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世古六太夫と幕府遊撃隊箱根の役前日譚

 ※画像は世古六太夫碑より

世古六太夫(せころくだゆう)
通称は六之助、諱は直道
天保9年(1838)1月15日、伊豆国君澤郡川原ヶ谷村(静岡県三島市川原ヶ谷)の栗原嘉右衛門正順の次男として生まれる。
栗原氏の祖は甲斐源氏流武田氏で、清和源氏流武田系図によると11代当主武田刑部大輔信成の子の十郎武続(甲斐守。七郎とも)が甲斐国山梨郡栗原邑(山梨県山梨市)に居住し栗原を称した。
嘉永2年(1849)4月に駿河国七間町(静岡市葵区)山形屋某に雇われ、翌年8月に帰郷。(山田万作『岳陽名士伝』)
14歳で伊豆国田方郡の三島宿(三島市)一ノ本陣・世古家に入り、家業を手伝う余暇に文武を磨き、学問は津藩士斎藤徳蔵正謙に学んだ。15歳で世古清道の嗣子となる。世古家を継ぐと、本陣主として六太夫を名乗った。
安政4年(1857)長男鑑之助(後に六太夫の名を継ぐ)が生まれる。
安政5年(1858)三島宿の問屋年寄役となる。

 
世古本陣表門を移設したとされる長円寺「赤門」と世古本陣址
本陣は大名・公家・幕府役人などの宿場施設で大名宿とも呼ばれた。世古本陣は参勤交代では尾張候の御定宿であった。

 
問屋場址と世古本陣付近の三島宿復元模型模型画像は樋口本陣址パネルより
江戸時代の運輸は人馬を使って宿場から次の宿場へ送り継がれ、この公用の宿継(しゅくつぎ)は問屋場を中心に行われた。問屋場には問屋年寄、御次飛脚、賄人、帳付、馬指人足送迎役などあり、問屋場の北側の人足屋敷には雲助と呼ばれた駕籠かき人夫が詰めていた。

文久2年(1862)駿河国駿東郡愛鷹山麓の長窪村(長泉村)の牧士(牧の管理者)見習となる。(明治には牧士として「瀬古六太夫」の名がある)
文久3年(1863)韮山農兵調練所が設けられ、江川太郎左衛門代官管内の農民子弟凡そ70名を集めて軍隊調練を行った。六太夫は韮山農兵の世話役を勤めた。
慶応3年(1867)箱根関所を破り逃走した薩摩の浪士脇田一郎ほか2名を、六太夫は代官手代と協力して原宿一本松で召し捕る。

 
農兵調練場址三島代官所跡
宝暦9年(1759)韮山代官所と併合し治所を韮山に移した。
三島陣屋の空き地は江川坦庵の創意で農兵調練場とした。維新後は小学校の敷地となる。

慶応4年(1868)倒幕を遂げた明治新政府と旧幕府の抗戦派による戊辰戦争が開戦した。
3月24日、新政府が大総督府を置き東征させる折、三島宮神主矢田部盛治(もりはる)は矢田部親子と社家等70余人を沼津~箱根両駅間の嚮導(先導警護)兵として奉仕する願書を先鋒総督に送る。(『東海道戦記』)伊豆伊吹隊(息吹隊)と名づけて25日に嚮導して三島宿は難なく官軍を休憩・通過させることが出来た。
閏4月上総国(千葉県)から出陣した旧幕府遊撃隊と請西藩藩主林忠崇ら緒藩兵による旧幕府隊が沼津に向かい、兵を引くよう江戸から遣わされた旧幕府重臣(既に新政府に恭順)との交渉上沼津藩監視下の香貫村に駐屯し、返事の約束の日を過ぎても音沙汰ないまま足止めされていた。
5月18日、上野山の彰義隊蜂起の報が届き、やむなく旧幕府遊撃隊人見勝太郎が抜け駆けの形で自軍(第一軍)を率いて加勢に向かうことを決意する。
夕方に三島宿へ「澤六郎・木村好太郎」の名で、翌日夜の宿割と人足(宿場町が提供する運送者)を問屋役人の六太夫らに命じに来た。軍目(憲兵兼監察役)澤六三郎らによる林忠崇を筆頭に全軍が通過する準備とみられ、人見の行動は切迫した状況打破のために林忠崇公らと示し合わせた(おそらく沼津藩主水野出羽守の温情もあっての)策であったことを窺わせる。

19日朝、連日の大雨で氾濫した川を渡り脱した人見隊が三島にたどり着く。
しかし明神前に新政府によって俄作りの新関門が置かれていた。
旅籠松葉屋に居た関門長の旧幕府寄合松下加兵衛重光(嘉兵衛、嘉平次。下大夫。4月25日から三島駅周辺警守にあたる)が駆けつけ、通過を阻まれた人見隊は、大鳥居に木砲2砲構え、白地に日の丸の旗を翻して関門を威嚇する。
一触即発の危機に、問屋役の六太夫や三島宮神主矢田部が取成して、矢田部が松下を佐野陣屋(現裾野)に報告に行かせる機転で、事なきを得たという。

後発の旧幕臣本隊が、伊庭八郎率いる第ニ軍を先頭に東海道を真っ直ぐ進み昼過ぎに三島に到着。
宿場には徳川家康以来幕府に恩がある者が多く、六太夫ら問屋役人一同は千貫樋(せんがいどい。豆駿国境にある灌漑用水路の樋)まで出迎えたという。
世古本陣の西に在る脇本陣・綿屋鈴木伊兵衛に林忠崇を総督とする本営を置き休憩。
人見らの救援として前田隊を急行させてから、本隊も山中村へ向かった。
こうして三島宿を戦禍の危機から救った六太夫だが、新政府軍に幕府方内通者との嫌疑がかかり、これまで新政府に尽くしていた矢田部らの嘆願も聞き入れられず捕えられてしまう。佐野の獄舎にて詰責を受けたという。病のため矢田部家に預かりになり縛後31日目に釈放。
7月18日三島関門が撤廃される。

 
▲三嶋大社鳥居前と矢田部式部盛治像大人銅像(澤田政廣氏作)
矢田部盛治は掛川藩家老の橋爪家からの養子で、安政の大地震で倒壊した社殿の復興を果たし、祇園山隧道を開鑿し新田開発を行うなどで三島宿の民から慕われた。

明治3年(1870)明治政府により本陣が廃止される。
明治5年(1872)六太夫が戸長となる。
明治7年(1874)に第四大区一小区副区長となる。
明治12年(1879)三島に小学校の前進になる新築校舎建設に協力。
明治17年(1884)7月24日三男の松郎誕生。(後に兄の六太夫廣道の後を継ぎ、大正10年に市会議員となる)
明治20年(1887)沼津に移住。
明治28年(1895)に沼津・牛臥に海水浴場旅館「三島館」を建て、三島の旧宅を修築し「岳陽倶楽部」とし、各界著名人と交遊を深めた。
明治36年(1903)に妻のナツが61歳で死去し、長円(ちょうえん)寺に葬。法名本修院妙道日真大姉。
大正4年(1915)12月31日78歳で死去し、妻と共に長円寺に眠る。法名本行院直道日壽居士。

 
正覚山大善院長圓寺・世古六太夫夫妻の墓
維新後の六太夫は教育の推進者として伝馬所跡に私立学校開心庠舎(かいしんしょうしゃ)を開設し、実業家として沼津停車場前に通信運輸事業を展開して郵便事業の基礎を築く等、郷土に貢献した。

三島宿 歌川広重「東海道五十三次之内 三島 朝霧」(沼津市設置の路上パネルより)
東海道五十三次の三島
慶長6年(1601)德川家康によって東海道五十三次の11番目の宿場に指定され、古くからの交通の要所であり伊豆一宮の三島明神(現在の三嶋大社)もあり隆盛した。
一ノ本陣・世古六太夫、二ノ本陣・樋口伝左衛門
脇本陣3、他旅籠74軒(天保年間)

・「長円寺」所在地:静岡県三島市芝本町7-7
・「三嶋大社」所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1-5

参考資料
当記事と請西藩関連記事中明記の文献の他、案内板(三島市教育委員会、本町・小中島商栄会設置)、郷土資料館展示・収蔵史料等。閲覧許可ありがとうございました。

【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し德川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め德川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、苗字が田代となった。
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

甲府に向け黒駒へ

慶応4年(1868)閏4月19日、伊庭八郎の進言で、甲府城にの奥平・真田・水野等の兵達への対策として、遊撃隊の精鋭20人が難所の三坂峠を押さえた。
真田家の兵が黒駒まで来たが、三坂峠に請西藩林忠崇と旧幕府遊撃隊らの兵が既に陣取っていることを知り退却。

20日朝、忠崇一行は川口を出発。三坂峠を経て藤ノ木に進行。黒駒で逗留する。

御坂峠 御坂みち上黒駒

御坂峠を経て黒駒へ至る

 

5月に入り甲府へ軍を進めようとしたが、徳川家からの説得が伝わり、沼津表で10日を期限として命を待つことに同意した。

甲府城址 甲府城の発掘された石垣

甲府城址と発掘された石垣。忠崇らは甲府城を脅かさずに引き返した。

一行は5月2日から黒駒から道を南へ遡り、5日に沼津城下近くの香貫村に入る。

ちば遺産100選「利根運河」

利根運河 利根運河の歴史と現況

▲利根運河(とねうんが)
明治23年、利根川と江戸川を結ぶ全長8.4Km・海底幅18m・平均水深1.6mの利根運河が利根運河株式会社の資本により完成しました。
前回の記事の通り「土木県令」と呼ばれた人見寧(勝太郎)が利根運河会社の初代社長です。

利根川口の船戸と江戸川口の深井新田に通航料を徴収する収入所が置かれ、50年間で約100万艘、年平均2万余艘が航行しました。
利根川河口の千葉県銚子から遡り、それまで3日かかった関宿・宝珠花経由での輸送路を1日に短縮できるようになり、運河の観光地化推進も手伝って付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並び賑わいをみせました。

大正時代の利根運河略図

■利根運河年表
明治12年(1879)オランダ人一等工師A.T.L.ローウェン・ホルスト・ムルデル来日。
明治14年(1881)春に茨城県議会議員の広瀬誠一郎秋場庸が、茨城県令(現在の知事)人見寧に利根運河開削を具申する。
明治15年(1882)2月広瀬が北相馬郡長となる。
明治16年(1883)1月御雇オランダ人4等工師ヨハネス・デ・レーケが内務省から利根運河の実地調査を命じられ、人見らも同行。

明治17年(1884)5月 人見は内務・大蔵・農商務の三卿に『茨城県五工事起業提言』を提出。利根運河建設案も含み、この時は千葉県南相馬郡三ツ堀(野田市)~江戸川左岸の加村(流山市)間で「三ツ堀運河」の名称であった。
明治18年(1885)2月からデ・レイケの後任としてムルデルが測量実地し内務省土木局三島通庸へ、船戸村(ふなと。柏市)と深井新田(流山市)を結ぶ掘削を最小限に留めたルートで構想された「江戸利根両川間三ケ尾運河計画書」を提出。
6月17日、人見と千葉県令船越衛が江戸利根運河協議書に調印。
7月8日人見が茨城県令を非職となり、島惟精(これただ)が後任となる。

明治19年(1886)5月8日島が茨城県令を辞任、11日死去。安田定則が後任となる。
7月に千葉県令・茨城県令・東京府知事三者合意で内務大臣山縣有朋に「運河開鑿之義ニ付上申」を提出し開削を建議。6月12日ムルデル一時帰国。
8月10日に広瀬が北相馬郡長を辞任し、下旬に麻布の人見邸に訪れる。

明治20年(1887)内務省から中止を命じられ、広瀬は民間企業での開削をめざす。
4月1日浅草の名倉屋で事業計画の打合せ会を開催。メンバーは●人見寧●広瀬誠一郎■秋場庸●色川誠一(創立メンバーが解離する中で長く運河事業に携わる。後に富士製紙常務取締役)●池田栄亮(千葉県会議長)●森隆介(茨城県会議員)■椎名半・関口八兵衛・笹目八郎兵衛。
人見・広瀬・色川は併せて利根運河の「三狂生」と呼ばることとなる。
10日発起人会を東京向島枕橋の八百松楼で開催。70名余りが集まり、来賓には内務次官、東京・茨城・千葉の知事等。
11日に広瀬は東京の京橋の木挽町商工会クラブで「利根運河創立協議会」を開催。
●人見●広瀬●色川●池田●森■高島嘉右衛門(大株主。後に高島易断で有名)、の6名が創立委員選出。
12日に日本橋蛎殻町三丁目の醤油会社内に仮創立事務所を置き、株式一株50円で株式申込受付開始。
13日に早くも目標の8千株40万円を集めて締切。
30日に創立事務所を日本橋区浜町2丁目11番地に移す。
5月9日に千葉県知事船越へ「利根運河開鑿願」を提出。ムルデルが再来日し、6月21日付でデレイケとの連盟で洪水を配慮した運河計画訂正書を西村捨三土木局長へ提出。

11月10日千葉県の「利根江戸両川間運河開削免許許可書」が交付される。特許の許可と国の保護と援助と共に、工期を24ヶ月に限定する等の規制が打ち出された。
20日、木挽町の貿易商会で株主総会を開き、役員を選挙。社長に●人見、筆頭理事に●広瀬、理事に●色川●池田●森(12月に辞任)、協議委員に■秋場■高島■椎名▲安田善次郎・秋元三左衛門・岡野寛・伊能茂左衛門・川村唯助・岩崎重太郎・茂木左平次が就任。
12月13日「利根運河会社」事務所を日本橋区浜町に設ける。

明治21年(1888)3月17日利根運河会社本社が建築落成を千葉県に上申。
3月29日利根運河会社支社設立を東京府に届け出(浜町事務所の住所)
5月9日工事着手。ムルデルは西深井村の矢口伊之助(征治。株主)宅の離れを宿舎に工事現場を監督した。内務省技師の近藤仙太郎が工事を監修。
三区に分けた工事のうち、第一工区はの化土(けど。腐葉土を含む)が多く土捨場まで廃棄運搬しなければならなかった。
土の運搬はモッコ等による手動と、木製レールを敷いたトロッコ、土を運搬する土船を使用。
第二工区内では湧水が阻み、アバ(小さな堤)で区切り湧水を汲みだしながら工事が進められた。
第三工区は地盤沈下のため修繕しながらの工事となり遅延した。

7月14日運河開削起工式を本社にて挙行(内務大臣、東京都・千葉・茨城県知事等来賓)
30日に会計検査委員を設置。委員は▲安田・志摩万次郎(池田に代わりに理事。筆頭株主)・笠野吉次郎。

明治22年(1889)1月15日ムルデルはの功績に対し勲4等が贈られた。
1月に悪水溝(あくすいみぞ。排水路)の「今上(いまがみ)落とし」伏せ越し(運河を横断させる)工事着手。
5月13日人見が病のため社長を辞任。23日に志摩が2代目社長に改選。11月28日広瀬が理事を辞任。
12月に6ヶ所の狭窄部(洪水対策のための補強箇所)工事開始。利根川河口に近い第五狭窄部には石積みの「水堤(すいせき)」を設置。

明治23年(1890)1月末に木桶組の今上落とし工事完了。
1年10ヶ月にわたる工事の従事者は延べ220万人にものぼり40万円の予算を超える57万円近くを費やした。
2月25日ムルデル立会いの元、江戸川・利根川間の水を通水。
3月18日広瀬が東京浜町事務所で病死。享年54。
25日に運河営業を開始し、通船。
5月11日ムルデルが任期満了で横浜からオランダに帰国。
6月18日に深井新田の本社で総理大臣山縣有明、内務大臣西郷従道他政府関係者らが臨席する盛大な竣工式を開催した。

利根運河碑 利根運河のいわれ

▲利根運河碑
明治41年深井新田の利根運河会社に建立。題額は竣工当時総理大臣山縣有明、撰文は起工当時千葉県知事船越衛。運河駅近くに移動したの現在は流山市立運河水辺公園に移設されている。

ムルデルの碑と利根運河 ムルデルの碑

▲ムルデル顕彰碑
昭和60年にムルデルの碑が建立された。碑と同じく公園の運河沿いに佇んでいる。

 

■その後の利根運河
明治29年(1896)4月に河川法により洪水対策を重視した高水工事により、運河に不向きな河川が作られ、33年(1900)からの利根川改修工事が利根川水運に大打撃を与えた。
鉄道や自動車の輸送も盛んになり、衰退していく。
渇水や台風による増水等の自然災害にも悩まされ、昭和16年(1941)7月の大洪水により水被櫃端が崩壊。応急処置で利根川口に土手を築いで流れを閉め切り、航路機能が停止。

昭和17年(1942)1月25日に利根運河会社の内務省への売渡しが決まり、2月23日に利根運河会社は解散。利根運河は約50年の舟航路としての運河の役割を終えた。

国は運河としてではなく利根川の洪水分派を目的として買収し
昭和18年(1943)1月22日に派川(ばせん。分流)として認定され「派川利根川」となり、「利根運河」は行政上消滅した。

昭和23年(1948)に利根運河復旧促進同盟会が結成され、27年(1952)利根運河の改修工事が済み通水を待つだけになったが、ついに利根川口は開かれず、池の様な状態だった。

東京オリンピック(昭和36年)を契機に東京の都市再開発が進み、利根川下流印西市発作(ほっさく)から松戸市主水新田(もんどしんでん)で江戸川に合流する「北千葉導水路」建設が始まるが工事に時間がかかり、水不足の解消のため利根運河が「暫定水路」として利用され、再び通水する運びとなった。
昭和48年(1973)に市用水の補給を目的とする「流況調整河川」として野田緊急暫定導水路事業が開始。
昭和50年(1975)に、34年ぶりに利根川の水が運河に流れ込んだ。
現在の利根運河とほぼ同じ姿になったが、流水量は少なく、周囲から流れ込む生活雑排水により汚濁は改善されず、名称も「野田緊急暫定導水路」となった。

平成2年(1990)の利根川運河通水100年記念の祝祭の開催を契機に派川利根川から「利根運河」に改称。
平成12年(1990)3月に況調整河川の北千葉導水事業が完成し、暫定導水路ではなくなり、洪水分派河川の役割に戻る。
平成18年(2006)に社団法人土木学会が「推奨土木遺産」に指定。
平成19年(2007)経済産業省が「近代化産業遺産」に指定。下水道工事・景観整備が進み、財団法人古都保存財団の「美しい日本の歴史的風土準100選」にも選ばれる。
平成20年(2008)には千葉県教育委員会より「ちば遺産100選」に指定された。

運河橋 料亭新川と盛土 利根運河の水鳥

▲運河橋、運河堀削土の盛土
運河橋は開削時に唯一架かっていた橋(昭和時代に架替え)。奥のアーチは右手のすぐ先にある運河駅に通じる東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)の陸橋。
明治44年に千葉県営鉄道野田線が開通した。大正11年に北総鉄道となる。
老舗・割烹新川の脇の土手は運河堀削土の盛土のようです。

参考図書
・田村 哲三『志摩万次郎伝
・山本鉱太郎『江戸川図志
・川名 晴雄『利根運河誌
・北野道彦『利根運河
・『流山市史別巻 利根運河資料集
・新保往國弘『水の道・サシバの道
・流山市教育委員会『利根運河120年の記録』
・根岸門蔵『利根川治水考
・日本工学会『明治工業史2明治工業史2』
・鈴木為三『志摩万次郎君略伝』
他、利根運河交流館、関宿城博物館、流山市立博物館案内・展示資料等

人見寧-幕府遊撃隊・土木県令・利根運河の三狂生

人見勝太郎寧の写真 人見寧 ひとみやすし。写真は箱館戦当時

■人見寧の生立ちと遊撃隊への抜擢
初め勝太郎(かつたろう)。字は君寿、号は模坪。
天保14年(1843)9月16日、二条城の西、二条千本の十軒屋敷で幕臣・人見勝之丞の長男として生まれた。
勝之丞は京都文武場(ぶんぶじょう)の文学教授を務め(漢詩文が何篇か現存しており、特に得意としていたようだ)母は仙子(清水家)。
人見家の先祖は江戸時代前期に武蔵国から丹波国に移り、享保14年(1729)丹波国馬路村の郷士人見治郎右衛門が株を買い武士身分に転じ、京都に移住した。

勝太郎は10歳の時に京都学習院の儒家の牧贑斎(百峰)に入門し、そして大野庄之助に剣術、江川流の山田某に西洋砲術を学んだ。

文久3年(1863)将軍徳川家茂が上洛し3月に二条城に入る。家茂は京都の幕臣達に文武奨励を号令し、人見勝之丞と19歳の勝太郎が二条城に呼ばれた。勝太郎は家茂の前で孟子梁恵王上篇の一章を講義して白銀3枚を、更に撃剣上覧で白銀3枚を恩賜を賜った。

慶応3年(1867)12月に勝太郎は幕府親衛隊である遊撃隊に抜擢され二条城の君側(慶応2年に家茂は他界し一橋慶喜が将軍となる)に勤仕。下旬に慶喜に供奉し大坂城に入る。

 

■鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868)1月2日遊撃隊は慶喜上洛の御先供の令を受け、今掘摂津守(元講武所師範役)に属し、黒谷に先発する。大阪城から船で淀川を上る。
3日の明け方に伏見に着く。しかし薩長の兵が鳥羽・竹田街道に関門を置いて幕府方の洛中入りを阻んでいた。手出し無用の命令を厳守して手持ち無沙汰な幕府先発兵に対し、薩摩兵は余裕のある態度で挑発する。
夕方5時頃に鳥羽街道上の赤池付近で幕府方と薩長兵の押し問答の最中、突然薩摩方が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が届いた伏見でも開戦となった。

伏見方面の薩摩兵は御香宮(ごこうのみや)に布陣。
幕府方は会津軍の主力が伏見街道に集結して伏見奉行屋敷を固め伝習隊が北の御門、新撰組は裏手を警備し浜田藩が控えた。
奉行所を見下ろす位置にある龍雲寺から薩摩藩第二砲隊の大山巌(通称:弥助。弥助砲と呼ばれる薩摩軍の山砲は彼が四斤山砲を改良した)らが激しく砲撃を行う。薩摩方の大砲は焼玉(炸裂弾)で町中に火があがり幕府方の負傷者が増えていく。
遊撃隊の伊庭八郎は伏見奉行邸前で奮戦し胸部(もしくは腹部)に被弾。
先発隊は夜通し戦うも、薩摩兵が御香宮まで退却したため、遊撃隊も中書島へ引き揚げた。

4日、伏見・竹田両道から洛中へ進軍しようと大いに意気が上がっていた所に、総督松平備豊前守(大河内正質・上総大多喜藩藩主)が全軍大阪へ引揚げを命じた旨を副総督の塚原但馬守から伝えられた。
人見ら遊撃隊隊士数名は会津藩士数十人と供に鳥羽街道筋、伏見通路、澱川沿いと戦いながら移動したが澱には自軍の影もなかった。
更に橋本陣所まで南下すると、山崎関門守衛の藤堂藩が離反して橋本を砲撃し、若州藩見回役と対戦。人見は負傷者が放置されるのを見過ごすことができす、弾が飛び交う中を奔走し小艇を一艘買って負傷者を乗せた。

6日に大阪に着く。人見は遊撃隊宿舎の天満組屋舗の族舎に負傷者を収容して、大坂城に登城するが、守備が手薄で静まり返っている。残っていた会津藩士に慶喜が江戸に帰った次第を聞く。
監察妻木民弥に面会し、軍は紀州和歌山に向かうことになった旨と、負傷者達は人見に一任すると達せられた。
友人の楳沢銕三郎(梅沢鉄三郎、敏。幕府目付の水戸藩士梅沢孫太郎/守義の三男で梅沢家を相続。後に静岡県議会議員)と共に負傷者を運搬する釣台人夫を雇うため奔走し、安治川口の御船役所に赴くが乗船には間に合わず、敵兵が迫り火の手も上がる危地に際した人見らは抜刀し脅す強行手段で大船に乗り込んだ。
負傷者を無事送り出すと、人見らも命懸けで大坂の様子を探索しながら和歌山に向かった。

8日に和歌山に着く。人見は負傷者達の元へ駆けつけ無事を知り安堵する一方で、彼らを置き去りにした遊撃隊の頭を論責している。
人見らは三ヶ保丸で由良港を出航し、13日に浦賀に着き、江戸へ入る。

 

請西藩・内房諸藩士との共闘戊辰箱根の役

人見らは同じ遊撃隊の山高鍈三郎邸(牛込赤城明神下)に居候する。人見は赤坂本氷川坂下の勝海舟邸で勝と初めて接し卓論を聞く。
1月下旬、人見と人見の友人の岡田斧吉は、大監察堀錠之助が徳川臣代表として東海道先鋒総督府に哀訴嘆願する使節の末班加入を望み、後日随行の命が下る。
2月上旬、人見らは堀邸を出発し3泊を経て甲府(山梨県)に着く。近藤勇が挙兵し甲州進軍の噂があり、現状確認を優先する堀に反発した岡田・人見が任務を強行して先鋒総督府の参謀海江田と木梨らに嘆願書を託す。

3月徳川慶喜の水戸謹慎が決まり遊撃隊は慶喜を奉送することとなるが、人見は岡田、伊庭、和田助三郎、佐久間貞一郎、らと供に千住大橋まで奉送後に脱走挙兵する計画を講じて、実行準備のため銃器・弾薬を集めていた折に、海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)が幕府軍艦を率いて脱走するとの噂を聞き、伊庭・宮路・佐久間らと下谷の榎本邸を訪れ、榎本と同盟を結ぶ。
14日に遊撃隊隊士は長鯨丸、人見ら4人は榎本の居る開陽丸に乗船。

4月11日、大総督有栖川宮の江戸城入城のため本営の池上本門寺から品川へ進入する様子を人見らが開陽丸の艦上から望見していたその時に、榎本が2艘の艦隊を一斉に品川沖から抜錨した。房州館山(千葉県)へ渡り館山湾に停泊。
16日に榎本のもとに、大総督府の幕府軍艦引渡要求の交渉のため勝が単身で来訪。榎本が2、3艦を引き渡すと応じたことに遊撃隊は反対し憤懣に耐えず人見ら3、4名が抗議したが覆らず、上総(千葉県)上陸を決断する。

17日に榎本は品川沖に戻る(24日に富士山・翔鶴・観光・朝陽4艘を大総督府に引渡す)こととなったが、遊撃隊とは同盟を結んだ誼で、上陸に適した小艦の行速丸に榎本自らが乗り込んで送った。隊士達は榎本の友誼の厚さに感謝して木更津付近に到達。徒歩で上陸し寺院に泊まる。
その夜はじめて軍議を開き、遊撃隊を2隊とし、人見は1軍隊長となる。

28日に請西藩を訪れる。遊撃隊は文武両道で将軍の身近に在った奥詰めからなる隊なので、規律正しく統制もとれており、請西藩主の林忠崇は彼等に真の忠義を感じ取って協力を受け入れた。

閏4月3日真武根陣屋を出陣。館山に向かって南下し富津陣屋を経て飯野藩勝山藩館山藩の上総安房諸藩の脱藩兵を加え、共に駿河(静岡県)沼津での挙兵をめざして江戸湾を渡り12日に相模(神奈川県)真鶴港に上陸し、小田原を経て沼津の韮山代官所に向かう。
大総督府は沼津藩に総勢300人近くとなった遊撃隊ら一行を解体させるよう命じ、また江戸からは田安中納言(徳川慶頼)の命で旧幕府首脳の大鑑察山岡鉄舟と石坂周造が抗戦を止めるよう説得に訪れた。
林忠崇と遊撃隊は上意をしたため、山岡らに託し、新政府軍総督府からの返書を待つ形で、沼津藩主が城代である甲府で待機することとなる。
しかし期日を過ぎても返事は来ず、沼津藩監視下の香貫村でひとまず謹慎となるが、東の彰義隊壊滅の報を聞き新政府軍の包囲が強まるのを感じ取った人見が豪雨に乗じて第一軍を率いて箱根方面へ出陣する。(単なる人見の抜け駆けでなく、状況打破のきっかけを作るために林侯と示し合わせたと見られる)
残る遊撃隊も箱根に移り5月20日に小田原藩の守る箱根関所を占領した。

しかし小田原藩が急に手のひらを返し、26日の山崎の激戦(人見は旧幕府艦隊に赴いて不在)で各方面から追撃を受ける窮地に立たされた遊撃隊は箱根から熱海まで撤退し網代に渡り榎本率いる艦で東に渡る。
5月28日に館山港に着き、戦える者は奥州への転戦を決めた。

 

■奥州へ転戦
6月1日に一行は長崎丸に乗り、3日に奥州小名浜(福島県いわき市)に116名が上陸。
4日に平(たいら)に着き、奥羽越列藩同盟を結んでいる平藩・湯長谷藩・泉藩の支援要請に応じる。
16日に常州平潟(福島境に近い茨城の港)辺に新政府軍の船渡来の報があり、夜に出陣。
17日明け方仙台・磐城諸藩連合軍と共に出撃。山上で待ち構えていた新政府軍と、遊撃隊一隊も仙台兵を率いて戦い、林軍・他遊撃隊らも松原で迎え打つも、主力を白河に出していた仙台兵は敵の大軍を前にして士気が上がらず苦戦する。
支援藩兵の軟弱さに憤った人見も、兵に覇気がなく内部は恭順・抗戦派で割れ信用が置けない藩は見限って会津支援に向かうことを忠崇に勧めたが、翌日仙台陸奥守の名代の古田山三郎らが国元からの援軍の指揮を強く請うので、止むを得ず、滞在を延ばす。

23日新政府軍が平城目指して進軍し、遊撃隊は朝8時頃に湯長谷の隊を植田宿へ出撃させる。
植田八幡山で敵を待ち受けるために2手に分かれ請西藩兵・遊撃隊1隊・平藩兵は街道から、純義隊・遊撃隊1隊は山手から侵入する。
24日八幡山を挟んでの攻防となる。急襲成功し敵を多く討ち取るも激しい砲撃戦の後、数に劣る同盟軍は湯長谷に退却。

29日長橋端から新政府軍を砲撃で撃退するも、平城主・泉城主らが仙台兵と共に逃げ退いたため守備が手薄になる。それでも留まって戦おうとする忠崇を、人見が諌めて会津支援に向かうことを説得し、忠崇らは相馬中村(平より北へ位置する)へ向かう。

7月19日夕方、川俣に着泊した人見も会津に向けて出立。
その後人見は寒風沢(さぶさわ。宮城県塩竈市の浦戸諸島で仙台藩の軍港がある)港守衛の任務に就く。
※暫定。諸隊の奥州戦は少しずつまとめていきます

 

■蝦夷己巳の役。連勝し五稜郭に入り松前を奪取
9月に人見は榎本一行と白石城(輪王寺宮が入り奥羽越列藩同盟の奥羽越公議府が置かれた)に向かって発つが、途中で会津落城(22日降伏し会津若松城開城)の報を聞き一同落胆し、仙台に引き返って泊まる。
輪王寺宮も謝罪を決め、同盟主仙台藩や主力藩の降伏で奥羽越列藩同盟は崩壊した。

榎本が新政府との調和のため、録も拠り所も失った旧幕臣達(徳川家の減封で幕臣を養いきない)の手で不毛の蝦夷(北海道)を開拓し、朝廷と日本国土のために北方の警備にあたる構想を告げ、人見はこれに賛同して庄内(同盟藩で恭順を拒む最後の藩)行きを断念する。
10月9日に仙台東名浜(とうなはま。東松島市)から折浜(おりのはま。石巻市)に移動。
10日大鳥圭介も米沢から伝習隊を率いて仙台に着き兵を精選して乗船。榎本の艦隊に北行を望む諸藩の兵を収容する。
12日仙台藩の支援もあり、艦の修繕も終わり、遊撃隊らは折浜を出航した。
13日に桑ヶ崎(秋田県湯沢市)に入津し18日に出航。
20日に蝦夷鷲ノ木(わしのき。茅部郡森町)に着岸し榎本艦隊の旗艦開陽に各艦から幹部が集められ会議となる。人見と岡田、沢録三郎、佐久間悌二が隊士から離れ全軍の役職に転出。

22日に上陸、一尺ほどの積雪があった。人見は箱館府(幕府直轄の箱館奉行に代えて新政府が設置)知事清水谷公考(しみずだにきんなる)宛の渡海趣意書を届ける大役を任され、大鳥の部下数名と少数兵の30名を引率して箱館(函館)へ通じる本道の峠下(とうげした)村へ向かって先発する。
吹雪の中、数里の森林間を経て、夜に峠下村に達した。土地の者から官兵達はここにはおらず一里離れた大野村に居ることを聞き、疲弊していた一行は見張りを置き民家で仮眠をとった。

23日、まだ夜が明ける前に、左右の山上の至近距離から敵の伏兵(津軽・松前等の兵)に大小銃を撃ちかけられ、民家に雨のごとく弾丸が降りそそいだ。
夜襲に対して、人見らは匍匐して灯火を消して散兵の形で雪明りに山上の敵影を確認し、しきりに狙撃を果たす。頃合を見て人見らの後方の峠の中間へラッパ兵を登らせ、進軍合図を吹かせると同時に人見らが突撃の雄叫びを発して一斉に立ち上がった。
驚いた敵が銃や死傷者を棄てて敗走したので、富士山村まで進軍する。
夜襲に耐えて、蝦夷上陸の初戦の勝利を収めた人見らは、元の峠下村に引揚げて休み、敵の負傷者を処置した。

森村まで伝習隊・新撰組・遊撃隊(仙台から乗船した会津・唐津兵等も編入)らを率いて移動していた大鳥も、早馬の急使に開戦を告げられ、夕方に峠の陣に到着し人見らに戦の詳細を聞いて軍議を開く。
敵が大野と七重に在るとみて、兵を分けて大鳥隊は大野村へ、人見・佐久間を軍艦に遊撃隊・新撰組・工兵方を七重村へ進軍する。間道富士山に宿陣。
24日に七重村を本営とする。

人見らが七重村から南に出た所で、官軍が箱館から七重村へ向けて山の手と原野の両方面から来襲し、官軍6、700人と交戦。砲撃のあと2時間に渡る接戦で敵を潰走させた。深追いを避け大川辺より引揚げる。
官軍はこの敗戦により清水谷府知事はじめ諸藩の官兵は五稜郭を放棄して秋田・津軽地方へ船で逃走。
敵の屍は手厚く葬り、負傷者は旧幕府一行側の病院で治療し回復後に生捕りの者と共に各藩へ送り返した。
夕方に人見は大鳥の元へ戦況を報告に行き、兵を合流させ五稜郭へ向かう作戦をたてる。

25日に大鳥隊は湯の川に向かう土方歳三の隊と連携を取って五稜郭に迫る。
26日に箱館の無血占領を果たす。
その後全軍が五稜郭に入り、海軍も箱館に集まり碇泊。箱館在住の外国領事ロシアのニコライ等に外交通知し、我が党が全島を支配し一般の保護を担任する旨を告げ、また一般人にも布告をして安堵させた。
そして松前藩士の生捕り者2名を藩に送還して、同盟の義を勧誘させようとしたが、この2人を殺し敵意を示したので、やむを得ず27日に土方を総督とし松前城に向けて進軍するに至った。

11月5日に松前城(福山城)を落城させる。松前藩主と重臣らは江差に走り津軽を頼って渡海していった。
落城後すぐに人見は入城して、遊撃隊に略奪行為を禁じる命令をし、わずかに番兵を残して各隊皆城外に宿営させた。
城内大手口玄関に藩士一名が着服して死んでおり、義烈の情感にたえず、厚く葬った。
人見は2、3人の隊士と城内を見回ると、奥深くに松前藩主の家族侍女等婦人7、8名が取り残され、うな垂れて泣いているので人見は処分せずに、松前家の菩提所に移し、町人に命じて諸事斡旋して厚く待遇した。後で希望を聞いて藩主のいる弘前へ送る折に婦人達は感謝して別れを告げた。
そして松前領内一般に、同盟の呼びかけ・住居を安堵したい者の自由・主君の元に帰りたい者の希望を叶える等を布告したので、多数潜伏していた松前藩士も安心して静粛に留まった。

江差に逃げ落ちた松前残兵と額兵隊(仙台藩)ら追撃隊が交戦。
14日に榎本が大吹雪の夜中に開陽艦で松前に来て、入城して人見に江差に急航すると告げた。これまでの陸軍の功名に、海軍も燻っていられずの意気込みで立ちながら葡萄酒を煽って早々に乗艦したが、結局翌日も吹雪が止まず開陽は江差港口で座礁(22日に救援に向かった神速丸までも遭難)し数日後に沈没してしまった。
陸路を帰る榎本と松前で会見して、天運の無さを嘆きつつ酒数杯を傾け、人見は城門まで送って別れた。
江差を守り、遊撃隊は松前を守衛。

 

■辞世を書いた指揮旗を振う。入院中に五稜郭明け渡し
12月22日に五稜郭でアメリカ合衆国に倣って入札(いれふだ。投票選挙)により役員を決め、人見は松前奉行となった。25歳の人見は幹部では最年少である。松前城付近に住み、城まで馬で通った。
総裁に選ばれた榎本は早速蝦夷開拓に取り組もうと、その志を朝廷に奏聞するが、新政府はこれを無礼の申出として却下し国賊として追討に踏み切った。

明治2年(1869)4月6日に新政府軍が数多く輸送船を引率して青森港を出航し9日早朝に乙部(おとべ)へ陸兵を上陸させ、陸海から江差・松前へと進軍を開始。
敵軍艦は沖にあって迎撃出来ず、兵数の少ない遊撃隊が戦闘にあたって防戦苦闘を強いられ岡田等、多数の死者が出た。

五稜郭に全軍集結の命令があり、松前を引き払う。帰途の知内で敵軍が西海岸から上陸して木古内(きこない)に現れ帰路を絶たれてしまう。
遊撃隊は奮戦し、悉く撃退して切り抜け、箱館に帰ることができたが、この戦いで伊庭が胸部を撃たる致命傷を負い病院に搬送される。

人見は遊撃隊を率いて箱館に舎営し弁天台場を守った。敵艦の春日が回航し幾度か台場を砲撃したが命中せず、台場からの迎撃も届かなかった。
官軍の甲鉄艦が五稜郭めがけ3百ポンド砲弾を発射し天地を揺るがす爆音に曝される。陸海共に日々小戦争が繰り広げられた。

5月10日、官軍の総攻撃を偵知した榎本達は、海陸の将校等一同函館の遊郭・築嶋の武蔵野楼で決別の大宴会を催し、夜半に皆四散して各部署につく。
11日夜明け前に敵艦が運転を始め、発砲開始。陸からも薩兵が四方より発砲して来襲した。
人見ら遊撃隊は一本木(いっぽんぎ。北斗市)から七重浜(ななえはま。北斗市)を進み、長州兵と交戦する。砲戦の後に短兵接戦となった。
人見は胴巻の白羽二重(はぶたえ)の端を裂いて辞世の七言絶句
幾萬奸兵海陸来  [幾万の奸兵、海陸より来る]
孤軍塲戦骸成堆  [孤軍防戦、骨堆(たい)を成す]
百籌運盡至今日  [百籌(ひゃくちゅう)運尽き、今日に至る]
好作五稜郭下苔  [よし、五稜郭の苔とならん]
于時元治二年己巳歳仲夏
徳川脱藩遊撃隊々長 人見勝太郎橘寧
──と墨書きして決死の指揮旗として握り締め、馬上で指揮をとった。※元治はママ。于時は時に・この時の意味

しかし横合いの敵の艦上から狙撃されて馬を撃ち殺され、人見は落馬し額に重傷を負ってしまう。
敵兵の手にかかる前に従卒の久次が人見を茅原の中へ引きずり、人見の胴巻きを解いて包帯をし、放れ馬を捕らえて人見に与えた。
この馬で疾駆し箱館病院に入る折に、既に箱館の後部から上陸していた敵兵が人見を見て猛烈に射撃してきたので、馬を棄てて一町ばかりの坂道を駆け上って病院に飛び込んだ。
人見が病院長の高松凌雲(りょううん)の施術を受けたのち、12日に和平交渉に訪れていた官軍の参謀部員である薩摩藩士池田次郎兵衛が英国医師を連れてきて懇切に人見を診察治療させた。

──尚、落馬時に爆風で吹き飛ばされた指揮旗は左下に人見が流した血痕がついていた。
それを長州藩の隊長品川弥次郎が敵ながら遺族に届けるべき遺品と思って拾い衣嚢に納め、そして維新後に人見と巡り合うことになる

5月18日、榎本らは新政府に降伏し五稜郭を明け渡した。
榎本達は新政府軍の参謀黒田清隆(きよたか。薩摩藩士)のはからいで寛大に扱われた。

人見は病院で治療を受け数日後に弁天台へ移され、3日を経て蒸気船にて御親兵の護衛で東京に送られ、増上寺(ぞうじょうじ。港区芝公園)山内赤羽橋口の寺院に拘禁される。
数日を経て大村兵部大輔から下の宣旨を受け、豊前香春藩(かわらはん。旧小倉藩。福岡県北九州市)にお預けとなる。
其方儀箱根ニ至リ官軍ニ抗シ、中井範五郎ヲ殺害シ、奥羽ニ逃レテ後、
榎本釜次郎等ノ賊ト共ニ箱館ニ至リ官軍ニ抗シ、力尽キテ降伏スト雖(イヘド)モ
天地不可容ノ重罪厳科ニ可被処(処セラルベキ)之処、
出格非常之寛典ヲ以テ香春藩ヘ長預申渡

 

■東京・福岡で拘留後に静岡に移る
6月に香春藩兵の護衛で轎(輿)に乗り、籠に乗り下谷御成道(東京都台東区上野。今の黒門辺り)の小笠原邸に送られ、ここに一泊。
翌日の明け方に出発し、東海道から大阪に行き、安治川口から早船に乗って豊前国に渡り簑ノ嶋(福岡県行橋市)に上陸し、行司(行橋市行事)の祐福寺(ゆうふくじ。酉福寺)にらと拘禁された。
藩士4名が護衛したが厳しくはなく、後に近くへ散歩も黙認してもらえた。

明治3年(1870)3月に天赦の令で釈放。※辰の口軍務局糾問所に投獄された榎本や大鳥ら幹部の釈放は明治5年
香春藩兵は人見らに数名の藩士を随従させ静岡に送還すると告げるが断り、衣服と大小刀の贈与も受け取らなかった。
共に拘禁されていた友人の斎藤辰吉(たつきち。元彰義隊で後に中野梧一と改名。山口県令となり後に経済界で活躍するが大阪で自殺)と、呉服商に旅装を整えさせ羽織を着て何も武器を持たずに、医師か茶人のような姿で漫遊の旅に出た。

稗田村(福岡県京都郡)の漢詩人仙山堂(村上仏山)先生に一筆願い、筑前宰府の菅廟(筑紫野市。菅原道真公の廟所)を拝観し、博多を経て船で芸備防長(広島・岡山・山口)の瀬戸内沿海の著名な港を巡り泊まること数日。備後(広島県)靹津(福山市の鞆の浦)で遊興に耽り、四国の多度津(香川県)にわたり金毘羅社に参拝する。また幡州(兵庫県)に渡って所々巡遊した。

4月下旬に静岡に着き、人見は梅沢孫太郎(京都時代で既に述べた鉄三郎の父)邸に居候する。徳川家が移封され旧幕臣が移住して栄える静岡の様子は、幽国の悔恨を忘れたかのようだった。人見は耐え難い想いを心に秘めて、鹿児島へ渡ることを決意した。

 

■鹿児島へ遊学
西国留学の相談のため鷹匠町の勝海舟(旧幕臣による牧ノ原台地の茶畑開墾を指導していた)を訪れる。
勝の書を携えて男鹿村に出向き静岡藩大参事となった大久保一翁に面接し、翌朝の出庁を命じられた。出庁すると、徳川家を相続して静岡藩知事となった徳川家達から餞別金百両授与と伝えられ、拝受した。
感激した人見がすぐに勝へ礼を言いに行き、迎えた勝は人見に九十両の旅費と薩摩常備隊砲兵隊長村田新八宛の紹介状を与えた。

5月3日、同行を希望した梅沢鉄三郎と共に出発。
掛川駅で内藤七太郎(旧見廻組与頭、京都文武場教授方)を訪問して一泊。東海道をのぼり京都の父母の元に帰省してから大阪に下る。
安治川の船宿から早船で豊前に渡るつもりだったが、長州脱藩の元奇兵隊(奇兵隊は維新後の陸軍編成で解体。政府に反発した一部の脱退騒動が起きた)が海賊に成り果てて瀬戸内海を荒らしていたため出航を断られてしまう。
しかし通商を阻まれ略奪の標的となり困り果てている商人の前に、歴戦の剣士達が現れたというドラマのようなような展開でもある。ちょうど大阪湾に豊前大橋の柏木氏所有の商船(500石積の和船)が碇泊しており、船主の柏木氏とは、山陽先生の書画等を多く蔵しているため拘禁時代に3度程訪れて面識があった。
小伝馬船で兵庫に至り、親船に乗船する。

心地よい海風と夜空に一酔いして船中でまどろむ夜半に、突如、鉄砲を携え抜刀した海賊7、8人が商船を襲った。人見らは燈火を消し、伝馬船の下に抜刀して潜む。
近付いた2人の賊の前に躍り出たその時、呼子の笛が鳴り響き賊は逃げ出した。
船頭や船子に呼びかけ、総員10名が裸体に鉢巻姿で短棒等を手にして追跡したので、幸い米一俵も奪われずに賊難を免れて、人見らは謝辞を述べられた。

明け方近くに和田ノ岬(神戸市)の辺りまで漕ぎ出し、播磨灘を過ぎ、一泊もせず殆ど一昼夜で田ノ浦(北九州市)に着いた。
柏木氏の厚饗を受けた後に祐福寺を訪れて和尚にかつての厚情への感謝を述べた。
儒者の遠帆楼(えんぱんろう)恒遠(つねとお)先生の門を叩き、数日名所を巡った後、筑後川を船で久留米まで下って水天宮社を参拝。大雷雨に遭うが、高瀬を経て山麓の温泉に浴泊した。翌日熊本にいて木更・津田両氏の門を叩き、加藤清正公祠に参拝して逗留。

松橋から海路で薩摩領に上陸するが、薩摩藩の関史の尋問を受けた。
静岡藩の遊学書生だと告げても怪しまれ、腹立たしく抗論し藩鑑と勝も添書きを持つことを示せば俄かに温和になり、旅館に案内されて一泊。
翌朝、守関の重役が来て不敬を謝り、鞍置馬2頭と案内をつけようとして辞退したが、断りきれずに馬を借りる。
途中一泊し6月上旬に鹿児島石燈篭(いづろ)町の客屋(藩主所有の来賓接待所)に着いた。
村田新八、西郷隆盛、桐野利秋(中村半次郎)、篠原国幹、貴島清、伊地知正治、大山格之助(綱良)等他十数名が待受け、一介の書生の身に余る厚遇を受けて畏れ多い。
彼らと共に高千穂嶽に登り、栄尾(えいのお)温泉に浸かり、観光してまわった。
更に谷山村で遊び、秀頼公隠近所(大坂城から鹿児島に落ち延びた豊臣秀頼生存説がある)古墳で遺骨を見る時に、他藩から100人もの書生が来ても、ここに入るのは人見・梅沢の2人だけだと聞かされた。
そして村田が、若い薩摩藩士の中には人見らを西郷隆盛の暗殺が狙いだ誤解して危険視する者も居るのだと、一笑して物語った。

人見は加治木町の商家に寄宿して、鹿児島の文武を学び、鹿児島兵学校の生徒等と交流した。
この5ヶ月間の滞在で感じるところがあり(英学や英国技術を取入れ古くからの郷中教育にも培われた鹿児島の示教に触れたことにも拠るだろう)梅沢と共に人材育成の一の文武校の設立を考え、先に静岡へ帰ることを決める。

11月4日付けで村田を介して帰藩の餞別20円を受け、その翌日に村田が人見の寄宿先に来て、春日艦(薩摩の軍艦春日丸)を朝廷へ献納するため両3日中に上京する大山格之助の兵庫行きに便乗するという優遇を伝えた。
その夜、大山邸で催された格之助の送別会に人見と梅沢も招待され、西郷がナンコ(薩摩伝統の酒宴の遊び。敗者は焼酎を煽る)で幾度も酒を煽り、ついに酔い潰れた。
人見はかつての戦いを思い出し斃れた仲間達の追悼の感傷に浸る。春日の艦長は赤塚源六と聞いて彼を訪ね、箱館戦争で悩まされた敵艦春日丸に人見が乗船するという奇遇を談笑した。

7日に春日が桜島湾を抜錨し、強雨のため一夜を経て兵庫に着き大山と共に上陸。大山と静岡での再会を約束して別れた。
京で父母の元へ3、4日帰省し、静岡へ戻ると勝と大久保に面会して鹿児島での厚遇(それは勝らの計らいが大きい)を話した。また学校設立を陳述し許可を得る。

 

■集学所と賤機舎の設立
有渡郡大谷村(現駿河区辺)の瑞現山大正寺に集学所を開校。
主に戊辰・己巳の役で戦いぬいた旧幕臣達が入学し、総勢140~150名ほど。
士風刷新をはかり、文武両道、他藩士との交流に重点を置き、漢・英・仏・数学の学科とフランス陸軍式の教練を指導した。

山岡鉄太郎(鉄舟)に金策を断られた上に軽挙を戒められ、また人見と親しい雲井竜雄(くもいたつお。戊辰戦争中に新政府を薩長の地位向上に利用し恭順を示す幕府方も排除する姿勢を批判した「討薩檄」を起草した米沢藩士。集議院議員を辞職後に旧幕臣の失業対策に務めたが、政府への陰謀の嫌疑27歳で晒首処刑)が来て論議し人見へ忠告することもあった。

反新政と見なされるのは旧幕臣だけに留まらず、政府を恐れて処罰者の関与を避ける風潮の中でも弔おうとする人見であるが、伊藤俊介からも雲井と同じ嫌疑をかけられていると、忠告を受ける。
明治4年(1871)秋、夜に突然大正寺の堂が燃え、書類が消失してしまった。放火の跡があった。

集学所を失った人見は静岡学問所(明治元年10月に府中学問所として駿府城四足御門の元勤番屋敷[現静岡地方合同庁舎付近]に徳川家が開校。2年に改称)に勤務。学問所に設立された伝習所の米国人教師E. W.クラークと親しむ。

明治5年(1872)にアメリカ領事のC.O.シェパードが静岡茶栽培の視察に訪れた時、クラークが食事会に大参事や県役員を招く際に、人見を通して慶喜の招待を打診したが叶わなかった。
8月に政府の学制頒布に伴い静岡学問所が廃止。
人見は学問所の伝習所を私立英学校として受け継ぐ形で賤機舎(しずはたしゃ)を開き、明治8年まで学業・産業試作に尽くした。
賤機……駿府城のそばの浅間社の背に賤機山がある。ちなみに明治2年に徳川家が移封された駿河府中藩の字が新政府への「不忠」につながることから賤機山にちなみ「賎ヶ丘」と改称案が出たが賎の字を避け「静岡」に改めた経緯がある

 

■官界出仕
明治9年(1876)3月に内務卿大久保利通の推挙により七等判事に任じられ東京裁判所の民事課に務める。三田四國町1番地第八号
7月、茶葉栽培の経験を見込まれ大久保の依頼で内務省勧業寮に七等出仕
同時期の勧業寮に大鳥圭介が四等出仕(工部省工学頭兼製作頭兼任)している。
9月には農務課で動物・農具・開墾・製茶担当となっている。
製茶掛は各種類の茶と米国向けの無色茶試作や紅茶製法告輸書の頒布等を行う。

内務省に移ると、人見は内務小丞の品川弥次郎に声をかけられた。種々談話のあとで品川が「千金で譲るものが有るが君は必ず買うしかないだろう」と言うが、初めて会う品川の言う品物に人見に心当たりは無かった。誘われるまま車を連ねて富士見町の品川邸に至り、婦人に持ってこさせた楊行李の中の紙に包まれた品は──箱館の決戦で品川が拾った人見の指揮旗であった。品川の手厚い誼みにふれて涙がこみ上げた。
品川は箱館戦後にすぐドイツへ赴任することとなり、人見の旗を箱に入れたまま携帯して7年ぶりに帰国すると、計らずも内務省で人見と会見するに至ったのだ。実に奇縁なことである。
こうして人見と品川との交流が始まり敵と味方が時を越えて友情を深めたという。

また、鹿児島遊学中に親しくなった鹿児島県令大山綱良(格之助)と再会し、人見を鹿児島での仕官を誘われたが、明治天皇東北御巡幸に大久保と同行する予定が入っていたため都合が合わずに断った偶然によって、明治10年の西南戦争(大久保は西郷の鎮圧を指揮し、大山は西郷に官金提供した罪で処刑されることになる)の混乱を免れた逸話もある。
人見は「予 性頑鈍ニシテ 処世ノ術ヲ知ラス」と自伝の履歴書で頑固鈍感なたちゆえの処世術の無さを自嘲しているが、それは保身に走らず派閥を問わず人とすぐに親しくなれる人見の魅力でもあろう。

明治10年(1877)1月の官制改革で勧業寮が廃止し勧農局御用掛となる。3月、製造課で製茶担当。
明治11年(1877)3月御用掛准奏(月給八十円で変わらず)、動植課。
内務省勧業寮の官営模範工場の新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせきじょ。群馬県高崎市。生糸の生産時に出る屑糸や屑繭で作る絹糸である紡績絹糸の日本初の工場)の所長に赴任。

 

■茨城県令に就任
明治12年(1879)6月に茨城大書記官就任。従五位。
明治13年(1880)3月8日茨城県令(現在の知事)に就任する。
6月、箱根町早雲寺(神奈川県足柄下郡)に遊撃隊戦死士墓を建立。人見は戊辰戦争で散った仲間を偲んで各地の供養塔の建立に携わっている。

明治14年(1881)人見へ茨城県議会議員の広瀬誠一郎秋場庸利根運河開削を建議。
明治16年(1883)1月御雇オランダ人4等工師ヨハネス・デ・レイケが内務省から利根運河の実地調査を命じられ、人見らも同行。
明治17年(1884)5月に内務・大蔵・農商務の三卿に『茨城県五工事起業提言』を提出。
一、三ツ堀運河(利根運河)建設
二、涸沼~北浦運河建設
三、那珂川~久慈川運河
四、久慈川上流の整備(暗礁砕除)
五、那珂湊港の改修

この茨城各方面と東京を結ぶ三運河計画や水運地域の整備等、土木方面で茨城の発展を思案した人見は「土木県令」の異名を受けた。
この年、人見は製茶改良も諭告している。

明治18年(1885)6月17日、人見と千葉県令船越衛が江戸利根運河協議書に調印。
22日に築地の料亭隅屋で人見が会主として手打ちの会。昨年の加波山事件(かばさんじけん。自由党急進派が暗殺未遂事件を起こし茨城県加波山に立てこもる)で命を狙われた内務省土木局長三島通庸(この時栃木県令兼任。自由民権運動を弾圧していた)も同席。
7月8日人見が加波山事件の処理で責任を問われ茨城県令を非職となる。※正五位の地位はそのままで職のみの解任。

 

■利根運河会社社長となる
明治19年(1886)8月10日に広瀬が北相馬郡長を辞任し、下旬に東京都麻布の人見邸に訪れる。
※人見は大書記官時代から茨城県水戸(茨城郡常盤村1番地)に住み、取手の広瀬宅にもよく遊びに行ったが、その後麻布に転居した。

明治20年(1887)内務省から運河開削計画の中止を命じられ、広瀬は民間企業での開削をめざす。この時の人見は営利事業の関与に乗り気ではなかったが、千葉県令船越(当初は反対派であった)が麻布の人見宅を訪ねて説得し、会社設立に携わることを承諾した。

4月1日浅草の名倉屋で事業計画の打合せ会合。メンバーは●人見寧●広瀬誠一郎■秋場庸●色川誠一(創立メンバーが解離する中で長く運河事業に携わる。後に富士製紙常務取締役)●池田栄亮(千葉県会議長)●森隆介(茨城県会議員)■椎名半・関口八兵衛・笹目八郎兵衛。
人見・広瀬・色川は併せて利根運河の三狂生と呼ばることとなる。
10日発起人会を東京向島枕橋の八百松楼で開催。70名余りが集まり、来賓には内務次官、東京・茨城・千葉の知事等。
11日に広瀬は東京の京橋の木挽町商工会クラブで「利根運河創立協議会」を開催。
●人見●広瀬●色川●池田●森■高島嘉右衛門(大株主。後に高島易断で有名)、の6名が創立委員選出。
12日に日本橋蛎殻町三丁目の醤油会社内に仮創立事務所を置き、株式一株50円で株式申込受付開始。
13日に早くも目標の8千株40万円を集めて締切。
30日に創立事務所を日本橋区浜町2丁目11番地に移す。
5月9日に千葉県知事船越へ「利根運河開鑿願」を提出。
11月10日千葉県から「利根江戸両川間運河開削免許許可書」が交付される。
20日木挽町の貿易商会で株主総会を開き、役員を選挙。社長に●人見、筆頭理事に●広瀬、理事に●色川●池田●森(12月に辞任)、協議委員に■秋場■高島■椎名▲安田善次郎・秋元三左衛門・岡野寛・伊能茂左衛門・川村唯助・岩崎重太郎・茂木左平次が就任。
12月13日「利根運河会社」事務所を日本橋区浜町に設ける。
株主名簿に『人見寧 浅草区今戸町十七番地』の名がある。

明治21年(1888)3月17日江戸川口の本社(新川村深井新田290番地)を新築し千葉県に上申。
3月29日利根運河会社支社設立を東京府に届け出(浜町事務所の住所)
5月9日工事着手。デ・レイケの後任ムルデルが工事を監督。
7月14日運河開削起工式を本社にて挙行(内務大臣、東京都・千葉・茨城県知事等来賓)
30日に人見は会計検査委員の設置を建議。委員は▲安田・志摩万次郎(池田に代わりに理事。筆頭株主で二代目社長となる)・笠野吉次郎。

明治22年(1889)5月13日人見が神経痛を煩い社長を辞任。
明治23年(1890)3月25日に利根運河の営業を開始し、通船。
6月18日に深井新田の本社で総理大臣山縣有明、内務大臣西郷従道他政府関係者らが臨席で盛大に催された竣工式にて、帰国前にムルデルが送った祝詞に、工事の難航(運河会社役員の交送と金銭逗滞も含まれる)が述べられ、それらを乗り越えた結果と運河会社役員の英断を評価し、完成を待たずに社長を辞した人見についても「其の労を多謝す」と述べている。

明治25年頃、人見が発起人として台湾樟脳会社設立。
明治30年(1897)北海道開拓に関係。フラヌ原野(富良野)の区画開墾願に連名。
明治33年(1900)神谷傳兵衛(かみやでんべえ。人見とは茨城で誼があった)と共に民間初のアルコール製造を実現するため奔走。神谷考案の製法は馬鈴薯の澱粉粕から酒精を取るため、北海道の地を選ぶ。
11月、旭川に日本酒精製造株式会社を設立し、人見が社長に就任した。
人見は神谷の神谷酒造会社(茨城県稲敷郡・現牛久市の牛久ブドウ)開設にも関わっている。

──その他サッポロビールの重役を務め、石蝋会社等の設立にも関与するなど先見の明を発揮して、実業家として数々の成功を収める。
大正11年(1922)12月31日に麻布で死去。80歳。
遺言により生まれ故郷の京都出水千本の長遠寺に墓に葬られた。

長遠寺の人見寧が眠る人見家の墓所 長遠寺の人見勝太郎の墓

▲臨済宗相国寺派長遠寺の人見家の墓所
寧の死後10年程後に有楽町毎日新聞社勤務の孫の麟氏は千葉県柏市明原に移住。左写真の奥の新しい墓石は昭和47年3月に曾孫の陸氏が再建した。右写真、寧の戒名も彫られている

参考資料は数が多いので別途まとめる予定です。記事の無断転載・使用を禁じます。