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本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」・その後の本多家

良玄寺本堂 良玄寺大多喜城主本多忠勝候忠朝候墓碑

良玄寺本多家墓所

右五輪塔・大多喜城主本多忠勝中務大輔忠勝候奥方墓塔
  見星院殿蓮譽光信大襌定尼 慶長十八年九月十四日大多喜城内にて卒

中五輪塔・大多喜城主本多忠勝中務大輔忠勝候墓塔
  西岸寺殿前中書長譽良信大居士 慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳

左五輪塔・大多喜城主本多出雲守忠朝候墓塔
  三光院殿前出州岸譽良玄大居士 元和元年五月七日大阪夏の陣にて戦死行年三十四歳

良玄寺大多喜城主本多忠勝候忠朝候墓誌 良玄寺案内板

■良玄寺由緒
天正18年(1590)大多喜十万石へ入城した本多忠勝(ほんだただかつ)は、文禄4年(1595)9月25日下総国小金城下(現千葉県松戸市)東漸(とうぜん)寺の住持照誉了学(しょうよりょうがく。小金城主高城胤吉の三男。後に徳川家菩提寺江戸芝増上寺貫主)上人を招き開山、金澤山良信寺を建立し菩提寺として寺領百石を寄進し、境内四町八反を除地(免税地)とした。本尊は木造阿弥陀如来像。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦の翌年に忠勝は伊勢国桑名(三重県桑名市)に移封となり二男の忠朝(ただとも)が五万石で大多喜城主となった。忠朝も城主となった年に寺領百万石を寄進している。
了学は飯沼(茨城県常総市水海道)弘経(ぐきょう)寺を再興し、良信寺にはその弟子圓誉信牛和尚が住職となる。

慶長15年(1610)忠勝が63歳で桑名(江戸とも)で没し遺言により了学の葬儀で桑名浄土寺に葬られたが、良信寺に分骨して墓碑を建てた。
慶長18年(1613)忠勝が桑名に転封後もこの地に残っていた正室で忠朝の母である於久の方が大多喜城で没して良信寺に葬られる。二代目圓誉上人の焼香。
元和元年(1615)忠朝は大坂夏の陣で34歳の若さで戦死し一心寺(大阪府大阪市天王寺区)に葬られたが、分骨し当地にも埋葬。
今でも本多忠勝夫妻と次子忠朝の、伊豆小松石で出来た五輪の墓碑が町指定文化財として顕在している。

大多喜藩は忠朝の甥の政朝(まさとも。甲斐守)があとを継ぎ、忠朝の法名(戒名)から三光院良玄寺と寺号を改め、この年11月15日に百石を寄進している。

大多喜忠勝公園 忠勝公園から見た大多喜城

▲良玄寺墓所に隣接した忠勝公園からは遠くに大多喜城が見える
良玄寺に伝来する有名な、忠勝が土佐派の絵師に描かせた肖像画「鏡の御影」こと九幅の紙本着色本多忠勝像は、元禄4年(1691)本多宗家6代忠国の元に渡り模写が奉納され、現在は県指定文化財として県立中央博物館(大多喜城分館)に寄託されている。

金澤山三光院良玄寺(浄土宗)
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町新丁180

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
○本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

 

◆余話◆その後の本多家
元和元年(1615)5月7日に大多喜藩主本多忠朝が大坂夏の陣で戦死。忠朝の長男の政勝が幼少のため、閏6月4日に甥(兄忠政の次男)の本多甲斐守政朝(初め忠氏、忠郷)が17歳で大多喜5万石を継ぐ。
元和3年(1617)政朝が播磨国龍野藩(兵庫県たつの市)5万石に転封。
大多喜藩には武蔵国鳩ヶ谷藩(はとがや。埼玉県川口市)から阿部正次が3万石で入封。
7月14日に本多宗家当主の忠政が姫路藩主(兵庫県姫路市)となり15万石を領した。

寛永3年(1626)5月7日忠政の嫡男忠刻が病死したため、翌年政朝が宗家を継ぐこととなった。
政朝が相続の際に5万石のうち4万石を忠朝の長男政勝に、1万石を政朝の弟能登守忠義に分け与えた。
政勝は母と共に姫路の郭内に住んでいたが、元は実父忠朝の遺領にあたるはずが勝手な分与の不満から出家しようとし、細川越中守らの説得で4万石のみの相続を承諾した。
寛永10年(1633)正月政勝は従五位下に叙す。

寛永15年(1638)11月20日政朝が亡くなる。
寛永16年(1639)政朝の長男政長6歳・二男政信5歳の幼少のため政勝の養子とし、3月3日に政勝が宗家を継ぐ
政勝は大和郡山藩(奈良県大和郡山市)15万石へ移封。政勝が分与されていた4万石を政長3万石・政信1万石に分与。
寛文2年(1662)政勝の養子政信が死去。政貞(政勝の実子三男、後の忠英)が政信の養子として政信の遺領1万石を継ぐ。

寛文11年(1671)10月30日政勝は江戸屋敷で死去。宗家を継ぐ養子政長に9万石、政勝実子の二男政利に6万石、俗に九・六騒動と呼ばれる分与が生じ、お家騒動に繋がる。
延宝7年(1679)政長が休死(政利の毒殺説もある)し、政長の養子忠国(水戸藩主松平頼元の子。徳川光圀の甥)が本多宗家を継ぎ陸奥国福島藩(福島県福島市)15万石に転封。
忠英が山崎藩(兵庫県宍粟市)1万石の藩主となる。
政利は明石藩(兵庫県明石市)6万石へ転封となるが、その後の素行で減封を兼ねた転封の末除封となってしまう。
天和2年(1682)忠国が播磨姫路藩15万石に転封。
宝永元年(1704)3月21日忠国が死去し、忠国三男の忠孝が宗家を継ぐが幼少であったため越後村上藩(新潟県村上市)に移封となった。
宝永6年(1709)に忠孝が12歳で早世。
宝永7年(1710)忠英の長男忠良が宗家を継ぐこととなった。しかし15万石から5万石の減封となり三河刈谷藩(愛知県刈谷市)に転封となってしまう。
正徳2年(1712)7月12日忠良は更に下総古河藩(茨城県古河市)へ移封。

忠朝の男子の血筋としては、宗家を継いだ★政勝→山崎藩主★忠英の系譜になる。
・【本多宗家】忠英の長男★忠良は本多宗家を継ぎ→長男★忠敞(急死)→養子の忠盈(信濃国松代藩主真田信弘の六男)→忠敞長男★忠粛→忠盈実子→養子忠顕→四男忠考→婿養子忠民→婿養子忠直→忠考の孫忠敬……
・【山崎藩主】忠英の次男★忠方→忠英三男★忠辰→長男★忠堯→妹婿☆忠可(越前丸岡藩主有馬孝純の次男)→長男☆忠居→次男☆忠敬→忠居四男☆忠鄰→次男☆忠明が山崎藩最後の藩主となる。

本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として

大坂夏の陣図屏風本多忠朝

本多出雲守忠朝 (ほんだ いずものかみ ただとも。画像は『大坂の陣合戦図屏風』天王寺口で戦う忠朝)
通称は内記(ないき)。幼年より徳川家康の側近くに近侍し、後に大多喜藩5万石の藩主となる。正室は一柳直盛(ひとつやなぎなおもり。監物。伊勢神戸藩・伊予西条藩藩主)の娘。
子は長女の千代(本多政朝室)、二女は山口主水(本多家家臣)室、嫡男の政勝(播磨姫路新田藩・大和郡山藩藩主)、養女に有馬直純の娘(政勝の妻の妹。黒田隆政室)

天正10(1582)年、忠朝は遠江国(静岡県西部)で、徳川四天王こと本多忠勝(ただかつ)の二男として生まれる。
母は忠勝の正室於久の方(阿知和右衛門玄銕の娘。見星院)
姉は長女稲姫(小松姫。天正元年生、幼名は子亥/ねい。家康の養女として真田信之に嫁ぐ。母は側室乙女の方)と次女もり姫(奥平家昌室。法明院。母は乙女の方)、兄は嫡子忠政(天正3年生。伊勢桑名藩主)、妹に本多備中守信之室、松下三十郎重綱室(母は側室)、蒲生瀬兵衛室。

◆父・本多忠勝の大多喜入城
天正18年(1590)8月、徳川家康の関東転封に伴い、本多忠勝が43歳で上総国大多喜10万石(千葉県夷隅郡大多喜町)に入封。当初は万喜城に入城したとみられる文献や、根古屋城に入城した等諸説ある。
忠勝は商業政策として市を開かせ(元禄時代から始まる六斎市の原型か)、万喜城の旧城主土岐頼定の旧臣を召抱え土豪の掌握と軍役人員を補強したとされ、この時厚遇した藤平冶右衛門は大坂役で忠朝と共に戦死している。
この年、17歳の小松姫が真田信之に嫁ぎ上野へ行き、熊(ゆう。徳川家康の孫娘)姫が忠政に嫁いだ。
天正19年(1591)忠勝は陸奥国九戸(くのへ)一揆討伐のため岩手沢へ家康に供奉。翌年、豊臣秀吉の朝鮮出兵のため忠勝は家康に従軍し肥前国名護屋(なごや)へ向かい先駆。翌年は肥後国の梅北一揆(島津家の家臣梅北国兼が首謀者)鎮圧に出動。
文禄4年(1595)9月25日に忠勝は了学和尚を大多喜城下に招いて良信寺(現良玄寺)を建立。
慶長元年(1596)4月14日兄忠政の長男平八郎(後の忠刻/ただとき。忠為。播磨姫路新田藩初代藩主。母は熊姫)が生まれる。
慶長2年(1597)11月~12月に忠勝が領内を検地。
慶長4年(1599)兄忠政の次男の鍋之助(後に大多喜藩を継ぐ政朝。母は熊姫)が生まれる。

岡崎城の本多忠勝像 大多喜城主本多忠勝公

▲忠朝の実父・本多忠勝像(左は岡崎城、右は大多喜行徳橋)

■本多忠朝は初陣で賞され大多喜城主となる
慶長5年(1600)9月15日、19歳の忠朝は関ヶ原の戦いに父忠勝と共に従軍し、初陣となる。
本多本隊は兄忠政が率いて秀忠に従い上田城攻めに加わったため遅参し、忠勝隊の兵数は大軍とは言えなかった。
徳川本陣に向けて決死の敵中突破を決行した西軍の島津義弘の島津本隊・先陣の島津豊久率いる佐土原衆により徳川方の井伊直政が負傷し、忠勝も家康から貰った名馬三国黒(みくにぐろ)を撃たれた。本多家与力梶金平勝忠が自分の馬を差し出す間、忠朝は島津軍中に進撃し大声で名乗りを上げて敵を引き付け果敢に戦った。忠勝も戦線復帰すると島津軍を追い立て戦功を得る。
忠朝は島津兵を討ち取り首二級をあげ、忠勝のもとに戻ろうとした時には血にまみれた太刀が反り曲がって鞘に納まらないという勇ましさは家康に「今日のはたらき、ゆくすえ父にも劣るまじき」と賞賛された。

慶長6年(1601)正月一日、忠朝は20歳で従五位下出雲守に叙任され、忠勝の旧領のうち大多喜5万石を拝領し分家する。大多喜城の城主として城持ち大名となった。
共に関ヶ原で戦功をあげた父の忠勝は54歳で伊勢国桑名10万石移封となる。忠勝の側室乙女の方、嫡男忠政や忠政の子達と共に桑名へ移る。
この時、忠勝の正室である忠朝の母お久の方のみは大多喜に留まった。
慶長8年(1603)2月に家康が征夷大将軍になり江戸幕府を開く。10月に切支丹御条目の制令が平沢妙厳寺に建てられる。

関ヶ原古戦場 大多喜城

関ヶ原古戦場と現在の大多喜城

 

■大多喜城主としての忠朝
慶長10年(1605)忠朝、堀之内貴船大明神の社殿を建立。
慶長14年(1609)2月に忠朝は国吉原の新田開発に着手し9箇条の開発掟を発令。
4月に桑名で忠勝が隠居する。
9月5日にドン・ロドリゴ一行の新スペイン(現メキシコ)船サンフランシスコ号が大多喜藩領の岩和田(いわわだ。現御宿町)沖で座礁、田尻の浜に漂着し村人によって317名が救出される。
10月13日にロドリゴ一行を大多喜城下招き歓待した。
ロドリゴが江戸、駿府、京坂、豊後国へと西行し帰国するまでの間、忠朝は度々書状を送り親善を深めたという。

慶長15年(1610年)10月18日、忠勝が63歳で桑名にて病没。大多喜の菩提寺良信寺にも分骨して葬る。
忠勝は生前に家老の松下河内に、忠政は嫡子なので遺跡を継がせ武具馬具茶具等の貴重品を悉く譲り、次男忠朝には小身(地位が低い)だからこそ蓄えの黄金1万5千両を与えよと命じる遺書を渡していた。
それを河内に告げられた忠政は「嫡子なので親の遺跡や遺物を所有するのは当然でたとえ遺言でも弟に貯蓄を渡すという非道には従えない」と怒り、黄金を忠朝に与えなかった。
河内は仕方なく忠朝に経緯を告げると、忠朝は機嫌を損ねずに「私は小身だから金銀は多く使わないが、父の跡を継いで濃州の主となった兄は多くの家臣を持ち変乱時に軍用もかかる。父は私を愛して遺言を残したが、義において金は受け取れません」と潔く言った。
これを伝えられた忠政は驚き恥じて黄金を惜しむ心も無くなり忠朝に贈り、しかし忠朝は次男の身であると言って受け取ろうとしなかった。
一門一族は兄弟の意志を察して黄金を兄弟で半分ずつ分配するよう取成した。
忠朝は急用時に受取るとして忠政の蔵に預けたままにし、生涯一金も手に取らなかった。(『古老雑話』)

慶長16年(1611)忠朝は万喜原の新田開発(現いすみ市)に着手し6箇条の開発掟を発令。新田開発を行った者に3年の諸役と年貢免許という手厚い免除を定めた。
この年、領地の泉水寺郷内で良信寺に100石を寺領を寄進する。
慶長18年(1613)9月14日に母お久の方が大多喜城内で没し、良信寺に葬る。
慶長19年(1614)安房国館山藩(千葉県館山市)の里見忠義(さとみただよし。11万2千石)が改易となり、9月に忠朝は佐貫城主内藤左馬助政長と共に、忠義の館山城を破却し没収された所領の守衛を命じられる。9日に館山城を受取り、里見家の者を下旬までに退去させ、20日に取壊し終えた。
この年、忠朝の次男、入道丸(政勝)が生まれる。

大多喜地之絵図 上総大多喜城絵図

大多喜地之絵図と上総大多喜城絵図
ドン・ロドリゴの『日本見聞録』に忠朝が城主時代の大多喜城の様子が記されている。
城は町より高い天然要害といえる場所に建ち、第一の門を入ると深い濠が一つあり上げ下げのできる防衛を備えたつり橋が架かっている。
巨大な城門は鉄製で、濠に面した城壁は縦横6バーラ余(約5m)に畳壁が盛られ、百人程の城兵が火縄銃を持って立っている。
城門の内側には壕と庭園、篭城時に賄える菜園や稲田までもがあった。
約100歩先の第二の門は、表門よりやや低い切り石の城壁が築かれ、槍兵が30人警護していた。
4、50歩先にある城主の宮殿(屋敷)は地震にそなえて木造で土台の基礎工事も優れている。数々の部屋は金銀細工が施され、彩色も美しく床から上方まで目を見張るものがある。
武器庫は将軍の管理するものと思えるほどに立派なものだった。

大多喜城薬医門 大多喜城大井戸

▲古い面影が残された大多喜城二の丸跡の薬医門大井戸
本多忠勝・忠朝が城主時の慶長年間(1598~1614)に掘られたとされるニ十数個の井戸の一つ、周囲約17m・深さ20mの大井戸は、地山の泥岩を加工して切石積の井戸側とする構造。当時は8個の滑車と16個のるつべ桶があり、水がつきることなく湧き出ることから「霧吹ノ井戸」「底知らずの井戸」と呼ばれてていた。
前城主正木大膳が八幡宮の託宣により掘られ破棄した「大膳井(たいぜんいど)」跡や不動院(圓照寺)の尽きない水を引いた等の伝承がある。井戸は大東亜戦争時に半ば埋立られたが昭和21年に復元されている。
薬医門は天保13年(1842)の火災後に建築された二の丸御殿の門。現在の大多喜城建造物唯一の遺構。
明治4年の廃藩の際に払下げられたが大正15年に県立大多喜中学校の校門として寄贈され、後の大多喜高等学校校舎建築の際に一旦解体保存されたものを昭和48年に修理が成された。

○本多忠朝[1]本多忠勝の次男・大多喜藩主として
本多忠朝[2]新スペイン漂着船とドン・ロドリゴ
本多忠朝[3]大坂冬の陣出陣
本多忠朝[4]大坂夏の陣天王寺の戦い
本多忠朝[5]大阪墓所「一心寺」
本多忠朝[6]大多喜墓所「良玄寺」

丸に立葵

▼参考資料(講談・軍記物含む)
・『大多喜町史』
・『夷隅郡誌
・『岡崎市史
・『房総叢書
・戸川残花『徳川武士銘々伝』『三百諸侯
・湯浅常山『常山紀談
・『系図綜覧』『本多系図』
・『系図纂要
・『寛政重修諸家譜』
・『本多忠勝家譜』
・『徳川実記』『當代記』『駿府記』
・『房総の郷土史』
・『千葉文化』
・『探訪ふるさとの歴史』
・『本多忠勝・忠朝ものがたり』
・小和田哲男『戦国武将の合戦図
・市原允『わがふるさと城下町』『大多喜城物語』
・藤沢衛彦『日本伝説叢書・上総
・『千葉県史料』
・岡島成邦『房総里見誌』
・安川惟礼『上総国誌』
・『大多喜社寺書上』
・徳富猪一郎『近世日本国民史』
・『日本の戦史
・熊田葦城『日本史蹟
・岡谷繁実『名将言行録
・岡田溪志『攝陽群談・河内名所鑑
・黒川真道『新東鑑
・新井白石『藩翰譜』
・北条氏長『慶元記』
・『武将感状記』
・『校合雑記』
・『難波戦記』『大坂記』『大坂軍記』『真田三代記
・企画展図録『本多忠朝の時代』
他、資料館等案内、遺跡調査報告、史蹟案内板等
▼関連リンク
・大多喜町:http://www.town.otaki.chiba.jp/
・千葉県立中央博物館 大多喜城分館:http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=59

天下三名槍・本多忠勝の鑓「蜻蛉切」初公開

静岡県の実業家・矢部利雄氏が収集したコレクション……織田信長が長篠の戦いの功で奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ蜻蛉切(とんぼぎり)をはじめ日本刀、刀装具、絵画、陶芸等が
静岡県の佐野美術館で『ひとの縁は、ものの縁―初公開の矢部コレクション』展として、本日、2月15日(日) まで公開されています。
特に「家康に過ぎたるものが二つあり、からのかしらに本多平八」と謳われた本多忠勝の愛鑓(大笹穂槍・銘:藤原正真作・号:蜻蛉切)は、本多家から離れてからは矢部氏故人の手に渡ったため、実物は今回が初の一般公開になるそうです。

佐野美術館で蜻蛉切初公開 佐野美術館パンフと入場券

私も一番の目当ては、この蜻蛉切です。
奥の展示室の片隅にあったそれは、よく磨かれて刃は妖しく輝き、精強な三河衆のイメージとは少し外れた美しい珠玉の姿で一段と目と心を惹かれました。
掻かれた樋は、刃を強靭にするとされます(血を通りやすくするという俗説も)。
三鈷剣やその下の不動明王のカンマンの梵字までくっきりと浮かび上がり、そこに生と死の狭間で主の松平家を守護せんという精神が見出せました。

人をあやめる武具であるのに、見ていてどこか晴れやかな気分になるのは、不動明王の降魔三鈷剣は魔と同時に煩悩を断ち切るとされるせいか、または忠勝の人柄でしょうか。
私には美術品の目利きの力はありませんが、戦国の世から泰平の世を築き、そして平和な今の時代まで遺された武人の面影を目に出来て唯々幸せに思いました。

 

展示は当然穂先のみですが、忠勝が全盛期に携えた鑓は通常より長い凡そ二丈(約6m)、青貝を摺り込んだもので、飛んできた蜻蛉が触れた瞬間、蜻蛉が真っ二つになったことから蜻蛉切と呼ばれるようになったと言われています。

逸話として、実戦で無敵の忠勝が、次男の忠朝(大多喜藩主)の槍稽古の横槍に入ったら負けてしまった話(蜻蛉切を持って参れと言って相手を震わせたというオチ)を家臣が語ったといわれてますが
槍弾正とうたわれた保科正俊にも似たような話があります。槍だけでなく剣豪でもこの手(実戦に強く道場稽古に弱い、転じて道場稽古は実戦に役立たない)の創作は多いですね。
大多喜と忠勝親子、槍弾正の正俊どちらもいずれブログに書く予定で写真ストックばっちり溜めてますよ!

佐野美術館

佐野美術館:http://www.sanobi.or.jp
所在地:静岡県三島市中田町1-43

* * *

そしてちょっと寄り道。
三島はもう一つ、林忠崇と遊撃隊関連(こちらも後で記事にします)も目的でしたが…
ちょうどそのスポット上にあるパン屋「グルッペ本町店」で昼食を買いました。
以前書いた「パン祖のパン」の製造元の直営店舗なんですよ。

パン祖のパンと三島コロッケバーガー

パン祖のパンのスティックタイプは通常のに比べ固くなく食べやすいお土産向けです。
富士山紙バッグ(¥100)は山型の口がきゅっと締まって、美術館のリーフレットや蜻蛉切ポストカードがしっかり収納できました。シンプルなグッドデザイン。
ちなみにグルッペのご当地グルメパン「みしまコロッケパン」「みしまフルーティキャロット」は三島駅の売店でも購入できます!(2015年2月現在)

Gruppe・石渡食品有限会社:http://gruppe-ishiwata.com/

士魂商才の小柳津要人

M35小柳津要人の写真 小柳津要人(おやいづ かなめ)
士魂商才」は、福澤諭吉が「元禄武士の魂を以って大阪商人の腕ある者、即ち西洋のマーチャント(商人)の風ある者は小柳津要人」と評している通り士魂商才の新語を創って小柳津にあてた、または丸善創業者の早矢仕が番頭の小柳津の人柄に対し表した言葉とも伝わる。
徳川の恩義のため戊辰戦争を戦いぬいた後、丸善と出版界の発展の大きな力となった小柳津に相応しい言葉である。

 

■岡崎藩の西洋流大砲方として江戸へ
弘化元年(1844)2月15日に三河国額田郡岡崎で岡崎藩士小柳津宗和の長男として出生。母は光子。
要人は小柳津家の九代目。

岡崎藩(5万石)は三河国額田郡岡崎(愛知県岡崎市康生町)の岡崎城(徳川家康の出生地)を居城とし、この時の岡崎藩の藩主は本多忠民(ほんだただもと。美濃守、中務大輔。万延元年/1860に老中)。
忠民の本多家は本多平八郎忠勝を租とし、徳川譜代の重鎮であったため、子弟教育は厳しく幼くして武士としての教養を身に付けさせていたという。
小柳津も本多忠勝の遺訓「惣まくり」を生涯の信条としていた(總捲、残らず論じる意味)

17歳で御料理の間詰として藩に出仕し、間もなく側役の御次詰となる。
この頃、先輩同輩と将来における洋学・漢学の是非を論じて小柳津は洋学を採る方針を固め、従来の武芸のほか洋式砲術も修練した。

文久3年(1863)3月、20歳でに岡崎藩西洋流大砲方として江戸詰を命じられ江戸に赴く。
江川英龍の「繩武館」に入り教授の大鳥圭介、箕作貞一郎(麟祥)に兵学・洋学の教えを受ける。
秋より幕府開成所に学び、英学得業士となって新しい知識を身につけた。

慶応2年(1866)4月に藩に呼び戻される。

 

■戊辰戦争では脱藩して箱根から箱館まで転戦する
慶応3年(1867)10月徳川慶喜上洛とともに岡崎藩本多家は伏見の豊後橋の警護を命ぜられる。14日に慶喜が大政奉還を上奏。
12月に小柳津は藩を脱して江戸に向かう。

慶応4年(1868)3月23日に藩主忠民は養嗣子の忠直(ただなお)を上京させ親子連盟の勤皇誓書を提出し恭順を示した。

徳川譜代の藩として恭順に対し反発も多く、小柳津は藩の上役で佐幕派である儒者の志賀熊太(重職。重昴の父)に血判状を提出し、脱藩する。
和多田貢ら岡崎藩士23名で林忠崇・遊撃隊らが宿陣する沼津香貫村に至り、5月6日に加盟。第三軍に編入される。
26日の箱根山崎の戦の撤退戦で小柳津は左の脛を負傷。
その後も奥州を転戦し、更に榎本武揚率いる旧幕府艦隊で10月22日に蝦夷鷲の木へ上陸。11月5日に松前を落とす。

明治2年(1869)正月の仏式改編で遊撃隊の差図役となる。新政府に対しての和解案は受け入れられず、掃討のため4月に官軍が来襲し11日札前村付近で戦闘後、木古内に引揚。
20日に木古内に官軍千人ばかり押し寄せ火を放つ。この戦いで伊庭八郎はじめ負傷者が多く出て泉沢まで撤退。立て直すも追撃はなく22日に五稜郭帰営。
その後も抗戦するも5月11日に総攻撃を受け遊撃隊は桔梗野口で戦い小柳津は負傷する。その後に遊撃隊は五稜郭の表門を守備につく。

18日に榎本らは謝罪を決め、箱館称名寺で謹慎。称名寺で一泊し、翌日病院へ。
7月3日に出院して弁天台場に謹慎。
9月1日土州蒸気船の夕顔丸に乗り翌日出航。風模様が悪く南部釜石港に翌朝まで錨泊。
5日に品川着。
その後岡崎脱藩士は岡崎に呼び戻されて郷里で謹慎となる。

 

■英学を修め慶応義塾を経て丸善商社に入社
明治3年(1870)3月に謹慎を赦され東京へ向かう。
その途次に静岡──駿府に移封となった徳川家が人材育成のため駿府の学問所(静岡学問所)や沼津兵学校など教育機関を設立認可し、かつての有能な幕臣達が教鞭を執っていた──で沼津兵学校で英学教授の乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)のもとで英学を修め、また外山正一(とやままさかず。後に文部大臣)の知遇を得る(金拾円の援助を受ける)

東京で大学南校(開成所跡に開校した洋学校)に学び、後に慶応義塾(福澤諭吉の築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開いた蘭学塾が英学塾となり芝新銭座に拡大移転後慶應義塾に改称)に入る。

明治4年(1871)小柳津は藩の貸賃生であったが7月の廃藩置県に際し藩費が途絶えたので筑後柳河(福岡県柳川市)英学校の教師となる。
後に郷里の岡崎へ戻って英語を教授。

明治6年(1873)1月に横浜の丸屋に入り、書籍部門を担当する。
※慶応義塾生の早矢仕有的(はやしゆうてき。医師。美濃武儀郡笹賀村出身、幼名左京)が福沢諭吉の提案に基き明治2年1月1日横浜新浜町に和洋書籍と西洋医品を商う「丸屋」を創業。名義人を仮名の丸屋善八にしたため「丸善」と呼ばれるようになった。
小柳津について諭吉伝にも明治6年頃入社し丸善の基礎を成す大きな力になったことはその歴史上忘れるべからずものであろうと記されている。

明治5年11月9日に明治政府は太陰太陽暦から太陽暦(西暦、グレゴリオ暦)への改暦の詔書を発表し、明治5年12月3日を明治6年1月1日と定めた。
布告からひと月も満たない急な改暦に混乱する状況を見かねた福澤諭吉は太陽暦を庶民に受け入れやすく解説した『改暦辨』を急編。
改暦辨に明治六年一月一日発兌(はつだ、発行すること)とあるように短期作業のため三田の印刷所から刷りたてのバラ丁を丸善に運び小柳津ら社員大勢で綴じたという逸話もある。

9月9日に長男の邦太が生まれる。

明治9年(1876)8月7日に長女とくが生まれる。

明治10年(1877)3月大阪支店(北久宝寺町の丸屋善蔵店)支配人となる。
この頃から大鳥圭介・外山正一・志賀重昂など小柳津と面識や係りのあった旧幕臣の学識者の著作もしばしば出版されるようになった。

明治11年(1878)8月14日に次女の銈(けい)が生まれる。

※明治13年3月30日、東京日本橋通の丸屋善七店を本店とし責任有限「丸善商社」に改称。

明治14年(1881)5月12日に三女の京が生まれる。

明治15年(1882)7月に東京本店支配人となる。
旧岐阜藩士林有適らと丸善の経営改革、洋書の輸入に先鞭をつけ文明開化に貢献する。

7月に外山正一等の『新體詩抄』を出版。出版の相談を受けると小柳津が独断で丸善での出版を承諾。これが早々に売り切れるほど好評で多く売れたので「士魂商才」の商才…商売の道に誠実巧みな様子が窺える。

明治17年(1884)3月7日に次男の脩二が生まれる(田中家養子)
※この年、大蔵省のデフレーション政策により丸善銀行をはじめ閉店する銀行が相次ぐ

明治18年(1885)1月20日に銀行破綻の整理のため退任した早矢仕に代わり松下鉄三郎が社長に就任し、小柳津は取締役に選任される。
小柳津はこの丸善の危機に社長松下と供に社業の回復につとめた。

明治20年(1887)東京書籍出版営業者組合(後の東京書籍商組合)の創立の発起人に加わる。

明治21年(1888)12月18日の出版条例で奥付に実名が必要となったため、丸善出版代表者に小柳津の名を記載するようになる(退任する大正まで続く)

明治22年(1889)東京書籍出版営業者組合副頭取となる。

明治23年(1890)大日本図書株式会社創立に際し取締役

4月26日に4女の駒が生まれる※上に二人の夭折の兄あり

明治25年(1892)東京書籍出版営業者組合頭取となる(人望のためか明治42年まで在任)

明治26年(1893)丸善商社から「丸善株式会社」と改称。小柳津は取締役に選任。
2月27日に五男の宗吾(昭和5年~丸善監査役・15年~取締役・22年~社長となる)が生まれる。

明治30年(1897)専務取締役。

 

■専務取締役として丸善二代目社長の後を引き継ぐ
明治33年(1900)1月16日に丸善社長の松下が急逝し20日の取締役会で小柳津が後任に当選。三代目社長にあたるが定款により専務取締役として統括した。
2月25日に六男の六蔵が生まれる。

※明治34年2月3日に福沢諭吉、18日に早矢仕が死去。

明治35年(1902)5月7日 駒込メリヤス工場の名義人となる。
※この頃学校教科書の採用時の賄賂が横行し12月17日に関連会社が一斉検挙された「教科書賄賂事件」でも無関係なうえ新聞でも専務取締役小柳津の名が一度も出なかった。

昭和37年(1904)1月に小柳津は正金銀行が信用状を謝絶した事を銀行側に問いただしている。対露戦争に向けた資金を海外支店の政府の預金から引き出され為替金支払いの準備金が欠乏したためであった。2月に日露戦争勃発。
日本の連勝に国民の生活全般が軍国調になったが、小柳津が軍隊への献金・国債応募・軍人遺族の救済等日露戦争には協力的であった一方で「書籍の武装は断じてせず」と丸善店舗は通常通り文学や美術の良書を取り揃えていたたことを感心する声もあった。

志賀重昂が従軍記者として乃木軍中に在った『旅順攻囲軍』9月4日の項に、岡崎出身である第十一師団長土屋光春中将を訪ね、参謀長石田大佐の案内で戦線をめぐるった折に、露兵の落とした軍隊手帳2帖を贈られた。
日本兵なら軍隊手帳を落とすことは恥辱として肌身離さないが、露兵は複数人落としている。日本側は書きだしに天皇陛下より下賜された御勅論、以降軍人の心得を揚げるが、露側は全く精神上の教育について触れられていない。この比較は教育家として面白い倫理研究題材になるのではと、手帳の1冊を小柳津に贈りたい旨と小柳津の功績や人柄について語り合ったことが記されている。
土屋・石田・志賀の三人ともに小柳津のよく知る間柄である。

※明治41年4月5日に第一回名士講演会開催。講師に江原素六・海老名弾正。

明治42年東京書籍監査役に就任し帝都書籍界に重きをなす。

明治45年(1912)1月24日総支配人

大正4年(1915)3月31日 特別議員に推薦される。

大正5年(1916)1月24日に総務取締役を辞任し、相談役に就任。

大正8年(1919)6月に軽度の脳溢血を病む。

大正11年(1922)6月21日東京で死去。79歳。菩提所は谷中の加納院、おくつきは青山墓地。

※明治5年までは旧暦表記です

▼青山霊園(東京都港区南青山二丁目)の小柳津家の墓と側面

小柳津家の墓 墓石側面

参考図書
・『丸善百年史
・『三百藩戊辰戦争事典上
・須藤隆仙『箱館戦争史料集
・『丸善外史
・『岡崎商工会議所五十年史』
・小柳津要『遊撃隊戦記』
・富沢淑子『小柳津要人追遠』
・『慶應義塾百年史』
・福沢諭吉『改暦弁』
・志賀重昂『旅順攻囲軍』
関連・参考サイト
・丸善株式会社Webサイト:http://www.maruzen.co.jp/top/
・慶應義塾:http://www.keio.ac.jp