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【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊


大河内正道藤原安吉(おおこうちまさみち)
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し德川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め德川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ撃剣教授として招致の知らせが届き承諾。
>※常陸国行方(なめがた)郡大生原村(おうはら。現茨城県潮来市)より成東に移住したともされる元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。明治12年(1879)8月25日上野公園で催された明治天皇の上野行幸における槍剣天覧試合に一族の大河内三千太郎が剣術で出場している。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、苗字が田代となった。
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め町会議員、成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治22年(1889)4月25日成東町町会議員となる(明治25年4月24日退任)
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治26年(1891)12月26日正道の練武場で一本町物産比較会を開く。
明治31年(1898)4月25日成東町町会議員となる(17点で補欠議員当選。明治40年4月24日まで)
6月9日午後8時20分に正道の宅地内の椎名三乕の保有地から発火し近隣に類焼、11時30分に鎮火した。
明治33年(1900)2月6日に佐倉中学校成東分校教諭田中玄黄が出張事務所開設の相談をし、正道の宅地から借受けて仮事務所を開始(『田中哲三家文書』※6月に法宣寺に移る
4月佐倉中学校成東分校(翌年成東中学校に改称。現在の県立成東高等学校)が開校し正道が学事世話掛(学務委員)となる。撃剣教師として剣を教授した。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。享年81。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

* * *
※善福寺は墓地の写真撮影不可。
大河内友蔵(嘉永元年1月10日生。無刀流。剣道教士。総州出身で福島県へ移る)が正道の養子となったという話があるようだが、友蔵とは5歳しか年齢が違わないため誤記か?(調査中)

■■不二心流と木更津「島屋」■■

【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
茂三郎の次男の伊藤竹次郎は海外で医学を研究し伊藤病院の院長となる。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所

西小笹村の藍商喜左衛門・木更津村の島屋幸左衛門ら、縫殿三郎の主な親族の墓。

大河内喜左衛門安吉・豊子夫妻の墓
縫殿三郎・幸左衛門(幸芳)の両親。

伊藤喜左衛門安吉と母豊子の墓 大河内喜左衛門の墓

寶林院慈灮覺應居士
宝暦10年(1760)生。弘化4年(1847)10月30日、87歳で没。大河内喜左衛門安吉。
紫玉院悲峰貞應大姉
安政4年(1857)3月23日、88歳で没。豊子。

大河内喜左衛門 大河内喜左衛門明治二年伊藤ト改ム

江戸時代の大河内家の墓に「喜左衛門
近年の伊藤家の墓に「大河内喜左衛門 明治二年伊藤ト改ム
元々伊藤姓であったが領主から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)を名乗る。徳川義軍府(旧幕府脱走軍)に協力した木更津の大河内家について、西小笹村の喜左衛門宅にも佐倉藩の捜索があった。そのような騒動があってか再び伊藤に復姓した。

 

幕末の島屋当主大河内幸左衛門一郎
三千太郎の父親。木更津と、北海道の神居村に墓。

▼木更津の持宝院(現愛染院)
諦厳院大河内一郎の墓 芳讃湛義妙貞信

諦嚴院喜山明鏡居士
文久3年(1863)7月17日没。大河内一郎の墓。
芳讃湛義妙貞信女
慶応2年(1866)3月28日没。家族の女性。三千太郎の実母だろうか。

美香保丸難破後に伊庭八郎が頼ったとされる伊庭軍兵衛の門弟「大河内一郎」は官軍に抗って捕縛されていたとするが、三千太郎の父親の一郎は伊庭が最初に木更津村に上陸した時には既に亡くなっている。
尚、江戸の伊庭道場には三千太郎が入門したと伝わっている。※三千太郎については別記事で後日紹介

▼旭川の神居墓地 【2017年4月追記】
 
諦嚴院喜山明鏡居士 文久三年七月十七日亡」 俗名 大河内一郎
貞壽院夏光妙善大姉 大正二年八月四日亡」 俗名 伊藤くに

墓所の神居墓地(現旭川市神居町神岡)は明治40年に開設された。
大正2年(1913)8月に伊藤くにが亡くなった後、9月に大河内三千太郎が建立。

 

大河内三千太郎の妻なお
大田村の惣名主地曳新兵衛の娘で、17歳の若さで亡くなったとされる。

大河内道太郎の妻なをの墓 大河内道太郎の妻大田村地曳新兵衛娘

栄樹院直心妙了信女
慶応2年(1866)5月9日没。

因みに、地曳新兵衛の家から男子が下烏田村(木更津市下烏田)の諏訪家に養子に入り、その子が慶応4年戊辰の林忠崇の出陣時に病身で付き従い館山で命尽きた請西藩諏訪数馬

 

南町島屋で最後に生きた幸左衛門

最後の木更津島屋当主の幸左衛門墓 伊藤幸左衛門

盛光院三執願應居士
慶応4年(明治元年)8月24日没。家族と思われる伊藤幸左衛門の墓に共に眠る。

木更津村の明王山持宝院(現在愛染院に合併)の過去帳にも記載されている。
殿三郎の弟(幸芳)と家族の墓か。もしくは一郎が亡くなった後で義勇軍を率いて北行してしまった嫡子三千太郎の代りに、急遽幸左衛門の名を継いだ者かもしれない。すると伊庭八郎が頼ろうとし官軍に捕縛された大河内一郎がこの幸左衛門(新しい代の一郎)という見方もできる。

三千太郎は箱館戦争まで従軍し、放免後東京を経て北海道へ渡った。
大河内一郎(三千太郎の父)の後妻きたと、幸左衛門の次男(妻帯し分家)である常盤之助の一家は木更津村寺町に残ったが、明治8年3月の寺町大火で類焼してしまい、北海道へ転居した。

西小笹に移り伊藤に復姓した代の幸左衛門は、明治の合併で共興村となった際に助役となった。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

※現在関係者個人の管理のものもあるため、当ブログへの問合せはご遠慮願います

不二心流と木更津「島屋」(まとめ)

木更津鳥瞰図で見る島屋と戊辰戦争
観光パネル昭和11年松山天山写生『千葉縣木更津町鳥瞰圖』に大河内家関連跡地・所在地を上書

不二心流の流祖・剣豪中村一心斎と、不二心流を継承した大河内一族、木更津の紺屋「島屋」と
戊辰戦争で徳川義軍に関わった経緯等のブログ記事まとめです。

不二心流
【不二心流開祖】中村一心斎の略歴と成就寺供養塔
不二心流「中村一心斎碑」
不二心流伊藤実心斎の供養墓
飽富神社の不二心流奉額
成東元倡寺の不二心流剣道碑
宮川熊野神社と不二心流
────他、追加予定

島屋と大河内家
木更津の紺屋・大河内幸左衛門「島屋」
大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所
【不二心流二代目】大河内縫殿三郎(幸安)
【不二心流三代目】大河内総三郎(幸経)と寺町「志摩屋」
【不二心流四代目】大河内正道(安吉)と戊辰戦争義勇隊
大河内三千太郎(幸昌)[1]上総義勇隊頭取
大河内三千太郎[2]明治の北海道に渡った剣客、監獄看守となる
大河内三千太郎[3]篤志・教育家としての後半生
空知集治監と看守長伊藤常盤之助のこと

 

■関連記事
結城藩成東陣屋跡地
糀屋村名主伊藤仁右衛門茂平碑

 


戦前の木更津八幡町。江戸時代に不二心流大河内家が在った(写真右の硝子店の建物辺)通り

※各記事は福田久一郎著『不二心流系譜並略伝』を元に、文中に明記した各参考史料と関連旧蹟の碑文や聞き取りで補足しました。ご協力ありがとうございました。

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館稽古場 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の写真

▲燿武館稽古場の一部。この左側に師範席がある。

逸見(へんみ)氏は清和天皇七世の孫の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ。八幡太郎義家の弟)の後裔で、第三皇子の逸見冠者義清を祖とし代々甲斐(山梨県)に住んでいた。
大永年間(1521~28)に逸見若狭守源義綱(よしつな。後に朝高/ともたか)が、勢力を強めていた武田信虎と対立して一族共々甲斐を去り、小沢口に移住したと伝わる。

天明・寛政(1781~1800)の頃、溝口一刀流の櫻井五亮長政(さくらいごすけながまさ。景政)に学ん逸見太四郎義年(たしろうよしとし1747~1828。後に多門)は、両神山の二子山で修行し、祖先の甲斐源氏に因んで「甲源」と名付けた甲源一刀流を開いた。これに因み二子山は逸見ヶ岳と呼ばれるようになる。

甲源一刀流練武道場(れんぶどうじょう)の燿武館(ようぶかん)は木造平屋建で、外側は白壁をめぐらし、木製の武者窓(明かり採り)が設えられている。
内部の稽古場は板張りで10坪、控えの間が2.5坪。稽古場に続いて一段高くに、天井の張られた床の間付きの師範席がある。江戸時代の頃は栗板の板葺き屋根であったという。
「突き」の名門といわれた燿武館には首の高さの部分に大きなくぼみのできた柱があり、往時の稽古の激しさを物語っている。

門弟は秩父を中心に全国各地へ広がり隆盛時は三千人を越え、寺社へ多くの奉納額を献じた。
特に東京の靖国神社の奉納額は壮大な額であったが大東亜戦争での空襲で焼失してしまった。

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の表門 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の案内板 

▲門の奥が稽古場、手前が修行者用宿舎

 

■幕末近世武州の主な甲源一刀流の門人(現在の出身地名)

●逸見太四郎義年門下
印可を得た強矢良輔武行(すねや。小鹿野町。徳川御三家紀州新宮藩剣術指南役。江戸四谷伝馬町に道場)、水野清吾年賀(嵐山町。志賀村名主)、比留間与八利恭(日高市)、中島宗蔵義武(美里町。成瀬因幡守の剣術指南役)らはそれぞれの自宅道場で門人を増やし甲源一刀流を広めた。
原島玄徳(秩父市)……村医。尊皇攘夷派で公卿大炊御門公尊の近侍となり秩父下向に従い清雲寺に入るも一行が偽者と嫌疑をかけられ斬られた。
坂本勘蔵(秩父市)……自宅道場で多くの門下を育成。維新後は白久村戸長を務めた。
田嶋七郎左衛門武郷(越生市)……「禅心無形流」を開く。
清水伊之松(日高市)……講談『関東七人男』の主人公猪之松。

●強矢良輔門下
強矢良右衛門武文(小鹿野町)……強矢良輔の嫡男。紀州新宮藩剣術指南役、大殿様御近習など藩の要職を歴任した。
強矢左馬之助文武(小鹿野町)……強矢良輔の次男で撃剣師範。彰義隊として戦死。
酒井右駒(小鹿野町)……領主の平岡丹波守に仕え江戸に上り馬庭念流も修めた。彰義隊に参加し若くして戦没。
飯野清三郎(寄居町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
蛭川一忠康(深谷市)……師範。剣豪として名高く自宅の道場で多くの門下を育成した。将軍家茂の上洛の際は領主の室賀氏に従い京へ上っている。
高橋三五郎一之(本庄市)……剣の達人で知られ川越藩の剣術指南役を務めた。
松澤良作正景(寄居町)……師範。浪士組四番隊(松澤隊)小頭。清川八郎の攘夷活動の一味として拘束され、明治に赦免。

●松澤良作正景門下
小澤勇作義光(本庄市)……浪士組四番隊。新徴組の次席となり庄内では剣術世話係となる。戊辰戦争では二番隊で連戦し庄内藩が降伏した後は、松ヶ丘(山形県羽黒町)の開墾労働を強制される。その後は東京で警視庁の剣術師範を勤め、後に甲源北辰流を編出し道場を開く。
中島政之助(群馬県安中市)……浪士組として京に上る。

須永宗司(熊谷市)……松澤良作の誘いで浪士組に入り、七番隊須永隊小頭として京に上る。新徴組として江戸市中取締を命じられるが病死。養子である年若い宗太郎が新徴組へ入隊した。
須永宗太郎(〃)……義父の宗司に代わり庄内で戦う。維新後は陸軍に入隊し日露戦争では第九師団の参謀長、戦後は陸軍中将に昇進した。庄内で戦死した水野令三郎とは親友であった。

●高橋三五郎門下
青木七郎(深谷市)……逸見愛作にも学び、若くして印可を授かり「荘武館」を開き全国から門人が集った。明治以降は「明信館支部」として剣道を教授。

●蛭川一門下
塚田源三郎(深谷市)……浪士組六番隊。後に郷里に戻り道場を開く。維新後は蓮沼村戸長、その後合併により明戸村の村長を歴任。
瀬川太郎右衛門信綱(深谷市)……塚田に学び「源部館」を開く。

●瀬川太郎右衛門「源部館」門下
富田喜三郎(本庄市)……岩鼻監獄所へ奉職。その後山岡鉄舟の春風館道場(東京四谷)に入門、警視庁四谷署で剣術を指導する。札幌警察署に転勤。札幌区体育所で剣道師範となり、北海道内で甲源一刀流を広めた。

●水野清吾年賀「市関演武場」門下
根岸伴七信輔(熊谷市)……甲山村の名主。雅号友山。道場「振武所」や私塾「三餘堂」を設立し北辰一刀流千葉道場の剣師や昌平学の生徒等、文武の達士を講師に招いた。
名主として農民蜂起「蓑負騒動」に味方したため郷里を追われる身になるが、赦免後は尊皇攘夷に傾き長州藩との繋がりを深めた。また庄内藩士清川八郎との親交により浪士組へ入隊する同志甲山組を集め自らも参加。後に郷里に戻り文化活動に専念した。
松本半平(横田村)……自宅道場で多くの門人を育成。
水野倭一郎年次(嵐山町)……水野清吾の嫡男。名主。根岸友山の要請で浪士組に参加する門弟を率いて、道場を嫡男喜市郎に任せて自らも一番組として京に上る。
江戸では新徴組の五番組小頭。庄内へは倭一郎の三男令三郎を連れ立った。倭一郎は三番組伍長として数々の戦功をあげるが、令三郎は19歳の若さで戦死してしまう。庄内藩の降伏後は熊谷県に出仕。

●水野倭一郎「市関演武場」門下
吉野唯五郎(滑川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
松本半平衛(横田村)……初め為三郎。雅号は松月斎。松本半平の嫡男。浪士組として京に上るが父の訃報により帰郷し道場を継ぐ。

●松本半平門下
新井荘司年信(小川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場「講武館」を開き、宗家の逸見愛作に目代の印可を得て甲源一刀流を伝道。町に剣道の講道館が設立されると師範となる。

●比留間氏(日高市)
比留間半造利充……与八利恭の嫡男。八王子千人同心の剣術指南に赴く。寿碑の篆額は山岡鉄舟(鐵太郎)の筆。土方歳三を描いた司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』に実名記述あり。
比留間周三利周内田周三。利恭の次男で多くの門下を育成。
比留間良八利衆……利充の嫡男。二十歳で免状を得る。一橋慶喜家臣。剣術教授方。慶喜が徳川十五代将軍となると陸軍銃隊指図役に任命される。鳥羽伏見の戦後は彰義隊の第十四番隊長として清水門口を守衛。上野戦争では比留間の奥義「車斬り」で官軍を斬り上げたと言い伝えられている。敗戦後は帰郷し数年間各地を潜伏、世相が安定すると弟利暠に家督を譲り成瀬村(越生町)の田島家に婿入りして道場を開き多くの門人が集った。
比留間国造利暠……国造の弟。一橋慶喜家臣。維新後家督を継ぎ、名門道場を存続させた。

●比留間半造門下
清水準之助(嵐山町)……浪士組として京に上り、その後帰郷。
久林萬次郎(飯能市)……赤沢村戸長。自宅道場で指導もした。
三田左内(東京都青梅市)……中里介山の小説『大菩薩峠』の主人公机竜之助のモデルとされる。

●内田(比留間)周三門下
小川椙太(小川町)……渋沢栄一を介して一橋慶喜に出仕し幕臣となる。江戸では鏡新明智流道場で修業したとも。彰義隊の天王寺詰組頭として上野戦争で刀を振るうが敗れ、小伝馬町の獄舎に入れられた。赦免後は静岡藩を経て東京に戻る。興郷を名乗り、晩年に彰義隊「戦死之墓」を建立した。
野口愛之助章庸(小川町)……彰義隊に参加。維新後青山村長となる。顕彰碑の篆額は黒田長成の筆。

逸見太四郎長英(ながひで。剣世五世。初め年洽)門下
檜山省吾(小鹿野町)……請西藩士。戊辰戦争で脱藩した藩主林忠崇に従軍し、その後小鹿野町に戻る。
逸見愛作英敦(あいさくひであつ)……長英の嫡男。寿碑の篆額は榎本武揚の筆。

●逸見愛作門下
大川藤吉郎(松山市)……浪士組として京に上り、新徴組として庄内で戦う。

他、堀内大輔(長瀬町)、山岸金十郎、田口徳次郎(共に小川町)等が浪士組に参加し、千野卯之助(小川町)はその後も新徴組として庄内で戦い、細田市蔵(入間市)は最後まで庄内に残留したという。
資料により記録が異なるが、横手銀二郎(日高市)は杉山銀之丞の名で振武軍に加わり飯能戦争で捕われ若くして命を散らせた。

 

甲源一刀流逸見氏練武道場(埼玉県指定有形文化財)※見学要予約
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄167

参考図書
・逸見光治『甲斐源氏甲源一刀流逸見家』『甲源一刀流逸見家続編』
・『飯能郷土史
・『小鹿野町誌』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物
関連サイト
・小鹿野町HP:http://www.town.ogano.lg.jp/(燿武館の紹介ページ有)