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小久保陣屋・藩校・藩主邸跡-田沼意尊と意斉

小久保藩図 小久保藩陣屋跡の碑

小久保藩陣屋跡の碑小久保藩図(案内板より)
県指定史跡弁天山古墳南西山麓、富津市中央公民館敷地に小久保(こくぼ)藩の陣屋が置かれた。小久保藩図の東の空白は士族の宅地。

 

大政奉還後の明治元年(1868)5月24日徳川宗家当主徳川家達(いえさと)が静岡藩として駿河(するが)・遠江(とおとうみ。共に静岡県)70万石での駿府(すんぷ)入封に伴い、その地にあった7藩は廃藩し安房(あわ)・上総(かずさ。共に千葉県)へ移封となった。
9月23日に遠江国相良藩(さがら。榛原/はいばら郡)の田沼意尊は上総国の周准(すえ、すす)・天羽(あまは)郡の内へ移封が下知される。
意尊は天羽郡の小久保村弁天(富津市)に陣屋を置いて小久保藩と称した。
二代目の意斉は、意尊が創立した漢学校盈進(えいしん)館に逸早く洋学を取り入れた。
明治4年(1871)7月14日に廃藩置県で小久保藩は廃藩となる。

明治元年に移封し明治4年まで存続した藩(石高は約)
駿河国
沼津藩5万石/水野出羽守忠敬→菊間藩(上総国市原郡)
小島藩1万石/滝脇丹波守信敏→金ヶ崎藩(上総国市原郡・周准郡)※翌月~桜井藩
田中藩4万石/本多正訥→長尾藩(安房国平・朝夷・長狭郡)
遠江国
相良藩1万石/田沼隠岐守意尊→小久保藩(上総国周准・天羽郡)
浜松藩6万石/井上河内守正直→鶴舞藩(上総国市原・埴生・長柄郡)
掛川藩5万石/太田備中守資美→芝山藩(上総国武射・山辺郡)※明治4年~松尾藩
横須賀藩3万5千石/西尾隠岐守忠篤→花房藩(安房国平・朝夷・長狭郡、上総国望陀郡)

小久保藩主邸の庭園跡 小久保藩庁・藩主邸跡の井戸

藩庁・藩主邸跡の庭園と井戸。藩校盈進館の南に藩(県)庁と知事の邸宅があった。

 

小久保藩初代藩主 田沼意尊(たぬまおきたか)

文政元年(1818)相良(さがら)藩主田沼意留(おきひさ)の嫡子として生まれる。
幼名は金弥。江戸時代中期の10代将軍徳川家治(いえはる)の時の老中田沼意次(おきつぐ。相良藩初代藩主)の8世の子孫にあたる。
天保11年(1840)7月20日意留が隠居し意尊が9代目相良藩主となる。
12月16日従五位下玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任される。
天保14年(1843)6月15日久留島通嘉(くるしまみちひろ。豊後国森藩藩主)の娘を妻とする。
嘉永5年(1852)閏2月28日大番頭となる。
嘉永6年(1853)2月15日大坂玉造口定番に任じられ、大坂に赴任。9月米国国書に対する所見を上陳。
文久元年(1861)9月14日若年寄に昇進。
文久2年(1862)に外国御用掛、11月11日には将軍上洛用掛に命じられる。
文久3年(1863)2月13日徳川家茂の上洛に随従。11日の賀茂下上社御幸に供奉。
10月26日横浜港に停泊中の軍艦へ赴き、フランス全権公使ドゥ・ベルクールと横浜鎖港に関して商議する。

元治元年(1864)6月19日徳川家康250回忌の勅会用掛を命じられる。7月8日外国掛を免じられる。
この頃水戸の天狗党の乱が起こり、10日に意尊が常野追討使(追討軍総督)に任じられた。23日に野州へ。
8月5日意尊は古河陣中で宇都宮藩、9日に福島・宇都宮・壬生・下館・土浦・二本松・笠間諸藩に筑波出兵を命じる。23日に下妻藩に糧食・夫役、戦火災の補償金を支給。25日常陸笠間に宿陣。
9月1日笠間陣中から、幕府兵と共に二本松・壬生両藩兵を那珂湊へ、宇都宮・棚倉・佐倉三藩兵を磯浜に進軍させ両地域の天狗党を討たせる。3日に水戸藩へ手綱、6日烏山藩・7日棚倉藩へ助川の防備を固めるよう命じて敵の退路を絶った。9日佐倉藩に潮来へ12日高崎藩に鉾田への出兵を命じる。18日磐城平藩に手綱附近に兵を出させ、助川脱出の天狗党浪士を捕らえさせる。
25日笠間から水戸に幕府軍本隊を進め、弘道館に本営を置く。
27日意尊は水戸藩主名代松平頼徳(よりのり。宍戸藩主)や元家老鳥居瀬兵衛(せべえ)・大久保甚五左衛門(じんござえもん)らに水戸城入城の失敗や諸生党市川三左衛門と対立した責任を問い下市町会所に投じる。28日頼徳を水戸藩縁故の松平万次郎頼遵の邸宅に、家来達を水戸城中に禁固した。頼徳の家臣小幡友七郎(おばたともしちろう)ら7人が憤慨し自刃。
10月3日忍藩へ那珂湊の佐倉藩兵の救援を命じる。9日柳沢・塩ケ崎の諸陣を巡視する。
11月6日京へ向かった武田耕運斎ら天狗党追討のため、意尊は水戸を出発。9日に川越藩へ出兵要請。12日上野・武蔵に侵入する天狗党の討伐を伊勢崎・前橋・矢田・高崎・館林・安中・小幡・七日市・麻生・忍諸藩に命じる。26日壬生藩へ太平山の警備を固めさせる。
27日水戸藩へ、投降者のうち懺悔した者の処置を緩めるよう命じる。
12月27日美濃関ケ原に至る。

慶応元年(1865)1月30日に入京。一橋慶喜に天狗党の処分の事を委ねられ敦賀へ向かう。
2月17日京都賀茂社の鳥居に意尊を弾劾する落書が貼られた。
25日敦賀から江戸へ向かう。3月11日江戸に着き幕府に出仕。
11月4日京へと海路で江戸を出発。9日大坂に着く。この時、意尊の上洛は将軍が江戸へ帰ることを促すためと噂が流れ、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は大坂に居る薩摩藩士黒田清綱に情勢を探らせた。

慶応2年(1866)2月5・6日に老中松井康直(やすなお。後の康英)邸でフランス全権公使ロッシュと会議。
3月5日康直邸でプロイセン王国領事フォン・ブラントと、13日に英国特派全権公使パークスと税則改正ついて商議する。
10月24日若年寄を罷免。
慶応3年(1867)11月15日朝廷の召命を辞退する。

慶応4年(1868)1月14日幕府から駿府城の警守を命じられる。
2月13日家臣に勤王証書を持たせ提出させる。3月2日徳川慶喜の嘆願書に連署。
閏4月2日信濃出兵の命で帰藩。その後箱根に侵入した林忠崇軍を相良の地でも警戒している。
9月4日相良を出発し12日京に入り15日参内する。
23日に相良1万3243石から西上総の周准・天羽郡1万1270余石(現石4400石)への移封が下知される。他、3年間現米200石と、金3千両を受給。

明治2年(1869)1月19日相良を出発し24日に東京に着く。
3月16日上総領内の巡検に出発し24日に東京へ帰る。
6月24日版籍奉還により小久保藩知事に任命。家禄440石。
7月27日に東京から上総の任地へ入る。
小久保弁天に藩庁と住所を置き、藩庁は643坪、県知事邸は440坪。北側に役所地800坪。
儒学を尊ぶ意尊は、藩士に漢学を教える藩校盈進館(えいしんかん)を創立する。
12月に病にかかり床に伏し、跡継ぎの男子が居なかったため、岩槻藩知事大岡忠貫の弟で15歳の金弥(意斉)を養子に入れた。
※意尊の娘は後に田沼家を継ぐ長女智恵(ちえ)、小笠原長育の妻の次女路子(みちこ)
20日に病状が悪化し、22日に意斉に家督を相続させる。
24日に死去。52歳。寛隆院殿曜徳自照大居士。領地貞元(君津市新御堂)の護国山最勝福寺に葬られた。

明治22年(1889)7月6日に田沼家菩提寺の勝林寺(東京都豊島区駒込。田沼意次が再建)に改葬。

 

2代藩主 田沼意斉(たぬまおきなり)

安政2年(1855)7月に武蔵国岩槻藩(いわつき。埼玉県岩槻市。2万3千石)7代藩主大岡忠恕(ただゆき、ただのり)の五男として生まれる。幼名は金弥。
※館山藩最後の藩主稲葉正善(まさよし)は意斉の兄(大岡忠恕次男)で、館山藩4代藩主稲葉正巳の養子となった

明治2年(1869)12月に小久保藩主田沼意尊の養子となる。22日に家督を相続。
24日意尊が死去。
明治3年(1870)2月25日小久保藩知事に叙任。
10月に建坪58坪余の藩校盈進館の校舎を新築。14日支配地村替。
11月に盈進館の学問に新たに洋学も取り入れた。洋学教師は間宮濤之助(福地源一郎の門下)が就任。英語に加え算術・地理・歴史も教え、藩士だけでなく庶民とも共学とした。

明治4年(1871)2月14日藩政を大参事に任せ、東京遊学の許可を得る。旧藩邸に寓居し文学修業に励む。
23日東京府移住を命じられ、東京府貫属華族となる。
25日本所徳右衛門町(東京都墨田区)に住む。※後に松井町へ転居
7月14日に廃藩置県で小久保藩は廃藩し、藩知事を罷免。

明治6年(1873年)11月に隠居し、田沼家は意尊の長女の智恵が継ぐ。

 

■その後の田沼家

明治5年(1872)学問頒布(はんぷ)により盈進館は小久保小学校の校舎となる。(尋常小学校等を経て現在の大貫小学校に至る)

明治6年(1873年)11月に意斉が隠居し、田沼家は意尊の長女の智恵が継ぐ。
明治7年(1874)智恵は伊予国宇和島藩(愛媛県宇和島市)8代藩主伊達宗城(むねなり)の六男の忠千代(後の瀧脇信廣/たきわきのぶひろ)を婿に入れ、忠千代が田沼家当主となる。

明治11年(1878)忠千代と離婚し、再び智恵が当主となる。
明治13年(1890)智恵が伏原望(伏原宣諭の次男)を婿に入れ、望が当主となり田沼家は現在まで続く。

富津市大貫の弁天山古墳 大貫の富津市中央公民館

▲東に弁天山古墳。現在の公民館と駐車場は小久保藩の役所や藩校にあたる。

所在地:千葉県富津市小久保字弁天2955 富津市中央公民館敷地

参考史料・図書
『田沼意斉家記』
『田沼家譜』
富津市史
君津郡誌』他古地図・案内板等