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阿弥陀寺[3]新撰組斎藤一の墓所

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬
阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓

斉藤一の墓案内板

斎藤一(山口次郎/二郎・一戸伝八・藤田五郎)
天保15年(弘化元年/1844)1月1日江戸で、山口祐助(ゆうすけ)の三子として一(はじめ)が生まれる。
祐助は元播磨国明石藩の足軽で、江戸に出て小川町辺(現千代田区)の鈴木家の足軽となり後に御家人株を買った(邸は本郷弓町で、ある藩の間者として潜入していたとの推測もある)という。
母は川越出身のマス、天保7年生まれの兄は維新後大蔵省の属官を務めたとされる廣明(ひろあき。公明とも。通称は喜間多)、天保13年生まれの姉は勝(かつ。後に久と改名。九段下飯田町あたりで開業していた水戸藩の藩医相馬俊明に嫁ぐ)。

確証はないが一は左利き(中島登の似せ絵では右利きに描かれている)で遺された羽織から当時では長身の170cm程だがそれ以上に大きく見え、剣術は無外流か江戸の会津藩邸で一刀流を学んだと考えられており、几帳面で眼光鋭い無口とも後に証言されている。
また市谷甲良屋敷(柳町)の近藤勇の天然理心流道場試衛館に出入するようになったとも。

文久2年(1862)12月頃に山口一は、19歳で小石川関口で意見の違いから旗本の侍を殺し、父親が世話をしていた京都の吉田某の剣道場(聖徳太子流とされる)へ匿われた。吉田某は腕のたつ一に代稽古をさせたという。この時から斎藤を名乗ったか。

 

●壬生浪士組・新撰組結成
文久3年(1863)2月、斎藤は同行していないが、近藤勇達が加わり京へ上った「浪士組」は京に到着し壬生村に分宿した浪士組は清河八郎の主張をめぐり分裂し、芹沢鴨ら一派と近藤ら一派は京都に残留する。
3月10日に幕府が会津藩へ残留者の差配を命じ、芹沢・近藤らが会津藩に出した残留歎願書の連名者17名のうちに斎藤一の名があるので、この頃には合流と改名をしていたようだ。
20の深夜に会津藩預かりとなることが決まり壬生浪士組が結成された。

4月16日に京都黒谷の会津本陣の松平容保の御前で壬生浪士組隊士らによる武術稽古の上覧が行われた。斎藤は永倉新八と対戦する。

6月1日不逞浪士取締のため10人の隊士が大坂に赴き、3日に捕縛し、身柄を町奉行所に引き渡した。その後、芹沢鴨・平山五郎・野口健司・山南敬助・沖田総司・島田魁と永倉・斉藤の8人の隊士が夕涼みのため出船するが、斎藤が腹痛を起こし鍋島河岸に上陸。
介抱のため北新地住吉楼に向かう途中、大坂の力士達と芹沢が衝突し住吉楼で乱闘となる。

8月尊皇攘夷派の長州藩勢力を京都から追放した八月十八日の政変で、会津藩の合印である黄色の襷をつけて南門の警備に出動。その際に新撰組の隊名が与えられた。

9月25日隊内の長州の間者らのうち林信太郎を斎藤が脇差一刺で誅殺。

 

●高台寺派の諜報活動後、山口二郎と改名
元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件では別方面をあたり到着が遅れた土方歳三隊に属していたため目立つ活躍はしていない。
7月19日の禁門の変の鎮圧に新撰組も参加。11月に行軍録が制作され斎藤は四番組長となる。

元治2年(1865/慶応元年)3月22日頃に土方と目付の斎藤、伊東甲子太郎、藤堂平助は隊士を募るために江戸へ出立。4月5日に江戸の試衛館に着き、五十数人の新入隊士を得て、27日に江戸を発つ。

閏5月頃の小隊制で斎藤は三番組長、9月の第二次行軍録でも三番組長に相当する槍頭に就任。剣術師範を受持つ。
隊士総勢130名余りになり壬生の民家が手狭になったため六条の西本願寺に移り、北集会所(きたしゅうえしょ)を借りて本陣とする。

慶応2年(1866)9月28日(または翌年6月22日)銭取橋(現勧進橋)で薩摩藩に通じていた五番組組長の武田観柳斎を斎藤が一太刀で誅殺。

慶応3年(1867)正月、伊東が島原に遊興する際に斎藤・永倉が同席するが4日も帰らず3名は謹慎処分を受ける。
3月、反幕に傾いていた伊東一派が、孝明天皇の陵墓を護る名目で御陵衛士(ごりょうえじ)を結成し脱退する際に永倉か斎藤の動向を求めた。斎藤は近藤の命で間者として伊東派に従った。
11月10日に高台寺月真院から抜け出し、新撰組幹部暗殺計画を報告後、斎藤は京都詰用心差添の紀州藩士三浦休太郎(きゅうたろう)のもとに預けられたとみられる。
11月18日御陵衛士を襲撃して伊東らを暗殺(油小路事件)
諜報活動を終えると山口二郎(次郎)と改名し、新撰組に復隊する。

12月7日坂本龍馬と中岡慎太郎が三浦休太郎の指示で新撰組に殺されたと誤解した土佐浪士50余人が花屋町の旅籠天満屋に襲撃、山口ら十数人で三浦を護り応戦。内、十津川郷士の中井庄五郎は正月7日に山口(斎藤)らと小競り合いをしたともいう。佩刀関孫六(せきまごろく)を振るう山口の奮闘が伝わる。

12月9日の王政復古発令により、二条城の警備に就いていた新撰組も12日に容保らに従い大坂へ下り、14日に大坂天満宮に宿陣。15日に伏見警護を命じられ16日に薩摩藩兵が陣を敷く伏見へ向かうこととなる。
18日に近藤が御陵衛士残党に狙撃され重傷を負う。

 

●鳥羽・伏見の戦いが勃発
慶応4年(1868)1月3日朝に薩摩・長州・土佐藩が進軍し、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
近藤が負傷中のために土方が指揮する新撰組は伏見奉行屋敷の裏手を警備した。
午後五時頃に鳥羽街道上の赤池付近で旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が届いた伏見でも開戦となる。

新撰組が一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えたが、薩摩軍が撃ち込む焼玉で奉行所屋敷が出火。斬り込み隊も敵の小銃隊の射撃に遮られ、深夜の午前2時頃に引き揚げた。
撤退中に下鳥羽の横大路方面で薩摩軍の先鋒と衝突し接戦を繰り広げたとも伝わる。

その後戦線組は千両松に陣を置き4日に小戦。この日新政府軍に錦旗が立ち、旧幕軍は賊軍となった。
5日の激戦で14名の隊士が戦死。旧幕府軍と共に淀城に拠ろうとしたが、淀藩は突如西軍についたため入城できず、後退した。

6日山口・永倉らは20人の隊士を率いて八幡山中腹で戦うが、三方から攻められ一軒家に火を掛け、楠葉砲台がある橋本の旧幕府軍拠点に後退。
正午過ぎ、橋本台場の淀川を挟んだ対岸の津藩から不意に砲撃を受けた。津藩も新政府側に転じいた。総崩れとなった旧幕府軍は夕刻に大坂方面へ敗走。

7日山口・永倉ら大坂城到着した時に土方率いる新撰組は戦の準備をしていたが、この前夜に徳川慶喜は戦いを放棄し城を脱していた。
旧幕軍は解体となり、新撰組は海路で9日に順動丸(12日に品川着・釜屋逗留)、11日に近藤や結核の沖田ら患者を富士山丸と分乗して出航。
富士山丸は14日に横浜に着き重傷者・介護者22人が横浜病院に入る。
15日に品川に帰着し近藤・沖田は神田の医学所に入院。他軽傷者50人程が浅草新町の弾左衛門(長吏頭と称し、維新後弾直樹と改名)の協力で今戸方面の宿で治療を受け、ここに山口も訪れているという。

 

●甲陽鎮撫隊の敗戦、五兵衛新田・流山へ
鍛冶屋橋門内の元秋月右京亮宅を新撰組の屯所とし、釜屋の隊士や治療を終えた隊士達が入る。
2月12日に上野寛永寺の徳川慶喜の護衛を命じられ、15日から任につくが、10日後に免じられる。
27日に江戸城で約2400両の軍資金と大砲・小銃を拝領し、28日に大久保一翁らの命で、新撰組80名程と弾左衛門配下で洋式調練を受けた100人の隊を甲陽鎮撫隊とし甲府城接収を目的に甲州鎮撫にあたる。
30日大名小路の仮屯所を出発して新宿に泊まり弾左衛門配下の兵と合流。

3月1日、鎮撫隊長大久保剛(近藤が改名)は若年寄身分で長棒引手の駕籠に乗り、洋装断髪の内藤隼人(土方が改名)は寄合席身分で馬上、山口ら幹部隊士は旗本並の青叩裏金輪抜の陣笠を被り江戸発足。府中に泊まる。
2日に日野の佐藤家で休息時に佐藤彦五郎率いる春日隊22人が加入、鎮撫隊は200人の部隊となる。
4日笹子峠を越えて駒飼宿に到着するが、新政府軍の甲府入りの報が届く。5日に隊士を交付近い田中まで派遣して事態を確認させたが、この時までに弾左衛門配下の大半が脱走し部隊は121人に減少していた。内藤が援軍要請のため江戸に走り、大久保は勝沼の大善寺付近に進軍し夜を待った。
6日正午頃に開戦、新政府軍の土佐・鳥取・高島藩兵200人が三方から迫り、山口が守備したと思われる北側の菱山には谷神兵衛率いる土佐四番隊が突撃した。
士気の下がった鎮撫隊は持ちこたえられずに離散し二時間後に敗走。鶴瀬から吉野に逃れ、大久保が立て直そうとするも撤退中に多くが離脱した鎮撫隊士達に再戦の意思は無かった。

8日朝に江戸での増援を果たせなかった内藤が日野を通過し、吉野着。大久保・内藤(近藤・土方)が江戸表へ馬で発つ際に、大久保は永倉・原田左之助に残存兵116人を任せたが、結果的に永倉・原田との決裂に繋がった。

永倉・原田ら離脱者が出て60数人に減少した新撰組の増員を募集し12日に安富才介を頭領(久米部正親、または山口とも)にして傷病兵と付添合わせ20数名を会津へ先発させた。
13日夜に五兵衛新田(ごへえしんでん。現東京都足立区綾瀬)で再起を図った大久保は金子健十郎邸を訪れ、15日に内藤も金子家に入る。
4月1日に総員227人が五兵衛新田に集結、洋式調練を受けるため流山に転陣。
3日隊士達が野外操練中に、数人が残る本陣を急襲され、大久保が新政府軍に出頭。

 

●新撰組と会津戦争
※4月~9月の動向は伝習隊と新撰組記事参照

 

9月5日の如来堂の戦いで生き延びた山口と清水卯吉・粂部正親・池田七三郎・河合鉄五郎・吉田俊一郎(俊太郎)・志村武蔵のうち
粂部・池田・河合・吉田の4人は会津田島で水戸の諸生(しょせい)隊と合流し24日に水戸へ発ち、10月1日の水戸城攻撃に失敗し敗走した銚子で、高崎藩兵に降伏し東京に送られた。志村の動向は不明だが、後に東京での病死が確認されている。

9月23日会津開城後、山口は一ノ瀬伝八と名を変え朱雀寄合隊として、清水も機械方の江川三吉と変名し、城外で戦った会津藩士として塩川に送られる。

 

●一ノ瀬伝八と改名し越後高田へ移住
明治2年(1869)1月4日に謹慎地が越後高田藩(現新潟県上越市)移住の無事を阿弥陀寺に祈願。
新政府の民生局は一人につき金一両を持たせ越後藩士の警固のもと1746人が5日・7日・9日・11日・13日・15日に六組に分けて高田に向かい、20日までに寺町へ着き36の寺院に分けて入った。
一ノ瀬・江川(山口・清水)は共に旧会津藩首脳陣が拠る東本願寺に入る。

明治政府から米五合と生活費の二人扶持を与えられ厳しい謹慎生活が始まったが、飢死や脱走捕縛者が出る中でも屈せず、病没者達を狼谷と呼ばれる会津墓地へ埋葬し弔った。この間、東本願寺から惣持寺に移り住んでいる記録がある。

9月2日に明治政府は旧会津藩士の北海道移住と苗字帯刀、旧藩主松平容保の嗣子容大(かたはる)に家督相続を許し、28日に旧藩主と家老以外の冤罪を決めたが、北海道には移住せず容保父減刑の嘆願を求め翌月上京する者もいた。
11月3日、容大に陸奥国のうち三万石と北海道の4郡を与えることが決まり、翌日華族に列した容大は三万石を賜わり、翌年斗南藩を立藩。

 

●斗南へ移住し藤田五郎と改名、やそとの結婚
明治3年(1870)東京から高田に赴いた倉沢平治右衛門(当時は右兵衛)が斗南移住を指揮した。脱走していた一ノ瀬も(動向は諸説ある)倉沢を補助し、渡航した高田謹慎組とは別に陸路から移住した。

移住時に藤田五郎と改名した経緯は、容保の命名等諸説あるが定かではない。
斗南の表高の三万石は名ばかりで実収は7000石で、移り住んだ旧藩士と家族1万7000人余りは飢餓に瀕したが、藤田は五戸(ごのへ)村内の倉沢(斗南藩の家老職である小参事に任命された)家の世話を受け生き延びた。

倉沢家には旧会津藩士族の故篠田内蔵(しのだくら。会津藩時代は400石、病没)の長女やそも同居していた。
明治4年(1871)2月頃に倉沢のとりなしで藤田とやそは結ばれた。(翌年の上京時とも)

尚、高木時尾(もとは貞。旧会津藩大目付高木小十郎盛至300石の長女。容保の義姉の照姫に仕え祐筆をしていた。母方の姓は藤田)も倉沢の養女として弟盛之輔(後に陸軍に入りのち検事正となる)と共に同居しているともされる。
6月に斗南藩は斗南県となり、8月25日に容保父子が上京する際に藤田も同行したという。

明治5年(1872)3月編纂の青森県三戸(さんのへ)郡五戸の戸籍にも、五戸村上大町三十三番屋敷内奇寓 藤田五郎二十七歳・妻やそ三十一歳と記されている。

明治6年(1873)倉沢が転居し、藤田も上田八郎右衛門の息子夫婦と同居(五戸村八百十二番屋敷内)する。

 

●江戸で警視局に勤め、高木時尾と再婚
明治7年(1874)7月10日、藤田は東京に出て、警視局(警視庁)に奉職。
やその動向は不明だが30日に倉沢家に戻ったとされる。
この頃に高木時尾と見合い、本仲人は松平容保、下仲人は旧会津藩家老格の佐川官兵衛・山川浩(大蔵)の二名がつとめたともされる。

明治9年(1876)8月藤田は本籍を東京に移す。住所は本郷区根津宮永町。
12月15日時尾は長男の勉(つとむ。後に陸軍士官学校に進む)を出産。名付け親はの山川浩が「勉てふ名に背かすはやかてよに 高く功(いさお)のたゝさらめやは」と詠む。

明治10年(1877)2月20日警部補に任命。
5月18日に西郷隆盛鎮圧のため西南戦争へ出征。豊後口警視徴募隊二番小隊(総員107名)の半隊長を勤め、薩摩軍に斬り込んで砲二門を奪う手柄をたてた。
7月12日に轟越(とどろきごえ)攻撃兵の先駆として陸軍第一小隊と共に進軍し三川内(みかわうち。宮崎県東臼杵郡北浦町)に配備。13日に藤田は銃弾で負傷。
10月28日帰京。

明治11年(1878)3月30日警部試補に任命。
明治12年(1879)10月8日叙勲七等と金百円が下賜される。
10月4日に次男の剛(つよし。貿易業に携り旧会津藩家老田中土佐の孫娘ユキと結婚)が生まれる
明治14年(1881)巡査部長。
明治19年(1886)7月1日に三男龍雄(時尾の母や西郷頼母家と縁の沼沢家の養子に出され後に弁護士となる)が生まれる。この時警察本署守衛掛勤務警部補。
明治21年(1888)11月1日警部に任命。和泉橋警察署。

明治23年(1890)1月23日警視庁構内の春季撃剣会で麻布署から藤田が出場し、京橋署詰の撃剣世話掛の渡辺登と対戦し勝利している。

 

●警視庁退職後の晩年
明治24年(1891)48歳で4月2日に警視庁を退職し、同日付で東京高等師範学校(現筑波大学)に就職し、附属東京教育博物館看守となる。(8月まで山川浩が校長であった)
明治29年(1896)本籍を福島県若松市に移す。

明治32年(1899)2月に依願退職し、時尾と共に東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に就職し、明治42年(1909)まで庶務兼会計係として勤める。

明治40年(1907)阿弥陀寺の合同供養に時尾が会津出身の婦人10名と桜を植える。翌年会津戊辰戦死者の墓田購入の寄付金を募る。夫五郎も十円の寄付金を納めている。

大正4年(1915)9月28日、東京市本郷区真砂町三十番地(現文京区本郷四丁目)の自宅で死期を察し、床の間に積み重ねさせた座布団の上に座して往生を迎えた。酒好きで胃潰瘍を患っていたという。享年72歳。
大正9年(1920)12月4日に妻時尾も永眠し、共に会津の地に眠る。

以上諸説ある中からまとめたが未だ謎や疑問が多く、今後の研究が待たれる。

阿弥陀寺の藤田家の墓

長男の藤田勉が若松第六五連隊配属時に、会津の地に両親の墓を造営してほしいと申し出て建てられたという。

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
所在地:福島県会津若松市七日町4-20

参考図書
・菊地明編著『斎藤一の生涯
・・『歴史REAL新選組最後の戦士 土方歳三と斎藤一
・『救え会津』赤間倭子「会津戊辰戦争と新撰組」

会津戦争・鶴ヶ城籠城戦

鶴ヶ城天守閣 鶴ヶ城案内

鶴ヶ城天守閣

慶応4年(1868)8月23日明け方に新政府軍は戸ノ口原の会津軍を攻撃し、会津軍は防戦しきれずに後退。
新政府軍が鶴ヶ城(若松城)下に進撃する折に、滝沢本陣の松平容保は馬に乗り出陣しようとするが家臣に諌められ、若松城下大手口の甲賀町郭門へ向かった。

北出丸側甲賀口方面 北出丸

▲甲賀口方面、手前に北出丸

城下北側の入口、蚕養(こがい)口の手前では国産奉行河原善左衛門率いる一隊が防戦するも河原隊長らの戦死により退却。新政府軍は甲賀町郭門に迫った。
郭門内で指揮をとっていた容保は、家老田中土佐・神保内蔵助に任せて帰城し、出迎えた白虎士中一番隊が防衛を命じられ郭門内東側の三宅宅に拠り応戦した。
間もなく東隣の六日町から新政府軍が進入して甲賀口が破られ、隊士達は土手沿いに退却。このうちの一団が愛宕山で自刃しようとした所を味方の兵に諌められて思いとどまり入城を目指した。
(戸ノ口原に参戦した白虎士中二番隊のうち十九名は飯盛山で自決する)

薩摩・長州・土佐兵は甲賀口から南方700mの鶴ヶ城北出丸に接近し砲撃を加えたが、城内からも城壁の銃眼から撃ち返して新政府軍の将兵達を死傷させた。
しかし新政府軍の急迫によって入城や避難できなかった、あるいは自らの意志でしなかった会津藩士の家族たちが自刃して果てた。(なよたけの碑に戦病者含めた230余名の氏名が刻まれている)

城内では容保・喜徳父子が黒鉄門(くろがねもん)内へ御座所を設えて指揮をとり、小室金吾左衛門を頭の兵を迎撃にあたらせ、更に山浦鉄四郎の一隊を共に西方へ出撃させた。天神橋の戦によって犠牲を出しながらもこの方面は9月まで会津側に確保される。

※この日の朝、山本八重(この時24歳)の家では寄宿の米沢藩士内藤新一郎が戦況を伝える為に米沢へ向かう。
母佐久と兄嫁うら達は近隣の村に避難し、八重は鳥羽・伏見の戦で戦死した弟三郎の形見を身に着けて、七連発元込めのスペンサー銃を背負い鶴ヶ城に籠城することを決めた。入城後に八重は高木時尾に断髪を頼む。

黒鉄門側 廊下橋

▲走長屋と黒鉄門、八重が入城の際に渡ったという廊下橋

25日早朝、猪苗代湖北西方面に出陣していた萱野権兵衛率いる隊が西部から入城を図るが、新政府軍の守備が固く留まる。越後方面から退いてきた旧幕郡の衝鋒隊と共に再度挑んで兵の一部が入城。※この時娘子軍が同行し中野竹子戦死
鶴ヶ城天守から南東1360mの小田山を新政府軍が占拠。

西出丸 西出丸2

▲西出丸

26日、日光方面の山川大蔵の部隊が彼岸獅子を先頭に立てて西追手門(西出丸から北側に出る搦手門)から入城。
新政府軍側は小田山にアームストロング砲一門を含む大砲を運び上げた佐賀藩が天守めがけて砲撃開始。三斗小屋の西軍は野際に到る。
27日会津藩大砲隊士の戸枝栄五郎・鯨岡平太郎・川崎尚之助らが鶴ヶ城南の豊岡神社から四斤山砲で小田山を砲撃。

鶴ヶ城から小田山方面 小田山からの鶴ヶ城

▲天守閣からの小田山方面と、小田山から肉眼視野に合わせて撮った鶴ヶ城

28日、日光口の芸州藩などの西軍が山王峠を越え、糸沢村に到る。
29日朝に糧道確保のため総督佐川官兵衛以下約1000名の兵が濃霧に紛れて城外へ出撃。新政府軍が駐屯する北西1.5kmの長命寺を目指す
芸州藩は糸沢より田島に進む。融通時寺町で戦闘。
30日に新政府軍は大内に宿陣。

9月1日三斗小屋の西軍は音金に達す。大内峠の戦。
2日関山の戦。八十里越の新政府軍は叶津に到着。
3日大内峠より栃沢にて激戦。新政府軍が再び関山を攻める。
4日、日光口から進撃してきた新政府軍の兵が鶴ヶ城西南3kmの飯寺(にいでら)に到着。
神保平八郎率いる青龍三番寄合組の防戦むなしく新政府軍は城下南端の住吉神社まで迫るが、河原町に本営を置いていた佐川官兵衛が砲兵隊を向かわせて撃退。
※この日、米沢藩が新政府に帰順し、新政府軍は小田付村に民政局を置く

5日早朝、高久(たかく)に着陣していた萱野権兵衛率いる会津軍が新政府軍に攻撃され北東6kmの塩川に退く。
6日越後口の西軍が坂下・塔寺・柳津に到る。
8日、塔寺方面から退却した会津軍、本木信吾の青龍隊と水戸兵や山本帯刀(たてわき)率いる長岡兵が共に飯寺の新政府軍を攻撃するも果たせず、濃霧で敵を誤認した長岡兵が捕えられ斬首された。
※この日、明治と改元
9日、佐川隊が田島陣屋を奪回する。

10日、越後口からの新政府軍が小荒井(現喜多方市西部)まで進み、西郷刑部隊や町野主水率いる朱雀四番士中隊は安勝寺に拠って防戦。後に雷鳴戦争と称されるほど銃声のみが激しい戦いであったという。塩川に退いた萱野隊も呼応し守備に就く。
11日未明に来襲した新政府軍の松代・岩国・越前兵を撃退するが、米沢藩が新政府に帰順したため背後を衝かれる危険性を避けて会津軍は鶴ヶ城南方の一ノ堰(いちのせき)へ向かう。

14日早朝に鶴ヶ城内へ総攻撃が決行された。小田山に据えたアームストロング砲、メリケンボート砲、従来の山砲等15門の大砲の砲撃を合図に、城の西北の諏訪神社付近で長州・大垣・土佐三藩による攻撃が行われた。
鶴ヶ城下では北西から南にかけての外郭の桂林寺町口・融通寺口・川原町口・花畑口・南町口を攻撃。
西出丸を守る郡上藩の凌霜隊や再編された白虎隊士中隊は南町口まで進み出て防戦したが、小山田からの砲撃を受けて西出丸へ戻っている。
少数の兵で善戦していた諏訪神社方面の会津軍も三方から挟撃され城内へ退いた。
昼夜を通しての砲撃で述べ2500余発が発射されたといい、籠城していた会津兵及び婦女子の死傷者が多数出た。
会津側では豊岡社より川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)が小田山へ撃った砲弾が小田山の敵陣に命中したという。
夜半に城外の北方・塩川方面にいた会津藩越後口総督一ノ瀬要人(いちのせかなめ)率いる兵と、北西・中荒井周辺にいた陣将萱野権兵衛率いる兵が一ノ堰周辺に移動。

豊岡社跡 豊岡社から小田山を臨む

▲川崎尚之助が反撃した豊岡神社跡地と付近から小田山方面を撮影

15日会津軍の動きに応じて新政府軍が高田方面の補給路を断つため鶴ヶ城南方の青木・中野・徳久周辺の会津軍を攻撃するが果たせず引きあげる。
一ノ瀬隊は戦いに勝利したが、総督一ノ瀬が重傷を負い、隊長西郷刑部、大竹主計(かずえ)、原早太(そうた)などの将が戦死した。
この日、会津藩では降伏交渉のため藩士手代木直右衛門(てしろぎすぐうえもん)と秋月悌次郎(あきづきていじろう)を米沢藩の陣地に赴かせた。
16日新政府軍八十里越支隊が藤江・沼ノ平に着く。

17日朝8時頃、小田山と飯寺の新政府軍が再び一ノ堰まで進撃。白虎一番寄合組隊・砲兵隊・玄武士中隊・朱雀二番寄合組隊等が防戦するが後退し3km程後方の雨屋村で反撃、青龍三番士中隊・朱雀四番士中隊などが追撃に移る。
新政府軍を後退させたが、総督一ノ瀬が15日の戦傷により死亡し、残された兵団は鶴ヶ城南西8kmの福永へ集合した。この戦いで山本八重の父、玄武士中隊の山本権八が戦死。

18日早朝に新政府軍が高田へ出撃、佐川官兵衛の隊は包囲される前に撤退し大内へ転陣しており、これに応じて福永の会津兵も大内へ向かう。
※この日、棚倉藩が降伏

19日、会津藩手代木・秋月らが米沢藩を通じて土佐の本営に降伏願書を提出。
20日、板垣退助は降伏願書を受諾し、会津藩降伏の交渉がまとまる。
21日、新政府軍からの発砲停止。松平容保、将士に開城を諭す。開城の令の文を見て自害する藩士もあった。
この日、容保の義姉の照姫が小切れを集めさせて長さ三尺(約90cm)・幅二尺(約60cm)の降伏の旗を作ったという。

白旗 明治五年鶴ヶ城天守閣

▲大手先の正門前・黒鉄門・他一カ所に白旗を掲げた

22日午前10時、鶴ヶ城大手前の西側石橋の欄干に「降参」と大書された旗が立てられた。
容保・喜徳父子が内藤家・西郷家の間の武場(本一丁目と甲賀町通りの交差点)に臨み、総督府宛てに降伏謝罪の書を提出した。その後容保は、戦死者を投げ入れた二の丸の大空井戸に香花を供えて忠魂を礼拝した。容保らは新政府軍に滝沢の妙国寺に護送されて謹慎する。
開城時に城内の人員は約五千名程だった。
この日山口村で佐川隊が新政府軍を撃破。
この夜12時頃に、山本八重が三の丸雑物倉の壁に歌を笄で刻む。
明日の夜は何処(いずく)の誰か眺むらん 馴れし御城(みそら)に残す月影

八重の歌 三の丸壕跡

▲八重の歌・三の丸濠跡

23日、城内の将兵が謹慎地の猪苗代に向け出発。
老幼女子は現在の喜多方方面、傷病者は城南の青木村に移された。
※この日、庄内藩降伏
24日午後、若松城引き渡しが行われた。

会津南部では佐川官兵衛率いる会津軍の戦闘が続行されていたが、25日に若松から正式な降伏状が届き、26日に大内の部隊が解隊。続いて田島や伊南方面の諸隊も帰順し、謹慎所の塩川へ向かった。

※参考図書は川崎尚之助伝習隊関連記事に同じ

阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の戊辰戦争殉難者墳墓です。

招魂場へ 戊辰戦争殉難者墳墓

戊辰戦争殉難者墳墓
門には会津葵紋。
四方に柵を廻らした招魂場戦死墓萱野長修遥拝碑萱野権兵衛)と
明治10年の西南の役で殉じた佐川官兵衛ほか旧会津藩士七十名を合祀した際の報国尽忠碑が建てられています。

阿弥陀寺には萱野権兵衛の木像も安置されているらしいです。(津屋英樹『定年草枕』等)

戊辰戦争五十年記念碑

戊辰戦争五十年記念碑。
阿弥陀寺では彼岸に手厚い供養会が行われています。

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
所在地:福島県会津若松市七日町4-20

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬

阿弥陀寺 阿弥陀寺案内板

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
慶長8年(1603)蒲生秀行の時代に、良然(りょうねん)和尚が開山した浄土宗寺院。

藩公密議場所の御三階 御三階案内板

御三階(ごさんかい)
明治3年(1870)まで鶴ヶ城本丸北東の石垣の上に建っており、物見や密議の場所として使われたという御三階が、阿弥陀寺に移され仮本堂として使用された。
外観上は三階だが内部が四層になっており、二階と三階の間に天井の低い部屋がある。
移築の際に本丸御殿の大書院玄関の唐破風も同時に移築され、現在のような形となった。

 

戊辰役殉難者の墓の碑

明治戊辰戦役殉難者墓の碑

戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は新政府の命令で放置されたまま触れることも許されず、仮埋葬した者は罰せられた。
戦後処理に当たっていた若松取締の会津藩家老原田対馬(つしま)や町野主水(まちのもんど)らが戦死者の埋葬を幾度も嘆願し、翌年の明治2年(1869)2月にようやく許可が出たのは「埋葬は罪人の遺体を処理してきた人々に依頼すること」「罪人の遺体埋葬地であること」という条件付きであった。

若松取締方は戦没者ですら罪人扱いであることに強く反発し、新政府軍は遺体処理者は手配済みのため埋葬地の指定のみ撤回したが、それでも埋葬地は戦没者それぞれの菩提寺ではなく、阿弥陀寺と長命寺の2カ所に限られた。※身元のわかる者は菩提寺に葬られたとの話もある

新政府軍が雇った罪人遺体処理人夫は、戦没者の遺体をまるで捨てるかのような酷い扱いだった。
見かねた伴百悦(ばんひゃくえつ。五百石の高禄の家柄で、戊辰戦争では水原府鎮将萱野右兵衛隊の組頭を務めた)が、自ら埋葬を行う身となって遺体の取り扱いを指導した。
その後も百悦は2ヶ月にわたり各地の戊辰の役戦没者の遺体を埋葬したという。

阿弥陀寺境内には1300柱にものぼる遺骸が埋葬され、残りの145体は長命寺に運ばれた。
しかし墓標を建てることは許されず、明治6年(1873)に墓碑の建立を認められたが「戦死墓」の3文字しか刻むことができなかった。大庭恭平筆「殉難之霊」の墓標も、殉難という言葉を見過ごさず民政局が削り取った。

後に百悦が新政府側の民政局監察方頭取兼断獄の久保村文四郎を殺害する事件も久保村の残忍な仕打ち以前にこうした旧会津藩士達への無礼への復讐とも考えられる。百悦は明治3年(1870)6月22日に自害(追手に刺殺されたとも)、善龍寺に墓がある。

※埋葬を禁じられた・罪人扱いでの許可は事実ではないとの主張もありますが、会津側の記録と当時の風俗・価値観はこうであったのだろう…との意味でそのまま書きました。戦没者達を悼みます

 

戊辰戦争殉難者墳墓(萱野権兵衛の遥拝碑あり)

藤田五郎(斎藤一)の墓

 

鐘楼 大仏の台座

▲鐘楼と大仏様台座
鐘楼は殉難者慰霊のため金物を寄付し合って明治31年9月鋳造建立された。
飯盛山仁王門前に在った一丈三尺の大仏が西軍兵に解体されかけ、これを買いとって阿弥陀寺に安置された。大仏は青銅製だったため太平洋戦争時に供出されて台座のみが残る。
他に座頭市のモデルといわれる黒河内伝五郎の墓等が在る。

所在地:福島県会津若松市七日町4-20

参考図書
・『会津人群像 第13号

福島県立博物館

旧石器時代から近代まで福島の歴史と郷土史料、昔の玩具や時代衣装など展示されています。
7/3まで企画展『2013年NHK大河ドラマ特別展「八重の桜」』開催。
内容は東京で行われたものと同じだそうです。

 

アームストロング砲 土齊武隊陣所〆切-

アームストロング砲の模型と斉武隊の落書付蔵戸
新政府軍が鶴ヶ城に数千発も放ったというアームストロング砲。
戊辰戦争中土佐藩に使われた蔵(現会津若松市馬場町)の戸に書かれた「土齊武隊陣所〆切 小荷駄方」

ミニエー銃とゲベール銃

ミニエー銃ゲベール銃の複製

十二封土砲弾とや大筒など

▲十二封土砲弾、銃弾、大筒など

 

福島県立博物館サイト:http://www.general-museum.fks.ed.jp/
所在地:福島県会津若松市城東町1-25(鶴ヶ城公園内にあります)

ここも常設展の一部はストロボ無しなら撮影可でした