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佐久間象山年譜

佐久間象山の写真

佐久間修理(象山)
幼名は国忠。初め啓之助。名は(ひらき、衡樹)または大星(たいせい)、通称は修理(しゅり)、字は子明(初め子通)雅号「しょうざん」は郷里では「ぞうざん」とも呼ばれる。

信濃国松代城下で生まれる
文化8年(1811)2月28日(11日とも)に信濃国埴科郡松代町字浦町(裏町。現長野県長野市)で佐久間国善(一学。号は神渓)の子として生まれる。母は同郡寺尾村の荒井某女。姉三人のうち同母はけい、前妻の子2人は夭折。
文化10年(1813)3歳で六十四卦の名を韻じ、禁葷酒の碑を見て禁字を覚えたともされる。
文化13年(1816)6歳から修学。
文政2年(1819)天然石の硯を拾って帰り、一学は将来息子の名が轟く兆しとみたという。
文政7年(1824)松代藩前藩主真田幸専(ゆきたか)五十誕辰の賀詩を前年の冬から作り国忠と署名。
文政8年(1825)2月26日15歳で嫡子と認められ、4月15日に松代藩主真田信濃守幸貫に謁見する。
文政9年(1826)藩老鎌原桐山(かんばらとうざん)の門に入り経義文章を、町田源左衛門に和算を学ぶ。
文政11年(1828)10月13日父が隠居し18歳で家督を継ぐ。11月25日に木村縫殿右衛門組へ御番入。
天保元年(1830)僧活文より支那音を学ぶ。
天保2年(1831)3月22日に若様(幸貫の子幸良)御近習役となるが、老父孝養と学業専念のため5月13日に退職。翌年8月20日に父神渓が病没。享年77。松代蓮乗寺に葬る。

 

23歳で江戸へ遊学、29歳で神田お玉ヶ池に開塾
天保4年(1833)11月下旬、藩に学費を支給され江戸へ遊学し、林家の門に入り学頭の佐藤一斎に朱子学を学ぶ。
天保5年(1834)秋から仁木三岳に琴を学ぶ。
天保7年(1836)2月に帰藩し御城附月並講釈助となる。春より象山の号を使う。翌年9月に再遊学を願出る。
天保8年(1837)学政意見書を矢澤将監に出す。
天保9年(1838)4月に藩の内用で越後へ行き5月に松代へ帰る。11月11日に「修理」への改名願いが通る。

天保10年(1839)2月12日に再び江戸遊学。上田を経て19日に江戸に入る。
6月1日神田御玉ヶ池の地を選んで住む。「象山書院」または五柳があったため「五柳精舎」塾を開いて生徒を集めて儒学を教授した。
天保11年(1840)望岳賦を作る。
天保12年(1841)9月2日松代藩の江戸藩邸学問所頭取となる。

天保13年(1842)9月7日砲術師範江川太郎左衛門(英龍・担庵)に入門して西洋砲術を学ぶ。
おしりもイギリス・清間で勃発したアヘン戦争(1840~42)に衝撃を受け、秋に藩主幸貫より海外事情の調査を命じられ、10月に海防八策をたて12月24日にも海防策を幸貫に上書する。
この年妾・菊(浅草蔵前札差和泉屋九兵衛の娘、16歳)を娶る。

天保14年(1843)正月18日に江川の国元の韮山へ赴き2月6日江川から免許を受ける。
藩主幸貫の内命で伊豆沿岸を視察し2月29日に江戸へ帰る。
4月11日に母の急病で松代に向かい13日着。癒えて5月9日に出発し上田を経て12日に玉ヶ池に帰宅。
象山の帰郷中に菊が宿元へ退去。
10月7日、33歳で郡中横目付役となり12月に旧禄100石に復す。
12月2日に風邪を押して帰郷し7日に松代に着く。蘭学で藩利を興す義に同意を得て12日に松代を発ち26日に江戸着。冬に測量機の製造を試みる。

弘化元年(1844)6月21日から蘭学者黒川良庵を同居させ蘭学研究を開始。
10月初旬に松代へ帰り16日に郡中横目付として松代領の沓野村を視察し晦日に松代へ戻る。
11月13日に佐野・湯田中・沓野の三村利用掛となる。
下旬に出発し12月3日に江戸に帰り9日から再び良庵に和蘭文典を学ぶ。
弘化2年(1845)2月中旬に良庵の授業を卒業。
5月20日に妾の蝶(芝久保町田中安兵衛の娘、16歳)が菖蒲(あやめ)を出産するが11月31日に夭折。菖蒲の遺骸を松代蓮乗寺に葬る。

 

36歳、松代御使者屋に住み三村利用掛として治める
弘化3年(1846)閏5月に松代へ帰り、一度暇を出した妾の菊を再び抱え入れて随伴させた。
浦町の家が老朽につき藩用地の御使者屋(使者の宿泊施設)を借り入れる。
6月に藩での五十斤砲の鋳造を象山は不可とし小砲の利を説いた。
7月23日に内用で出かけ26日まで別所温泉で遊び更級郡を経て翌日帰宅。中旬に妾(近藤氏)が長男恭太郎を出産。18日から29日まで沓野村出張。

弘化4年(1847)4月に地震の山崩れで閉塞した犀川(さいがわ)の氾濫を予想し米穀避難警告を主張。象山の判断がよく適中することを賞される。
8月中旬に下手三ヶ村に出張し佐野村笠嶽麓を巡視後にロイマチス病に罹る。
9月5日に恭太郎が夭折し蓮乗寺に葬る。
12月25日御役御免。この年初めて顔魯公の筆跡を学ぶ。

嘉永元年(1848)正月、昨年からの藩命により十二拇人砲・三斤野戦地砲・十二拇天砲の洋式大砲3門を鋳造。松代西郊道島で試す。
3月沓野村の藩地に薬用人参を植える。6月に沓野に出張し7月7日に帰る。8月10日に沓野の民の訴訟があり沓野に向かい鎮める。9月18日から23日まで再び出張。
11月11日に妾の菊が次男の格二郎を出産。
この年から師弟に大砲打方の教授を始める。また国産甘草の相場下落を案じて私財を投じて八田家名義で大阪に搬出し成功する。

嘉永2年(1849)2月、藩主幸貫に藩費でハルマ辞書を出版することを上書する(後7月に出版資金千二百両の貸予を得る)
3月下旬に薬用人参生育指導のため沓野村出張。
5月26日に松代南郊海善寺馬場で三斤野戦銃の射撃を試みる。
6月21日から24日まで沓野村出張後に鮮草山に試堀中の各坑を巡見し7月2日に沓野村、4日に松代へ帰る。8月9日に藩より事業停止を命じられる。
10月上旬に江戸に出て深川小松町(永代1)の松代藩下屋敷で各種本を編纂。自著の増訂和蘭語彙の第一巻を幕府天文方に差出す。
肥前侯から種痘を得て12月に松代へ持ち帰り息子格二郎に試みる。領内に施す意見は認められなかった。

 

40歳、松代藩江戸深川藩邸で西洋砲術指南
嘉永3年(1850)2月に松代城南花水沢で天砲を砲演。
4月に増訂荷蘭語彙の出版許可が幕府から得られず江戸を去り鎌倉で遊び関東の各砲台を視察し、その不足を12日に意見陳述書を幕府に上ろうとするが藩主幸貫の面目をたてて止める。
6月に江戸での松代藩砲術一覧に門弟を率いて参列。その後格二郎が病を患い帰藩。
7月1日に出立し5日に江戸深川藩邸に着く。寄宿する塾生達の砲術の質問を多く受ける
このころ、勝麟太郎(義邦、海舟。後に安房守・大番)も入門している。
会津藩の山本覚馬門人として名が見られる。

8月3日に浦賀勤番砲術師範下曽根信敦(金三郎。後に信之、甲斐守)の頼みで彼の門下に熕砲使用法を伝授する為に浦賀へ向かい、17日に帰る。浦賀で象山は日本初の大砲照準螺を作っている。
10月中旬に中津侯のために十二ポンド野戦砲図を制作。
冬に松前藩から十八ポンド長カノン砲の鋳造依頼を受ける。
11月に妾の蝶が三男の惇三郎(淳三郎)を出産。
12月18日松代へ帰藩。

 

41歳、松代で演砲後に江戸木挽町で開塾
嘉永4年(1851)2月17・18日両日に門弟と共に生萱村で五十斤石衝天砲(二十九ドイムモルチール)の試射を行う。26日に再演するが幕府直轄地に墜落して中之條代官と紛議が生じ以降砲演の際は届け出をすることを取決める。
3月22日にも生萱村で砲演。
4月上旬から江戸深川藩邸へ。

5月28日にから江戸木挽町に住み、和漢兵学砲術指南塾を開く。長岡藩士小林虎三郎等が入門。
二十坪程の規模で、入門者は百二十人に達し、常時三十~四十人が学んでいたといい、象山が撰する礮学図編を始め、兵書・医書を多く翻訳・開板した。
7月29日に長州藩の吉田寅治郎(松陰)が入門。

9月に浦賀に遊ぶ。11月上旬に上総(千葉県)姉ヶ崎で中津藩依頼の新鋳の大砲を試発するが砲身の故障で改鋳を要することになった。この故障によって中津藩からのお咎めはなかったが、松前藩からの依頼は破談となった。
12月に門弟金子忠兵衛を破門する。

 

嘉永5年(1852)閏2月に佐賀侯の依頼で十二ポンド新式野戦砲架・海岸砲架雛形各一座を制作。
5月28日と6月1日に藩の二十拇天砲同人砲を借用し大森海岸で演砲。
6月3日に江戸にて藩主真田幸貫公が62歳で卒去。
14日には象山の三男惇三郎が夭折。蓮乗寺に葬る。
29日故幸貫公を松代長園寺に帰葬。象山が墓誌銘を撰書する。
9月に妾の菊を解雇する。10月に『礮掛』を箸す。
12月に門弟勝麟太郎の妹順子(瑞枝)を正妻に迎える。
この年、長岡藩士の河井継之助や出石藩士の加藤土代士(弘之)が象山の塾に入門。

 

ペリー来航に際し43歳で軍議役となる
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に米国艦4隻来航。明朝に藩命により浦賀に赴いて米艦の動静を視察し6日帰る。9日に藩の軍議役を命じられ武装と警衛を整えるため奔走する。
10日に藩主が象山の議を容れて江戸御殿山の警備にあたることを幕府に請い、命を待つ。
12日に米艦が退去し、18日には藩の家老らが象山を軽率であると藩主達に訴え24日に軍議役を解かれる。
夏に薩摩藩が象山に八十斤ボンカノン鋳造を謀り、図を作り跋を附け贈る。
9月24日深夜に一場茂右衛門と共に桑名侯(前藩主幸貫の兄)邸に赴き藩政を訴える。
10月に品川台場が海岸砲台式でないことを藩主から幕府に伺書を出す案を言上するが採用されなかった。
11月5日に学校督学となる。13日に臨時の軍議役を命じられる。
12月1日付で象山の塾に坂本龍馬が入門。

 

44歳、吉田松陰の密航を援けたため松代に蟄居
安政元年(1854)2月7日に松代藩横浜警衛のため出兵、象山も軍議役として出張する。
2月21日に幕府の下田開港の議を聞いて、目付堀利忠・福井藩士中根靱負及水戸藩士藤田誠之進を歴訪して象山は下田でなく横浜開港が可であることを論じた。
25日松代藩が象山を呼び寄せて大砲鋳造掛を命じる。
3月14日横浜警衛総勢を引き揚げ。
春に長州侯の依頼で十五拇ランゲホウウイッツルを深川で鋳造。

4月6日ペリー来航に際し門人の吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座したため幕府は象山を投獄。塾も閉鎖される。
9月18日に町奉行から引渡され江戸退去を通告。25日に松代に家族一同護送され10月3日に到着。
11月4日に松代で地震があるが象山は姉北山宅に居て無事。5日に松代御安(ごあん)町の聚遠楼(藩老望月主水の別荘)に移る。この町名の音を拝借して呉湾・呉安の名を使う。

 

安政2年(1855)9月6日に幕府は阿部伊勢守の書にて藩主幸教へ、象山の蟄居中の面接書信を禁じさせる。藩医立田楽水(操)が更に戒慎すべきを忠告する。
10月2日江戸の地震(安政の大地震)で藤田東湖が圧死した嘆きを詩にする。

安政3年(1856)3月22日に勝が航海中九死に一生を得たりとの報を受けて謹慎例を破り長簡を送る。
7月10日にも書で勝の海外(ジャワ)遊学の意志を賛して勧説する。
この月幕府は麾下士及諸藩に令して長崎蘭人所伝の銃陣を練習させるが、十一段込方を用いた象山の門人達は、長崎伝来の八段込方の作法に異議を唱え、象山に書を寄せる。象山は八段込方は陸軍式ではないと返書した。
この年、牛痘種法の理を書く。

安政4年(1857)正月17日、蟄居中であったが象山は門弟達に武備精励を奨め、火技を遊戯視することを戒めている。2月には速射銃を考案して迅発撃銃説を作り、又軍容・節度・軍裝の三事を論じ、あわせて時務の要目十九条を記して同志に示した。
7月22日に松代藩士三村晴山(養実)に書を出し、江戸・大坂に築造された砲台の実効が無いことを論じた。
12月3日に在府の松代藩士山寺源太夫(信竜)の外交質疑十七箇条に答えた後、時事意見を交換する。

安政5年(1858)1月26日幕府の対外処置が軟弱なことを憂いて藩主真田信濃守幸教に建言するが謹慎中として聴き入れられず、象山は密かにに書を処士梁川新十郎(孟緯)に寄せて国事に斡旋することを求めた。2月24日に梁川が返書で京都の情勢を報じた。
3月に山寺源太夫に書を寄せ、前に来航した米国艦隊司令長官ペリーの日本紀行と披見と早急な翻訳を繰り返し求めた。
4月に勘定奉行川路聖謨に頼り、外交措置に関する意見書を幕府に上る。更に書を藩家老望月主水に致して時事に関する所見を陳述した。
5月14日書を勝麟太郎に寄せて外交措置に関する意見を求め、日本人の海外視察の必要性を述べた。
7月19日時事に関する意見を処士梁川新十郎に告げ、京都の近情を問う。
この月、象山は地震計、人造磁玦を翌月に電池を造る。

万延元年(1860)正月に象山起稿の大砲改鑄・同鑄立・火薬製造等に関する意見書を武具奉行より藩主幸教に呈す。
9月21日に高杉晋作が、昨年4月25日に吉田松陰が長門の獄中で記した門弟高杉を紹介する書を携えて松代を訪ねて翌日夜に象山と朝方まで会談する。

文久元年(1861)8月7日に母が87歳で没する。葬儀を蓮乗寺で行い西條村般若寺に葬る。

文久2年(1862)10月に藩主から上書草稿内覧を命じられ藩政に関する一書を併せて提出する。
12月25日に藩主幸教の諮問に対し宇内の形勢を論じて、公武一致・開國進取の國是確立の急務を陳述する。
下旬に長州藩の山形半蔵(宍戸たまき)と久坂玄瑞(くさかげんずい)、土佐藩の衣斐小平原四郎が松代を訪れ、容堂公の書を携え象山赦免を運動し土佐藩に招く承諾を求めた。また長州の小倉健作も象山を訪ねている。
12月29日幽閉を免じられる。

文久3年(1863)正月2日に藩主幸教に謁見し藩政改革に関する意見を述べ、翌日城中で藩老等に対してその無能をなじり、5日にも登城して兵制改革を論じた。
2月12日に馬で沓野村に駆け地獄谷に遊び翌日帰り、また佐野村で遊び寒沢の山林で大筒台木を見分して藩へ献納することもあった。秋には西洋馭馬術を練習する。
10月10日に順子夫人を帰省させ15日に赤坂に着く。

 

54歳、上洛し暗殺される
元治元年(1864)3月7日、松代藩は幕府の命で象山の逼塞を免じて、上京を命じた。
17日夕方に出発。竹村金吾の斡旋で栗毛の馬を一頭購入し、馬具は洋装を用いた。
木曽路より大垣を経由し小原鉄心に無沙汰を詫びて、29日入京、六角通東洞院西入越前屋に宿。

4月3日、幕府は象山に海陸備向掛手付雇を命じて扶持方二十人手当金拾五両を給した。
10日に常陸太守晃親王(山階宮)が象山を召して天文・地理・兵法を問い、其洋式馭馬を覧る。
12日に禁裏守衛総督一橋慶喜に謁して、時務の諮問に対し政策を申上する。この日に論じ足りなかった点を14日に上書して補足する。この日、堤町の鴨川東岸丸田町橋向うに転居。
22日に再び慶喜に謁見。
23日に山階宮に謁見して世界地図を供覧し、開港に関する意見を上陳する。
26日に象山の元へ福井藩士中根靱負が来訪して時務を談じ、翌日にまた同藩士村田巳三郎(氏寿)と共に訪れて対外問題を論じた。

5月1日に二条城で将軍徳川家茂に謁見。3日に弾正尹朝彦親王(中川宮)に召されて時務を諮られる。
16日に木屋町三条に転居。間数が多く鴨川を臨む二階建で展望が良く特に雨に煙る景色を気に入り「煙雨楼」と命名する。ここが象山の最期の家となる。

6月10日に山階宮に謁見し、時事意見を言上する。11日に会津藩士広沢安任(やすとう)を訪ね、午後に大目付永井尚志(なおゆき)を訪ねる。14日に馬で鞍馬山口に至り、出石衛士杉原三郎兵絵と会う。15日に小林が来訪。
17日に山本覚馬を訪ねる。18日に山階宮に参殿。21日に中川宮に参殿。
27日に不穏な長州藩兵の動向を探る折に小林が来て松代藩主幸教の大津止宿を聞く。直ちに馬で駆けつけ幸教に入京の危険を説くが聞き入られず彦根藩士に談じても埒が明かず、空しく翌朝帰る。藩主入京。
29日に仙台藩医羽生致矯が来訪し談義が主上遷座の事に及ぶ。

7月1日に関白二条斉敬に謁見して時事意見を言上する。夕方に小林が来訪、帰途は従者に送らせる。2日に山本覚馬が来て一橋殿に急事を告げ、馬で参じるが留守、無事であった。
4日に仏光寺で藩主幸教に謁見。
6日に再び関白殿下へ参上。7日に羽生、9日に広沢が再来。

11日、山階宮に参殿の帰途の夕刻、京都三条木屋町で尊王攘夷派浪士に国是を誤り且鳳輩遷幸を図るものとして斬り殺され、54歳の生涯を閉じた。
刺客の浪士は松浦虎太郎(または因州の前田伊右衛門)と肥後の河上玄齋とされる。

13日に京都花園妙心寺内大法院に葬る。法号清光院仁啓守心居士。

明治22年2月11日に正四位を贈られる。
昭和6年5月16日に象山神社創立の許可を受ける。

※肖像は象山塾跡地の江東区教育委員会の案内板より。国立国会図書館所蔵

参考図書
・『佐久間象山日記』
・京都府編『先賢遺芳
・勤皇志士叢書『佐久間象山集
・信濃教育会『象山全集
・山路愛山『佐久間象山』
他、東京都中央区・江東区教育委員会による案内板等

「グッドバイ また会わん」新島襄終焉の地

新島襄終焉の地入口 新島襄終焉の地
▲同志社大学創立者新島襄先生終焉の地

明治22年(1889)11月に病に倒れた新島襄先生は、周囲の勧めで12月28日から百足屋 ( むかでや ) 旅館の別館・愛松園で療養を始めました。

しかし明治23年(1890)1月20日危篤に陥り、大磯に駆け付けた妻の新島八重に送った最後の言葉は「グッドバイ、また会わん」でした。
1月23日午後2時21分永眠。享年48歳。

永眠50周年の昭和15年(1940)10月に襄先生の門下生達が 旧百足屋の敷地内に碑を建立しました。

新島襄終焉之地碑 新島襄終焉の地案内板

▲碑の石は襄先生の故郷碓氷(群馬県安中市)産で、文字は徳富蘇峰の筆です

 

明治の先覚的教育者新島襄は、1843年2月12日(天保14年1月14日)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれた。

その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至上抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて1868年(元治元年)函館から脱出して米国に渡り、苦学10年キリスト教主義教育による人民強化の大事業に貢献する決意を抱いて1874年(明治7年)帰国。
多くの困難を克服して、1875年(明治8年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。

その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中 病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地 百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた。
(案内板より)

 

・新島襄終焉の地
所在地:神奈川県中郡大磯町(大磯駅より徒歩5分)

参考サイト
大磯町HR内『大磯町観光情報サイト イソタビドットコム』 http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/

山本覚馬と後妻小田時栄

大河ドラマが京都での山本家の騒動にさしかかり、過去の覚書「川崎尚之助と山本一家・八重との関係」にアクセスが集中しているのが申し訳ないので、覚馬の後妻・時栄の周辺について追記します。

※「八重の桜」のネタバレにもなりますのでご注意下さい

 

 

■山本時栄(ときえ。時榮・時枝・時恵・時惠とも)
嘉永6年(1853)5月7日 に京都御所近くに住む丹波の郷士、小田勝太郎(隼人)の四女として時栄が生まれる。

文久2年(1862)12月24日会津藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛、元治元年(1864)2月に37歳の山本覚馬も上洛。大砲奉行林権助のもと御所の警固にあたり、また6月頃に洋学所を開いて教鞭をとった。
その年の7月19日の禁門の変での戦闘が原因か覚馬の視力が急激に衰えて清浄華院で療養、翌年から鉄砲の買付に赴いた長崎でオランダ医師A.F.ボードウィンに失明を宣告される。
慶応2年(1866)頃、御所に出入りをしていた父小田勝太郎を通じて13歳ほどの時栄が目の不自由な覚馬(39歳)の世話を始めた

 

土佐藩の建白を受けた徳川慶喜が慶応3年(1867)10月14日政権返上を明治天皇に上奏、15日に大政奉還勅許。
12月9日王政復古の詔勅により幕府の機関が廃止され、京都守護を任されていた会津・桑名藩兵に代わって薩摩・安芸・越前・尾張藩兵が宮門の警備についた。11日に長州軍が入京し、旧幕臣の多くは不満を抱えたまま大坂城へ退き、慶応4年(1868)正月朔日、林権助率いる会津藩士はじめ徳川慶喜を支持する諸藩が出兵。
伏見方面も戦場となり、京に残っていた覚馬は蹴上で正月3日に薩摩軍に捕らわれた。
※『薩摩藩兵具方一番戦状』では正月十八日頃大坂で生捕りされた報告中に「山元角馬」の名がある

覚馬は御所の北にある薩摩藩二本松邸(現・同志社大学今出川キャンパス)の稽古場を獄舎として幽閉されたが、畳の間が宛がわれ待遇は良かった。なにより時栄が頻く頻く訪ねて介護に来たことも、5月末に政見建白書「管見」を完成させる程の心の支えの一つであったのかもしれない。
口述を野澤雞一(のざわけいいち。陸奥国野沢村出身、17歳。一時的に会津藩士)に筆記させた「管見」を翌月薩摩藩主に提出した後に高熱を発し、新政府軍に接収された仙台藩邸の軍務官病院に6月18日に移された後、岩倉具視の訪問を受ける。

 

明治2年(1869)3月中旬、新政府から軍務官出仕の呼出しに応じた覚馬は4月に病院を出て上洛し、陸海軍務等の教授にあたる。
軍務官(7月に官制改正により兵部省と改称)役所は元・京都守護職屋敷に置かれ、その近くの宿舎で暮す42歳の覚馬の世話の為にまだ15、6歳ほどの小田時栄と同居を始めたと思われる。

明治3年4月14日に覚馬は京都府庁に採用され、権大参事の槇村正直の顧問となる。
この頃には「河原町三条上ル 下丸屋町」に住んでいたとされる。※『官員進退録』

 

明治4年(1871)時栄は覚馬との娘、久栄を出産
この年の秋に覚馬は母佐久、妹八重、妻うらとの次女みね(峰。姉は夭折)を京に招くが、うら(樋口氏)は夫の子を孕んだ若い妾の存在を知ったためか上洛を拒んだ。
うらが離縁を望んだとして覚馬は正式に時栄を妻とした

 

明治5年(1872)覚馬は脊髄損傷でついに歩行困難となるが、覚馬のためにルドルフ・レーマンが試作した車椅子に乗りながらも京都復興のため奔走を続ける。翌年8月に小野組転籍事件で拘禁された槇村参事の釈放を請うため八重と東京へ上京。
明治8年(1875)6月7日覚馬が買付た相国寺二本松の薩摩藩邸跡地を、同志社英学校のため新島襄に譲渡。
明治9年(1876)1月2日八重、アメリカン・ボード(米国の海外伝道組織)の宣教師J.D.デイヴィスより洗礼を受け、3日新島襄とキリスト教式の結婚。12月佐久とみねが受洗。
明治10年(1877)12月27日覚馬は府顧問免職。
明治11年(1878)9月16日同志社女学校開校し山本佐久が舎監を勤め女学校に住込む。
明治12年(1879)3月30日覚馬が初代京都府会議長に選出される。
明治13年(1880)10月に辞職し地方税の布達をめぐり対立していた槇村知事を諸運動によって失脚に追い込む。
明治14年(1881)みねが伊勢時雄(横井時雄。熊本藩士横井小楠の長男、同志社第3代社長)と結婚。

 

明治18年(1885)5月17日、京都第二公会で宣教師グリーンから覚馬と時栄が洗礼を受ける。6月21日に久栄も受洗。
8月下旬に覚馬は斗南から17歳の望月興三郎を呼び寄せ、同志社に入学させた。英学校三年級に無事入学し寄宿舎に入った興三郎を覚馬は将来久栄の婿養子にしてもよいと考えていたようだ。
中野好夫の著では望月興三郎の弟だが、迎えた婿養子候補が実際に誰であったかは不明

当時同志社英学校に通っており山本・新島家と接していた徳富健次郎(徳富蘆花。徳富猪一郎の弟)の小説「黒い眼と茶色の目」によれば、
12月末、時栄が腹痛を起こし医師ジョン・カッティング・ベリーが診た所、妊娠五か月であることが分かった。
しかし覚馬は妻の懐妊理由におぼえがなくその裏切りに対して憤ったが、彼女に介抱された長い年月を振り返り自己との煩悶の末、時栄の不貞を許すことにした。
しかし時栄の不始末を許すことができなかったのが、夫の影響でキリスト教下に身を置いていた妹の八重、そしてかつて実母が父から身を引いている娘のみねである。
みねが嫁ぎ先の今治から駆けつけ、八重と共に覚馬に時栄との離縁を迫った。

覚馬は時栄にきちんと住居を宛がう条件で、離縁に同意。八重は時栄に、実娘の久栄と二度と会ってはいけないと約束させた。
女学校四年級へ通う15歳となり十分に事の成行を理解できる久栄、見守るしかない覚馬の母佐久の心中は計り知れない。

……起居に不自由な山下勝馬(山本覚馬)さんの介抱をしていた時代(時栄)さんは21歳で壽代(久栄)さんを生む。
異母姉のお稲(みね)さんが能勢又雄(伊勢時雄)に嫁いだため家督をつぐ壽代さんが14歳の年に、山下家では養嗣子にするつもりで旧会津藩士の家から18歳の秋月峰四郎さんを迎えた。
時代さんは35、山下さんは60歳近く。時代さんは養子の峰四郎さんを可愛がった。
そのうち時代さんが体調を崩し、協志社(同志社)の校医ドクトル・ペリー(J.C.ベリー)さんが診察した。ペリーさんが「おめでとう、もう五月です」と声高に妊娠を告げたが、それを聞いた山下さんは「覚えがない」と言いだした。

時代さんは、はじめ「鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知らぬ男に犯された」としらをきったが、最後には養子を誘惑したことを自白して泣きながら許しを請うた。
永年の介抱に感謝していた山下さんは許そうとしたが、飯島先生(新島襄)の夫人のお多恵(八重)さんと、嫁ぎ先の伊予から駆け付けたお稲さんが否応なしに時代さんを追い出してしまった。
養子は協志社を退学して郷里に帰った。

離縁後に時代さんは娘の顔を見たがったが飯島の夫人が近寄らせず、山下さんの介抱は心得ある女中にさせた。
徳富健次郎『黒い眼と茶色の目』より要約

……後書きには、この小説は著者徳富健次郎が20歳の頃に山本久榮嬢との恋愛の経緯を47歳の晩秋に記憶を辿って書いたもの(上の要約部分は彼が聞いた噂話)と記されています。

 

時栄の「不祥事」については覚馬について語る誰もが濁しており、健次郎の小説がどこまで創作かは分からない。
明治19年(1886)に覚馬から離縁された時栄は2月12日付で戸籍を小田に戻し、その後分家して堺市に移る
兄勝太郎の先妻の子を養子にもらい、明治28年(1895)2月9日に神戸市山本通五丁目七十七番屋敷へ移籍
その後はアメリカへ渡ったと小田家に伝わっているそうだが、記録は遺されていない。

 

そして時栄と離縁した後の山本家周辺は…
翌年の明治20年(1887)1月27日、長男の平馬を出産後に肥立ちが悪かったみねが26歳で亡くなり、平馬は山本家の養嗣子となる。
みねの義母の津世子(夫横井時雄の母、小楠夫人)が、みねが葬られた南禅寺の門前で横転して横井家で同居している19歳の徳富健次郎(時雄の母方の親戚にあたる)と久栄が看病にあたった。
1月30日に新島襄の父民治が亡くなる。

津世子の看病で親密になった久栄と健次郎が互いに勉学中の身であるために周囲から咎められ(特に八重の猛反発があったとも)11月に婚約が破談、12月の半ばに健次郎は同志社英学校(三年級)を中隊し、京都を去った。
久栄は神戸の英和女学校(後の神戸女学院)に進む。

明治23年(1890)正月、募金運動の最中の新島襄は神奈川県大磯の百足屋旅館の離れ座敷で病床にあった。八重、徳富猪一郎(とくとみいいちろう)、小崎弘道(こざきひろみち)を呼び三十通にも及ぶ遺言を伝える。
1月23日午後2時20分死去。享年47。27日同志社のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山若王子に葬られた。

明治25年(1892)12月28日午後1時45分山本覚馬、自宅で死去。享年64歳。30日襄と同様に同志社チャペルで葬儀、若王子墓地に葬られる。
明治26年(1893)7月山本久栄23歳で病没。
明治29年(1896)5月20日山本佐久87歳で死去。

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・『歴史読本2013年7月号「特集 山本覚馬 会津近代化の先駆者」』→[Kindle版]
・『会津人群像 第19号―特集:幕末京都にただ一人残った会津人山本覚馬
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」
・同志社社史資料室『同志社人物誌』

そしておまけ、八重の桜のキャスト。成長後、敬称略
・新島八重:綾瀬はるか
山本覚馬:西島秀俊(八重の兄)
・山本佐久:風吹ジュン(八重の母)
山本時栄:谷村美月(覚馬の後妻)
・山本久栄:門脇麦(覚馬と時栄の娘)
・伊勢みね:三根梓(覚馬と前妻うらとの娘)
・樋口うら:長谷川京子(覚馬の前妻)

・新島襄:オダギリジョー(八重の夫、同志社の校長)
・新島民治:清水紘治(襄の父)

熊本バンドに属していた同志社の卒業生
・伊勢時雄:黄川田将也(みねの夫、伝道師として愛媛県今治市に赴任)
・小崎弘道:古川雄輝(伝道師となる)
・徳富猪一郎:中村蒼(新聞記者を志願し中退)

ドラマの中で時栄の不倫相手として描かれるのは青木栄二郎
青木栄二郎:永瀬匡(番組中では広沢安任の遠縁、山本家の書生)
・広沢安任:岡田義徳(旧会津・斗南藩士)

明らかな無断転載があるようです。当ブログの文章のみを抜粋した転載はご遠慮下さい。

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。

 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。

 

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

会津藩主松平家御廟[2]照姫の墓所

容保と照姫の墓

▲松平容保の墓所のそばに佇む松平家の墓に義姉の照姫が眠る

松平煕・照姫(てるひめ)
天保3年(1832)12月13日、上総国飯野藩九代藩主の保科正丕(まさもと)の三女(てる)は、側室の静広院を母として飯野藩の江戸藩邸で生まれた。

天保13年(1842)5月25日に11歳で、当時実子のなかった会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となった。
容敬の子が次々に夭折した為、芯が強く教養の高い美少女の照姫を迎えたとの話もあり、翌年9月に容敬と侍妾寿賀女(岡崎氏)との間に娘の敏子が誕生した後も、容敬の照姫への慈愛は変わらなかったという。

弘化3年(1846)4月、容敬は美濃高須藩松平義建(よしたつ。容敬の義弟)六男で12歳の銈之允(けいのすけ。元服して容保/かたもりを名乗る)を養子に迎える。
嘉永元年(1847)7月に実父保科正丕が病没し、跡を継いだ保科正益(照姫の弟)を容敬は支援した。

嘉永2年(1848)18歳の照姫は豊前中津藩(現在の大分県中津市)10万石八代藩主奥平大膳大夫昌服(まさもと。この時21歳)に嫁ぐ。
しかし子宝に恵まれず安政元年5月(1854)に離婚し、弘化5年(1848)には会津藩江戸藩邸に戻っている。

嘉永5年(1852)2月10日に容敬が病没し、閏2月25日18歳の容保が九代会津藩主となる。照姫は義姉として容保を支えたという。
安政3年(1856)9月に22歳の容保と13歳の敏子が結婚するが、文久元年(1861)10月に敏子が病没。
文久2年(1862)12月24日容保は京都守護職就任のため江戸を出発。
慶応2年(1866)12月容保は水戸家一橋余九麿(よくまろ。慶喜の実弟、11歳)を養子に入れる。翌年元服し喜徳(のぶのり)と名乗る。
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の敗戦後に容保は慶喜に従い江戸に帰還し、恭順の意を表すために2月4日に喜徳へ家督を譲り引退する。
しかし登城禁止令が出され、やむなく16日に会津藩主従は江戸を引き揚げた。

22日、照姫は初めて会津に国入りしたともいう。
容保は更に恭順の意志を示すために鶴ヶ城へは入らず、御薬園別邸に留まった。

しかし戦雲は広がり、会津藩と親密な飯野藩にも嫌疑がかかるが藩主正益の謹慎と重臣達の嘆願で正益は救われた。
国元の飯野藩内では幕府と会津への義によって森要蔵などが脱藩し新政府軍と戦っている。

鶴ヶ城籠城は8月23日から9月22日まで一ヶ月も続くが、照姫は城内にあって六百有余の婦女子の総指揮をとったという。
奥殿の女中若年寄格表使大野瀨山(大野四郎五郎叔母)、御側格表使根津安尾(根津八太夫妹)等に命じて分担させ、婦女子達は病室にあてられた本丸大書院・小書院へ次々と運び込まれる傷兵の手当を蘭方医古川春英ら藩医や幕府の西洋学問所頭取の松本良順と門弟4人らの指導で行い、食事(牛乳や牛肉も与えたという)の世話をした。
手狭になると大奥の長局の間も提供し、照姫は包帯を作るために高貴な衣装を解かせて布芯を使わせた。
飛来した砲弾が破裂する前に濡れ布団や鍋で覆うなど危険な防火処置などにも毅然として活躍し、書籍や帳簿などから薬筒(パトロン)を制作し、食事と物資を運び女達は「照姫様のために」を合言葉に戦い続けたという。
子供は敵の弾丸を拾い、老人が弾丸を造り、皆が力を合わせて兵を支え籠城に耐えた。

鶴ヶ城開城式の後、容保父子と共に滝沢村妙国寺の謹慎に従う。照姫は髪を落として照桂院と名を改めた。

荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
身にしみ増さる 夜あらしの声

10月17日夕刻に松平父子と萱野権兵衛ら家臣5人の東京護送の沙汰が伝えられ、立退きを言い渡された照姫は義弟と甥の見送られながら夜半に侍女の高木時尾(側表使。新撰組斎藤一の妻)達と共に大町の民家に移り、後に七日町の清水屋を寓居とする。

翌明治2年(1869)正月28日照姫は若狭叔母(松平若狭守喜徳の叔母)として紀州藩御預となり、会津から紀州藩兵が護衛して2月29日東京へ向かい、3月10日青山の紀州藩邸(徳川茂承)に入る。
会津藩からは照姫の付き人や側医師ら中奥・表の役人の男子18人、時尾ら侍女22人の40人が従った。
(3月3日御薬園に移った義父容敬側室(敏姫実母)圓隆院や容保の側室達も5月に上京の命が出ている)

新政府から会津藩への伝達・伝令は大方は保科正益を通じてなされていた。
5月18日、会津藩叛逆の首謀者として家老萱野権兵衛が一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑を命じられた時に、照姫は手紙をしたため、歌を寄せた。

偖此度之儀誠ニ恐入候次第全ク御二方様御身代ト存
自分ニ於テモ何共申候様無之氣ノ毒絶言語惜候事ニ存候右見舞ノ為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

正益はり密かに扇による自刃の方式をとらせ権兵衛に朝廷の望む罪人ではなく武士の體面を全うさせた。
その後も正益は松平家再興等の伝達を受持っている。

12月3日、飯野藩の尽力で照姫は飯野藩に預け替となり、27年ぶりに実家で起居することになった。
翌明治3年(1870)3月2日に母静廣院が飯野で亡くなるが、照姫は正益に庇護され、容保と和歌を交わすなどして穏やかに暮らし、晩年に東山温泉へ湯治に行き旅館向瀧にしばらく逗留した記録がある。

向滝

明治17年(1884)2月28日、照姫は53歳で逗留先の東京牛込(旧会津藩家老山川邸)にて死去。容保の子供(おそらく早世の双子)が埋葬されていた新宿の正受院に葬られる。
改名は照桂院殿心誉香月清遠大姉。
照姫の没後に容保も正受院に仮埋葬されたが、正受院の会津松平家関係埋葬者は戊辰五十周年の大正6年に全て会津院内御廟に改葬された。

 

元夫の奥平昌服は、照姫離婚の9年後の文久3年(1863)5月に宇和島藩主伊達宗城の四男儀三郎(昌邁。まさゆき)を嗣子とした。
会津攻撃を心苦しく思ったか定かではないが、総攻撃より前の5月6日病気を理由に、昌邁へ家督を譲り隠居している。

また伊達宗城の妹が、保科正益の室の節子である。
明治32年8月の照姫の十三回忌の供養として、三淵隆衡(萱野権兵衛の実弟)・保科近悳(西郷頼母)・松平健雄(容保次男)ら78人程と共に追悼歌集「かつらのしづく」に節子の歌もある。
そのかみをしのぶなみだのはる雨は 我袖にのみふる心ちして 保科節子

松平家墓所 松平家の墓照姫の案内板

会津藩主松平家墓所(院内御廟・国指定史跡)
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字墓山

参考図書
・綱淵謙錠『幕末の悲劇の会津藩主 松平容保
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・会津戊辰戦史編纂会『会津戊辰戦史
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・牧野登『保科氏800年史』
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『歴史読本2013年07月号