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請西長楽寺と万里小路(まて様)

長楽寺山門 まて様の墓

長楽寺と養子の実家の墓地にある万里小路の墓

 

■万里小路局
寿賀姫(すが。壽賀)。
文化10年(1813)に大納言池尻(いけがみ、いけがめ。藤原四家北家の出とし、萬里小路氏と同属にあたる)興房(おきふさ)の末娘として生まれる。
※文化9年とも。興房の名を示す記録は見当たらず権大納言池尻暉房(てるふさ)と見られる。

天保3年(1832)20歳頃、11代将軍徳川家斉(いえなり)の孫家祥(13代将軍家定/いえさだ)の正室として輿入れした8歳の鷹司任子(たかつかさあつこ。天親院/てんしんいん)の世話役として京から江戸へ出仕。
天保7年(1836)に大奥に入る。家斉の寵臣林忠英が寿賀姫の宿元(身元引受人)となった。
将軍付小上臈(こじょうろう)となる。

12代将軍徳川家慶(いえよし)の代(1837~1853)に、将軍付上臈御年寄(じょうろうおとしより。女中職の最高位)となる。
上臈は生家の公家の通り名で呼ばれる慣わしで、寿賀姫は万里小路(までのこうじ)と称した。

西の丸で13代将軍徳川家定にも仕え、家定の死後に年齢を理由に大奥を引退し桜田御用屋敷で暮らす。

よほど人望と手腕があったのか14代将軍徳川家茂(いえもち)の時に再び大奥への出仕を命じられた。
万里小路は将軍4代にわたり仕えたことになる。

元治元年(1864)5月29日に大奥を辞して、請西藩藩主林忠交江戸浜町藩邸のもとに移る。この時忠交は伏見奉行として京に上っていた。
忠交の急死後はその後を継いだ林忠崇の国元上総国望陀郡請西村(じょうざい。千葉県木更津市請西)を隠棲地に定め、元部屋方お局(つぼね)都山(つやま)と共に江戸を後にした。万里小路局55歳の頃である。
京へ帰れば裕福な暮らしが出来たが、林家のもとに身を寄せたのは徳川への想いが強かったのだろう。
※万里小路は京の権中納言町尻量輔(まちじりかずすけ)の正室となり、後に2人の養子を迎えている。

慶応4年(1868)に木更津の河岸に上陸した際の荷物は親船2杯もあり、仮宿の長楽寺まで長々と行列が進んだ。
長楽寺住職の與喜海明は本堂脇の離れ座敷に万里小路局を迎える。
万里小路局は「まて(まで)様」と呼ばれ、洗練された侍女も8人位伴っており、華やかな様子であった。
しばらくして寺の裏手の高台へ住居(真武根陣屋の部材を解体・一部移築か)を構えた。

長楽寺太子堂裏 長楽寺庭園
▲長楽寺裏手の高台から本堂裏の大師堂(明治18年建立)と庭園を撮影

閏4月3日に藩主自ら脱藩した林忠崇が出陣したため5日に長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読、まて様は御下髪姿で祈念したという。そして長楽寺から万丈を使いとして忠崇の必勝祈願の護摩札や供物を贈った。
京の朝家に帰らず請西林家に身を寄せたまて様は徳川の為にと決起した忠崇を心の底から支援していたのだろう。
16日にはまて様の金百両もの多額な援助金を持って忠崇のもとへ広部周助(上根岸の豪農)が韮山を経て合流している。
5月26日の山崎の戦いの掃討戦として27日に箱根宿端で小田原藩兵によって討たれた請西藩士に、まて様が養子にした嘉之三郎(鹿次郎とも)の父(祖父?)重田信次郎がいる。
※伝聞では鹿次郎は信次郎の子、記録では信次郎の長男である長兵衛の次男

戊辰の役の戦後に身の拠り所を無くし、困窮した晩年は横田村の豪商の河内屋惣左衛門栄助の長女、川名里鹿(りか)がまて様を自宅に迎え入れて世話をした。
川名家に移ってからも大奥の作法でふるまったという。

明治4年(1871)重田鹿之次郎がまて様の養子となる。
明治10年(1877)10月16日鹿之次郎が15歳で病死。
明治11年(1878)5月7日にまて様が66歳で卒中で死去。松寿院殿雙円成心大姉。
明治13年(1880)に広部精の撰文で萬里小路大姉墓誌が作られる。

まて様の墓表 まて様の墓横
▲まて様の墓の側面には万里小路局(つぼね)について刻まれている。

松壽院雙圓成心大姉 位

大姉ハ京都池尻前大納言興房卿ノ末女 文化十癸酉誕生也。
壽賀姫ト称シ 幼年江府ニ下リ 天保七年申年徳川城ニ勤仕ス。
婦徳有テ萬里小路局ノ役ヲ続キ家齊公ヨリ家茂公迄四代ノ将軍ニ侍ス。
辞後重田鹿次郎ヲ養子トシ一家ヲ興シ 終ニ明治十二年五月七日卒。

真言宗豊山派清瀧山長楽寺
鎌倉時代に請西本郷に稲荷山長国寺と称して草創され、永禄年間(室町初期)に現在の場所に移り、長楽寺と改称した。本尊は平安初期御作の薬師如来坐像。
融源上人が立ち寄り法流を広めてから隆盛し60ヶ寺を統理し、中本寺、常法談林所として土地の信仰と学問の中心であった。天正18年に徳川家康が由緒ある当寺を守護するため制札を下し、続いて寺領を寄進した。

長楽寺の菅原道真公の石碑板 長楽寺の碑石の裏
▲古くから「山の神様」と呼ばれ長楽寺の丘から木更津の港町を見守ってきた菅原道真公の石碑。
萬里小路局も江戸湾を眺めて忠崇のことを心にかけていたことだろう。

清瀧山明王院長楽寺 所在地:千葉県木更津市請西982

企画展「請西藩林家が遺したモノ」

請西藩林家が遺したモノ企画展チラシ

現在、木更津市の太田山公園(恋の森)にある郷土博物館金のすずで企画展「請西藩林家が遺したモノ」が開催中です。
新資料の公開もあり、林忠英の時代から幕末動乱期、そして明治以降の男爵林家の歩みの軌跡を辿ることが出来ます。
前期は4月26日まで、写真の展示が変わる予定の後期は4月28日~6月15日(県民の日は無料)までとのこと。

* * *
以下自分用の備忘メモ。

 

—–江戸時代・林家の隆盛——-
家紋付き革製書箱
林日記[文政9年(1826)・林忠英]
 …林肥後守忠英(ただふさ。貝淵藩主)の記。林家中祖林藤助の、有親・親氏親子への兎の吸物の由等
兎御献上之儀留[文政9年・林忠英]11月18日の直筆

林氏系譜[寛延3年(1750)・林忠久]
 …序、寛延3年2月従五位大守大学頭林信充(のぶみつ。榴岡。儒学者林羅山の家系の林家4代)撰文
林氏系譜[弘化3年(1846)9月・林忠旭]

 

—–伏見奉行・林忠交———–
拝領物留記[嘉永7年(1854)・林忠交]
 …林家4代忠満~15代忠旭までの当主が拝領した品々の記録
老中奉書[安政6年・林忠交宛]11月1日朝8時に西の丸の参上を命じられる
 …老中の脇坂安宅(わきさかやすおり。播磨龍野藩主)・松平兼全(まつだいらのりやす。三河西尾藩主)・間部詮勝(まなべあきかつ。越前鯖江藩主)より
褒美書付[慶応2年頃・林忠交宛]
 …元治元年、林肥後守忠交(ただかた。忠英の四男。請西藩2代藩主)が伏見奉行の時に長州藩士が伏見に滞在中に取締った与力見習い15人に銀5枚、同心52人へ金300疋の褒美

 

—–大奥の老女・万里小路局—–
2代目万里小路局は、池尻(いけがみ。藤原四家北家の出とする)氏の寿賀姫は大奥に仕え、徳川11代将軍家斉の寵臣林忠英が義舅となる縁もあり、天保7年に24歳で上臈の局となり万里小路(までのこうじ)と称した。
元治元年に大奥を辞し、林忠交の江戸浜町請西藩邸のもとに移り、忠交の急死後はその後を継いだ忠崇の請西を隠棲地とした。

長樂寺の欄間釘隠し
 …長楽寺(木更津市請西)は万里小路局を本堂脇の離れ(真武根陣屋の部材を解体・移築したとも)に迎える。昭和40年本堂改築のため解体しこの請西藩に因むが描かれた欄間等が保存された。(伊八か)
◆徳川4代の「戒名」「位牌葵紋付厨子
 …11代将軍徳川家斉(いえなり)・12代家慶(いえよし)・13代家定(いえさだ)・14代家茂(いえもち)の4代。万里小路所持とされる。厨子の台座部に、萬里小路大姉墓誌を写した状。

 

—–林忠崇と戊辰戦争出陣——-
戊辰出陣記[林忠崇]
 …慶応4年(1868)戊辰閏4月5日の万萬小路局より長楽寺万丈を使いとして護摩札・供物等を贈られた件。万里局は徳川への忠義のため挙兵した忠崇(ただたか。万里局と縁深い忠英の孫にあたる)に軍用金等を送るなど支援した。
◆林忠崇の短歌「降伏待刑
 真心の有か無きかは屠りいたす
 はらの血しほの色にこそ知れ 昌之助

 

—–家督再興——————-
◆家臣から弁事役所に宛てた嘆願書[慶応4年~明治2年(1869)]
 …鵜殿伝右衛門・田中兵左衛門ら家臣
御家名御再立一件[明治2年]
 …小笠原長国(ながくに。肥前唐津藩知事)の願出先の太政官や東京府の書状
◆小笠原家から宮内大臣子爵土方久元への林家華族編入嘆願書[明治26年(1893)6月]
 …伯爵小笠原忠忱(ただのぶ。宗家11代。豊前国小倉藩藩主)、子爵長育(ながなり。東宮侍従)・貞孚(さだざね。播磨安志藩藩主)
家名相続に付嘆書類 写し[明治2年]
忠弘(ただひろ。忠交の子、忠崇の弟)の花押[明治2年10月]
士族編入指令書受取書 写し[明治32年(1899)] 千葉県知事阿部浩 東京都四ツ谷区左門町廿七番地 林忠崇殿
旧藩士復籍願参考書[明治5年(1872)]必要書類
 …伊能・北條・北爪ら家臣復族について
林忠弘 華族に列す[明治26年10月30日・宮内省特旨]
爵位慶与
御達并進達留[明治8年(1875)2月~明治10年12月]林忠弘宛証文
士族編入に関する許可証[明治32年] 東京府知事千家尊福(せんげたかとみ)
林忠弘宛書状林家再興始末略[明治26年・広部精(くわし)]
特別縁故者姓名録[明治27年(1894)1月10日・林忠弘]
 …北白川宮能久親王(よしひさ しんのう。輪王寺宮)、伯爵小笠原忠忱、勝海舟、榎本武揚等や、旧請西藩家臣の広部精・大野友弥等支援者の名簿
士族編入願[明治31年・北爪家]
士族編入につき辞令拝受[明治32年・加納佐太郎等12名]

 

—–華族として—————–
位記[明治36年(1903)11月30日]宮内大臣田中光顕(みつあき)
◆忠弘の長女の錬(れん)と曽我友兄の婚姻許可証[明治41年(1908)7月28日]
◆忠一の東京帝国大学卒業証書[明治43年(1910)7月11日]
 …忠弘の長男(長男夭逝につき)の忠一(ただかず)は学習院高等科を経て、明治43年に東京帝国大学法律学科(ドイツ法)を卒業
華族戒飭令[明治44年(1911)12月27日]伯爵渡辺千秋(ちあき)
◆忠一宛の大礼記念章証書[大正4年(1915)11月10日・昭和3年(1928)11月16日]
辞令[大正元年(1912)10月2日]陸軍省から理事試補林忠一宛
 …忠一は帝国大卒業後志願兵として近衛歩兵第二連隊に1年在籍後、近衛師団経理部を経て陸軍第二師団法官部付理事試補になる。
理事叙任状[大正4年5月7日]内閣大隈重信より
 …忠一は第二師団法官部付きから第十師団法官部付きへ
家督関係資料[大正6年(1917)1月31日]前年忠弘死去につき爵位相続
大饗夜宴招待状[昭和3年(1928)11月1日]宮内大臣一木喜徳郎(いちききとくろう)
 …天皇即位で折京都御苑内の夜宴
位記 叙従四位[昭和19年(1944)12月1日]宮内大臣松平恆雄(つねお)
当選証書[昭和21年(1946)]
 …5月11日忠一は貴族院男爵議員に当選
◆第90回帝国議会貴族院議員氏名表[昭和21年]

 

—–林家の写真(前期展示)—–
◆明治8年・28歳の林忠崇
 …芝三田通り(慶應義塾前)で撮影
◆慶応4年(西暦1868年5月)林忠崇出陣姿
 …原版からの複写。お馴染みの20歳の出陣姿。
◆大正3年頃、66歳の剣道着姿の忠崇
 …よく書籍等でみられる写真。
◆忠崇の剣道の構え
 …横向きで竹刀の二刀流?
◆林一夢、大阪天王寺の寺内で撮影。
 …忠崇は林一夢を号する。和装の写真。
◆68歳の忠崇
 …洋装の写真。
◆紋付袴着用の90歳の忠崇
 …銀杯恩賜につき紋付羽織着用。お馴染みの写真。
◆昭和12年1月5日の集合写真。
 …90歳の忠崇を中心に、恩賜の祝賀に来訪した人々との撮影か

◆一ヶ月の長女と忠崇・明治19年8月頃撮影か
 …生まれたばかりの娘を抱く忠崇の口元は微笑んで見える。
◆忠崇の娘光子と日雇女
 …傘をさしている。女中せつ子との撮影。
◆明治36年5月10日・光子
 …簪をさした若い光子の和装。細面な忠崇に比べ丸顔の可愛らしい美人。
◆大正9年頃・32歳の光子
 …本の置かれた机で
◆光子と愛犬エス
 …室内の座布団の上で光子と共に行儀よく写る愛犬

◆忠崇の実妹の小山田律子
 …記載は明治42年4月に錬(忠弘の娘)が記した。忠崇と似た細面の美形。
◆林忠弘・明治24年5月8日
 …東京湯島撮影、お馴染みの写真。
◆忠弘の妻30歳の鋠(しん)、3歳の娘、15歳の女中のコト
 …椅子に座り幼い錬を抱いて、三人での撮影

* * *
書籍に掲載されているお馴染みの光子の写真は後期展示か。

──近代の人物について部外者が勝手に調べることが、趣味の範囲として許されるかがいつも悩む所です。
(特に旧飯野藩関連が廃藩後でも話題があるので。古い歴史人物でも、墓参とその撮影等できるだけ許可は得ているものの墓域に踏み込むのは毎度申し訳ない気持ちです…)

こうして資料を企画展の形で一般公開して下さる好意が本当にありがたいですね。

林郷の兎田旧蹟碑

兎田旧蹟碑 兎田案内板

兔田舊蹟碑
江戸時代、徳川将軍家の正月元旦に出す兎の吸物の由縁、林藤助(とうすけ)が兎を得たという信州松本領内の廣澤寺門前、寺所有の5、6反程の田地を兎田(うさぎだ)と称して租税を免じられていたという。

明治8年に林村が里山辺村(現松本市里山辺)に編入される前まで「筑摩県筑摩郡林村[字]兎田」として兎田という小字が存在した。

筑摩郡古跡名勝絵図
▲古い絵図にも兔田が描かれている。

 徳川氏の始祖、松平有親・親氏父子がまだ世良田を名乗っていたころ、諸国放浪の途、この近辺に居を構えていた旧知の林藤助光政(小笠原清宗の次男)を頼ったのは、暮れも押し迫った雪の降りしきる寒い日であった。
 何をもてなすものとて無い藤助は、野に出てこの近辺の林でようやく一羽の野兎を見つけ、首尾よく捕まえて馳走したところ、父子は甚く感動して帰路についた。

 その後、家康の代に幕府を開くにおよび、「これはかの兎のお蔭」と正月に諸侯にお吸物を振舞うことを幕府の吉例にしたという。
 『林』の姓も徳川氏から賜ったものという。
 江戸時代この地は「免田」(めんでん)として税を免除されていた。

 徳川家年中行事歌合わせに、「をりにあえば 千代の例えとなりにけり 雪の林に得たる兎も」とある。
 林家は『松平安祥七譜代』の最古参家である。 (「兎田」案内板)

 林家の家紋「左三巴下一文字」。徳川氏より賜ったもので、「正月並み居る諸侯の中で一番にお杯を頂戴する家柄を表す」という。
 請西藩(千葉県)の地元では「一文字侯」と呼ばれていた。 (案内板上部の家紋の説明)

旧兎田渡橋 里山辺林郷兎田の山々
▲復旧した旧兎田渡橋と、寺山を背にした兎田
古跡として兎田と共に「兔橋」が記されている史料もある。
兎田旧跡碑の遠景左手前に林小城の城山、奥(東方)に林大城(金華城)のある東城山。

■旧請西藩主林忠崇の来訪
明治時代に林忠崇侯が林家ゆかりの信州を訪れ「里山辺村の八景」歌を詠んでいる。
兎田暮雪
 さやけくも昔を今に照らしけり 袖に露よふ城山の月

 

また、長野県では松本一本ねぎを兎の吸物に因む葱として紹介している。

請西藩林家祖先「献兎賜盃」林藤助光政の屋敷跡

林光政雪中に兔を狩図 林藤助屋敷跡
▲「林光政 雪中に兔を狩」図と、伝承林藤助屋敷趾 (『善光寺道名所図会』挿絵/兎田の案内板より)

林光政(三河林家。貝渕藩請西藩林家の祖)
呼名は藤助。信濃国(長野県)守護・府中小笠原氏の小笠原清宗の三男(または次男)で小笠原長朝(父と同じ信濃守)の同母弟。母は武田信昌の娘。
林城(はやしじょう。金華山城。父清宗の築城とされる)最初の城代とされる。
はじめ西篠七郎。鎌倉の足利持氏(第4代鎌倉公方)に仕え、長門守中務小輔と称した。
致仕(引退)後は信州の林郷(長野県松本市里山辺)で暮らし、徳川将軍家の祖先有親(ありちか)とその子二郎三郎親氏(ちかうじ。松平家の祖)を匿い、正月元旦に自ら狩った兎の吸物を供した
その後林藤助と称し三河国に渡った松平親氏に仕え、東三河の野田郡に居住した。
康正元年(1455)5月10日に三河国野田にて没。法名は光政院白巌良圭大居子。
※松平家・林家の開祖は伝承の域なので、諸説あります

林藤助光政は小笠原清宗の次男で、「兄の長朝が井川の館にあり藤助が城代として林城を守った」と伝わる。<兎田(うさぎだ)伝説>が有名で、後の徳川幕府安祥七譜代家のひとつ林家の祖である。この地より礎石らしきものや古式五輪塔が幾つか出土している。
この地に「御屋敷畑」の地名が残り、江戸末期の『善光寺道名所図会』にも当地と思しき場所に「林藤助屋敷跡」と記載されているところから、少なくとも江戸末期まで伝承が残っていたと推測される。
(屋敷跡の解説文)

善光寺道名所図会巻之一
林村 林藤助宅址兎田が描かれている。林藤助旧趾は龍雲山廣澤寺(りゅううんざんこうたくじ。広沢寺)門前を北へ伝い5~6丁。更に少し北にある注連縄が引かれた石の小祠が「御府」。廣澤寺の鐘楼も描かれている。

廣澤寺の鐘楼堂 6廣澤寺から見た景色
▲現在の廣澤寺の鐘楼堂の傍らにある龍雲山開創550年記念の碑には兎のオブジェ付き。
鐘楼堂から(絵の右奥から左前面方向)は、白くそびえる飛騨山脈がくっきり見える。屋敷跡は右手。写真左手には千鹿頭社の鳥居。

里山辺の林古城 里山辺の御府古墳跡
▲左写真の左が林城(金華山城)の東城山で、右の山に林小城跡、中央奥が大嵩崎(おおずき、おおつき)。右は御府から林藤助屋敷跡地を望む。

林村
奈良~平安はじめの頃、林郷は六郎という者が里長であった。
永正年間(1504~20)建築の深志城(ふかし。今の松本城)に属して水上宗浮、小笠原長時らが領するが、桔梗ヶ原の戦に破れて武田領となる。武田家滅亡後は小笠原貞慶(さだよし。長時の子)が下総国栗端へ転封となるまで領した。
江戸時代は松本藩領、版籍奉還で明治4年に松本県に属して後、筑摩(ちくま)県筑摩郡林村となり、
明治8年(1875)に里山辺村に編入され(明治12年より東筑摩郡)、昭和29年(1954)に松本市に合併。
現在も長野県松本市[大字]里山辺[小字]林として、林の地名が残っている。

旧請西藩主林忠崇の来訪
明治37年9月25日に林忠崇侯が林家ゆかりの信州里山辺村を訪れ、広沢寺の祖先小笠原氏の廟に詣で、歌を詠んでいる。

信州祖先光政公の狩せし兎田を見て
 見るにつけ聞くにつけても忍ふかな しなのの山の兎田のさと

※現地に残された書画には「聞くものことに」とある

* * *

林の小鳥ハクセキレイ 林小城の鹿 
林藤助屋敷跡を撮影したのが旧暦での十二月・新暦での二十日正月。果たして獲物は?
兎田辺りで近寄ってきた小鳥、ハクセキレイは、藤助の時代には長野には居なかったようだ。
屋敷の裏山(林小城跡の城山)では……なんと鹿の群れに遭遇! だが地元の人の話によると、この鹿達も近年、ニホンオオカミが居なくなって他所から移ってきて繁殖したらしい。
この時期冬眠(もしくは冬ごもり)中の獣が多く、有親親子が訪れたと伝わる旧歴十二月下旬から更に雪が深まる旧正月の頃は有親父子の逗留の食材探しに苦労しただろう。

甲府に向け黒駒へ

慶応4年(1868)閏4月19日、伊庭八郎の進言で、甲府城にの奥平・真田・水野等の兵達への対策として、遊撃隊の精鋭20人が難所の三坂峠を押さえた。
真田家の兵が黒駒まで来たが、三坂峠に請西藩林忠崇と旧幕府遊撃隊らの兵が既に陣取っていることを知り退却。

20日朝、忠崇一行は川口を出発。三坂峠を経て藤ノ木に進行。黒駒で逗留する。

御坂峠 御坂みち上黒駒

御坂峠を経て黒駒へ至る

 

5月に入り甲府へ軍を進めようとしたが、徳川家からの説得が伝わり、沼津表で10日を期限として命を待つことに同意した。

甲府城址 甲府城の発掘された石垣

甲府城址と発掘された石垣。忠崇らは甲府城を脅かさずに引き返した。

一行は5月2日から黒駒から道を南へ遡り、5日に沼津城下近くの香貫村に入る。