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大河内三千太郎[1]上総義勇隊頭取

  
▲『年寄部屋日記』の押収された三千太郎の羽織の箇所と、旭川にある三千太郎の墓

 

大河内三千太郎藤原幸昌(みちたろう、道太郎)略歴前半

■江戸で剣術修習
弘化3年(1846)10月15日に上総国望陀郡木更津村(千葉県木更津市)で大河内一郎の長男として生まれる。
安政元年(1854)1月に幼くして江戸で心形刀流伊庭軍兵衛(伊庭八郎や想太郎の父)の門に入り、数年修行を積む。

■木更津の大河内道場で指導
木更津に帰郷後は八幡町の八劔(やつるぎ)八幡神社境内の不二心流道場で、神主八劔勝秀の長男の勝壽(かつなが。嘉永元年生)と共に剣を教えた。
文久3年(1863)7月17日に父一郎が亡くなり持宝院に葬る
慶応元年(1865)6月地曳新兵衛の娘なをを妻に娶る。7月に挙式。
慶応2年(1866)5月9日になをが亡くなり持宝院に葬る

■戊辰戦争勃発、義勇隊を率いて撒兵隊に協力
慶応4年(1868)4月に木更津に上陸した撒兵隊に協力し大河内阿三郎不二心流四代目)が義勇隊長となって島屋一門200余人を率いて、三千太郎が隊を指揮したという。
閏4月7日に五井宿・姉ヶ崎宿の合戦で撒兵隊が敗退。三千太郎は八幡宿の民家に潜伏し、千葉を経て、下総国の新政府恭順藩の捜査網にかかる危険をかい潜って北行した。
……一方、大河内の腕利きの者達が出払っている木更津村へは大河内総三郎(不二心流三代目)が潜行した。木更津に官軍が南下する情報が入ると、八劔勝秀は戦に備えて刀を差し、火縄銃の心得がある勝壽を撒兵隊分隊長に紹介している。

5月21日に大総督は佐倉藩(藩主に謹慎が命じられた佐貫藩にかわり佐貫城を管理)に富津陣屋の前橋藩と協力し房総地方の賊徒討伐を命じた。
しかし皆銚子へ逃れた後であり、佐倉藩の報告によると匝瑳郡西小笹村の喜左衛門宅(大河内本家)も佐倉藩の捜査が入ったが、18日に佐貫城を襲った賊徒として「上総国本納村元農具鍛冶職平右衛門」を誅したのみであった。
武具や被服等押収品の一つに「白絹紋附羽織 壱枚 但襟ニ義勇隊頭取大河内三千太郎藤原幸昌花印」とあり、本家に三千太郎が立ち寄ったか、形見を本家に届けるよう平右衛門に羽織を托したのだろうか。(『年寄部屋日記』)
また、この後の8月に美香保丸の難破に遭った伊庭八郎らが「伊庭軍兵衛の門弟であった大河内一郎」を頼ろうと木更津に向かうが官軍に抗って捕縛されたことを聞いている。
三千太郎も若い頃に伊庭道場に入ったとされるが父の大河内一郎は戊辰前に亡くなっており、伝聞ゆえか情報の食い違いがある。

■箱館戦争に従軍
明治2年(1869)4月11日に松前より江差に出陣。『遊撃隊起終録』には縫殿三郎(不二心流二代目の幸安とは別人)が抜刀して敵を切り伏せて進み、雨流石(雨垂石村)で砲撃の前に散った様が記されている。三千太郎も側で戦ったであろう。討死9名負傷14人という犠牲は大きかったが官軍を敗走させることができた。
『元徳川藩遊撃隊勇士年齢』に「上総浪人 大河内三千太郎 二十四才」の記録がある。
『戊辰戦争参加義士人名簿』に「第一軍一番隊(徳川脱走遊撃隊・隊長人見勝太郎士官 大河内縫殿三郎 大河内三千太郎」再編成後は「二番小隊(頭取沢録三郎)右半隊 大河内三千太郎」とあり、三千太郎が遊撃隊に加わったことが分かる。

5月17日に総裁の榎本武揚らが降伏し18日に五稜郭が引渡され箱館の寺院に入り、21日に運送船で津軽青森に送られ6月9日弘前城下に移る。
三千太郎は関昌寺に沢録三郎ら86人と謹慎となった。

■赦免後は東京で榊原健吉の撃剣会興行に加わる
明治3年(1870)7月に下谷車坂町の道場で榊原健吉(さかきばらけんきち)に直心影流の極意皆伝を授かる。
明治5年(1872)秋、みや(みと)と入籍。
明治12年(1879)8月25日上野公園で催された、明治天皇の上野行幸における「槍剣天覧試合」に榊原一門が出場した。当時の新聞に剣術で出場した三千太郎の名もみえる。

■北海道で集治監の撃剣教授となる
明治15年(1882)7月に空知集治監に招致され撃剣教授を勤務。
明治17年(1884)7月に役を辞任。精勤を賞して金二十円が下賜された。
※斎藤建二著『樺戸監獄と旭川』や長谷川吉次『北海道剣道史』旭川剣道連盟編集委員会『旭川剣道史追加資料』等では樺戸集治監とするが、樺戸での一次資料が確認できず、調査中。
なお樺戸集治監の演武場の山岡鉄舟の筆による「修武館」の額は明治15年に書かれたもので、翌16年から19年まで神道無念流の杉村義衛(新撰組の永倉新八)が剣道の指南番となった。


■東京に戻り警視庁撃剣世話掛となる
明治19年(1886)9月28日、北海道の市来知(現三笠市)空知監獄署(集治監より一時改称)典獄の渡邊惟精(これあき)に手紙を送る。(『渡邊惟精日記』)
明治20年(1887)2月3日、東京に帰京中の渡邊典獄の元に三千太郎が来訪。
3月に警視庁より撃剣世話掛に任命される。
5月に甲部撃剣教授となる。
8月29日東京神田黒門町19番地に在った三千太郎から渡邊典獄に手紙が届き返書。

■空知監獄署の看守長代理となる
明治22年(1889)再び北海道へ渡り、弟の伊藤常盤之助と同じく空知監に勤め三千太郎は看守長代理となる。
 
空知集治監跡地と空知典獄渡辺惟精の碑

→後半・大河内三千太郎[2]篤志・教育家としての後半生へ続く

■■不二心流と木更津「島屋」■■

忠孝の士・請西藩士諏訪数馬

 

▲請西藩士諏訪数馬の墓
数馬が館山で没し埋葬された来福寺から諏訪家の墓所に移した墓碑。郷里で諏訪家が建てたであろう奥の古い先祖の墓石にも数馬の戒名(恵光院善忠元鑑居士)がみえる。
※本家の親戚の方に伺いを立て墓参しました。現在は個人管理下のため詳細を求める問合せはご遠慮下さい。

『諏訪数馬肖像并略伝』『忠考』(林忠崇の筆・明治30年)


林忠崇筆『諏訪一馬肖像並略伝』
 諏訪頼母ノ孫ナリ。幼ニシテ父ヲ喪ヒ祖父頼母ニ養ハル。性従順ニシテ謹直ナリ。幼ニシテ先藩主の側ニアリ。長シテ近侍トナル。身多病ニシテ武技ニ耐ヘズ。一藩擯斥シテ遊行ノ士トナス。戊辰ノ年久シク病床ニアリ。余出陣スルにアタリ、ソノ病躰ヲ思ヒ随行ヲ許サズ。数馬従軍ヲ請フコト再三終ニ強ルヲ以テ之ヲ許ス。従テ、房州館山ニ至る。身躰疲労シテ行歩最モ艱ナリ。自ラ思ヘラク、身躰斯ノ如シ。終ニ素志ヲ達スル能ハジト剱ニ伏シテ自殺ス。今ニ至ルマテ墓前ニ参詣スルモノ不絶。抑々其大和魂ニ感動スルカ故ナリ。嗚呼始アリ終アルモノ少シ。世人ソレ之ヲ亀鑑トセヨ。
 明治三十年十月偶数馬遺族ノ家に寓シ感慨ニ耐ヘズ依テソノ行為ヲ略記シ、併テ当時ノ像ヲ画シ以テ記念トス。
「散りてのみふかき香りのいまもなほ のこるや花のなさけなるらむ」
旧請西藩主従五位林昌之助忠崇入道一夢

(画は木更市津郷土資料館フライヤー・略伝文章は林勲『林候家関係資料集』より引用)

 

■諏訪数馬
天保6年(1835)貝渕藩諏訪幸右衛門(兵平。地曳家から養子。林忠英忠旭の二代に仕える)と母りか(当時34歳)の間に生まれる。
嘉永2年(1849)9月4日に父を亡くし、祖父頼母(林忠英に仕え貝渕陣屋の陣代を務めた)に養われる。
幼くして請西藩主林忠交の近侍となる。
江戸浜町の請西藩邸の対岸、本所松井町(現千歳町)の中西福太郎の娘せい(数馬より4歳上)を妻とした。
文久元年(1861)頃に息子の篤太郎誕生。
慶応3年(1867)6月に忠交が伏見で亡くなると忠崇に仕えるが、数馬は生まれつき病弱で満足に仕えられないことを憂いていた。

慶応4年(1868)戊辰閏4月の忠崇決起の際、数馬は病床(労咳とされる)にあり従軍を認められなかったが、再三請いた末に同行を許された。
8日に房州館山に着き長須賀の来福寺付近に宿陣。伊庭八郎が雨中に小船で軍艦大江丸に漕ぎ着け伊豆真鶴への出航を依頼し、豪雨のため一泊し乗船を10日とした。
宿所で考え耽る時間を過ごしたのだろう数馬は、歩行すらままならず、これ以上は主に迷惑をかけるとして、その命を以って徳川と林家にかける忠義の覚悟を表明しようと決意する。
9日朝6時台、数馬は遺状を懐に入れ、剣に伏して自害した。33歳。
来福寺に埋葬された。恵光院善忠元鑑居士。

長須賀村宿陣中卯ノ下刻家来諏訪数馬自殺ス 近来多病ニシテ久ク勤役セス空シク録ヲ食ムコトヲ嘆キ請ヒテ随従シ此處マテ到リシモ歩行難儀ニシテ従行難ヲ憂ヒ死シテ素志ヲ表セント此ニ及フ
時三十歳同地長須賀来福寺ニ埋ム 『林昌之助戊辰出陣記』
 ※年齢は誤りか

 

長須賀薬師 海富山医王院来福寺
かつては来福寺の境内に数馬の墓があった。
数馬の子の篤太郎は明治6年(1873)2月22日に13歳で早世したため大井村の伊丹家から嶋治を諏訪家の養女さくの婿に迎え、明治32年(1899)に千葉県士族に編入認許される。
三代の孫にあたり市原市議会議員を務めた諏訪孝(たかし)氏が郷里の諏訪家の墓所を整える際に来福寺より数馬の墓を移し迎えた。没した館山の地で忠孝の士として拝まれていた長い年月を経ての帰郷となった。
来福寺所在地:千葉県館山市長須賀46-1

また数馬の父親の実父、大田村の惣名地曳新兵衛の家から大河内三千太郎なおが嫁いでいる。

【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し徳川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め徳川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、田代姓となった
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
茂三郎の次男の伊藤竹次郎は海外で医学を研究し伊藤病院の院長となる。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所

西小笹村の藍商喜左衛門・木更津村の島屋幸左衛門ら、縫殿三郎の主な親族の墓。

大河内喜左衛門安吉・豊子夫妻の墓
縫殿三郎・幸左衛門(幸芳)の両親。

伊藤喜左衛門安吉と母豊子の墓 大河内喜左衛門の墓

寶林院慈灮覺應居士
宝暦10年(1760)生。弘化4年(1847)10月30日、87歳で没。大河内喜左衛門安吉。
紫玉院悲峰貞應大姉
安政4年(1857)3月23日、88歳で没。豊子。

大河内喜左衛門 大河内喜左衛門明治二年伊藤ト改ム

江戸時代の大河内家の墓に「喜左衛門
近年の伊藤家の墓に「大河内喜左衛門 明治二年伊藤ト改ム
元々伊藤姓であったが領主から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)を名乗る。徳川義軍府(旧幕府脱走軍)に協力した木更津の大河内家について、西小笹村の喜左衛門宅にも佐倉藩の捜索があった。そのような騒動があってか再び伊藤に復姓した。

 

幕末の島屋当主大河内幸左衛門一郎
三千太郎の父親。木更津と、北海道の神居村に墓。

▼木更津の持宝院(現愛染院)
諦厳院大河内一郎の墓 芳讃湛義妙貞信

諦嚴院喜山明鏡居士
文久3年(1863)7月17日没。大河内一郎の墓。
芳讃湛義妙貞信女
慶応2年(1866)3月28日没。家族の女性。三千太郎の実母だろうか。

美香保丸難破後に伊庭八郎が頼ったとされる伊庭軍兵衛の門弟「大河内一郎」は官軍に抗って捕縛されていたとするが、三千太郎の父親の一郎は伊庭が最初に木更津村に上陸した時には既に亡くなっている。
尚、江戸の伊庭道場には三千太郎が入門したと伝わっている。※三千太郎については別記事で後日紹介

▼旭川の神居墓地 【2017年4月追記】
 
諦嚴院喜山明鏡居士 文久三年七月十七日亡」 俗名 大河内一郎
貞壽院夏光妙善大姉 大正二年八月四日亡」 俗名 伊藤くに

墓所の神居墓地(現旭川市神居町神岡)は明治40年に開設された。
大正2年(1913)8月に伊藤くにが亡くなった後、9月に大河内三千太郎が建立。

 

大河内三千太郎の妻なお
大田村の惣名主地曳新兵衛の娘で、17歳の若さで亡くなったとされる。

大河内道太郎の妻なをの墓 大河内道太郎の妻大田村地曳新兵衛娘

栄樹院直心妙了信女
慶応2年(1866)5月9日没。

因みに、地曳新兵衛の家から男子が下烏田村(木更津市下烏田)の諏訪家に養子に入り、その子が慶応4年戊辰の林忠崇の出陣時に病身で付き従い館山で命尽きた請西藩諏訪数馬

 

南町島屋で最後に生きた幸左衛門

最後の木更津島屋当主の幸左衛門墓 伊藤幸左衛門

盛光院三執願應居士
慶応4年(明治元年)8月24日没。家族と思われる伊藤幸左衛門の墓に共に眠る。

木更津村の明王山持宝院(現在愛染院に合併)の過去帳にも記載されている。
殿三郎の弟(幸芳)と家族の墓か。もしくは一郎が亡くなった後で義勇軍を率いて北行してしまった嫡子三千太郎の代りに、急遽幸左衛門の名を継いだ者かもしれない。すると伊庭八郎が頼ろうとし官軍に捕縛された大河内一郎がこの幸左衛門(新しい代の一郎)という見方もできる。

三千太郎は箱館戦争まで従軍し、放免後東京を経て北海道へ渡った。
大河内一郎(三千太郎の父)の後妻きたと、幸左衛門の次男(妻帯し分家)である常盤之助の一家は木更津村寺町に残ったが、明治8年3月の寺町大火で類焼してしまい、北海道へ転居した。

西小笹に移り伊藤に復姓した代の幸左衛門は、明治の合併で共興村となった際に助役となった。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

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