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御香宮神社[2]伏見の戦跡

伏見の戦跡の碑 伏見の戦跡の解説

明治維新伏見の戰跡
御香宮境内。内閣総理大臣佐藤栄作の書。

■御香宮神社と鳥羽伏見の役
慶應3年(1867)12月9日に王政復古の詔が発令されると、京洛の内外は緊張し、朝幕の間に一触触発の険悪な空気が漲った。
17日の明け方に御香宮の表大門に「徳川陣営」と書かれた大きな木札が掲げられたため、御香宮の祠官の三木善郷は御所へ渡辺蔵人頭を経て注進すると、翌日薩摩藩士吉田考助(後の宮内大臣吉井友実/ともざね。歌人吉井勇の祖父)が来て札を外し、21日に薩摩兵が駐屯した。

慶應4年(1868)正月2日に徳川慶喜が大阪から上洛しようとし、先鋒軍が3日午後に伏見京橋に着いた。
幕府方の入京を遮る薩摩兵との間に小競り合いが生じたその時、鳥羽方面から聞こえた砲声を契機に、御香宮の東の高台に位置する龍雲寺に砲兵陣地を布いていた薩摩藩士大山弥助(後の元帥大山巌)が、眼下の伏見奉行所(御香宮の南に位置し、幕府側の新撰組らが布陣)に砲撃を開始した。

伏見奉行所では療養中の近藤勇の代わって土方歳三が率いる新撰組が応戦し、久保田備中守率いる伝習隊が官軍の前衛部隊を攻撃して墨染めまで撃退する。

4日に軍事総裁の仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍は奮い立ち、突如賊軍となった伏見方面の幕府側の兵たちは戸惑い、淀へ撤退。
一時は押していた鳥羽方面の幕府軍も橋本まで撃退され、共々大坂城へ敗走した。
この地で勃発した鳥羽・伏見の戦いは明治維新に至る黎明といえる。

戦の間、古御香宮に移って郷の安全を祷っていた祠官の三木は、5日に復座した。

人見寧-幕府遊撃隊・土木県令・利根運河の三狂生

人見勝太郎寧の写真 人見寧 ひとみやすし。写真は箱館戦当時

■人見寧の生立ちと遊撃隊への抜擢
初め勝太郎(かつたろう)。字は君寿、号は模坪。
天保14年(1843)9月16日、二条城の西、二条千本の十軒屋敷で幕臣・人見勝之丞の長男として生まれた。
勝之丞は京都文武場(ぶんぶじょう)の文学教授を務め(漢詩文が何篇か現存しており、特に得意としていたようだ)母は仙子(清水家)。
人見家の先祖は江戸時代前期に武蔵国から丹波国に移り、享保14年(1729)丹波国馬路村の郷士人見治郎右衛門が株を買い武士身分に転じ、京都に移住した。

勝太郎は10歳の時に京都学習院の儒家の牧贑斎(百峰)に入門し、そして大野庄之助に剣術、江川流の山田某に西洋砲術を学んだ。

文久3年(1863)将軍徳川家茂が上洛し3月に二条城に入る。家茂は京都の幕臣達に文武奨励を号令し、人見勝之丞と19歳の勝太郎が二条城に呼ばれた。勝太郎は家茂の前で孟子梁恵王上篇の一章を講義して白銀3枚を、更に撃剣上覧で白銀3枚を恩賜を賜った。

慶応3年(1867)12月に勝太郎は幕府親衛隊である遊撃隊に抜擢され二条城の君側(慶応2年に家茂は他界し一橋慶喜が将軍となる)に勤仕。下旬に慶喜に供奉し大坂城に入る。

 

■鳥羽・伏見の戦い
慶応4年(1868)1月2日遊撃隊は慶喜上洛の御先供の令を受け、今掘摂津守(元講武所師範役)に属し、黒谷に先発する。大阪城から船で淀川を上る。
3日の明け方に伏見に着く。しかし薩長の兵が鳥羽・竹田街道に関門を置いて幕府方の洛中入りを阻んでいた。手出し無用の命令を厳守して手持ち無沙汰な幕府先発兵に対し、薩摩兵は余裕のある態度で挑発する。
夕方5時頃に鳥羽街道上の赤池付近で幕府方と薩長兵の押し問答の最中、突然薩摩方が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が届いた伏見でも開戦となった。

伏見方面の薩摩兵は御香宮(ごこうのみや)に布陣。
幕府方は会津軍の主力が伏見街道に集結して伏見奉行屋敷を固め伝習隊が北の御門、新撰組は裏手を警備し浜田藩が控えた。
奉行所を見下ろす位置にある龍雲寺から薩摩藩第二砲隊の大山巌(通称:弥助。弥助砲と呼ばれる薩摩軍の山砲は彼が四斤山砲を改良した)らが激しく砲撃を行う。薩摩方の大砲は焼玉(炸裂弾)で町中に火があがり幕府方の負傷者が増えていく。
遊撃隊の伊庭八郎は伏見奉行邸前で奮戦し胸部(もしくは腹部)に被弾。
先発隊は夜通し戦うも、薩摩兵が御香宮まで退却したため、遊撃隊も中書島へ引き揚げた。

4日、伏見・竹田両道から洛中へ進軍しようと大いに意気が上がっていた所に、総督松平備豊前守(大河内正質・上総大多喜藩藩主)が全軍大阪へ引揚げを命じた旨を副総督の塚原但馬守から伝えられた。
人見ら遊撃隊隊士数名は会津藩士数十人と供に鳥羽街道筋、伏見通路、澱川沿いと戦いながら移動したが澱には自軍の影もなかった。
更に橋本陣所まで南下すると、山崎関門守衛の藤堂藩が離反して橋本を砲撃し、若州藩見回役と対戦。人見は負傷者が放置されるのを見過ごすことができす、弾が飛び交う中を奔走し小艇を一艘買って負傷者を乗せた。

6日に大阪に着く。人見は遊撃隊宿舎の天満組屋舗の族舎に負傷者を収容して、大坂城に登城するが、守備が手薄で静まり返っている。残っていた会津藩士に慶喜が江戸に帰った次第を聞く。
監察妻木民弥に面会し、軍は紀州和歌山に向かうことになった旨と、負傷者達は人見に一任すると達せられた。
友人の楳沢銕三郎(梅沢鉄三郎、敏。幕府目付の水戸藩士梅沢孫太郎/守義の三男で梅沢家を相続。後に静岡県議会議員)と共に負傷者を運搬する釣台人夫を雇うため奔走し、安治川口の御船役所に赴くが乗船には間に合わず、敵兵が迫り火の手も上がる危地に際した人見らは抜刀し脅す強行手段で大船に乗り込んだ。
負傷者を無事送り出すと、人見らも命懸けで大坂の様子を探索しながら和歌山に向かった。

8日に和歌山に着く。人見は負傷者達の元へ駆けつけ無事を知り安堵する一方で、彼らを置き去りにした遊撃隊の頭を論責している。
人見らは三ヶ保丸で由良港を出航し、13日に浦賀に着き、江戸へ入る。

 

請西藩・内房諸藩士との共闘戊辰箱根の役

人見らは同じ遊撃隊の山高鍈三郎邸(牛込赤城明神下)に居候する。人見は赤坂本氷川坂下の勝海舟邸で勝と初めて接し卓論を聞く。
1月下旬、人見と人見の友人の岡田斧吉は、大監察堀錠之助が徳川臣代表として東海道先鋒総督府に哀訴嘆願する使節の末班加入を望み、後日随行の命が下る。
2月上旬、人見らは堀邸を出発し3泊を経て甲府(山梨県)に着く。近藤勇が挙兵し甲州進軍の噂があり、現状確認を優先する堀に反発した岡田・人見が任務を強行して先鋒総督府の参謀海江田と木梨らに嘆願書を託す。

3月徳川慶喜の水戸謹慎が決まり遊撃隊は慶喜を奉送することとなるが、人見は岡田、伊庭、和田助三郎、佐久間貞一郎、らと供に千住大橋まで奉送後に脱走挙兵する計画を講じて、実行準備のため銃器・弾薬を集めていた折に、海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)が幕府軍艦を率いて脱走するとの噂を聞き、伊庭・宮路・佐久間らと下谷の榎本邸を訪れ、榎本と同盟を結ぶ。
14日に遊撃隊隊士は長鯨丸、人見ら4人は榎本の居る開陽丸に乗船。

4月11日、大総督有栖川宮の江戸城入城のため本営の池上本門寺から品川へ進入する様子を人見らが開陽丸の艦上から望見していたその時に、榎本が2艘の艦隊を一斉に品川沖から抜錨した。房州館山(千葉県)へ渡り館山湾に停泊。
16日に榎本のもとに、大総督府の幕府軍艦引渡要求の交渉のため勝が単身で来訪。榎本が2、3艦を引き渡すと応じたことに遊撃隊は反対し憤懣に耐えず人見ら3、4名が抗議したが覆らず、上総(千葉県)上陸を決断する。

17日に榎本は品川沖に戻る(24日に富士山・翔鶴・観光・朝陽4艘を大総督府に引渡す)こととなったが、遊撃隊とは同盟を結んだ誼で、上陸に適した小艦の行速丸に榎本自らが乗り込んで送った。隊士達は榎本の友誼の厚さに感謝して木更津付近に到達。徒歩で上陸し寺院に泊まる。
その夜はじめて軍議を開き、遊撃隊を2隊とし、人見は1軍隊長となる。

28日に請西藩を訪れる。遊撃隊は文武両道で将軍の身近に在った奥詰めからなる隊なので、規律正しく統制もとれており、請西藩主の林忠崇は彼等に真の忠義を感じ取って協力を受け入れた。

閏4月3日真武根陣屋を出陣。館山に向かって南下し富津陣屋を経て飯野藩勝山藩館山藩の上総安房諸藩の脱藩兵を加え、共に駿河(静岡県)沼津での挙兵をめざして江戸湾を渡り12日に相模(神奈川県)真鶴港に上陸し、小田原を経て沼津の韮山代官所に向かう。
大総督府は沼津藩に総勢300人近くとなった遊撃隊ら一行を解体させるよう命じ、また江戸からは田安中納言(徳川慶頼)の命で旧幕府首脳の大鑑察山岡鉄舟と石坂周造が抗戦を止めるよう説得に訪れた。
林忠崇と遊撃隊は上意をしたため、山岡らに託し、新政府軍総督府からの返書を待つ形で、沼津藩主が城代である甲府で待機することとなる。
しかし期日を過ぎても返事は来ず、沼津藩監視下の香貫村でひとまず謹慎となるが、東の彰義隊壊滅の報を聞き新政府軍の包囲が強まるのを感じ取った人見が豪雨に乗じて第一軍を率いて箱根方面へ出陣する。
残る遊撃隊も箱根に移り5月20日に小田原藩の守る箱根関所を占領した。

しかし小田原藩が急に手のひらを返し、26日の山崎の激戦(人見は旧幕府艦隊に赴いて不在)で各方面から追撃を受ける窮地に立たされた遊撃隊は箱根から熱海まで撤退し網代に渡り榎本率いる艦で東に渡る。
5月28日に館山港に着き、戦える者は奥州への転戦を決めた。

 

■奥州へ転戦
6月1日に一行は長崎丸に乗り、3日に奥州小名浜(福島県いわき市)に116名が上陸。
4日に平(たいら)に着き、奥羽越列藩同盟を結んでいる平藩・湯長谷藩・泉藩の支援要請に応じる。
16日に常州平潟(福島境に近い茨城の港)辺に新政府軍の船渡来の報があり、夜に出陣。
17日明け方仙台・磐城諸藩連合軍と共に出撃。山上で待ち構えていた新政府軍と、遊撃隊一隊も仙台兵を率いて戦い、林軍・他遊撃隊らも松原で迎え打つも、主力を白河に出していた仙台兵は敵の大軍を前にして士気が上がらず苦戦する。
支援藩兵の軟弱さに憤った人見も、兵に覇気がなく内部は恭順・抗戦派で割れ信用が置けない藩は見限って会津支援に向かうことを忠崇に勧めたが、翌日仙台陸奥守の名代の古田山三郎らが国元からの援軍の指揮を強く請うので、止むを得ず、滞在を延ばす。

23日新政府軍が平城目指して進軍し、遊撃隊は朝8時頃に湯長谷の隊を植田宿へ出撃させる。
植田八幡山で敵を待ち受けるために2手に分かれ請西藩兵・遊撃隊1隊・平藩兵は街道から、純義隊・遊撃隊1隊は山手から侵入する。
24日八幡山を挟んでの攻防となる。急襲成功し敵を多く討ち取るも激しい砲撃戦の後、数に劣る同盟軍は湯長谷に退却。

29日長橋端から新政府軍を砲撃で撃退するも、平城主・泉城主らが仙台兵と共に逃げ退いたため守備が手薄になる。それでも留まって戦おうとする忠崇を、人見が諌めて会津支援に向かうことを説得し、忠崇らは相馬中村(平より北へ位置する)へ向かう。

7月19日夕方、川俣に着泊した人見も会津に向けて出立。
その後人見は寒風沢(さぶさわ。宮城県塩竈市の浦戸諸島で仙台藩の軍港がある)港守衛の任務に就く。
※暫定。諸隊の奥州戦は少しずつまとめていきます

 

■蝦夷己巳の役。連勝し五稜郭に入り松前を奪取
9月に人見は榎本一行と白石城(輪王寺宮が入り奥羽越列藩同盟の奥羽越公議府が置かれた)に向かって発つが、途中で会津落城(22日降伏し会津若松城開城)の報を聞き一同落胆し、仙台に引き返って泊まる。
輪王寺宮も謝罪を決め、同盟主仙台藩や主力藩の降伏で奥羽越列藩同盟は崩壊した。

榎本が新政府との調和のため、録も拠り所も失った旧幕臣達(徳川家の減封で幕臣を養いきない)の手で不毛の蝦夷(北海道)を開拓し、朝廷と日本国土のために北方の警備にあたる構想を告げ、人見はこれに賛同して庄内(同盟藩で恭順を拒む最後の藩)行きを断念する。
10月9日に仙台東名浜(とうなはま。東松島市)から折浜(おりのはま。石巻市)に移動。
10日大鳥圭介も米沢から伝習隊を率いて仙台に着き兵を精選して乗船。榎本の艦隊に北行を望む諸藩の兵を収容する。
12日仙台藩の支援もあり、艦の修繕も終わり、遊撃隊らは折浜を出航した。
13日に桑ヶ崎(秋田県湯沢市)に入津し18日に出航。
20日に蝦夷鷲ノ木(わしのき。茅部郡森町)に着岸し榎本艦隊の旗艦開陽に各艦から幹部が集められ会議となる。人見と岡田、沢録三郎、佐久間悌二が隊士から離れ全軍の役職に転出。

22日に上陸、一尺ほどの積雪があった。人見は箱館府(幕府直轄の箱館奉行に代えて新政府が設置)知事清水谷公考(しみずだにきんなる)宛の渡海趣意書を届ける大役を任され、大鳥の部下数名と少数兵の30名を引率して箱館(函館)へ通じる本道の峠下(とうげした)村へ向かって先発する。
吹雪の中、数里の森林間を経て、夜に峠下村に達した。土地の者から官兵達はここにはおらず一里離れた大野村に居ることを聞き、疲弊していた一行は見張りを置き民家で仮眠をとった。

23日、まだ夜が明ける前に、左右の山上の至近距離から敵の伏兵(津軽・松前等の兵)に大小銃を撃ちかけられ、民家に雨のごとく弾丸が降りそそいだ。
夜襲に対して、人見らは匍匐して灯火を消して散兵の形で雪明りに山上の敵影を確認し、しきりに狙撃を果たす。頃合を見て人見らの後方の峠の中間へラッパ兵を登らせ、進軍合図を吹かせると同時に人見らが突撃の雄叫びを発して一斉に立ち上がった。
驚いた敵が銃や死傷者を棄てて敗走したので、富士山村まで進軍する。
夜襲に耐えて、蝦夷上陸の初戦の勝利を収めた人見らは、元の峠下村に引揚げて休み、敵の負傷者を処置した。

森村まで伝習隊・新撰組・遊撃隊(仙台から乗船した会津・唐津兵等も編入)らを率いて移動していた大鳥も、早馬の急使に開戦を告げられ、夕方に峠の陣に到着し人見らに戦の詳細を聞いて軍議を開く。
敵が大野と七重に在るとみて、兵を分けて大鳥隊は大野村へ、人見・佐久間を軍艦に遊撃隊・新撰組・工兵方を七重村へ進軍する。間道富士山に宿陣。
24日に七重村を本営とする。

人見らが七重村から南に出た所で、官軍が箱館から七重村へ向けて山の手と原野の両方面から来襲し、官軍6、700人と交戦。砲撃のあと2時間に渡る接戦で敵を潰走させた。深追いを避け大川辺より引揚げる。
官軍はこの敗戦により清水谷府知事はじめ諸藩の官兵は五稜郭を放棄して秋田・津軽地方へ船で逃走。
敵の屍は手厚く葬り、負傷者は旧幕府一行側の病院で治療し回復後に生捕りの者と共に各藩へ送り返した。
夕方に人見は大鳥の元へ戦況を報告に行き、兵を合流させ五稜郭へ向かう作戦をたてる。

25日に大鳥隊は湯の川に向かう土方歳三の隊と連携を取って五稜郭に迫る。
26日に箱館の無血占領を果たす。
その後全軍が五稜郭に入り、海軍も箱館に集まり碇泊。箱館在住の外国領事ロシアのニコライ等に外交通知し、我が党が全島を支配し一般の保護を担任する旨を告げ、また一般人にも布告をして安堵させた。
そして松前藩士の生捕り者2名を藩に送還して、同盟の義を勧誘させようとしたが、この2人を殺し敵意を示したので、やむを得ず27日に土方を総督とし松前城に向けて進軍するに至った。

11月5日に松前城(福山城)を落城させる。松前藩主と重臣らは江差に走り津軽を頼って渡海していった。
落城後すぐに人見は入城して、遊撃隊に略奪行為を禁じる命令をし、わずかに番兵を残して各隊皆城外に宿営させた。
城内大手口玄関に藩士一名が着服して死んでおり、義烈の情感にたえず、厚く葬った。
人見は2、3人の隊士と城内を見回ると、奥深くに松前藩主の家族侍女等婦人7、8名が取り残され、うな垂れて泣いているので人見は処分せずに、松前家の菩提所に移し、町人に命じて諸事斡旋して厚く待遇した。後で希望を聞いて藩主のいる弘前へ送る折に婦人達は感謝して別れを告げた。
そして松前領内一般に、同盟の呼びかけ・住居を安堵したい者の自由・主君の元に帰りたい者の希望を叶える等を布告したので、多数潜伏していた松前藩士も安心して静粛に留まった。

江差に逃げ落ちた松前残兵と額兵隊(仙台藩)ら追撃隊が交戦。
14日に榎本が大吹雪の夜中に開陽艦で松前に来て、入城して人見に江差に急航すると告げた。これまでの陸軍の功名に、海軍も燻っていられずの意気込みで立ちながら葡萄酒を煽って早々に乗艦したが、結局翌日も吹雪が止まず開陽は江差港口で座礁(22日に救援に向かった神速丸までも遭難)し数日後に沈没してしまった。
陸路を帰る榎本と松前で会見して、天運の無さを嘆きつつ酒数杯を傾け、人見は城門まで送って別れた。
江差を守り、遊撃隊は松前を守衛。

 

■辞世を書いた指揮旗を振う。入院中に五稜郭明け渡し
12月22日に五稜郭でアメリカ合衆国に倣って入札(いれふだ。投票選挙)により役員を決め、人見は松前奉行となった。25歳の人見は幹部では最年少である。松前城付近に住み、城まで馬で通った。
総裁に選ばれた榎本は早速蝦夷開拓に取り組もうと、その志を朝廷に奏聞するが、新政府はこれを無礼の申出として却下し国賊として追討に踏み切った。

明治2年(1869)4月6日に新政府軍が数多く輸送船を引率して青森港を出航し9日早朝に乙部(おとべ)へ陸兵を上陸させ、陸海から江差・松前へと進軍を開始。
敵軍艦は沖にあって迎撃出来ず、兵数の少ない遊撃隊が戦闘にあたって防戦苦闘を強いられ岡田等、多数の死者が出た。

五稜郭に全軍集結の命令があり、松前を引き払う。帰途の知内で敵軍が西海岸から上陸して木古内(きこない)に現れ帰路を絶たれてしまう。
遊撃隊は奮戦し、悉く撃退して切り抜け、箱館に帰ることができたが、この戦いで伊庭が胸部を撃たる致命傷を負い病院に搬送される。

人見は遊撃隊を率いて箱館に舎営し弁天台場を守った。敵艦の春日が回航し幾度か台場を砲撃したが命中せず、台場からの迎撃も届かなかった。
官軍の甲鉄艦が五稜郭めがけ3百ポンド砲弾を発射し天地を揺るがす爆音に曝される。陸海共に日々小戦争が繰り広げられた。

5月10日、官軍の総攻撃を偵知した榎本達は、海陸の将校等一同函館の遊郭・築嶋の武蔵野楼で決別の大宴会を催し、夜半に皆四散して各部署につく。
11日夜明け前に敵艦が運転を始め、発砲開始。陸からも薩兵が四方より発砲して来襲した。
人見ら遊撃隊は一本木(いっぽんぎ。北斗市)から七重浜(ななえはま。北斗市)を進み、長州兵と交戦する。砲戦の後に短兵接戦となった。
人見は胴巻の白羽二重(はぶたえ)の端を裂いて辞世の七言絶句
幾萬奸兵海陸来  [幾万の奸兵、海陸より来る]
孤軍塲戦骸成堆  [孤軍防戦、骨堆(たい)を成す]
百籌運盡至今日  [百籌(ひゃくちゅう)運尽き、今日に至る]
好作五稜郭下苔  [よし、五稜郭の苔とならん]
于時元治二年己巳歳仲夏
徳川脱藩遊撃隊々長 人見勝太郎橘寧
──と墨書きして決死の指揮旗として握り締め、馬上で指揮をとった。※元治はママ。于時は時に・この時の意味

しかし横合いの敵の艦上から狙撃されて馬を撃ち殺され、人見は落馬し額に重傷を負ってしまう。
敵兵の手にかかる前に従卒の久次が人見を茅原の中へ引きずり、人見の胴巻きを解いて包帯をし、放れ馬を捕らえて人見に与えた。
この馬で疾駆し箱館病院に入る折に、既に箱館の後部から上陸していた敵兵が人見を見て猛烈に射撃してきたので、馬を棄てて一町ばかりの坂道を駆け上って病院に飛び込んだ。
人見が病院長の高松凌雲(りょううん)の施術を受けたのち、12日に和平交渉に訪れていた官軍の参謀部員である薩摩藩士池田次郎兵衛が英国医師を連れてきて懇切に人見を診察治療させた。

──尚、落馬時に爆風で吹き飛ばされた指揮旗は左下に人見が流した血痕がついていた。
それを長州藩の隊長品川弥次郎が敵ながら遺族に届けるべき遺品と思って拾い衣嚢に納め、そして維新後に人見と巡り合うことになる

5月18日、榎本らは新政府に降伏し五稜郭を明け渡した。
榎本達は新政府軍の参謀黒田清隆(きよたか。薩摩藩士)のはからいで寛大に扱われた。

人見は病院で治療を受け数日後に弁天台へ移され、3日を経て蒸気船にて御親兵の護衛で東京に送られ、増上寺(ぞうじょうじ。港区芝公園)山内赤羽橋口の寺院に拘禁される。
数日を経て大村兵部大輔から下の宣旨を受け、豊前香春藩(かわらはん。旧小倉藩。福岡県北九州市)にお預けとなる。
其方儀箱根ニ至リ官軍ニ抗シ、中井範五郎ヲ殺害シ、奥羽ニ逃レテ後、
榎本釜次郎等ノ賊ト共ニ箱館ニ至リ官軍ニ抗シ、力尽キテ降伏スト雖(イヘド)モ
天地不可容ノ重罪厳科ニ可被処(処セラルベキ)之処、
出格非常之寛典ヲ以テ香春藩ヘ長預申渡

 

■東京・福岡で拘留後に静岡に移る
6月に香春藩兵の護衛で轎(輿)に乗り、籠に乗り下谷御成道(東京都台東区上野。今の黒門辺り)の小笠原邸に送られ、ここに一泊。
翌日の明け方に出発し、東海道から大阪に行き、安治川口から早船に乗って豊前国に渡り簑ノ嶋(福岡県行橋市)に上陸し、行司(行橋市行事)の祐福寺(ゆうふくじ。酉福寺)にらと拘禁された。
藩士4名が護衛したが厳しくはなく、後に近くへ散歩も黙認してもらえた。

明治3年(1870)3月に天赦の令で釈放。※辰の口軍務局糾問所に投獄された榎本や大鳥ら幹部の釈放は明治5年
香春藩兵は人見らに数名の藩士を随従させ静岡に送還すると告げるが断り、衣服と大小刀の贈与も受け取らなかった。
共に拘禁されていた友人の斎藤辰吉(たつきち。元彰義隊で後に中野梧一と改名。山口県令となり後に経済界で活躍するが大阪で自殺)と、呉服商に旅装を整えさせ羽織を着て何も武器を持たずに、医師か茶人のような姿で漫遊の旅に出た。

稗田村(福岡県京都郡)の漢詩人仙山堂(村上仏山)先生に一筆願い、筑前宰府の菅廟(筑紫野市。菅原道真公の廟所)を拝観し、博多を経て船で芸備防長(広島・岡山・山口)の瀬戸内沿海の著名な港を巡り泊まること数日。備後(広島県)靹津(福山市の鞆の浦)で遊興に耽り、四国の多度津(香川県)にわたり金毘羅社に参拝する。また幡州(兵庫県)に渡って所々巡遊した。

4月下旬に静岡に着き、人見は梅沢孫太郎(京都時代で既に述べた鉄三郎の父)邸に居候する。徳川家が移封され旧幕臣が移住して栄える静岡の様子は、幽国の悔恨を忘れたかのようだった。人見は耐え難い想いを心に秘めて、鹿児島へ渡ることを決意した。

 

■鹿児島へ遊学
西国留学の相談のため鷹匠町の勝海舟(旧幕臣による牧ノ原台地の茶畑開墾を指導していた)を訪れる。
勝の書を携えて男鹿村に出向き静岡藩大参事となった大久保一翁に面接し、翌朝の出庁を命じられた。出庁すると、徳川家を相続して静岡藩知事となった徳川家達から餞別金百両授与と伝えられ、拝受した。
感激した人見がすぐに勝へ礼を言いに行き、迎えた勝は人見に九十両の旅費と薩摩常備隊砲兵隊長村田新八宛の紹介状を与えた。

5月3日、同行を希望した梅沢鉄三郎と共に出発。
掛川駅で内藤七太郎(旧見廻組与頭、京都文武場教授方)を訪問して一泊。東海道をのぼり京都の父母の元に帰省してから大阪に下る。
安治川の船宿から早船で豊前に渡るつもりだったが、長州脱藩の元奇兵隊(奇兵隊は維新後の陸軍編成で解体。政府に反発した一部の脱退騒動が起きた)が海賊に成り果てて瀬戸内海を荒らしていたため出航を断られてしまう。
しかし通商を阻まれ略奪の標的となり困り果てている商人の前に、歴戦の剣士達が現れたというドラマのようなような展開でもある。ちょうど大阪湾に豊前大橋の柏木氏所有の商船(500石積の和船)が碇泊しており、船主の柏木氏とは、山陽先生の書画等を多く蔵しているため拘禁時代に3度程訪れて面識があった。
小伝馬船で兵庫に至り、親船に乗船する。

心地よい海風と夜空に一酔いして船中でまどろむ夜半に、突如、鉄砲を携え抜刀した海賊7、8人が商船を襲った。人見らは燈火を消し、伝馬船の下に抜刀して潜む。
近付いた2人の賊の前に躍り出たその時、呼子の笛が鳴り響き賊は逃げ出した。
船頭や船子に呼びかけ、総員10名が裸体に鉢巻姿で短棒等を手にして追跡したので、幸い米一俵も奪われずに賊難を免れて、人見らは謝辞を述べられた。

明け方近くに和田ノ岬(神戸市)の辺りまで漕ぎ出し、播磨灘を過ぎ、一泊もせず殆ど一昼夜で田ノ浦(北九州市)に着いた。
柏木氏の厚饗を受けた後に祐福寺を訪れて和尚にかつての厚情への感謝を述べた。
儒者の遠帆楼(えんぱんろう)恒遠(つねとお)先生の門を叩き、数日名所を巡った後、筑後川を船で久留米まで下って水天宮社を参拝。大雷雨に遭うが、高瀬を経て山麓の温泉に浴泊した。翌日熊本にいて木更・津田両氏の門を叩き、加藤清正公祠に参拝して逗留。

松橋から海路で薩摩領に上陸するが、薩摩藩の関史の尋問を受けた。
静岡藩の遊学書生だと告げても怪しまれ、腹立たしく抗論し藩鑑と勝も添書きを持つことを示せば俄かに温和になり、旅館に案内されて一泊。
翌朝、守関の重役が来て不敬を謝り、鞍置馬2頭と案内をつけようとして辞退したが、断りきれずに馬を借りる。
途中一泊し6月上旬に鹿児島石燈篭(いづろ)町の客屋(藩主所有の来賓接待所)に着いた。
村田新八、西郷隆盛、桐野利秋(中村半次郎)、篠原国幹、貴島清、伊地知正治、大山格之助(綱良)等他十数名が待受け、一介の書生の身に余る厚遇を受けて畏れ多い。
彼らと共に高千穂嶽に登り、栄尾(えいのお)温泉に浸かり、観光してまわった。
更に谷山村で遊び、秀頼公隠近所(大坂城から鹿児島に落ち延びた豊臣秀頼生存説がある)古墳で遺骨を見る時に、他藩から100人もの書生が来ても、ここに入るのは人見・梅沢の2人だけだと聞かされた。
そして村田が、若い薩摩藩士の中には人見らを西郷隆盛の暗殺が狙いだ誤解して危険視する者も居るのだと、一笑して物語った。

人見は加治木町の商家に寄宿して、鹿児島の文武を学び、鹿児島兵学校の生徒等と交流した。
この5ヶ月間の滞在で感じるところがあり(英学や英国技術を取入れ古くからの郷中教育にも培われた鹿児島の示教に触れたことにも拠るだろう)梅沢と共に人材育成の一の文武校の設立を考え、先に静岡へ帰ることを決める。

11月4日付けで村田を介して帰藩の餞別20円を受け、その翌日に村田が人見の寄宿先に来て、春日艦(薩摩の軍艦春日丸)を朝廷へ献納するため両3日中に上京する大山格之助の兵庫行きに便乗するという優遇を伝えた。
その夜、大山邸で催された格之助の送別会に人見と梅沢も招待され、西郷がナンコ(薩摩伝統の酒宴の遊び。敗者は焼酎を煽る)で幾度も酒を煽り、ついに酔い潰れた。
人見はかつての戦いを思い出し斃れた仲間達の追悼の感傷に浸る。春日の艦長は赤塚源六と聞いて彼を訪ね、箱館戦争で悩まされた敵艦春日丸に人見が乗船するという奇遇を談笑した。

7日に春日が桜島湾を抜錨し、強雨のため一夜を経て兵庫に着き大山と共に上陸。大山と静岡での再会を約束して別れた。
京で父母の元へ3、4日帰省し、静岡へ戻ると勝と大久保に面会して鹿児島での厚遇(それは勝らの計らいが大きい)を話した。また学校設立を陳述し許可を得る。

 

■集学所と賤機舎の設立
有渡郡大谷村(現駿河区辺)の瑞現山大正寺に集学所を開校。
主に戊辰・己巳の役で戦いぬいた旧幕臣達が入学し、総勢140~150名ほど。
士風刷新をはかり、文武両道、他藩士との交流に重点を置き、漢・英・仏・数学の学科とフランス陸軍式の教練を指導した。

山岡鉄太郎(鉄舟)に金策を断られた上に軽挙を戒められ、また人見と親しい雲井竜雄(くもいたつお。戊辰戦争中に新政府を薩長の地位向上に利用し恭順を示す幕府方も排除する姿勢を批判した「討薩檄」を起草した米沢藩士。集議院議員を辞職後に旧幕臣の失業対策に務めたが、政府への陰謀の嫌疑27歳で晒首処刑)が来て論議し人見へ忠告することもあった。

反新政と見なされるのは旧幕臣だけに留まらず、政府を恐れて処罰者の関与を避ける風潮の中でも弔おうとする人見であるが、伊藤俊介からも雲井と同じ嫌疑をかけられていると、忠告を受ける。
明治4年(1871)秋、夜に突然大正寺の堂が燃え、書類が消失してしまった。放火の跡があった。

集学所を失った人見は静岡学問所(明治元年10月に府中学問所として駿府城四足御門の元勤番屋敷[現静岡地方合同庁舎付近]に徳川家が開校。2年に改称)に勤務。学問所に設立された伝習所の米国人教師E. W.クラークと親しむ。

明治5年(1872)にアメリカ領事のC.O.シェパードが静岡茶栽培の視察に訪れた時、クラークが食事会に大参事や県役員を招く際に、人見を通して慶喜の招待を打診したが叶わなかった。
8月に政府の学制頒布に伴い静岡学問所が廃止。
人見は学問所の伝習所を私立英学校として受け継ぐ形で賤機舎(しずはたしゃ)を開き、明治8年まで学業・産業試作に尽くした。
賤機……駿府城のそばの浅間社の背に賤機山がある。ちなみに明治2年に徳川家が移封された駿河府中藩の字が新政府への「不忠」につながることから賤機山にちなみ「賎ヶ丘」と改称案が出たが賎の字を避け「静岡」に改めた経緯がある

 

■官界出仕
明治9年(1876)3月に内務卿大久保利通の推挙により七等判事に任じられ東京裁判所の民事課に務める。三田四國町1番地第八号
7月、茶葉栽培の経験を見込まれ大久保の依頼で内務省勧業寮に七等出仕
同時期の勧業寮に大鳥圭介が四等出仕(工部省工学頭兼製作頭兼任)している。
9月には農務課で動物・農具・開墾・製茶担当となっている。
製茶掛は各種類の茶と米国向けの無色茶試作や紅茶製法告輸書の頒布等を行う。

内務省に移ると、人見は内務小丞の品川弥次郎に声をかけられた。種々談話のあとで品川が「千金で譲るものが有るが君は必ず買うしかないだろう」と言うが、初めて会う品川の言う品物に人見に心当たりは無かった。誘われるまま車を連ねて富士見町の品川邸に至り、婦人に持ってこさせた楊行李の中の紙に包まれた品は──箱館の決戦で品川が拾った人見の指揮旗であった。品川の手厚い誼みにふれて涙がこみ上げた。
品川は箱館戦後にすぐドイツへ赴任することとなり、人見の旗を箱に入れたまま携帯して7年ぶりに帰国すると、計らずも内務省で人見と会見するに至ったのだ。実に奇縁なことである。
こうして人見と品川との交流が始まり敵と味方が時を越えて友情を深めたという。

また、鹿児島遊学中に親しくなった鹿児島県令大山綱良(格之助)と再会し、人見を鹿児島での仕官を誘われたが、明治天皇東北御巡幸に大久保と同行する予定が入っていたため都合が合わずに断った偶然によって、明治10年の西南戦争(大久保は西郷の鎮圧を指揮し、大山は西郷に官金提供した罪で処刑されることになる)の混乱を免れた逸話もある。
人見は「予 性頑鈍ニシテ 処世ノ術ヲ知ラス」と自伝の履歴書で頑固鈍感なたちゆえの処世術の無さを自嘲しているが、それは保身に走らず派閥を問わず人とすぐに親しくなれる人見の魅力でもあろう。

明治10年(1877)1月の官制改革で勧業寮が廃止し勧農局御用掛となる。3月、製造課で製茶担当。
明治11年(1877)3月御用掛准奏(月給八十円で変わらず)、動植課。
内務省勧業寮の官営模範工場の新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせきじょ。群馬県高崎市。生糸の生産時に出る屑糸や屑繭で作る絹糸である紡績絹糸の日本初の工場)の所長に赴任。

 

■茨城県令に就任
明治12年(1879)6月に茨城大書記官就任。従五位。
明治13年(1880)3月8日茨城県令(現在の知事)に就任する。
6月、箱根町早雲寺(神奈川県足柄下郡)に遊撃隊戦死士墓を建立。人見は戊辰戦争で散った仲間を偲んで各地の供養塔の建立に携わっている。

明治14年(1881)人見へ茨城県議会議員の広瀬誠一郎秋場庸利根運河開削を建議。
明治16年(1883)1月御雇オランダ人4等工師ヨハネス・デ・レイケが内務省から利根運河の実地調査を命じられ、人見らも同行。
明治17年(1884)5月に内務・大蔵・農商務の三卿に『茨城県五工事起業提言』を提出。
一、三ツ堀運河(利根運河)建設
二、涸沼~北浦運河建設
三、那珂川~久慈川運河
四、久慈川上流の整備(暗礁砕除)
五、那珂湊港の改修

この茨城各方面と東京を結ぶ三運河計画や水運地域の整備等、土木方面で茨城の発展を思案した人見は「土木県令」の異名を受けた。
この年、人見は製茶改良も諭告している。

明治18年(1885)6月17日、人見と千葉県令船越衛が江戸利根運河協議書に調印。
22日に築地の料亭隅屋で人見が会主として手打ちの会。昨年の加波山事件(かばさんじけん。自由党急進派が暗殺未遂事件を起こし茨城県加波山に立てこもる)で命を狙われた内務省土木局長三島通庸(この時栃木県令兼任。自由民権運動を弾圧していた)も同席。
7月8日人見が加波山事件の処理で責任を問われ茨城県令を非職となる。※正五位の地位はそのままで職のみの解任。

 

■利根運河会社社長となる
明治19年(1886)8月10日に広瀬が北相馬郡長を辞任し、下旬に東京都麻布の人見邸に訪れる。
※人見は大書記官時代から茨城県水戸(茨城郡常盤村1番地)に住み、取手の広瀬宅にもよく遊びに行ったが、その後麻布に転居した。

明治20年(1887)内務省から運河開削計画の中止を命じられ、広瀬は民間企業での開削をめざす。この時の人見は営利事業の関与に乗り気ではなかったが、千葉県令船越(当初は反対派であった)が麻布の人見宅を訪ねて説得し、会社設立に携わることを承諾した。

4月1日浅草の名倉屋で事業計画の打合せ会合。メンバーは●人見寧●広瀬誠一郎■秋場庸●色川誠一(創立メンバーが解離する中で長く運河事業に携わる。後に富士製紙常務取締役)●池田栄亮(千葉県会議長)●森隆介(茨城県会議員)■椎名半・関口八兵衛・笹目八郎兵衛。
人見・広瀬・色川は併せて利根運河の三狂生と呼ばることとなる。
10日発起人会を東京向島枕橋の八百松楼で開催。70名余りが集まり、来賓には内務次官、東京・茨城・千葉の知事等。
11日に広瀬は東京の京橋の木挽町商工会クラブで「利根運河創立協議会」を開催。
●人見●広瀬●色川●池田●森■高島嘉右衛門(大株主。後に高島易断で有名)、の6名が創立委員選出。
12日に日本橋蛎殻町三丁目の醤油会社内に仮創立事務所を置き、株式一株50円で株式申込受付開始。
13日に早くも目標の8千株40万円を集めて締切。
30日に創立事務所を日本橋区浜町2丁目11番地に移す。
5月9日に千葉県知事船越へ「利根運河開鑿願」を提出。
11月10日千葉県から「利根江戸両川間運河開削免許許可書」が交付される。
20日木挽町の貿易商会で株主総会を開き、役員を選挙。社長に●人見、筆頭理事に●広瀬、理事に●色川●池田●森(12月に辞任)、協議委員に■秋場■高島■椎名▲安田善次郎・秋元三左衛門・岡野寛・伊能茂左衛門・川村唯助・岩崎重太郎・茂木左平次が就任。
12月13日「利根運河会社」事務所を日本橋区浜町に設ける。
株主名簿に『人見寧 浅草区今戸町十七番地』の名がある。

明治21年(1888)3月17日江戸川口の本社(新川村深井新田290番地)を新築し千葉県に上申。
3月29日利根運河会社支社設立を東京府に届け出(浜町事務所の住所)
5月9日工事着手。デ・レイケの後任ムルデルが工事を監督。
7月14日運河開削起工式を本社にて挙行(内務大臣、東京都・千葉・茨城県知事等来賓)
30日に人見は会計検査委員の設置を建議。委員は▲安田・志摩万次郎(池田に代わりに理事。筆頭株主で二代目社長となる)・笠野吉次郎。

明治22年(1889)5月13日人見が神経痛を煩い社長を辞任。
明治23年(1890)3月25日に利根運河の営業を開始し、通船。
6月18日に深井新田の本社で総理大臣山縣有明、内務大臣西郷従道他政府関係者らが臨席で盛大に催された竣工式にて、帰国前にムルデルが送った祝詞に、工事の難航(運河会社役員の交送と金銭逗滞も含まれる)が述べられ、それらを乗り越えた結果と運河会社役員の英断を評価し、完成を待たずに社長を辞した人見についても「其の労を多謝す」と述べている。

明治25年頃、人見が発起人として台湾樟脳会社設立。
明治30年(1897)北海道開拓に関係。フラヌ原野(富良野)の区画開墾願に連名。
明治33年(1900)神谷傳兵衛(かみやでんべえ。人見とは茨城で誼があった)と共に民間初のアルコール製造を実現するため奔走。神谷考案の製法は馬鈴薯の澱粉粕から酒精を取るため、北海道の地を選ぶ。
11月、旭川に日本酒精製造株式会社を設立し、人見が社長に就任した。
人見は神谷の神谷酒造会社(茨城県稲敷郡・現牛久市の牛久ブドウ)開設にも関わっている。

──その他サッポロビールの重役を務め、石蝋会社等の設立にも関与するなど先見の明を発揮して、実業家として数々の成功を収める。
大正11年(1922)12月31日に麻布で死去。80歳。
遺言により生まれ故郷の京都出水千本の長遠寺に墓に葬られた。

長遠寺の人見寧が眠る人見家の墓所 長遠寺の人見勝太郎の墓

▲臨済宗相国寺派長遠寺の人見家の墓所
寧の死後10年程後に有楽町毎日新聞社勤務の孫の麟氏は千葉県柏市明原に移住。左写真の奥の新しい墓石は昭和47年3月に曾孫の陸氏が再建した。右写真、寧の戒名も彫られている

参考資料は数が多いので別途まとめる予定です。記事の無断転載・使用を禁じます。

貞源寺-伊庭八郎の墓所

貞源寺 伊庭家の墓

▲伊庭家の菩提寺貞源寺(ていげんじ)
慶長6年(1601)慶誉春公上人が開基し江戸城曲輪内に東正寺が建立され、その後お茶の水に移転。明暦3年(1657)の振袖火事で浅草松葉町(現在の台東区松が谷二丁目本覚寺の西側)に移り、享保年間に貞源寺に改称。関東大震災後に東京府豊玉郡野方村沼袋(現在地の中野区沼袋)再建した。
境内に心形刀(しんぎょうとう)流初代伊庭是水軒(じょすいけん)から第10代伊庭想太郎までの墓石が並ぶ。

 

伊庭八郎秀穎(いば はちろう ひでさと)伊庭八郎秀穎(いば はちろう ひでさと)

父・軍兵衛と心形刀流
伊庭家は九州筑紫出身の大友家の末葉として藤原姓、六代目より源氏姓を名乗る。
心形刀流は神道流から分かれた流派で天和2年(1682)伊庭惣左衛門秀明(光明、号は常吟子)が37歳の時に起こした。
下谷御徒(台東区小島)の伊庭道場を「練武館」といい、八郎の父・伊庭軍兵衛秀業(ぐんべえ ひでなり、三橋氏。記事中は以降、軍兵衛は八郎実父の秀業をさすこととします)の頃には、鏡新明智流桃井春蔵「士学館」・北辰一刀流千葉周作「玄武館」・神道無念流齋藤弥九郎「練兵館」と並び江戸四大剣士・四大道場に数えられ、弟子千人余を持っていた。

練武館の稽古は荒く、軍兵衛は文政・天保当時の穏やかな天下で幕府の侍が遊情に流れて本田髷を結い細身の刀をさして雪駄の後金をちゃらちゃら鳴らして歩くような華奢な装を嫌い、門下には袴を短く切らせ、朴歯の下駄で、大小の刀を長く突っ張らせて差させるような厳格な人物であった。

同じく厳格な天保の改革を進める老中水野忠邦によって天保12年(1841)に軍兵衛は御留守居与力に抜擢され、御書院番となり、営中諸門の警衛にあたり将軍行列に付き従う等の任にあたる。
しかし翌年の忠邦の失脚により、軍兵衛も弘化2年(1845)に常同子と号して隠居の道を選んだ。

 

八郎誕生
天保14年(1843)か15年(1844)に後妻マキとの間に長男の八郎が生まれる。

八郎は漢学や蘭学に熱をいれていたので、練武館の門人たちは快く思っていなかったともいう。
伊庭家では実力で後継者を選ぶ習わしで、軍兵衛は腕の立つ養子の伊庭惣太郎(軍平秀俊。塀和/はが氏。初め名を継いで軍兵衛ですが混同を避けるため記事では維新後に名乗る軍兵で通します)を養子にしていたので、安政3年(1856)4月25日幕府によって江戸築地小田原町に武術教養の場「講武所」が開かれ、剣術教授方に招かれた時も軍兵衛は辞して息子の八郎について何も言わず軍平と甥の三橋虎蔵を推挙したので、八郎がまだ年若いとはいえ周囲が不思議がった。他にも門人が教授方に就いている。

御撰剣槍炮柔術名家鑑

▲この師範役の伊庭軍兵衛は義父となる秀俊(軍平)

父の軍兵衛秀業は安政5年(1858)のコレラ大流行の折、8月13日に病死、享年48。八郎はまだ16歳だった。
学問に励んでいた八郎も、剣だけではなく文芸にも秀でていた剣豪・宮本武蔵の墨絵を見て刺激され、養父となった軍平のもとで稽古に打ちこんで頭角を現し、伊庭の麒麟児などと異名を持ったという。

 

将軍上洛の随従
元治元年(1864)正月に八郎は講武所剣術方として14代将軍徳川家茂に従い上洛する。

文久元年(1861)4月5日に幕府「奥詰」が新設される。軍兵は講武所師範役並、12月3日から奥詰となった。
元治元年(1864)正月には八郎も軍兵らと共に家茂に随従し上洛(前年の12月28日に浦賀から幕府艦の翔鶴丸で西航)。15日に家茂の供揃えとして入京するが、他に副長土方歳三率いる壬生浪士達の姿もあった。
八郎は二条城での将軍の御前試合に勝利し、銀造りの脇差等を拝領する程の腕前をみせた。

6月5日夜に新撰組が長州系浪士を池田屋で襲撃した時に八郎は大坂に居り、翌日に江戸へ帰る予定であった。池田屋事件の騒ぎで京への応援要請が届き、早駕篭で駆けつけるが、事件は収束した後で肩すかしとなった。14日に江戸へ向かう。

部屋住みであった八郎は9月7日に21歳の若さで新御番(近習番)に召出されて250俵を給される。松平駿河守組御書院番も拝命し、9月10日に奥詰侍衛となった。

 

遊撃隊編入と伏見の戦い
三度目の上洛は長州再征のためで、大坂在中の慶応2年(1866)7月に家茂が他界し、一橋慶喜が将軍職を継ぐと職制改革が行われ各三組が廃止となる。
10月22日幕府親衛隊として「遊撃隊」発足。翌日、軍兵と三橋虎蔵らが入り、12月21日に八郎も遊撃隊に編入される。

慶応3年(1867)に遊撃隊は徳川慶喜の警固として従属し京へ上洛。
慶応4年(1868)正月3日の鳥羽伏見の変には幕軍今掘摂津守(元講武所師範役)に属して黒谷に先発する。この時八郎は26歳。
遊撃隊は伏見方面に突出し、八郎は伏見奉行邸前で自ら陣頭に進んで剣を振るったため胸部(もしくは腹部)に被弾してしまう。鎧(鎖帷子)のおかげで一命は取り留めたが吐血し一時危篤状態に陥った。

息を吹き返した八郎は淀の本隊に合流したが、4日に錦旗が翻り、8日夜に慶喜が大坂城を密かに脱して幕府艦開陽で東帰したため、八郎も江戸へ戻ることとなった。

 

請西藩主林忠崇の脱藩から箱根関所占領まで
2月12日慶喜が恭順を示して上野に閉居すると、遊撃隊は慶喜護衛の水戸に赴く者と彰義隊へ加入する者で分かれ、更に八郎は人見勝太郎らと共に榎本釜次郎(和泉守、武揚)の艦隊に依って幕府回復に出ようとした。
旧幕府艦隊は館山(千葉県南部)沖に進めていたが、大総督府は4月11日の江戸開城と共に艦隊の引渡を要求し勝安房(海舟)ら旧幕臣の説得により榎本は品川に戻し一部を引き渡すこととなる。

八郎達は上総(千葉県内房)に上陸し4月28日に請西藩(現木更津市、一万石)藩主の林昌之助(忠崇)を説いて、忠崇は藩主自ら脱藩してまでして協力する。
閏4月3日に請西藩真武根陣屋を出陣。館山に向かって南下し上総・安房諸藩の脱藩兵を加え、共に駿河(静岡県)沼津での挙兵をめざして江戸湾を渡り12日に相模(神奈川県)真鶴港に上陸した。

一行は総勢300人近くとなり、八郎は二番砲兵隊長として第二軍の隊長となった。(人見が第一軍、林昌之助は第四軍を指揮する)
対して大総督府は沼津藩に遊撃隊らを解体させるよう命じ、また江戸からは田安中納言(徳川慶頼)の命で旧幕府首脳の大鑑察山岡鉄舟と石坂周造が抗戦を止めるよう説得に訪れた。
林忠崇と遊撃隊は上意をしたため、山岡らに託し、新政府軍総督府からの返書を待つ形で甲府(山梨県。沼津藩主が城代であった)で待機することとなる。
しかし期日を過ぎても返事は来ず、東の彰義隊壊滅の報を聞き新政府軍の包囲が強まるのを感じ取った人見が豪雨に乗じて第一軍を率いて箱根方面へ出陣する。
残る遊撃隊も箱根に移り5月20日に小田原藩の守る関所を占領した。

 

山崎の激戦
23日、一時和睦した小田原藩が裏切り、遊撃隊先鋒の伊庭隊100名が箱根湯本山崎で防戦の構えを取った。
保身の為に何度も意見が変わる小田原藩に対し八郎は「反覆再三怯懦千万堂々たる十二万石中復一人の男児なきか」と嘲笑したという。

26日に小田原方の兵の後に新政府軍の鳥取・長州・岡山・藤堂藩兵が続き、合わせて2500の大軍が三方面から山崎を攻撃。
伊庭隊は少数ながらも善戦するが、後方に控えていた新政府軍4藩が加勢すると数で圧され、八郎は疲弊の中、三枚橋の早川の流れに沿った所(松並木であったとも証言されている)で、味方を装って近づいた小田原藩士高橋藤太郎に左の手首を斬られた。高橋も伊庭に右手で切り伏せられる。(部下の坂田某が射殺したとも。尚、創作に多く登場する「坂田」鎌吉は上野の料理人出身だというが剣も相当にできたので八郎を慕っての従軍であった。実際に、鳥八十の料理の覚えにより潜伏中の嫌疑を回避した話を含め旧幕府史談会で従軍の様子を語ったのは「荒井」鎌吉名義である)
八郎は皮一枚まで斬られた左手を自ら噛締め血を吸うという凄絶な描写が語られているが、出血は止まらず、そのうえ腰部も被弾しており、遊撃隊岡崎隊士従者の重兵衛に背負われての無念の戦線離脱となる。

 

深夜0時頃に林忠崇旗下の請西藩士が居る峠に到り、忠崇が畑宿に医師を手配させたとみられる。ぶらさがっているだけの手首を切落として止血し縛った。
この時宿には小田原藩から援助禁止を命じられていたが、重体ながら強気に意識を保つ八郎の鬼気迫る姿に慄いた村人は無視することは出来なかったという。

各方面から追撃を受ける窮地に立たされた遊撃隊は箱根から熱海まで撤退し、網代に渡り榎本率いる艦で東に渡る。
八郎は蟠龍に乗ったが、重症のため開陽丸に移され、品川沖の病院船「旭丸」で篠原(藤原)医師に再手術を受ける。
旭丸を見舞った飯島半十郎によると、八郎は隻腕となっても銃を左肘に載せて構えて右手で引き金をひき、吊るした瓶を見事に撃ってみせたという。

 

美香保丸難破と潜伏の日々
館山で再編成した遊撃隊らは東北へ向かい、八郎は横浜の外国病院で治療し数十日後に後を追う形となる。
8月19日深夜0時、旧幕府の軍艦開陽・回天・蟠龍・千代田形、運送船長鯨・神速・美香保(美賀保・美加保・三ヶ保)・咸臨の8艦に榎本やフランス陸軍教官ブリューネら2000人余名が乗り込み、奥羽越列藩同盟の盟主である仙台藩を目指して品川沖を抜錨。八郎は美香保丸に乗船した。

兵器を積みこんだ貨物船のため速力の遅い美香保は軍艦開陽に曳かれて進むが、21日旧鹿島洋(銚子沖)で暴風雨に遭って離散する。美香保は2本の曳綱が千切れて漂い、同じく流された蟠龍・咸臨は伊豆へ針路を変更。

26日鹿島灘から犬吠崎北まで押し流された美香保が犬吠崎北の黒生(くろばえ)海岸に座礁し破船。約6~700人乗船していたが、4、50名は溺死してしまった。
翌日伊庭らは艀船で銚子港に漂着。
北行し戦うことが出来ないのならばと潔く自決をしようとする八郎を中根淑(きよし)が止める。
中根の説得で持ち直した八郎は、遊撃隊を本山小太郎に任せ、鎌吉とも別れて、中根と他姫路藩士との3人で西の東金へ向かった。味噌商人等に変装して移動し、伊庭軍兵衛の門弟大河内一郎が居る上総を目指すが、大河内は官軍に抗って捕縛されたと聞く。
中根と八郎の友人である忠内氏を頼って八郎は上総中島(木更津)に潜伏し、中根は江戸に戻って北行準備に奔走する。

後に八郎は本山の導きで江戸の芝に移り、横浜太田町の通詞飯岡金次郎邸、そして米国公使館通詞・尺振八の英語塾(横浜の北方※地名)に入る。
その頃八郎は駿府で復権した徳川に仕えないかと誘われるが、官軍と関わることを好まずに断ったという。

八郎が残した古書(本山が八郎のために持って来たという)に、八郎が書いたとも思われる歌が書かれていた。
 あめの日はいとゞこひしく思ひけり我がよき友はいづこなるらめ

時代創作ならここで八郎の馴染みの江戸吉原稲本楼(いなもとろう)の花魁小稲(こいな)の資金五十両の工面の場であろう。

 

八郎の箱館入り、木古内の戦い
9月にかけて奥州諸藩は次々に降伏しており、榎本は新政府との調和のため、録も拠り所も失った旧幕臣達の手で蝦夷(北海道)を開拓し、朝廷と日本国土のために北方の警備にあたる事を構想して10月には仙台を離れ北航していた。

11月25日に八郎も尺振八の斡旋で本山と共に英国船に便乗し、28日夕刻に箱館に着く。※28日午後4時に「ソンライス」号が入港している
12月3日に八郎は遊撃隊が守備する松前(11月5日に奪取)へ発った。

箱館(函館)では選挙により総裁以下を決め、人見は松前奉行、八郎は歩兵頭並となった。
総裁に選ばれた榎本は早速蝦夷開拓に取り組もうと、その志を朝廷に奏聞するが、新政府はこれを無礼の申出として却下し国賊として追討に踏み切った。

翌明治2年(1869)、雪に閉ざされる時期を避け3月9日新政府軍は8艘の軍艦を品川から北征させる。
旧幕軍艦も箱館を出航するがここでも嵐に遭う。そして25日、強風を乗り越えた艦・回天が新政府艦隊を急襲し宮古湾海戦に突入。しかし艦長が甲賀源吾が新政府軍艦甲鉄からの速射砲に撃たれて崩れ、戦線を脱した回天は26日午後に箱館に帰航。
五稜郭では防備を固め、八郎率いる遊撃隊は陸軍隊、砲兵隊と共に400余人で松前に屯在し、福山城を守った。

4月8日に新政府艦隊が青森を出航。総勢2万5千人とも称せられる大軍が江差沖を過ぎ、翌日乙部の浜に投錨した。
松前から江差に衛兵を出すが、蝦夷以南の日本各地から集結した兵力には勝算もなく10日に引き揚げて一同福山城に籠る。
八郎は撤退達を叱咤し、城兵の士気を上げ夜襲を企てた。

11日夜、彰義隊の一隊を率い、沢録三郎が軍監に命じられる
10時頃に遊撃隊に円陣をつくらせ(遊撃隊頭取改役の岡田斧吉か)、中央で檄を飛ばして士気をあげ、八郎は自ら陣頭に立って江差に向けて進軍する。
遊撃隊が先陣をきった道中の砲撃による奇襲は成功し、暁4時頃に江良町付近の新政府兵を敗走させた。
押されるばかりの旧幕軍に八郎らのが一勝をもたらしたが、五稜郭陣営からは、五稜郭への通路の防衛線である福山城の守りに勤めてみだりに進撃をせぬようにと総裁から達しがあり、再び福山城に立て籠もることとなった。

17日に新政府軍が大挙して海陸から福山城を集中砲火。犠牲を出しながらも防戦に努めたが弾薬が尽きて吉岡まで退き、八郎らは福島に宿営した。この戦いで、今まで八郎と共に戦ってきた本山や岡田が戦死

 まてよ君冥土もともと思ひしに志はしをくるゝ身こそかなしき
…八郎が友の死を悼んで詠んだ詩とされる。

翌日、松前・江差から撤退した旧幕軍諸隊は福島を引き払って木古内(きこない)に宿陣。江差から五稜郭へ通じる要衝の地である。
19日に遅れていた一連隊を伊庭が迎えに行き、夜半に木古内に帰着。

進む時は陣頭、撤退時は殿をつとめてきた遊撃隊は、彰義隊、陸軍隊、砲兵隊と共に知内に留まり胸壁を守備した。
20日午前5時、不意に木古内方面で砲声が聞こえ、ただちに遊撃隊が出動。
江差間道から雪崩込むように襲いかかる新政府軍に旧幕軍は応戦し、遊撃隊に続き彰義隊、砲兵隊も駆けつけ挟撃する。
新政府軍に兵が宿に火をつけてまわり、八郎は怒りながら指揮をとった。白兵戦では隻腕で刀を振るったが、ついに胸部(左肩先、肩から腹部にかけて)を撃たれてしまう。
八郎は敵中放置を望むが周囲はそれを聞くわけにはいかず、他の負傷者と共に小舟を雇って箱館病院に送られた。

 

八郎の最期
木古内で両軍引き分けたあとも五稜郭に迫る新政府軍を旧幕軍は善く食い止め、24日には箱館湾で海戦が行われ、陸軍奉行大鳥圭介が自ら500人を率いて野陣し、海上からの新政府艦隊の砲撃に苦戦すると総裁の榎本も応戦の為に五稜郭を出た。
しかし次々と新政府軍の援兵が加わるため疲弊していき、5月2日にはフランスの雇教師10名も見限って離脱し、4日の海戦で千代田が拿捕され、残る蟠龍と回天が6艦に立ち向かうが回天は汽缶(ボイラー)損傷で動力を失い浅瀬から砲撃に徹するしかない悪戦となった。

5月11日新政府軍の総攻撃が決行され陸海激戦となる。
八郎は五稜郭へ移っており、部下の鎌吉と心形刀流門人の五十嵐半平(半兵衛。降伏後は津山藩御預)らが看護したが降伏前の12日(もしくは降伏準備の16~17日の間)に死亡したと伝わる。満26歳。遺骸は城郭内に埋めたともされる(戊辰役函館戦争人名書)

* * *
最期の様子は自刃等、諸説ある。
・五稜郭内の病院で療養中に死亡
人見は、伊庭八郎氏は病院で3日後に斃ると記している。
元彰義隊の丸毛利恒は「伊庭八郎創(きず)に堪へずして目を怒らし拳を握り敵を罵りながら死す。死するに臨み歌を作る」と憤死を表現している。

・療養中に流れ弾にあたる
八郎の甥(伊庭孝)は八郎の死因を半兵衛と八郎部下の鎌吉から、五稜郭そばの民家で病臥にあった時、流れ弾が喉に命中して即死したと聞いている。

・服毒死
新撰組の田村銀之助は、八郎は湯の川移動を拒絶し、城内の部屋で榎本が「我々もすぐ後から行くから貴公は一足先に行ってくれ」と言って茶碗に満たしたモルヒネを陸軍隊長春日左衛門(銀之助の養父)と共にあおったと語っている。
※大鳥圭介によると春日左衛門は5月11日に大鳥のそばで小銃弾で撃たれ、1日か2日後に死亡している
荒井鎌吉は、砲声を聞き怒って起き上がろうとする八郎を医者が麻薬で精神を落ち着かせて安らぎながらの死を語っている。

* * *

13日には陸軍奉行並土方歳三を始め多くが戦死、松前奉行の人見も負傷する。最期まで奮戦した蟠龍・回天も力尽きた。
箱館病院長高松凌雲が新政府軍との仲介人となって榎本らに降伏を促す新政府の手紙を投じ、榎本は好意だけ謝したがまだ降伏は認めなかった。しかし15日に弁天台場降伏、16日早朝に千代ヶ岡台場が陥落し、五稜郭は孤立してしまう。
この日の午後、負傷者が湯ノ川湯ノ川温泉に運ばれる。一説に八郎はこの時に護送されてから死亡したともいう。
17日の決戦に際し和議を整え、18日に亀田で面接。五稜郭開城となった。

料理人であることを示したために捕縛を逃れた鎌吉が八郎の遺髪を携えて東京へ帰った物語も有る。

伊庭八郎の墓 伊庭家の解説

伊庭八郎の墓
「秀業次男秀俊養子俗称伊庭八郎 秀穎院清誉是一居士」「明治二年五月十二日」
実母マキと共に葬られている。墓碑に次男と書かれているのは養子の軍兵(八郎の養父となる)を先に数えているため。
伊庭八郎家紋 家紋の糸輪に枷木紋(かせ木紋)が彫られている。

 

維新後、伊庭家は静岡に安堵された旧徳川将軍家に従い、遠州横須賀に移住。
伊庭軍平は後に築地の講武所跡に設けられた海軍兵学校で剣を教授し故東伏見宮依仁親王にも剣を御指南申上げしばらく家職を勤める光栄を有した。明治19年頃(1886)に70余年で没する。

また明治34年(1901)東京市政批判のため東京市長・星享(ほし とおる)を刺した伊庭想太郎(猪朔、いさく)は軍兵衛の4男で八郎の末弟。榎本武揚が東京農学校を小石川に創設した時、校長に任じられるが、経営難に陥ると見放されたので、兄八郎が生前に榎本を意志の薄情な人と評したことを思い出し、兄の人の見る目の確かさを実感したと語る。
想太郎は明治4年(1871)に伊庭家を継ぎ、明治40年10月10日に獄中死している。

音楽評論家の伊庭孝は想太郎の養子(伊庭の分家から入る)にあたる。

貞源寺の門

永康山東正院貞源寺
貞源寺HP:http://www.teigenji.jp/
所在地:東京都中野区沼袋2-19-28

参考図書
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・直木三十五『日本剣豪列伝
・中里介山『日本武術神妙記
・伊庭八郎『征西日記』
・大鳥圭介『南柯紀行
・丸毛利恒『北洲新話』
・小杉雅三『麦叢録』
・本山荻舟『近世剣客伝 続』
・松波治郎『人と剣』
・小沢愛次郎『皇国剣道史
・安藤直方『講武所

※心形刀流が「しんけいとうりゅう」と読むのは誤りというご指摘がありましたので記事内の読みを「しんぎょう」に修正しました。ご指摘ありがとうございました。

愛宕神社の松平容保公の像

愛宕神社の容保像 天寧寺からの鶴ヶ城

松平容保公の胸像と愛宕神社から天寧寺への山間から見た鶴ヶ城

戊辰戦争の際には土方歳三戦傷祈願に訪れています。
その頃に鶴ヶ城を眼下に見守れる場所、神社南の天寧寺へ近藤勇の墓を建てたのでしょう。

愛宕神社狛犬 愛宕神社

愛宕神社
里谷池沼の大蛇を鎮める為に京都愛宕(あたご)山の神社の分霊を勧請したという社伝です。至徳元年(1384)に宮町、天正18年(1590)に蒲生氏郷が現在の場所に遷座。上杉領の頃は直江兼続が崇拝したそうです。

所在地:福島県会津若松市慶山2丁目43

興徳寺[1]秋月登之助墓所

興徳寺本堂 秋月登之助案内板

興徳寺本堂
興徳寺は戊辰戦争中に元桑名藩主松平定敬(さだあき。容保の弟)・旧幕府筆頭老中板倉勝静(かつきよ)等の宿舎となり、新撰組副長土方歳三も往来した。
宇都宮城攻防戦での戦死者追悼の為、旧幕府軍衝鋒隊が当時の本堂で慰霊の法要を参列者六百名のもとで営んだ。

 

会津藩士秋月登之助
天保12年(1841)頃生まれる。本名は、江上太郎種明。父は田島代官の江戸又八、16石3人扶持。
江戸で幕府や他藩要人と親交を結び会津のために尽したが結ばず、フランス式の調練を受け幕軍に入り、歩兵第七連隊に転入する。
江戸城開城の際には幕軍陸軍奉行の大鳥圭介らと江戸城に立て籠もり、義兵を挙げて江戸から西軍を退去させようとしたが、大鳥は登之助の志に反して幕軍を率いて会津へ向かうことを決めた。
大鳥に推されて伝習第一大隊長となり、土方歳三が参謀として常に登之助を謙譲しながら補佐したという。

宇都宮城奪回戦にて破裂弾の散丸で脇腹を負傷し、同じく負傷した土方と今市方面に護送された。
会津領内の田島陣屋(福島県南会津)に到着した秋月は、田島代官の父のもとに残る。

その後若松に入り、松平容保と共に滝沢本陣へ赴く。
再出陣した母成峠の戦いで敗戦し鶴ヶ城に入る。女子たちを城内に誘導し、二の丸辺りの馬上で抜身の大刀を振りながら「君に奉ずるのはこの時だ。婦人は内へ男は出て戦え」と叫びつつ西軍兵に打って出たと伝聞されるが、その後の消息は絶えた。

登之助は背が高く色白、巨眼好箇の偉丈夫で、濃紺の上着に緋絨のズボンを履き、胸間に紐長く呼笛を吊るして、部下の兵達に認められるようにと容姿を顕著にしていたという。

 

秋月登之助の墓 秋月登之助墓誌

▲秋月家・原田家・三原家合祀の墓
墓誌には「秋月登之助 明治十八年一月六日 行年四十四才」と刻まれているので、戊辰戦争当時は26~27歳位か。戒名は大心院義翁宗鉄居士。

臨済宗妙心寺派瑞雲山興徳寺(こうとくじ)
弘安10年(1288)鏡堂覚円大和尚が芦名盛宗に招かれ開山。
所在地:福島県会津若松市栄町2-12

参考図書
・『会津戊辰戦史
・早川喜代次『史実会津白虎隊

■■伝習隊と新撰組■■

※蒲生氏郷の墓はいずれ記事にします