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大樹寺[2]松平家八代の墓と略歴

大樹寺松平八代墓 大樹寺松平八代墓の葵紋の門

松平八代墓(まつだいらはちだいぼ)岡崎市指定文化財
元和元年(1615)徳川家康松平家菩提寺の大樹寺に、前三代親氏公来の廟所(信光明寺/岡崎市岩津町)を模して追修し、4代親忠以下清康に至る先祖三河八代の墳墓を再建。
元和3年(1617)に天領代官畔柳寿学が奉行となり、家康の一周忌が大樹寺で営まれた際に、信光明寺の松平三代墓の宝篋印塔をここに移転し、現在の姿に整備した。

 

初代松平親氏の墓 2代松平泰親の墓 3代松平信光の墓
▲松平初代~3代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)……岩津松平家の発祥
■初代 親氏(ちかうじ。生没年不詳。芳樹院)
諸説あるが時宗の流浪の僧徳阿弥(とくあみ)が三河(愛知県)に入り、大浜(西尾市)・矢作(やはぎ。岡崎市)等を経て松平郷(豊田市)に至り郷主松平太郎左衛門信重の婿となり、郷敷城を築く。
子(弟とも)の泰親と共に近隣山間部の林添、麻生等を攻略して勢力を拡大し、中山郷7名(17名とも)も支配したという。この頃信州から林藤助が来て親氏の靡下に属す。
大樹寺には康安元年(1361)4月20日逝去と伝わるが諸説あり。松平郷の高月院に葬。

■二代 泰親(やすちか。生没年不詳/良祥院)
親氏の弟、もしくは子。松平信広・信光と共に岩津(岡崎市岩津町)に進出。
泰親の代に本多平八郎助時が松平家に仕える。
大樹寺には永和3年(1377)9月20日逝去と伝わるが、信光の年代と合わず不明。

■三代 信光(のぶみつ。1404~1488/崇岳院)
泰親(もしくは親氏)の子。左京亮、後に和泉守を称した。
応永28年(1422)8月15日泰親と協力し夜襲で岩津の中根大膳を討ち取る。
伯父(もしくは兄)信広は岩津攻めで足を負傷したため松平郷に残り、信光が今後の本拠地となる岩津城の城主となる。
泰親と共に円川(つぶらがわ。中垣町)合戦に勝利して大給城(おぎゅう。豊田市)を占領し、保久城(ほっきゅう。岡崎市)を焼いて下し、勢力を拡大する。
永享3年(1431)3月、洞院大納言実熈が三河大河内に配流となった折に泰親が京都まで守護した縁から、子の信光が室町幕府政所執事伊勢貞親の被官となったとも伝わる。
宝徳3年(1451)親氏・泰親の菩提を弔うため信光明寺を創建。
寛正5年(1464)5月に伊勢貞親の命を受けて井口砦(岡崎市井ノ口町)に篭る郎党鎮圧のため深溝(幸田町)に出陣し大場次郎左衛門を誅した。
この頃、宇津(後の大久保)八郎右衛門昌忠や榊原主計清政が信光に仕える。
文明3年(1471)7月15日夜、踊りの行列で偽装して油断させ、安祥城(あんしょう。安城市)を攻略。※『三河物語』による。諸説あり
続けて岡崎城主西郷弾正左衛門頼嗣と交渉し岡崎城を譲り受け、西三河の半ばを治めた。
長享2年(1488)7月22日に85歳で没。

 

4代松平親忠の墓 5代松平長親の墓 6代松平信忠の墓
▲4代~6代の五輪塔(ごりんとう)……安城松平家
■四代 親忠(ちかただ。1431~1501/松安院)
信光の3男。左京進、左京亮、蔵人を称した。
應仁元年(1467)8月23日、第一次井田野合戦(岡崎市井田・鴨田)で尾張品野・三河伊保の大軍に対し信光は500騎で交戦して勝利。その後、戦死者を弔うために念仏堂(今の西光寺)と千人塚をつくる。
文明(1469~)の初年に家を継ぎ安祥城に住む。
文明7年(1475)菩提寺として大樹寺を建立。
長享元年(1489)8月に麻生城を攻め天野弥九朗を下す。
長享2年(1488)に父信光が亡くなったことを悼んで親忠は仏門に入り西忠と称した。
明応2年(1493)10月第二次井田野合戦。上野の阿部・寺部の鈴木・挙母の中條・伊保の三宅・八草の那須氏の連合軍(全て豊田市)が岩津城を襲撃し岡崎へ迫ったため、親忠が兵2千を率いて井田野で食い止め、撃退。
文亀元年(1501)8月10日、71歳で没。※諸説あり

■五代 長親(ながちか。1473~1544/掉舟院)
親忠の3男。忠次-長忠-長親と改名。蔵人または出雲守を称した。安城松平家2代目。
文亀元年(1501)9月、父親忠の死の直後に駿河今川氏親の軍が西三河に侵入し、松平一族は結束を固めて警戒する。※今川軍の侵攻時期は諸説あり。この頃に仏門に入り道閲と号したという。
永正3年(1506)8月21日、駿河今川氏親の軍が再び西三河に侵入し、氏親の客将伊勢新九郎盛時(長氏。後の北条早雲)が一万騎余で岡崎に入って一部を甲山において岡崎城をおさえ、伊勢盛時本隊は大樹寺を本陣として岩津城に攻めかかった。※11月とも。『大三川志』は文亀元年9月
安祥城の長親は一族郎党を集めて最期の酒宴を催し、そして僅か500余の軍で矢作川を越えて岩津城を狙う今川勢の背後を攻めた。
夜戦となり疲弊した両軍が一時兵を収めた時に、陣中で裏切り者が出たと噂が流れた今川勢は駿河へ撤退した。
永正年間の連戦で松平惣領の岩津家が衰退し、安城家が惣領となる。
天文13年(1544)8月22日没。

■六代 信忠(のぶただ。1486~1531/安栖院)
長親の長男。次郎三郎。左近、蔵人、左京亮とも。安城松平家3代目。
大永3年(1523)に早くも家督を嫡男の竹千代(清康)に譲り、大浜郷に隠居して祐泉と号し、また泰考・道忠と改める。
信忠派・弟信定派と分かれた家督騒動の渦中にいたため『三河物語』では叛く者を誅殺する残忍な性格に書かれてしまっているが、内紛を収めるため潔く引退し陰ながら若い清康を援けた説もある。
享禄4年(1531)7月27日に没。

 

7代松平清康の墓 8代松平広忠の墓 松平家9代徳川家康の墓
▲7代清康の五輪塔と8代広忠の無縫塔(むほうとう)、近年建立の9代家康の墓
■七代 清康(きよやす。1511~1535/善徳院)
信忠の長男。次郎三郎。
大永3年(1523)13歳で安城松平家4代目となる。
大永4年(1524)14歳で、岡崎城主松平(西郷)信貞の持つ山中城(羽栗町)を攻めた。信貞は大草に隠居し、清康は安祥城から岡崎城に移る。
大永5年(1525)足助(豊田市)鈴木氏を攻略。
享禄2年(1529)5月27日、牧野氏の吉田城(豊橋市)攻めのため岡崎城を出発し赤坂を本陣として、翌日進攻し激戦の末に牧野勢を打破る。この年、小島城(西尾市)も攻略。
享禄3年(1530)熊谷氏の宇理城(新城市)攻を攻め、熊谷実長の迎撃に一度は崩されるが、城内の者が内応して火をかけたため落城。
享禄4年(1531)三宅(周防とも)氏を攻め伊保城(豊田市)を手中にする。
天文2年(1533)3月20日、広瀬城主三宅・寺部城主鈴木氏らとの岩津合戦で勝利。12月に三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。
天文4年(1535)2月22日に大樹寺の多宝塔を起工させ4月に完成。真柱銘に「世羅田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とある。
12月3日、尾張進出を図り一千余騎で岡崎城を出発し、翌日に尾張織田信秀(信長の父)の守山(森山とも。名古屋市)へ侵入。この夜、守山の陣中で家臣阿部大蔵定吉(正澄とも)が謀反の疑いで処罰されると誤った噂が立つ。
5日早朝、噂を信じた子の阿部弥七郎が清康を背後から刺殺。享年25歳。
岡崎勢は撤退を余儀なくされ、若い雄渾の宗家当主の急死により松平氏の三河支配が揺らいだ。この事件は後世守山崩れと呼ばれる。
大樹寺の他に随念寺(岡崎市門前町。養女お久の墓も)と大林寺(魚町)等にも墓がある。

■八代 広忠(ひろただ。1526~1549/大樹寺・瑞雲院)
清康の長男。幼名千松丸、のち次郎三郎。
天文4年(1535)12月、10歳の時に父清康が殺され、家督をめぐる内紛がおこり、叔父の松平信定(桜井松平家)が岡崎城に入り、千松丸は流浪の身となる。
28日に阿部定吉が息子の罪の償いのため千松丸を護って伊勢の神戸(三重県鈴鹿市)へ。
天文4年(1535)3月17日に海路で遠州縣塚に渡る。阿部大蔵や、清康の妹婿の東條吉良持広は駿府の今川氏に助力を請う。8月26日に形ノ原に移る。
天文5年(1536)9月10日に茂呂城に入り、閏10月に吉田を経て駿府の今川義元に面会する。
天文6年(1537)5月岡崎に残る大久保新八郎忠俊と弟甚四郎忠員・弥三郎忠久らに岡崎帰城を促され、千松丸は茂呂城に戻る。
29日、岡崎を執っていた松平蔵人信考が有馬温泉に赴いた隙に、大久保忠員・八国甚六詮実・林藤助忠満・瀬又太郎正頼・大原近右衛門惟宗が千松丸のもとに集った。
6月1日岡崎城を攻め、大久保忠俊が本丸の石川兄弟を討って開門し、千松丸は入城を成し遂げた。12月9日に元服。
天文9年(1540)織田信秀の三河侵攻が激しくなり6月6日に松平左馬介長家(親忠の子)の安祥城が包囲され、松平長家・信康(広忠の弟)・信忠をはじめ譜代の林藤助忠満渡辺右衛門照綱・本多弥八郎正貞・弥七郎正行(正貞弟)・内藤善左衛門・近藤与一郎・足立弥市郎等将達が奮戦するが守りきれず、50余人が戦死し落城した。以降、広忠は駿河の今川義元の援助を受けて安祥城の奪還を試みることとなる。
天文10年(1541)於大の方(伝通院。家康の母。刈谷城主水野右衛門大夫忠政娘)を娶る。
天文11年(1542)8月10日松平勢は今川義元の翼下として織田信秀軍と小豆坂で合戦する。※織田の小豆坂七本槍の奮戦で織田軍の勝利とするが虚構ともされる
8月27日叔父の松平信孝が、信孝の弟康孝の旧領三木(岡崎市三ツ木町)を横領したとして、広忠は信孝の留守を狙って三木城を占領。合議で追放された信孝は織田氏につく。
12月26日に次男の竹千代(後の徳川家康)誕生。
天文12年(1543)9月に水野氏が織田方についたため、於大の方を離縁する。
天文14年(1545)9月20日安祥城奪還のため清縄城に出陣するが織田勢の挟撃に遭い敗走。
天文15年(1546)9月6日広久手に兵を出す。
天文16年(1547)8月2日に6歳の竹千代を今川家の人質として駿河に送るが、竹千代は途中で織田方に奪われてしまう。
天文17年(1548)4月15日耳取縄手合戦──3月19日に小豆坂で今川勢と織田勢が合戦し織田勢が安祥城まで退いたため、に大岡の山崎砦の松平信孝が単独で岡崎城を落とそうと500騎を率いて妙大寺(岡崎市明大寺町)表へと迫った。200騎の兵で迎え撃った広忠は、予め伏兵として絵女房山に弓の精鋭を配置して山を下る信孝軍へ射らせてから妙大寺へ退かせた。一直線に伏兵達を追いかけた信孝軍を、広忠家臣の隊が左右から挟撃。信孝は半弓で脇腹を射られて討死した。
天文18年(1548)3月6日、広忠の側に仕えていた岩松八弥が城内で突如広忠を刺し殺す。
岩松は織田方の広瀬城主佐久間九郎左衛門全考の刺客であった。享年24歳。
大樹寺の他に密葬した松應寺(松本町)、広忠寺(桑谷町。永禄5年家康が建立)、大林寺(魚町)、法蔵寺(本宿町)にも墓がある。

広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。
8歳の竹千代は織田信広との人質交換で駿河へ(家康の生涯は著名なので省略)
かつては広忠までの8基が並んでいたが、昭和44年に家康公の墓も日光東照宮の廟に模して岡崎市民により宝塔が建てられた。墓碑の法名は徳川18代当主徳川恒孝(つねなり)氏の筆。

岩津松平家供養塔と歴代住職の墓
▲松平八代墓のそばに岩津松平家供養塔。奥の開山堂の敷地には歴代住職の墓が並ぶ。

林郷の兎田旧蹟碑

兎田旧蹟碑 兎田案内板

兔田舊蹟碑
江戸時代、徳川将軍家の正月元旦に出す兎の吸物の由縁、林藤助(とうすけ)が兎を得たという信州松本領内の廣澤寺門前、寺所有の5、6反程の田地を兎田(うさぎだ)と称して租税を免じられていたという。

明治8年に林村が里山辺村(現松本市里山辺)に編入される前まで「筑摩県筑摩郡林村[字]兎田」として兎田という小字が存在した。

筑摩郡古跡名勝絵図
▲古い絵図にも兔田が描かれている。

 徳川氏の始祖、松平有親・親氏父子がまだ世良田を名乗っていたころ、諸国放浪の途、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(小笠原清宗の次男)を頼ったのは、暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。
 何をもてなすものとて無い藤助は、野に出てこの近辺の林でようやく一羽の野兎を見つけ、首尾よく捕まえて馳走したところ、父子は甚く感動して帰路についた。

 その後、家康の代に幕府を開くにおよび、「これはかの兎のお蔭」と正月に諸侯にお吸物を振舞うことを幕府の吉例にしたという。
 『林』の姓も徳川氏から賜ったものという。
 江戸時代この地は「免田」(めんでん)として税を免除されていた。

 徳川家年中行事歌合わせに、「をりにあえば 千代の例えとなりにけり 雪の林に得たる兎も」とある。
 林家は『松平安祥七譜代』の最古参家である。 (「兎田」案内板)

 林家の家紋「左三巴下一文字」。徳川氏より賜ったもので、「正月並み居る諸侯の中で一番にお杯を頂戴する家柄を表す」という。
 請西藩(千葉県)の地元では「一文字侯」と呼ばれていた。 (案内板上部の家紋の説明)

旧兎田渡橋 里山辺林郷兎田の山々
▲復旧した旧兎田渡橋と、寺山を背にした兎田
古跡として兎田と共に「兔橋」が記されている史料もある。
兎田旧跡碑の遠景左手前に林小城の城山、奥(東方)に林大城(金華城)のある東城山。

■旧請西藩主林忠崇の来訪
明治時代に林忠崇侯が林家ゆかりの信州を訪れ「里山辺村の八景」歌を詠んでいる。
兎田暮雪
 さやけくも昔を今に照らしけり 袖に露よふ城山の月

 

また、長野県では松本一本ねぎを兎の吸物に因む葱として紹介している。

請西藩林家祖先「献兎賜盃」林藤助光政の屋敷跡

林光政雪中に兔を狩図 林藤助屋敷跡
▲「林光政 雪中に兔を狩」図と、伝承林藤助屋敷趾 (『善光寺道名所図会』挿絵/兎田の案内板より)

林光政(三河林家。貝渕藩請西藩林家の祖)
呼名は藤助。信濃国(長野県)守護・府中小笠原氏の小笠原清宗の三男(または次男)で小笠原長朝(父と同じ信濃守)の同母弟。母は武田信昌の娘。
林城(はやしじょう。金華山城。父清宗の築城とされる)最初の城代とされる。
はじめ西篠七郎。鎌倉の足利持氏(第4代鎌倉公方)に仕え、長門守中務小輔と称した。
致仕(引退)後は信州の林郷(長野県松本市里山辺)で暮らし、徳川将軍家の祖先有親(ありちか)とその子二郎三郎親氏(ちかうじ。松平家の祖)を匿い、正月元旦に自ら狩った兎の吸物を供した
その後林藤助と称し三河国に渡った松平親氏に仕え、東三河の野田郡に居住した。
康正元年(1455)5月10日に三河国野田にて没。法名は光政院白巌良圭大居子。
※松平家・林家の開祖は伝承の域なので、諸説あります

林藤助光政は小笠原清宗の次男で、「兄の長朝が井川の館にあり藤助が城代として林城を守った」と伝わる。<兎田(うさぎだ)伝説>が有名で、後の徳川幕府安祥七譜代家のひとつ林家の祖である。この地より礎石らしきものや古式五輪塔が幾つか出土している。
この地に「御屋敷畑」の地名が残り、江戸末期の『善光寺道名所図会』にも当地と思しき場所に「林藤助屋敷跡」と記載されているところから、少なくとも江戸末期まで伝承が残っていたと推測される。
(屋敷跡の解説文)

善光寺道名所図会巻之一
林村 林藤助宅址兎田が描かれている。林藤助旧趾は龍雲山廣澤寺(りゅううんざんこうたくじ。広沢寺)門前を北へ伝い5~6丁。更に少し北にある注連縄が引かれた石の小祠が「御府」。廣澤寺の鐘楼も描かれている。

廣澤寺の鐘楼堂 6廣澤寺から見た景色
▲現在の廣澤寺の鐘楼堂の傍らにある龍雲山開創550年記念の碑には兎のオブジェ付き。
鐘楼堂から(絵の右奥から左前面方向)は、白くそびえる飛騨山脈がくっきり見える。屋敷跡は右手。写真左手には千鹿頭社の鳥居。

里山辺の林古城 里山辺の御府古墳跡
▲左写真の左が林城(金華山城)の東城山で、右の山に林小城跡、中央奥が大嵩崎(おおずき、おおつき)。右は御府から林藤助屋敷跡地を望む。

林村
奈良~平安はじめの頃、林郷は六郎という者が里長であった。
永正年間(1504~20)建築の深志城(ふかし。今の松本城)に属して水上宗浮、小笠原長時らが領するが、桔梗ヶ原の戦に破れて武田領となる。武田家滅亡後は小笠原貞慶(さだよし。長時の子)が下総国栗端へ転封となるまで領した。
江戸時代は松本藩領、版籍奉還で明治4年に松本県に属して後、筑摩(ちくま)県筑摩郡林村となり、
明治8年(1875)に里山辺村に編入され(明治12年より東筑摩郡)、昭和29年(1954)に松本市に合併。
現在も長野県松本市[大字]里山辺[小字]林として、林の地名が残っている。

旧請西藩主林忠崇の来訪
明治37年9月25日に林忠崇侯が林家ゆかりの信州里山辺村を訪れ、広沢寺の祖先小笠原氏の廟に詣で、歌を詠んでいる。

信州祖先光政公の狩せし兎田を見て
 見るにつけ聞くにつけても忍ふかな しなのの山の兎田のさと

※現地に残された書画には「聞くものことに」とある

* * *

林の小鳥ハクセキレイ 林小城の鹿 
林藤助屋敷跡を撮影したのが旧暦での十二月・新暦での二十日正月。果たして獲物は?
兎田辺りで近寄ってきた小鳥、ハクセキレイは、藤助の時代には長野には居なかったようだ。
屋敷の裏山(林小城跡の城山)では……なんと鹿の群れに遭遇! だが地元の人の話によると、この鹿達も近年、ニホンオオカミが居なくなって他所から移ってきて繁殖したらしい。
この時期冬眠(もしくは冬ごもり)中の獣が多く、有親親子が訪れたと伝わる旧歴十二月下旬から更に雪が深まる旧正月の頃は有親父子の逗留の食材探しに苦労しただろう。

請西藩林家と献兎乃記念碑

献兎乃記念碑と道祖神 献兎乃記念碑

献兎乃記念碑(木更津市上根岸の八坂神社)
徳川家の代々御嘉例(めでたい吉例)として林家が兎を献上し、年始の儀式で兎の吸物を共に祝った。
江戸時代の儀礼では正月元旦、白書院(儀式時の将軍出御の間)の上段に将軍が着座し、土器(からわけ)に盛った汁無しの兎の吸物と御酒を三方に載せて下され、吸物は足打膳に載せて御三家及び大廊下詰の諸侯に下された。礼者は、三献又は一献頂戴し、吸物の兎肉を各々白紙に包み、懐中にして退下する。
また老中、若年寄も登城して、政所に出づる以前に兎の吸物にて御酒三献を厨を掌る者が勤め、大目付の者が相伴する。

 

■献兎賜盃の発祥
家康より9代の祖先の得川有親(ありちか。世良田とも)は足利持氏(第4代鎌倉公方)の近臣であったが、永享10年(1438)6月の乱で持氏が敗北してしまう。有親は二郎三郎親氏(ちかうじ)と供に鎌倉を逃れ、故郷の上野国新田(群馬県の旧新田郡)世良田村得川へ帰る。しかし国許も安穏とは言えなかった。
永享11年(1439)3月上旬に有親父子は上州を去り、相模国(神奈川県)藤沢の清浄寺で剃髪し、有親は長阿弥(ちょうあみ)、親氏は徳阿弥(とくあみ)の名で出家する。
10月に藤沢を発ち、12月に信濃国に至る。
そしてかつては同じように持氏に取り立てられていたが讒言に遭って林郷に隠れ住んでいた小笠原長門守光政を頼って身を寄せた。

歳の暮れの29日、隠遁中で大したもてなしもできないがせめて正月の膳は豊かにしようと光政は、有親父子のために雪深い山に入る。冬場で得物の姿は無かったが、奇跡的に一疋の兎が現れ、持ち前の弓の腕で見事に狩ることができた。
翌正月元日朝、麦飯に田作の膾と兎の吸物を供した。

4月下旬に有親父子は三河国に渡り坂井郷に寓居する。この地で有親は亡くなった。
親氏は還俗して加茂郡松平村の豪族に婿入りして家を継ぎ、松平太郎左衛門と名乗り松平家の祖となる。
家を興した親氏は光政を召抱えた。
光政は親氏から林姓と丸の内三頭左巴の家紋を授かり、東三河の野田郡に居住した。

三河では長篠の菅沼の郷侍土岐大膳が親氏の敵となり、光政と協力して攻め落とす。土岐大膳は菅沼小大膳と改名して味方となる。
その後親氏は隆盛し、林郷で兎を供されたことが松平家の開運の基として代々年始の祝宴の儀となる。兎を狩った地も「兎田」として免租を許された。
一番に盃を頂戴し、御盃を一番下に置かれる儀が、林家家紋の丸の内三頭左巴の下に、一文字を加えた由来とされる。
※松平家・林家の開祖は伝承の域で、他の系譜史料との年代の違いがあります
 

■献兎賜盃の中断と再開
光政の子光友以降も林家は松平家古参の譜代としてよく仕え──三州の五本槍(岩津、安祥譜代衆者の一つとする説もあり)、光政から4代目の忠満岡崎五人衆とされ──戦功をあげた。
永禄9年(1567)家康は松平から徳川に改める。
天正18年(1590)8月から家康が関東に移封となっても翌年の正月には献兎賜盃の御祝は行われ、林家は白銀三十枚と呉服を拝領している。
                            
光政から6代目の林藤五郎忠政は17歳で眼病を患って勤めが困難になり、毎年行われていた御盃頂戴と兎献上の儀を辞して、領地に籠居したため嘉例は一時中断された。

文政8年(1825)第11代将軍徳川家斉に重用され林肥後守忠英(光政から14代目)が1万石に加増されて大名となる。
文政9年(1826)11月18日、忠英は嘉例再開を願い「兎御献上之儀留」を差し出しだ。
これを許されて、以降は領地の上総国望陀郡上根岸村(現千葉県木更津市上根岸)で兎を用意した。

●上根岸村の兎捕り
上根岸村では毎年12月初旬から30戸の村人達は藩から拝受した狩猟網を使い、公儀の「御兎御用」の旗を立てて貢物の兎の捕獲をしてた。
毎日二三里の山野で探し、あるいは小高い丘の山岸に罠を張って兎を追い立てて、5疋を得ると生きたまま御用かごに入れて担がせ、江戸藩邸の林侯に貢いだ。
運搬中は帯刀を許されて士分となった村役人が付き添い、上根岸から姉ヶ崎までは村人が担ぐが、姉ヶ崎からは宿場ごとに人足を継立てて、市川の御番所では番所役人はひざまずいて敬礼し、江戸川・中川を渡る時は特別仕立ての船を一艘用意して一般の乗客は許されなかった。
林侯は12月29日までに官府に献上する。
上根岸村には林侯から褒賞として毎年米一石を下賜される。

兎の彫刻 兎瑞兎奇談の兎
▲献兎乃記念碑に刻まれた兎と元の画

碑文※原文は註釈等無し
昔、徳川将軍家にて元旦の吸物に兎を用ひたる慣例は三河後風土記・瑞兎奇談等の文献に徴すべく、普く人口に膾炙したる(人々の話題にのぼって持てはやされ広く知れ渡る)事実也。
而して眇たる(そして小さな)我上根岸の里は、幾百年の久しき此兎を献納したる歴史を有する処、由来は遠く家康公九代の祖有親と其子親氏とが、故あって信州林郷なる林藤助光政の家に客たりし、其歳も尽きんとし光政雪中に兎を狩り、之を翌永享十二年元旦の吸物として供せしが、不思議にも有親父子開運の基と成り、終[つい]に家康に至って覇業を遂げたる故、徳川家に在りては無上の吉例として永世絶つことなかりし者也。
扨[さて]家康大将軍と為り、林氏も恩賞に預り、後年一万石諸侯の班に列したれど、乱夷ぎて先づ授與されたる采地三百石の旧此村は林家の宗領地とて、啻(ただ。強調)に献兎の命を蒙りたるのみならず、新年の賜宴には領内の首坐[座]を占め、御倉開の式は我村人の手にて行ひ、又名主は世襲ならで公選なりし等、治者被治者の間に隔なく、師走に入れば公儀への御用として、葵の旗に給附の網にて、遠近兎狩に何憚[はばか]る処なく、五口を揃へ駕籠に乗せ、附添の名主は両刀を佩し、供一人を具し、姉崎迄[まで]は村人夫に、同所より沿道人夫に舁[か]かせ(運ばせ)、道中威儀正しく、其月廿日に江戸九段の林侯邸へ送り附くるが恒例にて、為めに年米一石を給せられ、幕末迄踏襲したる美談なるも、星移り物換り、今は當[当]時を記憶する村の老人も残り少なに成り、可惜(あたら。惜しいことに)郷土誌も後世忘れらるべきを憂ひ、今歳卯年に因み、一は青年子弟の為め、一は世道人心の為め、我等識る処を録し、痩碑を樹つること如此[かくのごとし]  昭和二年丁卯三月 米崖松﨑九郎平撰

※献兎の永享12年に光政との関係は確証できず、別の代の逸話である可能性も示唆されている。

毛詩の国風 裏には『粛ヽ兎罝 施于中林 赳ヽ武夫 公侯腹心
粛粛たる(しゅくしゅく/引き締めた)兎罝(としゃ/罝は網)、中林(ちゅうりん/林の中)に施す。
赳赳たる(きゅうきゅう/勇ましい)武夫(武人)は、公侯(周の文王)の腹心(心と徳を同くすること)。

毛詩(詩経)の国風(諸国民謡編)の文王の徳化の盛んな様子を詠んだ詩が、徳川と林家の古事と重なるとして引用している。
粛粛兎罝は雪中に兎を得たこと、施于中林は信州林郷に住居すること
赳ヽ武夫は光政の武勇が優れていたこと、公侯腹心は互いに忍び暮す境遇の時に力を合わせ、そして徳川家が戦乱を収束し太平をもたらし、ついに林氏の武名を世に輝かせたことに比べているという。

上根岸八坂神社 三頭左巴紋
▲八坂神社
祭神:須佐之男命、奇稲田姫命、八柱御子神
地元では天王さま(牛頭天王・須佐之男命)と呼ばれていたようだ。
手洗い石の大きな三つ巴紋は、林家の家紋(丸の内三頭左巴下に一文字。請西藩ページに画像あり)が初めは盃に因んだ一文字が無かったともされるのを思わせるが、これは八坂神社の神紋の三つ巴紋であろう。

富士塚 立像庚申塔
富士山を模して石を積みあげた富士塚。富士大神の石は明治期のもの。
石像が彫られているのは庚申塔。

児守神社等摂社 上根岸橋と小櫃川
お社の裏手の左右に児守神社等の摂社。献兎乃記念碑の傍らにある石祠は道祖神。
神社の傍らに流れるのは上根岸橋の架かる小櫃川。

八坂神社所在地:千葉県木更津市上根岸171

参考図書
・井原頼明『禁苑史話
・『木更津市史
・『君津郡誌
・大畑春国『瑞兎奇談』
・『三河古書全集』
・小野清『史料徳川幕府の制度
※他、郷土史料として別途まとめます