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結城藩成東陣屋跡地

結城藩成東陣屋跡地 成東松風山福星寺

成東陣屋跡地と結城藩学館「興譲館」の置かれた松風山福星寺

 

■結城藩成東陣屋
元禄13年(1700)10月水野隠岐守勝長(かつなが)が能登国西谷(にしやち。石川県七尾市)1万石から下総国結城(茨城県結城市)へ移封となり、元禄16年(1703)までに上総国2郡内7715石余の領地をあわせ1万8千石を領した。
結城藩水野家は武射(むさ)郡成東村に上総国領を治めるための陣屋を、廃城となっていた成東城址の入道山東南麓に造営した。
面積1615坪、かつては堀及び土手があり、南側に門、西側に牢屋や蔵が建てられていたという。

幕末の第10代藩主水野日向守勝知(かつとも。第9代藩主勝任の養子、奥州二本松藩藩主丹羽長富の八男)は佐幕派であり、藩内で佐幕派と勤皇派が内紛を引き起こすこととなる。
慶応4年(1868)1月11日には佐幕派家老水野甚四郎の蟄居を実行し、3月1日に旧幕府軍に上野東叡山の警備と彰義隊の指揮役を命じられた勝知は承諾の意思があったが家老小場兵馬ら恭順派家臣の嘆願が幕府軍に聞き入れられて警備と指揮は免除となった。
更に恭順派が画策したのは隠居の水野摂津守勝進(かつゆき。勝知の義祖父。第8代藩主)を江戸藩邸に迎え入れて藩政を取り仕切らせ、禊之助(勝進の次男。後の勝寛)を新藩主にすることであった。
しかし勝知の元に、脱藩した水野甚四郎ら佐幕派が駆けつけ、勝知は「一水隊」を結成し、自らが隊長となった。
3月16日に勝知は彰義隊隊士と合わせて300名を率いて、本領の結城へ藩主自ら攻め込んだ。
25日結城城の戦いは勝知が勝利し、勝進と禊之助や係累の婦女は成東に避難して難を逃れた。勝進は成東に留まり家臣達は禊之の相続を進めるため尾張藩へ身を寄せさせた。
4月5日に結城城は官軍に攻められ、勝知は彰義隊に守られながら久保田河岸より船で逃れて成東に潜伏した。数日後に江戸に上り一水隊を再編成し上野寛永寺外、屏風坂の守備に当たったが、上野総攻撃を受ける直前に天野八郎(彰義隊頭取)の勧めで離脱し親元の二本松藩邸に身を潜めた。
5月20日に官軍の捜索で津藩に引き渡され9月10日鶴牧藩に預替。避難中の勝進と禊之助(勝寛)は新政府からの命で帰藩した。

明治2年(1869)2月24日14歳の水野勝寛が上総領千石減封の1万7000石で最後の結城藩主となり、勝知は7月4日に改めて二本松藩預となった。
6月版籍奉還で勝寛は結城藩知事となり、11月に成東陣屋の西に位置する福星寺に結城藩学館興譲館が開かれた。朱子学と武術を教え、武術は大河内阿三郎(不二心流四世大河内正道)が指導した。翌年に作られた勝寛の筆による興譲館扁額は市指定文化財。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県、11月に成東陣屋を廃した。
明治6年(1873)12月1日に勝寛が18歳の若さで死去、21日に勝進も57歳で亡くなっている。

所在地:千葉県山武市成東上町

参考図書
・『山武町史』
・『千葉県誌・下
・『成東町郷土史料集』
・『成東町史』
・『成東町志』
・『東海道先鋒記』
・小沢治郎左衛門『上総国町村誌
・『三百藩戊辰戦争辞典・上

成東元倡寺の不二心流剣道碑

元倡寺山門 元倡寺不二心流報国社の碑

庭賢山元倡寺(がんしょうじ)と不二心流の顕彰碑
明治時代に不二心流四世大河内正道が成東町(なるとう。山武市)天神山の元倡寺に「興譲館」道場を置き、弟の大河内四郎信明と共に指導した。後の昭和43年に不二心流六代土屋政太郎(まさたろう)安高と関係者一同が元倡寺の境内に顕彰碑を建立。

不二心流
 開祖中村一心斎は夙に十八流を究めたが文政元年霊峰富士に登り剋苦研鑚壹百日九月廿六日夜霊威を得て不二心流と稱し后(後)常総の間を遊歴してその技を傳えた。
 二代大河内縫殿三郎は君津郡木更津町・匝瑳郡西小笹村に、三代大河内宗三郎は君津郡祇園村・大寺村に道場を設けた。
 四代大河内正道は関東諸国に門派を広め后木更津町に隠退。明治二年結城藩主水野日向守が成東巡回の際召されて撃剣師範役となり元倡寺を興譲館道場とし弟四朗が主として教授に当った。明治十五年四朗死亡により成東に移り上町に道場を置き明治三十三年より大正四年迠(迄)成東中学校撃剣教師となった。
 五代伊庭兵二は昭和三年成東成東町に不二心館道場を建設した。同門の人々皆一致団結して斯道の興隆に務め昭和二十四年土屋政太郎六代を継承して今日に至った。これを以って山武君津匝瑳郡下には伊那なおその流を汲む者が特に多く斯道先覚者諸氏の献身的薫陶は郷党の道義髙揚に顕著な美績を残されている関係者一同は諸先生の遺徳を慕い年々法要を行って冥福を祈って来たがここに碑を建立して顕彰し一層の精進をお誓いする。
 昭和四十三年六月三十日 不二心流報国社
 題字 松本縫三郎、文並書 土屋政太郎

※当記事で句読点等を追加した

不二心流碑篆額 不二心流顕彰碑の発起人

 

庭賢山元倡禅寺
応安元年(1368)10月1日に臨済宗の具保禅師創開、南紀より椰樹の柱を携え来たと伝わる。宋国請来の阿弥陀仏像が本尊。
大永年間に成戸(成東)城主千葉利胤が梅月禅良和尚を招き曹洞宗に改める。
天正18年(1590)成東城落城時に伽藍を焼失し寛永10年(1632)東金代官野村彦太夫が檀家となり伽藍を再興した。(二代目野村彦太夫造立の九重塔は山武市指定文化財)
山武地域の農村で朱子学(上総道学)を広めた大儒稲葉黙斎(いなばもくさい)正信の墓所。

所在地:千葉県山武市成東2697

■■不二心流と木更津「島屋」■■

不二心流と木更津「島屋」(まとめ)

木更津鳥瞰図で見る島屋と戊辰戦争
観光パネル昭和11年松山天山写生『千葉縣木更津町鳥瞰圖』に大河内家関連跡地・所在地を上書

不二心流の流祖・剣豪中村一心斎と、不二心流を継承した大河内一族、木更津の紺屋「島屋」と
戊辰戦争で徳川義軍に関わった経緯等のブログ記事まとめです。

不二心流
【不二心流開祖】中村一心斎の略歴と成就寺供養塔
不二心流「中村一心斎碑」
不二心流伊藤実心斎の供養墓
飽富神社の不二心流奉額
成東元倡寺の不二心流剣道碑
宮川熊野神社と不二心流
────他、追加予定

島屋と大河内家
木更津の紺屋・大河内幸左衛門「島屋」
大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所
【不二心流二代目】大河内縫殿三郎(幸安)
【不二心流三代目】大河内総三郎(幸経)と寺町「志摩屋」
【不二心流四代目】大河内正道(安吉)と戊辰戦争義勇隊
大河内三千太郎(幸昌)[1]上総義勇隊頭取
大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる
大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生
空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

 

■関連記事
結城藩成東陣屋跡地
糀屋村名主伊藤仁右衛門茂平碑

 


戦前の木更津八幡町。江戸時代に不二心流大河内家が在った(写真右の硝子店の建物辺)通り

※各記事は福田久一郎著『不二心流系譜並略伝』を元に、文中に明記した各参考史料と関連旧蹟の碑文や聞き取りで補足しました。ご協力ありがとうございました。

木更津の紺屋・大河内幸左衛門「島屋」

島屋跡地の山崎医院周辺 木更津の紺屋の島屋跡地

▲昭和4年『千葉縣木更津町鳥瞰』の島屋推定跡地(旧山崎医院)周辺と跡地に沿う矢那川
南町(現木更津市富士見)島屋は新田川(矢那川)沿いにあって豊富な水で藍染をしたのだろう。
講談『切られ与三郎』のモデル四代目芳村伊三郎こと中村大吉が南町島屋で型付職人をしていたともされるが、大河内家の島屋か別の島屋かは不明。歌舞伎の人気演目となった瀬川如皐『與話情浮名横櫛』では「南町藍玉屋善右衛門」で登場する。
戊辰戦争の際、福田八郎右衛門・江原鋳三郎(素六)ら撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい)が木更津に駐屯し、撒兵頭の福田が大河内家の島屋を宿所としたようだ。

 

大河内幸左衛門「島屋」
大河内氏は藤原鎌足の摂家光明法寺摂関左大臣九条修理大夫長家の流れで、天正10年織田軍の甲信攻めで信州伊那城主伊藤志摩守為長(靫負。28世)が降伏し、戦で負傷し不具となった18歳の息子伊藤河内守為安は縁故の本多氏(当時の領主、本多縫殿亮か)を頼り家臣の17士と共に下総国匝瑳郡西小笹村(西小篠/こざさ。匝瑳市。旧共興村)に帰農したという。彼らは向地屋組十七家と呼ばれ、為安は隠棲して縫右衛門と称した。
縫殿三郎(1790-1871)の時に、西小笹の領主である旗本の菅沼氏から大の字を賜り伊藤から大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)と姓を改めた。
※西小笹村は維新前は旗本菅沼藤十郎、森川内膳正、岡部中務、馬場繁治郎の分領

下総国匝瑳郡小笹村 西小笹の長屋門
西小笹には現在も往時の村の隆盛を偲ばせる長屋門や古民家が生活に溶け込んでいる

 

文化年間の初めに阿波国(四国徳島)の僧が藍種を隠し持って小笹村を訪れ、逗留した伊藤家にもてなされた礼として藍業を伝授した。
文化2年(1805)4月4日に伊藤家当主喜左衛門の弟幸左衛門が阿波に向かい、5月に鳴門に着き名主の金兵衛に阿波国秘伝の藍業を詳しく教わった後、栽培用の藍種を持ち帰った。
西小笹村での生産に成功し屋号喜左エ門は1町5反の藍畑を持ち栄えたという。
四国続西小笹 四国同行中
▲縫右エ門と幸左エ門の姓は擦れているが(不完全な読取で佐藤とする郷土誌もある)、実際に刻字を観察した限りでは願主の伊藤喜左エ門と同じ伊藤に見える。
文政4年(1821)は縫殿三郎の父の喜左衛門安吉は62歳なので隠居し、藍商喜左衛門の当主は次の代か。縫殿三郎はこの時32歳。
四國同行中 伊藤縫右エ門 同 幸左エ門 渡邊権兵衛 増田□
文政四辛巳年 三月吉日 西小笹邑中  願主 伊藤喜左エ門
※四国巡礼者達と思われ本件の阿波へ渡った伊藤幸左エ門らと関わりがあるかは不明だが、祖先伊藤為安が縫右エ門を名乗っているためその名を代々継いだ紺屋大河内家の兄弟であろう。

 

木更津南丁島屋

阿波で藍業の技術を得た幸左衛門は江戸越前堀の藍問屋の島六(森六・まる九)の株を買い、木更津に「島屋」という名の紺屋(こうや)の出店を持った。富士山が見える立地若しくは不二心流(富士浅間流)道場があったためか由来は不詳だが富士城や不二城とも呼ばれた。
※越前堀は中村一心斎・大河内縫殿三郎の江戸道場が開かれた八丁堀の東
以降、代々島屋の当主は幸左衛門の名を継いだ。

木更津山崎公園 木更津旧山崎医院

▲島屋があった推定地の山崎公園と旧山崎医院
島屋跡地ははっきりしないが昭和27年木更津市発行『木更津郷土史』等で「山崎医院の場所」としている。
山崎節『山崎直その踏跡』によると山崎周太郎氏が向かいの塩勘の右隣の倉庫の所に開院し、明治20年頃に現在の山崎公園と旧山崎医院(大正9年建築)の場所に移転した。
因みに周太郎の兄、山崎邦之助(内蔵之助)は佐貫藩相場事件での佐幕派剣士であった。

木更津證誠寺参道 山崎公園と君津橋

▲君津橋(證誠寺橋)対岸の左が證誠寺参道で開院当初の山崎医院側。右が移転後の山崎病院
【2016.11/5追記】昭和当時の郷土研究家の聞取元が開院当初の山崎医院を言った可能性もあるので、補足として昭和初期鳥瞰図での島市(材木店。岸本家)敷地跡を追加。新政府に土地を接収されたなら公園側が妥当か。

 

島屋道場

八劔神社道場周辺 八劔八幡神社専用駐車場

▲かつて八劔八幡神社境内の不二心流道場があった地と周辺鳥瞰図 ※鳥瞰図は木更津駅前パネルより
島屋では番頭から小僧まで皆剣術を習い、門下は「島屋門」と呼ばれたという。島屋の敷地内の道場の他に、八幡町(木更津市富士見)八劔神社の境内にも町道場を作り中村一心斎・不二心流正統大河内氏・不二心流門下で神職の八劔氏が指導した。
八幡町道場があった住所は大河内一郎(維新前に死去し愛染院に葬。長男の三千太郎が継ぐ)が戸主であった記録が残っている。
現在は八劔八幡神社専用駐車場となっている。

 

木更津愛染院 木更津愛染院の大河内家墓所
愛染院大河内家の墓

山崎公園所在地:千葉県木更津市富士見1-14-14
瑠璃光山愛染院所在地:千葉県木更津市中央1-3-15

■■不二心流と木更津「島屋」■■

飽富神社の不二心流奉額

袖ヶ浦飽富神社 飽富神社の不二心流奉額

▲飽富(あきとみ)神社と不二心流振武社奉額
明治24年(1891)10月奉献。
先頭に大河内縫之助不二心流正統二代目)や大河内正道(不二心流正統四世)の名。
藤代吉高・吉隆は、中村一心斎に剣を学んだ藤城吉高と吉隆親子と思われる。
上総国望陀郡根形村飯富(いいとみ)に「振武社」を起こした伊橋清三郎以下、飯富や奈良輪等、近隣の門人の名が連なる。
不二心流奉額左側 不二心流奉額左側

 

飽富神社(飫富神社)
祭神は倉稲魂命、相殿大巳貴神・少彦名神。
綏靖天皇(すいぜい。神武天皇の皇子)の即位元年(皇紀80年)4月に天皇の兄である神八井耳命(かんやいみみのみこと)が創建したと伝わり、平安時代の延喜式神名上に上総国五座大一座として記されている古刹。
古代の上総国望陀郡飫富庄の豪族飫富(おふ)氏にちなんだ飫富宮(おふのみや)で、いつしか飽富とも称されるようになった。
天慶2年(939)3月、平将門公の兵乱の時に朱雀天皇の勅使が鎮定祈願を修して太刀一振りを納めたという。飽冨神社には古くから太刀が奉納されており、平安時代末期のものとみられる無銘附太刀拵(つけたりたちこしらえ)が市指定文化財として指定されている。
現代の権現造りの社殿(有形文化財)は元禄4年(1691)再建。
明治6年(1873)2月27日郷社、5月30日に縣社に列する。
飽冨神社で毎年正月に行われる年占行事の筒粥(つつがゆ)は県指定無形民俗文化財。

所在地:千葉県袖ケ浦市飯富(字東馬場)2863

■■不二心流と木更津「島屋」■■