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稲荷山[2]5.1白河口激戦

立石山方向 白河口戦の案内板

稲荷山・慶応四年五月朔日白河口戦闘図(官軍白河攻撃要図)
西郷頼母は西軍主力部隊が進軍する奥州街道の関門にあたる要所の稲荷山に兵力を集結させ応戦。だが雷神山・立石山方面に進む西軍別働隊(写真は立石山方向)が両方面を攻略し、包囲された稲荷山が集中砲火を受け壊滅。

 

慶応4年(1868)5月1日未明、新政府軍が正面部隊を稲荷山・東翼部隊を雷神山・西翼部隊を立石山方面の3方向に分けて侵攻し各方面激戦となる。

小雨の降る中、新撰組達は稲荷山に登り邀撃するも、西軍中央隊が小丸山に大砲4門を据えて激しく発砲。
自ら戦線に出て采配を揮った副総督横山主税(常守)が新政府軍の銃弾に斃れ(享年22歳)、遠く北方の勢至堂宿(須賀川市)まで退却した。
新撰組では伊藤鉄五郎(伊東)が討死。
火力と統率力の差で旧幕府軍は白河戦最大の約700名の死傷者を出したといわれる。
昼過ぎに新政府軍が小峰城奪還。

2日に新撰組らは勢至堂宿から三代宿に移動し米沢兵の援軍と合流。後に飯土用(いいどよ)か上小屋(かみごや。共に白河市)に前進し26日大谷地(おおやぢ)を経て会津・米沢兵と共に城下から襲撃。六反山方面で銃撃になるも会・米軍の多くが火縄銃装備だったため豪雨により作戦を中止し上小屋まで撤退。

27日米沢軍先発で会津遊撃隊・会儀隊・砲兵二番隊と共に白河口を目指し出陣、正午から金勝寺・六反山で交戦。背後から挟撃され夜に敗走。官軍は大谷地会津屯営に火を放つ。

牧之内村に駐在していた新撰組隊士達は、福良宿に出陣していた会津藩主松平喜徳(のぶのり。徳川慶喜の実弟で容保の養子となる。15歳)に呼び出され、6月3日に拝謁。
福良には土方歳三も来ていた。
6月6日福良を発ち羽太村より白河城下北西部へ向かう。

 

西郷頼母歌碑 西郷頼母歌碑案内板

▲激戦地となった稲荷山に佇む西郷頼母歌碑
「うらやまし 角をかくしつ又のべつ 心のままに身をもかくしつ」

■■伝習隊と新撰組■■

稲荷山[1]4.25新撰組と白河口の戦

白河激戦地の稲荷山 江戸街道小丸山方面

稲荷山、頂上から奥州街道を望む
白河口の戦い激戦地。稲荷山からは西軍が攻めてきた奥州街道・小丸山方面が一望できる

 

慶応4年(1868)閏4月5日、前会津藩主松平容保により山口次郎(二郎。斎藤一)負傷した土方歳三に代わり隊長として新撰組130人余を率いての白河出陣が命じられる。
赤津に泊まり、6日に250人余兵を率いて白河方面に出陣、猪苗代湖西岸の白河(会津)街道を南行し7日から三代村で休陣し21日に白河小峰城に向かう(20日旧幕府軍小峰城を落とす)。

22日に城下に着いた隊士達は「白坂口関門」に配属。稲荷山に防塁を構え、会津藩遠山伊右衛門指揮の遊撃隊と共に防衛の任につく。

25日薩摩・長州・大垣(おおがき。美濃国、岐阜県)・忍(おし。武蔵国、埼玉県)藩兵約250名が門奥州街道芦野宿(栃木県那須町)より白坂宿を経て白河へ進撃し大砲5(4)門の砲撃。
砲声を聞き会津藩兵・旧幕府歩兵純義隊らが駆けつけ応戦し昼頃に撃退、新政府軍は芦野宿まで退却した。
この戦いで新撰組では菊池央・伊藤鉄五郎・横山鍋三郎(鍋二郎とも)が討死。
また、この夜偵察中に撃ち殺された新政府軍兵の一人、薩摩四番隊の武川直枝(竹川)は元新撰組隊士で伊東甲子太郎派として分かれた清原清(元伊東派でかつて近藤勇を狙撃した加納道之助と共に大久保大和が近藤勇と見破ったとされる)

26日白河口総督として会津藩家老西郷頼母、副総督として若年寄横山主税常守(ちから つねもり)入城。仙台・二本松(にほんまつ。岩代安達、福島県)・棚倉(たなぐら。磐城、福島県)藩の援軍も到着。

山口はこの機を見て白河方面総督の会津家老西郷頼母に白坂宿への進軍作戦を進言するが、白河の守備力が削がれることを危惧して却下される。
29日夕方に新撰組は担当の関門詰を仙台藩兵と交代。

 

小峰城方面 権兵衛稲荷神社

▲小峰城方面と、稲荷山に鎮座する権兵衛稲荷神社

所在地:福島県白河市九番町西裏

■■伝習隊と新撰組■■
※5/1の白河口戦記事→稲荷山[2]5.1白河口激戦

白河小峰城

白河城山公園入口 白河小峰城祉

▲白河小峰城(こみねじょう)祉公園

 

幕末の白河藩主阿部正外(まさとう)は幕府老中として外交問題を担当したが兵庫開港問題の責任を追及され老中免職。慶応3年(1867)棚倉へ国替えされ白河藩は消滅。
慶応4年(1868)2月、白河小峰城は新政府の命で仙台藩預かりとなり、奥羽鎮撫総督府下参謀の命で二本松他数藩の兵が駐屯していた。

閏4月20日朝、会津純義隊ら旧幕府軍が小峰城を急襲。奥羽越列藩同盟を組む段階にあった仙台藩の兵達は前日に須賀川に引きあげていて、他の残留兵も城に火を放ち立退いた。

22日山口次郎(二郎。斎藤一)率いる新撰組130人余が城下に着く。

 

白河小峰城祉の石垣

▲三重櫓と震災被害で崩れたままの石垣

所在地:福島県白河市郭内1

■■伝習隊と新撰組■■

伝習隊と新撰組

慶応4年(1868)4月から旧幕府軍伝習隊(でんしゅうたい)と共に戦った新撰組の戦歴を
まずは会津戦まで追います  土方歳三 ◆斎藤一
※説が多様につき、改めてまとめるため一時中断しています

 

・3/12 甲州で甲陽鎮撫隊敗走(3/6)後、新撰組伍長粂部正親に負傷隊士二十数名を会津に直行させる
・4/3 流山で近藤勇投降。土方歳三は夜に隊長付相馬主計を連れ江戸へ
◆4/4 斎藤一・安富才助ら新撰組本隊百数十名は土方歳三の指示で流山から会津へ向かう(利根川を船で下り銚子港から常陸へ渡り猪苗代へ)
★4/5 土方、江戸に登城し勝海舟・大久保一翁を訪ね近藤解放を嘆願。相馬に勝の新書を届けさせる

★4/11 土方、島田魁・中島登・沢忠助ら残存隊士6名と下総鴻の台(千葉県市川市国府台)で旧歩兵奉行大鳥圭介総督の旧幕府軍2千余の兵に合流
★4/12 土方は元会津藩士の秋月登之助率いる先鋒部隊(伝習隊第一大隊・砲兵隊・回天隊・桑名士官隊等1000人)参謀として北関東に出陣、下妻陣屋・下館城を降伏させ宇都宮城を目指す。後に永倉新八「靖共隊」(3/11離脱し結成)も大鳥が統括し日光を目指す後軍(中軍に伝習第二大隊400人、後軍に七聯隊・御料兵・別伝習隊・土工兵等600人)に編入

★4/19 秋月・土方ら宇都宮城を奪取するが4/23に新政府軍に奪還され土方と秋月は負傷し今市へ移動。翌日会津へ向かう
・4/25 近藤、板橋で斬首
★26日会津領内の田島陣屋に到着し秋月と別れる。
★4/29 土方は清水屋旅館に入り、会津城下で新撰組約130名余集結

◆閏4/5 登城。松平容保、山口次郎(二郎、斎藤一。負傷した土方に代わる隊長)に白河出撃を命じる
◆閏4/22 山口率いる新撰組130人余が白河小峰城下に着き白坂口関門に配属
◆閏4/25 新撰組ら東軍が新政府軍による小峰城攻撃を撃退
◆閏4/29 新撰組、脇本陣柳屋に宿陣
◆5/1 小峰城落城、新撰組敗走。その後も奪還戦が続く

・5/2 会津軍・伝習隊・飯野藩兵ら大田原城襲撃
・5/15 上野彰義隊へ新政府軍が総攻撃。新撰組助勤原田左之助戦死
・5/30 沖田総司病死
★土方、7月頃まで天寧の湯(東山温泉)で湯治。その間に愛宕神社へ戦傷祈願、天寧寺に近藤勇の墓を建てる
・6/24 一時戦線復帰するも病の秋月に対し歩兵達の不満が起きたとして、元幕府若年寄並陸軍奉行の竹中重固(しげかた。7/1より輪王寺宮を奉じる奥羽越列藩同盟勢の主力)が伝習隊第一大隊総督となる。

◆7/1 山口、飯野藩兵と出撃するが敗れ撤退
・7/10 竹中の後任として土方が伝習隊第一大隊総督、元七聯隊で書記の大嶋寅雄が分隊長に任命される
・8/17 土方部隊、大鳥圭介らと合流し猪苗代城下に移動(土方は同行せず)
◆8/21 母成峠の戦い、母成口配置の諸兵と伝習隊・新撰組およそ800人が守備するも大敗
★◆8/22 土方ら鶴ヶ城に戦況報告。松平容保は救援のため残存兵を率いて滝沢本陣に入る
★◆8/23 戸ノ口原の戦い後白虎隊士が飯盛山で自刃新政府軍が鶴ヶ城包囲。大塩宿に土方ら新撰組・桑名藩・旧幕府軍集結。
★8/25 土方、会津救援を求めるため米沢庄内へ

◆9/2 山口ら、長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で戦闘
★9/3 庄内藩が新政府軍に恭順したため、土方ら仙台へ入る
◆9/4 山口ら、木曾(喜多方市)で戦闘。旧幕府軍衝鋒隊と合流すべく如来堂に向かう
◆9/5 山口率いる新撰組一隊、如来堂で新政府軍の大軍に襲撃される

その後9/8大鳥率いる伝習隊・衝鋒隊ら旧幕府は小田付代官所(喜多方市)で会津からの退却を決定。9/22会津藩降伏、以降も山口は一ノ瀬伝八・藤田五郎と名を変え旧会津藩士達と共に歩む。
仙台藩が新政府に恭順したため土方らは榎本武揚の軍艦で仙台より蝦夷地箱館に渡航、翌明治2年(1869)5/11箱館戦争で土方戦死。5/18五稜郭降伏。

いずれ仙台以降も制作したいと思います。
※脱藩士も参考図書の通りに藩士で統一しています

各記事参考図書(一般に流通している書籍)
・『歴史REAL新選組最後の戦士 土方歳三と斎藤一
・『全国版 幕末維新人物事典
・穂積忠『落城―戊辰戦争の勝敗を分けた白河口の戦い
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争
・野口武彦『幕府歩兵隊
・星亮一『奥羽越列藩同盟』『大鳥圭介
・『会津藩と新選組
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『会津戊辰戦史
・荒井忠秋『戊辰の墓標』『続・戊辰の墓標』
・金子誠三『新撰組 戊辰戦争奥州白河口』
他、日野の記事に同じ
※古書等は郷土資料と共に別途リスト化する予定です