忠交が伏見奉行となり、寺田屋での坂本龍馬の捕縛の指揮等を執るが、慶應3年(1867)6月24日に死去(京の激動期の急死のため5月24日から一ヶ月黙されていた説あり)
※奉行時代は「請西藩第2代藩主林忠交-最後の伏見奉行」記事参照
以降伏見奉行所を廃し、維新後に奉行所が廃止となるまで京都町奉行の支配となる。

 

■明治以降
慶應4/明治元年(1868)正月3日の鳥羽伏見の役で、伏見方面の戦いでは薩摩軍が御香宮神社に陣を布き、会津藩兵と新撰組隊士ら幕府側が入った奉行所に官軍の砲火が浴びせられ、奉行所は焼け崩れた。
明治4年(1871)に親兵(後に近衛兵に改称)が置かれ、10月の東幸と共に東に移り、以降荒廃した。
明治5年(1872)兵制改革で第四師団大津歩兵第九連隊の分営の鎮台(陸軍屯所)となる。
明治19年(1886)5月20日に第四師団工兵第四大隊の兵営となり、第十六師団の深草に設置となると共に明治43年(1910)3月22日に第四大隊は攝津高槻に移り、新たに工兵第十六大隊の兵営地となった。
第二次世界大戦後は米軍に接収され米軍キャンプ場となり、後に日本に変換されると市営住宅が建ち今の桃陵(とうりょう)団地となった。
伏見奉行所跡周辺 伏見工兵第十六大隊跡の碑
伏見工兵第十六大隊跡の碑
左手にある桃陵団地の歴史解説掲示板の上の笠石は陸軍時代の門に使用されていた石。
※地図はクリックで拡大。古絵図との比較なので誤差あり

常盤就捕處の碑 大正時代の伏見桃山地図
常盤就捕處の碑
『頭角藏懐未嶄然 龍門母子此迍遭 老椎獨在興亡外 雪辱風餐八百年
 従四位勲二等岩崎奇一題』
この地の東の常磐町は源義朝の妻常盤御前ゆかりの井戸が由来とされ、牛若丸ら3人の子を携えた常盤御前が平清盛の捜索者にここで捕われたとして明治44年に建立。
平治物語には常磐は伏見の伯母を訪ね、伏見から大和宇多郡龍門へと伯父を頼って行く話がある。

維新戦跡碑 現代の伏見との重ね

京都市立桃陵中学校に維新戦跡と伏見奉行所跡の碑があり(見学許可必須)この校舎辺りに与力・同心の組屋敷があった。
伏見公園運動施設辺りが庭口、中学校グラウンド辺りが役所の敷地の南にあたる。
また市営団地建設の際に小堀遠州が手がけた奉行所の庭園の一部が見つかり、昭和32年御香宮神社に庭園の石を移して庭園が再現されさた。境内には伏見奉行が献納した燈篭もある。

「伏見奉行所跡の碑」所在地:京都市伏見区奉行町の市営桃陵団地内