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幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]

林忠崇の請西潘上屋敷 請西藩江戸上屋敷

林忠崇が藩主時の請西藩上屋敷林邸は元飯田町の九段坂下にありました。
慶応元年~2年(1865-66)頃に蛎殻町の上屋敷からここへ移ったようです。
(中屋敷とする本もありますが、当時の史料には上屋敷とあり尾張版江戸切絵図にも林家の家紋付で書かれているため上屋敷とします)
九段坂は旧飯田町一丁目から麹町区富士見町へ通じる坂で、江戸時代には坂上から品川の海や富士山が展望できたそうです。

 

蕃書調所跡 蕃書調所跡案内板

蕃書調所跡(ばんしょしらべしょ。東京都指定旧跡)
安政6年(1859)版の『安政江戸図』では後の林邸の地に「蕃書調所」と書かれています。

延享元年(1744)徳川吉宗が外神田に天文台を建て、文化8年(1811)に天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられました。蕃書は洋書(蛮書。欧米の書物)の意味です。
嘉永6年(1853)に黒船(ペリー艦隊)が来航し翌年に日米和親条約締結するという情勢で蕃書和解御用方が多忙となり、安政2年(1855)に御用方は「洋学所」と改めて独立します。

安政3年(1856)2月11日に幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称し13日(27日とも)に当地、江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立。海外事情調査のため洋書を解読しました。
安政4年(1857)1月18日に開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられました。その後は陪臣の入学も許され、西洋画を学ぶ画学局も置かれます。

万延元年(1860)に小川町に移転、文久2年(1862)5月18日には一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移り「洋書調所」と改称して23日に開校しました。
文久3年(1863)8月29日に洋書調所を「開成所」に改称。
明治2年(1869)12月17日に大学南校となり(医学校が大学東校)、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の全身です。

蕃書調所と林忠崇屋敷

蕃書調所移転後は遠山安芸守邸となり、そして請西藩林邸となります。

牛ヶ淵と昭和館 牛ヶ淵

牛ヶ淵に沿って林邸が建っていました(左写真)
田安御門をくぐった先の代官町(林邸の牛ヶ淵対岸)に徳川御三卿の田安徳川家清水徳川家の上屋敷が並んでいました。

維新後に新政府により鎮台兵(明治政府直属の軍隊)・近衛師団兵の営舎地となり、昭和の戦後に旧近衛連隊等の建物を撤去して北の丸公園になりました。昭和39年(1964)第18回東京オリンピックの年に日本武道館が建っています。
左写真の林邸側の建物は平成11年に建てられた昭和の戦中戦後の国民生活を伝える「昭和館」です。

 

請西藩主林昌之助忠崇は清水門警衛を任じられ、清水門の屋敷に移ったのでしょうか。
慶応4年(1868)3月7日に忠崇は九段坂の上屋敷を出て国元(千葉県)の請西に戻り、徳川家のためにと藩主自ら脱藩して箱根・東北を転戦したため、請西藩は取り潰しとなった唯一の藩となります。

明治の地図では九段坂の林邸の地は招魂社付属地になっています。
「東京招魂社」は明治2年(1869)6月29日に東京九段坂上に造営し鎮座され、戊辰以来の官軍戦死者を祀りました。明治12年(1879)に今の「靖国神社」に改称。

明治9年版『新撰區分東亰明細圖』では林邸跡は飯田丁一丁目、北向かいは陸軍省御用地となり、その隣(田安御門側)は国内初の洋式競馬、招魂社競馬場となっています。明治4年(1871)から明治31年まで例大祭で競馬が興行されました。
現在は靖国神社の大鳥居(第一鳥居)をくぐって、兵部大輔大村益次郎銅像(明治26年建立)のある参道(お祭りの時にずらりと屋台が並ぶあの通り)です。

明治後期の『東京印象記』で九段坂は「見るもの聞く物、悉く男性的だから…」と書かれているのは、江戸時代からの老舗と明治からの兵舎が入り混じった土地柄なためでしょうか。

 

九段会館 現在の九段下

▲軍人会館(九段会館)
昭和9年(1934)6月に備役軍人の訓錬の場として帝国在郷軍人会本部「軍人会館」が建ち、昭和11年(1936)の二・二六事件の際には戒厳司令部が置かれました。
戦後にGHQが接収して連合軍の宿舎となり、1953年から日本遺族会に貸し出され「九段会館」に改称。ホテルや貸ホール、レストラン等運営していましたが、2011年の東日本大震災での天井落下事故により遺族会は会館を国へ返却し、現在は閉館しています。

所在地:東京都千代田区九段南一丁目
都営地下鉄新宿線、東京メトロ東西線・半蔵門線「九段下」駅すぐ

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地

参考図書
・東京市役所『東京市史稿-市街篇44巻
・東京外国語学校『東京外国語学校沿革
・石倉翠葉『東京案内』
・児玉花外『東京印象記』他、千代田区教育委員会案内板等

参考古地図
・江戸時代『江戸切絵図』『慶応改正御江戸大絵図』『安政江戸図』
・明治時代『改正増補東亰區分新圖』『新撰區分東亰明細圖』

林忠崇の出生地-貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]

江戸城大手より16丁の浜町蛎殻町上総国貝淵藩(のち請西藩)上屋敷がありました。

請西藩浜町上屋敷 江戸牡蠣殻町請西藩上屋敷林肥後守邸

▲隣の松平三河守下屋敷跡の蛎殻町公園から林邸跡を撮影。
江戸時代の絵図の緑色の部分が松平邸、左隣の林家の家紋「丸の内三頭左巴下に一文字」が描かれている所が林邸です※家紋は請西藩林家ページに掲載

 

家康入城の頃から江戸湾が埋め立てられ隅田川河口に浜町が陸地化、その砂浜辺りが「かきがら」と呼ばれていたようです。
各地の大名が国元から江戸への船荷の搬送先として蔵屋敷地となり、掘割工事が進むと大名屋敷の拝領地として武家屋敷が立ち並びました。

蛎殻町と箱崎町(上の絵図、林邸前の三角洲のような場所)の間に箱崎川が流れていましたが、昭和46年(1971)首都高速道路六号線と東京シティエアターミナル建設のため箱崎川本流、翌年に支流が埋め立てられ、今では川の面影はほぼ有りません。
この箱崎川に沿って徳川御三卿の清水殿の下屋敷、貝淵藩林家の上屋敷、徳川御三家の紀伊殿(紀州徳川家/和歌山)の蔵屋敷が連なっていました。

林邸の東、紀伊殿屋敷脇の紀伊国橋を渡ると箱崎川に架かる永久橋がありました。
永久橋を渡った徳川御三卿の田安殿下屋敷は古くは「箱ノ池」と呼ばれ、維新後に武家地が公収されて箱崎町三丁目・四丁目となりました。
(ちなみに幕末の請西藩上屋敷も、田安殿・清水殿の屋敷のそばですね!)

箱崎川の西は、江戸名所として錦絵に描かれる三俣(別れ渕・三渕・三又とも)です。江戸時代には浜町の新大橋・隅田川を渡る永代橋・そして永久橋の間で川が三方に分かれ、新大橋から林邸の方角に富士山も望める絶景地でした。

蛎殻町には安産祈願で有名な東京水天宮があります。林家が呉服橋から当地に移った頃、林邸北隣の大津屋敷を挟んだ久留米藩有馬式部少輔邸に水天宮神社がありました。一度江戸城下・芝赤羽根の久留米藩邸に移された後、明治時代になって赤坂を経て現在地に再び移って来たそうです。

蛎殻公園 ロイヤルパークホテル

▲蛎殻町公園とロイヤルパークホテル
ホテル正面あたりが紀伊殿の下屋敷、その奥が林邸の表門(林邸の西側)でしょうか。

大名庭園の景石 蛎殻公園案内板

▲蛎殻町1丁目遺跡から出土した大名庭園の景石
遺跡地は江戸時代初頭から延宝元年(1704)まで上野国前橋藩15万石の酒井雅楽頭、その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が屋敷を構えていました。

また維新後の箱崎には土佐の山内容堂が元田安殿下屋敷を買収して居住(明治2年の地図で土州・山内家。その後3丁目を開拓使御用地として貸付)し、対岸の牡蛎殻町には先物取引の場である米穀商品取引所や運輸業・問屋が並び、繁華街の交通をより便利にするため明治38年に山内家が土州橋を架け、明治42年東京市に寄附しました。
木橋のため老朽し新しい橋を大正3年に起工、翌年鉄筋の橋が完成しました。箱崎川の埋め立てと共に消滅しましたが大正時代発行の地図には、かつての林邸のそばに土州橋が描かれています。

所在地:東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目・半蔵門線「水天宮前」駅そば

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]-もう一つの本所林邸
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・土州橋開通祝賀会『土州橋開通祝賀会記念』
・三島政行『葛西志
・向上社編輯部『大正博覧会と東京遊覧』他、中央区案内板等

参考古地図
・江戸時代『浜町秋元但馬守中屋敷周辺絵図』弘化,天保改正版『御江戸大絵図』安政三年版『万宝御江戸絵図』万延元年版『萬延江戸図』文久二年版『万世御江戸絵図』
・明治大正『明治二年東京全図』『新撰區分東亰明細圖』『東亰區分全圖』『明治四十年東京全図』
他、現代までの航空写真や錦絵等

関連サイト
・東京水天宮:http://www.suitengu.or.jp/

請西藩江戸下屋敷と大久保紀伊守[本所菊川町]

遠山金四郎邸 菊川の方向

▲本所菊川町(東京都墨田区菊川)が請西藩江戸下屋敷のあった場所です。
林邸の東に町名の由来である小さな溝渠「菊川」が流れ、菊川を渡ると町屋が並び大きな「横川」に架かるのは中之橋(菊川橋)です。


▲『文久二年本所深川絵図』の「林肥後守」の西に「遠山金四郎」、北に「榎稲荷」

西には長谷川平蔵遠山金四郎住居跡。
池波正太郎「鬼平犯科帳」の鬼平こと火付盗賊改役・長谷川平蔵宣以(のぶため)が明和元年(1764)から住み、孫の代の弘化3年(1846)から時代劇「遠山の金さん」こと江戸町奉行・遠山左衛門尉影元(かげもと。金四郎)の下屋敷となりました。

請西藩林邸の北向かいが大久保紀伊守の屋敷で、古くは土手稲荷と呼ばれていた小祠を邸内社として手厚く祀り、榎が鬱蒼と生えていたことから「榎稲荷大明神」と称されました。
関東大震災で焼失後に区画整理で現在地に移転、復興を遂げた榎稲荷が今も鎮座しています。

 

彰義隊の副長、天野八郎忠告が獄中で記した『斃休録』の「大久保紀伊守なる者、東照宮の御旗を持て真先に進みたり。此人年五十ばかり、元大監察を勤めしものなり」という経歴から、彰義隊で戦った「大久保紀伊守」は旗本「大久保紀伊守忠宣」とされています。
徳富蘇峰(猪一郎)も『近世日本国民史』で「彼(忠宣)やまた徳川武士の人たるを辱しめなかった」と記しています。
山崎有信『彰義隊顛末』の戦死者一覧の筆頭に大久保紀伊守の名が見え、篠沢七郎『彰義隊戦闘之始末』によると、この戦いで紀伊守の次男も戦死してしまいました。

 

──新政府軍は上野寛永寺に立て籠もる彰義隊の討伐を決行した。一時は持ちこたえるも、佐賀藩のアームストロング砲等、火力で圧され、ついに黒門口が破られてしまう。
新政府軍が押し寄せ、総崩れとなる中で、大久保紀伊守が東照宮の御旗を掲げて真先に進んだ。

しかし中堂脇で血戦に差し掛かった時、新政府軍の砲弾が紀伊守の額の上に命中する。
約三寸(9センチ強)の深い傷口は、まるで柘榴のようだった。陣笠を落ち打とし、紀伊守は東照宮の御旗を持ったまま仰向けに倒れた。

これを見た味方、予備隊の百人余りは逃げ去り、天野と新井と紀伊守の家来の3人のみが踏みとどまる。まだ息のある紀伊守を本坊の門番所へ運んだ。
この時すでに輪王寺宮と兵達は退避した後だったため、天野も輪王寺宮のあとを追って脱出することとなる──…

 

箱根へ向かった林忠崇の請西藩兵と遊撃隊は、東の彰義隊との呼応も考えていたそうです。
彰義隊の大久保紀伊守が向に屋敷があった大久保紀伊守と同一なら、きっと忠崇とも面識が有ったことでしょう。

岡田霞船『徳川義臣伝 明治戦記』では偶然にも林昌之助(忠崇)の次が大久保紀伊守の頁です。

・林昌之助
林昌之助上総貝淵にて一万石余を領したり
幕府瓦解の時に臨み自ら陣屋を焼払ひ脱走されし時は十九才なり
本国を去り小田原に至り大久保家と相謀り箱根の険阻に拠りて薩長土の大軍を引受数度勝利を得たるといへども大久保家の官軍降りて豆州に走り気船に乗じて水戸に上陸し
それより仙台に落ち江戸脱兵とともに数度戦争に及びしが後官軍に降られたり

・大久保紀伊守
大久保紀伊守は幕府において大監察使なり
君家を再度興さんと謀り上野山内に屯集せる彰義隊を指揮し群り寄たる官軍をば落花の如く打ちらし ますます死力尽して戦ひしが昼過る頃中堂その他に砲火の燃上り味方戦ひ難儀と見しゆへ又侯黒門口を差して進み来しに官軍より打放せし砲丸頭上に当りて頭未塵に相成ければ何をかもって堪るべきその場を去らず死したりとぞ

請西藩江戸下屋敷跡 屋敷の北

▲現在の請西藩跡地
東照宮の御旗を握り締めて斃れた大久保紀伊守のように、最後の大名と呼ばれる林忠崇も徳川のために戦争に身を投じ、そのために請西藩は滅ぶという結末でしたが、今ではこんなに和やかな場所です。
所在地:都営新宿線菊川駅近く

林家の江戸屋敷
請西藩林家由来の本所林町-3千石旗本時代
呉服橋と貝淵潘林家上屋敷-大名初期の上屋敷
貝淵・請西藩江戸上屋敷[蛎殻町]-林忠崇の出生地
幕末の請西藩江戸上屋敷・蕃書調所跡[元飯田町]-最後の請西藩江戸上屋敷

参考図書
・徳富猪一郎近世日本国民史-第70巻 彰義隊の項
・山崎有信『彰義隊戦史』-「斃休録」の項・『彰義隊顛末
・岡田霞船『徳川義臣伝 甲・乙』他、墨田区教育委員会案内板

参考古地図
・弘化三年版『天保改正御江戸大絵図』
・文久二年版『江戸切絵図・尾張屋版』
・文久二年版『本所深川絵図』
・慶応三年版『万寿御江戸絵図』『慶応改正御江戸大絵図』
他、明治~現代までの地図・航空写真等

幕末RTS「S2TW:FotS」に請西藩が

2011年に発売された日本の戦国時代が舞台の戦略ゲーム「TOTAL WAR:SHOGUN 2」──Creative Assembly社のリアルタイムストラテジー(ターン制でなくリアルタイムで戦況が変わる)ゲーム──の拡張パック「Fall of the Samurai」で幕末・戊辰戦争の要素がカバーされています。

維新志士や新撰組等のエージェントタイプが追加されて
プレイ可能のクラン(勢力)は、新政府側は薩摩藩長州藩土佐藩
対する旧幕府軍が会津藩長岡藩請西藩です。

会津は定石として…ゲーム脳で考えたら佐幕側の長岡藩はガトリングガンでヒャッハーを容易に想像できるのですが、もう1枠が奥羽越列藩同盟の東北諸藩ではなく、なんと請西藩なのですよ!


Total War: Shogun 2 Fall of the Samurai – Limited Edition(PC用・輸入版)
※スタンドアロン(FalloftheSamurai単体)で起動可能

…というのを、今更知りました。推奨OSがwin7以下で日本語版は無いようです。
請西藩目当てでプレイするなら、jozai(拠点Kazusa)やYugekitaiの存在と林家の家紋の旗が動かせるだけで幸せになれる人向けで、洋ゲー慣れしてないと難しいかな?
Hayashi Tadataka(林忠崇)の顔グラは、ごついヒゲのおじさん。

ゲーム情報をざっと見た所、英語表記ですが各藩独自のユニット(兵士)として
長州潘は奇兵隊、白熊(はぐま。白い毛を被った指揮官)
薩摩潘は黒熊(こぐま)
土佐潘は赤熊(しゃぐま)、ライフル銃兵
会津潘は玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊(白虎隊のグラがおじさんです。グラ変更MODもあるっぽい)
請西藩は遊撃隊
会津・長岡・請西藩で新撰組と彰義隊が使えるようです。

海戦では幕府艦隊の艦も登場するみたい。
SteamストアのDLC(拡張/ダウンロードコンテンツ。Total Warシリーズは日本からの購入制限有)新政府側に佐賀藩・津藩、佐幕側に仙台藩・小浜藩も追加されているようですね。

海外の請西でのキャンペーンプレイの評価を見ると、銃装で忍者と同じゲリラアビリティ持ちな遊撃隊の使い勝手が良いとの声。※洋ゲーなので幕末が舞台でも当然、忍者がいます

・TOTAL WAR公式サイト(英語):http://www.totalwar.com/

 

【追記】起動にやや時間がかかりましたが(Amazon等でパッケージ版を購入した場合、初回起動時にSteamで最新データをDLします)プレイしてみました! まずはシステムを覚えるためにカスタムバトル(ユニット名だけで固有名は出てきません)でちょこちょこ試してます。請西藩関連で何か面白いことがあれば改めてプレイ記を書きますね。

 

▼トータルウォー:ショーグン2日本語版
・SEGA公式サイト:http://totalwar.zoo.co.jp/

ショーグン2の戦国大名家は伊達・上杉・北条・武田・徳川・織田・毛利・長宗我部・島津。
源平時代のDLC(Rise of the Samurai)もあるようです。

富津陣屋

富津陣屋跡 富津陣屋跡周辺

富津陣屋跡の碑と白井宣左衛門・小河原多宮自刃之地
陣屋の敷地と推定される場所(現在は宅地)の脇、西側に小さな碑が建つ

文化7年(1810)2月26日、幕府は3万2千石を異国船に対する房州沿岸警備に割り当てて、白河藩に安房・上総、会津藩に相模の浦賀周辺に砲台の築造を命じた。

富津陣屋・台場(上総国周淮郡/千葉県富津市)担当は
◆文化7年(1810)~【奥州白河藩/藩主松平越中守定信】
※文化8年に富津他が白河藩の所領となる。名君定信は房総も善く治めた。
※『遊房總記』では富津陣屋について、竹ヶ岡(竹岡陣屋)の友軍出張の場所であったのを文政5年に房州の防備を富津に移したとある。
『富津村助郷争』では砲台は文化8年、陣屋は文政4年の造立。
※波佐間陣屋の廃材を転用したためか規模・構造の類似が見られる

◆文政6年(1823)~【幕府代官/森覚蔵】(天保11年6月27日~羽倉用九(外記)、天保13年に篠田藤四郎)
※10月19日より白河藩が転封となった後は幕府代官が入り、規模縮小したと思われる。
天保10年には配下43名のうち10名を富津に充てた。翌年からの代官羽倉外記は儒者として名高い。
※要請に応じて上総久留里藩・下総佐倉藩から警衛が動員される。

◆天保13年(1842)~【武州忍藩/藩主松平下総守忠国】
※12月に命じられる。富津陣屋の長屋を増築。忠国は後に「下総草」と呼ばれる草を植えて富津海岸の砂塵を防ぎ感謝された。
※弘化4年より大房崎~洲崎の担当になる

◆弘化4年(1847)【奥州会津藩/藩主松平肥後守容敬】
※2月15日富津~竹岡警備を命じられる
※陣屋詰人数は、香・番頭各1・組頭2・物頭3・郡奉行1・目付2以下藩士170名。武器は17貫300目筒1亭挺・1貫筒以上12挺・200~300目玉筒25挺・200目以下筒221挺の他に弓・長柄があった。火薬蔵、早船繋があり台場も兼ねていたと見える。
※嘉永5年閏2月3日に容敬が没し、25日容保が会津藩藩主となる

◆嘉永6年(1853)~【筑後柳川藩/藩主立花飛騨守鑑寛】
※4月7日に巡検、11月14日より。

◆安政5年(1858)~【奥州二本松藩/藩主丹羽左京太夫長国】
※9月22日に丹羽長富が任を受け、11月に子の長国が継ぎ藩主となる。長国は房総の地を善く治め、歓迎した領民達は仁政を後世に伝えようと「懐恵碑」を建立したという。
※部将1・隊長5・兵300・大砲隊50・軍艦2・糧食方11人、大砲10挺が配される。富津番兵は毎年9月に交代させた。

◆慶応3年(1867)~明治元(1868)【上州前橋藩/藩主松平大和守直克】
※3月13日に命じられ、5月26日から引継ぐ。

会津藩の頃には富津陣屋の広さは古い図面によると総坪数は7875坪。
堀や土塁で囲まれ、周辺の村から隔絶された中に町が形成かれていたとみられる。

 

富津陣屋跡の碑石

▲左から「小河原多宮自刃の地」「白井宣左衛門自刃之地」「富津陣屋跡」

富津陣屋・台場は慶応3年(1867)3月13日より前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克)の担当となる。
初期には町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門以下 遊隊9名・徒士目付2名・砲隊格20名・銃隊19名・町在組浮組20名・台場付足軽(二本松藩から引継か)20名の計113名程が配置されていた。

慶応4(1868)正月の鳥羽・伏見の戦以降、江戸の情勢が不安になり江戸に居た藩士が続々と富津に避難し、人数は六百余に達した。
房州の情勢も気遣って、4月8日に家老の小河原政徳(おがわらまさのり。左宮/さみや・多宮。三弥の説あり。字は子辰)と大目付服部助左衛門を富津に派遣する。
10日に根付銈次郎が23人を率いて、12日には年寄水野主水も富津へ向かう。
小河原は4月18日に到着している。藩主は京に在った。

4月8日から旧幕府脱走軍・撒兵隊が総州諸藩に協力を要請し、危ういやり取りが有ったが前橋藩は新政府に恭順しており、白井は要求を飲まなかった。

閏4月3日、真武根陣屋を出陣した林忠崇率いる請西藩士らと遊撃隊は、撒兵隊らと挟撃する形で富津陣屋を取り囲む。
応対した小河原は主命がなければ引き渡しは応じられないと拒否した。
それでも引き下がらず、強談判に対し、数百人の家族が居らす場で戦となるのを避けて(陣屋跡からは化粧道具や玩具の出土もあり、駐留した家臣が家族と生活していたことがわかる)席を外した小河原は隣室で接収の責任を取って自刃した。51歳。

前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで歩卒20名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈る。
陣屋の者は分散し付近の在家に仮寓した。

6月に筑前藩の援軍が到着し前橋藩は陣屋を取り戻すが、遊撃隊に兵を与えた罪を総督府から問われる。
小河原から陣屋と郷士を託されていた白井は、藩主に罪が及ばないように全て自らの責任であると答えた。
6月12日に割腹申付られ、富津陣屋で白井は養子の茂八郎に介錯させて潔く切腹したという。
群馬県前橋市の源英寺に小河原左官・白井宣左衛門の墓がある。

富津陣屋は9月に取り壊され、10月には敷地も払い下げられて畑地となった。

・富津陣屋跡地
所在地:千葉県富津市富津字陣屋跡

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌
・東京市役所『東京市史稿 市街篇・港湾篇』
・小野正端『遊房總記』-改訂房総叢書収録
・筑紫敏夫『前橋藩房総分領と富津陣屋の終焉』
・・山形紘『房総の幕末海防始末
・朝倉毅彦『江戸・東京坂道物語