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【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
茂三郎の次男の伊藤竹次郎は海外で医学を研究し伊藤病院の院長となる。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所

西小笹村の藍商喜左衛門・木更津村の島屋幸左衛門ら、縫殿三郎の主な親族の墓。

大河内喜左衛門安吉・豊子夫妻の墓
縫殿三郎・幸左衛門(幸芳)の両親。

伊藤喜左衛門安吉と母豊子の墓 大河内喜左衛門の墓

寶林院慈灮覺應居士
宝暦10年(1760)生。弘化4年(1847)10月30日、87歳で没。大河内喜左衛門安吉。
紫玉院悲峰貞應大姉
安政4年(1857)3月23日、88歳で没。豊子。

大河内喜左衛門 大河内喜左衛門明治二年伊藤ト改ム

江戸時代の大河内家の墓に「喜左衛門
近年の伊藤家の墓に「大河内喜左衛門 明治二年伊藤ト改ム
元々伊藤姓であったが領主から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)を名乗る。徳川義軍府(旧幕府脱走軍)に協力した木更津の大河内家について、西小笹村の喜左衛門宅にも佐倉藩の捜索があった。そのような騒動があってか再び伊藤に復姓した。

 

幕末の島屋当主大河内幸左衛門一郎
三千太郎の父親。木更津と、北海道の神居村に墓。

▼木更津の持宝院(現愛染院)
諦厳院大河内一郎の墓 芳讃湛義妙貞信

諦嚴院喜山明鏡居士
文久3年(1863)7月17日没。大河内一郎の墓。
芳讃湛義妙貞信女
慶応2年(1866)3月28日没。家族の女性。三千太郎の実母だろうか。

美香保丸難破後に伊庭八郎が頼ったとされる伊庭軍兵衛の門弟「大河内一郎」は官軍に抗って捕縛されていたとするが、三千太郎の父親の一郎は伊庭が最初に木更津村に上陸した時には既に亡くなっている。
尚、江戸の伊庭道場には三千太郎が入門したと伝わっている。※三千太郎については別記事で後日紹介

▼旭川の神居墓地 【2017年4月追記】
 
諦嚴院喜山明鏡居士 文久三年七月十七日亡」 俗名 大河内一郎
貞壽院夏光妙善大姉 大正二年八月四日亡」 俗名 伊藤くに

墓所の神居墓地(現旭川市神居町神岡)は明治40年に開設された。
大正2年(1913)8月に伊藤くにが亡くなった後、9月に大河内三千太郎が建立。

 

大河内三千太郎の妻なお
大田村の惣名主地曳新兵衛の娘で、17歳の若さで亡くなったとされる。

大河内道太郎の妻なをの墓 大河内道太郎の妻大田村地曳新兵衛娘

栄樹院直心妙了信女
慶応2年(1866)5月9日没。

因みに、地曳新兵衛の家から男子が下烏田村(木更津市下烏田)の諏訪家に養子に入り、その子が慶応4年戊辰の林忠崇の出陣時に病身で付き従い館山で命尽きた請西藩諏訪数馬

 

南町島屋で最後に生きた幸左衛門

最後の木更津島屋当主の幸左衛門墓 伊藤幸左衛門

盛光院三執願應居士
慶応4年(明治元年)8月24日没。家族と思われる伊藤幸左衛門の墓に共に眠る。

木更津村の明王山持宝院(現在愛染院に合併)の過去帳にも記載されている。
殿三郎の弟(幸芳)と家族の墓か。もしくは一郎が亡くなった後で義勇軍を率いて北行してしまった嫡子三千太郎の代りに、急遽幸左衛門の名を継いだ者かもしれない。すると伊庭八郎が頼ろうとし官軍に捕縛された大河内一郎がこの幸左衛門(新しい代の一郎)という見方もできる。

三千太郎は箱館戦争まで従軍し、放免後東京を経て北海道へ渡った。
大河内一郎(三千太郎の父)の後妻きたと、幸左衛門の次男(妻帯し分家)である常盤之助の一家は木更津村寺町に残ったが、明治8年3月の寺町大火で類焼してしまい、北海道へ転居した。

西小笹に移り伊藤に復姓した代の幸左衛門は、明治の合併で共興村となった際に助役となった。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

※現在関係者個人の管理のものもあるため、当ブログへの問合せはご遠慮願います

不二心流中村一心斎碑文

地蔵院の中村一心斎碑文 不二心流中村一心斎碑の刻文

中村一心斎供養碑
不二心流開祖の中村一心斎が嘉永7年(1854)10月3日赤荻村(千葉県成田市)で没し善福寺に葬った後、一心斎が剣を教えた西小笹村(匝瑳市)地蔵院と木更津村(木更津市)成就寺に分骨し大河内家を中心に門人達が葬儀を行った。
慶応2年(1866)10月不二心流二世の大河内縫殿三郎(幸安)親族と門人達の連名で一心斎の供養碑が建立された。
地蔵院は大河内家祖先伊藤河内守為安の白い愛馬を祀った伊藤(大河内)家縁の堂宇である。

妙はその子に譲られすつき穂かな

中村一心斎肥之島原城之人也姓藤原字一知身長六尺二寸美髭三尺五寸清正公之後云々先生竹馬歳始學劒法不遊他技既而訪師于四方從問從學遂究諸流之淵原矣後来于東部入鈴木重明之門開教場於八町堀教育子弟二三千諸侯聞名重聘者多然而固辞不仕焉悠然貫適意其他周遊而欲貽術於天下以成言鍛錬之心忠孝旡二之志報國體旡窮之恩也北總漁村岩井石橋氏盡禮敬而迎先生吾兄弟共從事濤川氏向後氏又教育一日先生語曰剣法體用未得自然文政戌寅之夏登駿之富峰行氣断鹽穀食百草而禱祈一百日季秋二十六夜非睡非覺身心豁然有得焉夫吾心精一則天地心精一豈有二心哉於是新號不二心流爲師術之表吾兄弟事先生積年親猶子世故所得悉傳與因開鍛錬場而以教授千時安政甲寅十月二日卒埴生郡赤萩鵜澤氏行年七十又三也荼毘以葬此地謚淨念雲龍今當十三諱辰門人來會謀不朽亦欲後生不忘先生之得澤書大䊠于時慶応二年十月也

大河内幸安
同  芳安
同  安道

経年磨耗して判読し難いため『続日本武術神妙記』の「中村一心斎碑文」を引用した。

中村一心斎碑の大河内署名部分 中村一心斎門人者名大河内総三郎

▲表面の大河内幸安らの署名部分。裏面に大勢の門人名が刻まれている。
表と同様に門人名も一部消えかかっていて確証はつかめないが、大河内総三郎(不二心流三世・幸経)と阿三郎(不二心流四世・安吉)の名にも読める。

 

* * *

上記の日本武術神妙記が今年、正・続編を併せて安価で読み易くした(ここで引用した碑文の旧字も現代語に置き換えられている)文庫本が出版された。中村一心斎や他剣豪の言い伝えが纏められているのでお勧めしたい。
著者の中里介山(なかざとかいざん)は、甲源一刀流の巻で中村一心斎が登場する小説『大菩薩峠』の作者でもある。

角川ソフィア文庫『日本武術神妙記』中里介山著

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流二代目】大河内縫殿三郎

不二心流大河内縫殿三郎の夫妻の墓所

大河内縫殿三郎と妻喜佐子の墓標
※現在は個人の方が管理しており撮影・WEB公開許可を得た墓碑のみ掲載しています。
 詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

 

万延元年(1860)の『武術英名録』に不二心流二世の縫三郎(縫殿三郎)の名が記されている。幸左衛門と市郎(一郎)は弟親子で木更津島屋当主として島屋道場で不二心流の剣術を教えた。
冨士心流 上総国望陀郡木更津
     大河内 縫三郎
      同  幸左衛門
      同  市郎


大河内縫殿三郎藤原幸安
おおこうちぬいさぶろう。縫殿之助、縫之助とも。号は三朗。
寛政2年(1790)下総国小笹村で伊藤喜左衛門安吉の嫡子として生まれる。母は豊子。
後に地域の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
妻は河津信行の娘、恵以子(のち喜佐子に改める)。

不二心流開祖中村一心斎門下一の剣の腕を持ち、一心斎の猶子となって正統二代目として文政年間に江戸八丁堀不二心流道場を継承した。

上総国望陀郡木更津の南町で弟の大河内幸左衛門藤原幸芳が営む紺屋島屋の敷地内と、八幡町の八劔八幡神社境内に道場をつくり、一心斎が木更津に隠棲している間共に指導にあたった。
縫殿三郎は周准郡富津村の代官森覚蔵(上総での任期1823~1840)管理下富津陣屋にも出向き、また請西藩士にも教授したという。
西小笹の実家の道場にも一心斎を招いて、上総・下総地域に広く不二心流を広めた。
慶応2年(1866)10月、嘉永7年に没した一心斎の碑を西小笹に建立

慶応4年(1868)戊辰戦争の幕開のこの年2月下旬に幕府撒兵隊の福田八郎右衛門の使者が大河内家を訪ねてきた。
勤王勢力に徹底抗戦する主張に高齢の縫殿三郎は静観したが、息子や甥達は撒兵隊に協力する意思を固めて義勇隊を結成する。縫殿三郎の「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」の句を以って見送ることとなった。

戦後の明治2年(1869)に、戊辰戦争の義勇隊長を務めた三男の阿三郎(大河内正道)と上総武射(むさ)郡成東で再会を果たす。
明治4年(1871)6月24日に東京市芝区芝山内旧粟田口青蓮院宮入黒道役所(現東京都港区)内で没した。82歳。
駒込蓬莱町海蔵寺(かいぞうじ)に葬られ、成東元倡寺(がんしょうじ)にも分骨した。宝樹院成壇幸安居士。
死後20年後に飽富神社に奉献された不二心流振武社の奉額には縫之助の名で筆頭に記されている。

駒込大智山海蔵寺山門 大智山海蔵寺社殿
▲曹洞宗大智山海蔵寺
海蔵寺所在地:東京都文京区向丘2-25-10

 

尚、『函館戦争記』等複数の箱館戦争史料に従軍者として大河内三千太郎と共に記され戦死している「大河内縫殿三郎(縫之助)」は不二心流門人達の証言では誤記ではないかとされている。大河内一門で実際に義勇隊として戦った「大河内縫之進」のように似た名前の別人の誤記か、縫殿三郎幸安から継いだ通称かは不明。(現在調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

宮川熊野神社と不二心流

宮川熊野神社拝殿 宮川熊野神社賽銭箱不二心流門人名
熊野神社拝殿と賽銭箱に刻まれた不二心流門人名 ※この門人名画像のみ見やすいように加工有

熊野神社不二心流藤城氏碑1基 熊野神社不二心流藤城氏碑門人中2基
藤城氏の碑
吉高以降藤城氏三代の功績を称える立派な碑が門人達によって建てられた。

 

藤城吉高
号は百翁。無一翁に就き、武を不二心流中村一心斎に学ぶ。家塾を設けて文武両道を教えた。妻は佐藤氏の娘。三男一女あり。
文政3年(1820)正月15日に下総国匝瑳郡宮川村(横芝光町)で代々神官の藤代家に生まれる。
天保13年(1842)4月に熊野神社祠官となり、伊勢守に任じられ匝瑳郡神官都司を歴任。
宮川800石の領主内藤因幡守に仕えて撃剣指南役となる。
嘉永2年(1849)に海防の事に勤労し甲冑を賞賜される。
明治2年(1869)神官督令に転じ神習殿式教を兼ね神官職免許状を賜る。
明治7、8年頃に家塾で息子の藤城吉隆吉直の兄弟が子弟の教育にあたった。
明治29年(1896)2月19日に77歳で死去。 明治34年に弟子達が碑を建立。

藤城吉高顕彰碑 熊野神社不二心流門人名右側 熊野神社不二心流門人名左側

神職藤城家を「フジシロ」と読む郷土誌もあり、飽富神社の不二心流奉額にも「藤代」とあるが、今の藤城(ふじき)宮司に伺ったところフジシロを名乗ったことは聞かず藤城=フジキであるそうだ。
【2016.10.26追記】神職藤城家とは別の、不二心流の技を継ぐ藤城家の存在も確認できた。こちらの藤城はフジシロとも読めるそうだ。この剣道家の藤城先生は鬼籍に入られ詳しい話しを聞くことは出来ないが、飽富神社の奉額については名前の一致からやはり神職藤城家の親子と思われる。

 

■宮川 熊野神社
千葉県神社庁規範神社。第九期神社本庁指定モデル神社。
祭神は伊弉册命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
清和天皇貞観18年(876)に紀伊熊野本宮より勧請。社号は宮川入之領境宮。
朱雀天皇天慶2年(939)に平貞盛が社殿を建て、社領十八貫目寄付。熊野新宮大権現と改称し、武門の帰依崇拝を集めた。
明治2年(1869)に熊野神社と改称し、明治6年(1873)10月に近郷十八ヶ村惣鎮守として郷社に列する。
昭和54年(1979)12月25日に江戸後期から演じられてきた太々神楽が町無形文化財に指定。

所在地:千葉県山武郡横芝光町宮川2118

参考図書等
・『千葉県匝瑳郡誌
他、碑文や案内板、宮司のお話

■■不二心流と木更津「島屋」■■