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甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館稽古場 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の写真

▲燿武館稽古場の一部。この左側に師範席がある。

逸見(へんみ)氏は清和天皇七世の孫の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ。八幡太郎義家の弟)の後裔で、第三皇子の逸見冠者義清を祖とし代々甲斐(山梨県)に住んでいた。
大永年間(1521~28)に逸見若狭守源義綱(よしつな。後に朝高/ともたか)が、勢力を強めていた武田信虎と対立して一族共々甲斐を去り、小沢口に移住したと伝わる。

天明・寛政(1781~1800)の頃、溝口一刀流の櫻井五亮長政(さくらいごすけながまさ。景政)に学ん逸見太四郎義年(たしろうよしとし1747~1828。後に多門)は、両神山の二子山で修行し、祖先の甲斐源氏に因んで「甲源」と名付けた甲源一刀流を開いた。これに因み二子山は逸見ヶ岳と呼ばれるようになる。

甲源一刀流練武道場(れんぶどうじょう)の燿武館(ようぶかん)は木造平屋建で、外側は白壁をめぐらし、木製の武者窓(明かり採り)が設えられている。
内部の稽古場は板張りで10坪、控えの間が2.5坪。稽古場に続いて一段高くに、天井の張られた床の間付きの師範席がある。江戸時代の頃は栗板の板葺き屋根であったという。
「突き」の名門といわれた燿武館には首の高さの部分に大きなくぼみのできた柱があり、往時の稽古の激しさを物語っている。

門弟は秩父を中心に全国各地へ広がり隆盛時は三千人を越え、寺社へ多くの奉納額を献じた。
特に東京の靖国神社の奉納額は壮大な額であったが大東亜戦争での空襲で焼失してしまった。

甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の表門 甲源一刀流逸見氏練武道場燿武館の案内板 

▲門の奥が稽古場、手前が修行者用宿舎

 

■幕末近世武州の主な甲源一刀流の門人(現在の出身地名)

●逸見太四郎義年門下
印可を得た強矢良輔武行(すねや。小鹿野町。徳川御三家紀州新宮藩剣術指南役。江戸四谷伝馬町に道場)、水野清吾年賀(嵐山町。志賀村名主)、比留間与八利恭(日高市)、中島宗蔵義武(美里町。成瀬因幡守の剣術指南役)らはそれぞれの自宅道場で門人を増やし甲源一刀流を広めた。
原島玄徳(秩父市)……村医。尊皇攘夷派で公卿大炊御門公尊の近侍となり秩父下向に従い清雲寺に入るも一行が偽者と嫌疑をかけられ斬られた。
坂本勘蔵(秩父市)……自宅道場で多くの門下を育成。維新後は白久村戸長を務めた。
田嶋七郎左衛門武郷(越生市)……「禅心無形流」を開く。
清水伊之松(日高市)……講談『関東七人男』の主人公猪之松。

●強矢良輔門下
強矢良右衛門武文(小鹿野町)……強矢良輔の嫡男。紀州新宮藩剣術指南役、大殿様御近習など藩の要職を歴任した。
強矢左馬之助文武(小鹿野町)……強矢良輔の次男で撃剣師範。彰義隊として戦死。
酒井右駒(小鹿野町)……領主の平岡丹波守に仕え江戸に上り馬庭念流も修めた。彰義隊に参加し若くして戦没。
飯野清三郎(寄居町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
蛭川一忠康(深谷市)……師範。剣豪として名高く自宅の道場で多くの門下を育成した。将軍家茂の上洛の際は領主の室賀氏に従い京へ上っている。
高橋三五郎一之(本庄市)……剣の達人で知られ川越藩の剣術指南役を務めた。
松澤良作正景(寄居町)……師範。浪士組四番隊(松澤隊)小頭。清川八郎の攘夷活動の一味として拘束され、明治に赦免。

●松澤良作正景門下
小澤勇作義光(本庄市)……浪士組四番隊。新徴組の次席となり庄内では剣術世話係となる。戊辰戦争では二番隊で連戦し庄内藩が降伏した後は、松ヶ丘(山形県羽黒町)の開墾労働を強制される。その後は東京で警視庁の剣術師範を勤め、後に甲源北辰流を編出し道場を開く。
中島政之助(群馬県安中市)……浪士組として京に上る。

須永宗司(熊谷市)……松澤良作の誘いで浪士組に入り、七番隊須永隊小頭として京に上る。新徴組として江戸市中取締を命じられるが病死。養子である年若い宗太郎が新徴組へ入隊した。
須永宗太郎(〃)……義父の宗司に代わり庄内で戦う。維新後は陸軍に入隊し日露戦争では第九師団の参謀長、戦後は陸軍中将に昇進した。庄内で戦死した水野令三郎とは親友であった。

●高橋三五郎門下
青木七郎(深谷市)……逸見愛作にも学び、若くして印可を授かり「荘武館」を開き全国から門人が集った。明治以降は「明信館支部」として剣道を教授。

●蛭川一門下
塚田源三郎(深谷市)……浪士組六番隊。後に郷里に戻り道場を開く。維新後は蓮沼村戸長、その後合併により明戸村の村長を歴任。
瀬川太郎右衛門信綱(深谷市)……塚田に学び「源部館」を開く。

●瀬川太郎右衛門「源部館」門下
富田喜三郎(本庄市)……岩鼻監獄所へ奉職。その後山岡鉄舟の春風館道場(東京四谷)に入門、警視庁四谷署で剣術を指導する。札幌警察署に転勤。札幌区体育所で剣道師範となり、北海道内で甲源一刀流を広めた。

●水野清吾年賀「市関演武場」門下
根岸伴七信輔(熊谷市)……甲山村の名主。雅号友山。道場「振武所」や私塾「三餘堂」を設立し北辰一刀流千葉道場の剣師や昌平学の生徒等、文武の達士を講師に招いた。
名主として農民蜂起「蓑負騒動」に味方したため郷里を追われる身になるが、赦免後は尊皇攘夷に傾き長州藩との繋がりを深めた。また庄内藩士清川八郎との親交により浪士組へ入隊する同志甲山組を集め自らも参加。後に郷里に戻り文化活動に専念した。
松本半平(横田村)……自宅道場で多くの門人を育成。
水野倭一郎年次(嵐山町)……水野清吾の嫡男。名主。根岸友山の要請で浪士組に参加する門弟を率いて、道場を嫡男喜市郎に任せて自らも一番組として京に上る。
江戸では新徴組の五番組小頭。庄内へは倭一郎の三男令三郎を連れ立った。倭一郎は三番組伍長として数々の戦功をあげるが、令三郎は19歳の若さで戦死してしまう。庄内藩の降伏後は熊谷県に出仕。

●水野倭一郎「市関演武場」門下
吉野唯五郎(滑川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場で剣術を指導。
松本半平衛(横田村)……初め為三郎。雅号は松月斎。松本半平の嫡男。浪士組として京に上るが父の訃報により帰郷し道場を継ぐ。

●松本半平門下
新井荘司年信(小川町)……浪士組として京に上り、その後帰郷し自宅道場「講武館」を開き、宗家の逸見愛作に目代の印可を得て甲源一刀流を伝道。町に剣道の講道館が設立されると師範となる。

●比留間氏(日高市)
比留間半造利充……与八利恭の嫡男。八王子千人同心の剣術指南に赴く。寿碑の篆額は山岡鉄舟(鐵太郎)の筆。土方歳三を描いた司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』に実名記述あり。
比留間周三利周内田周三。利恭の次男で多くの門下を育成。
比留間良八利衆……利充の嫡男。一橋慶喜家臣。剣術教授方。慶喜が徳川十五代将軍となると陸軍銃隊指図役に任命される。鳥羽伏見の戦後は彰義隊の第十四番隊長として清水門口を守衛。上野戦争では比留間の奥義「車斬り」で官軍を斬り上げたと言い伝えられている。敗戦後は帰郷し数年間各地を潜伏、世相が安定すると弟に家督を譲り成瀬村(越生町)の田島家に婿入りして道場を開き多くの門人が集った。
比留間国造利暠……国造の弟。一橋慶喜家臣。維新後家督を継ぎ、名門道場を存続させた。

●比留間半造門下
清水準之助(嵐山町)……浪士組として京に上り、その後帰郷。
久林萬次郎(飯能市)……赤沢村戸長。自宅道場で指導もした。
三田左内(東京都青梅市)……中里介山の小説『大菩薩峠』の主人公机竜之助のモデルとされる。

●内田(比留間)周三門下
小川椙太(小川町)……渋沢栄一を介して一橋慶喜に出仕し幕臣となる。江戸では鏡新明智流道場で修業したとも。彰義隊の天王寺詰組頭として上野戦争で刀を振るうが敗れ、小伝馬町の獄舎に入れられた。赦免後は静岡藩を経て東京に戻る。興郷を名乗り、晩年に彰義隊「戦死之墓」を建立した。
野口愛之助章庸(小川町)……彰義隊に参加。維新後青山村長となる。顕彰碑の篆額は黒田長成の筆。

逸見太四郎長英(ながひで。剣世五世。初め年洽)門下
檜山省吾(小鹿野町)……請西藩士。戊辰戦争で脱藩した藩主林忠崇に従軍し、その後小鹿野町に戻る。
逸見愛作英敦(あいさくひであつ)……長英の嫡男。寿碑の篆額は榎本武揚の筆。

●逸見愛作門下
大川藤吉郎(松山市)……浪士組として京に上り、新徴組として庄内で戦う。

他、堀内大輔(長瀬町)、山岸金十郎、田口徳次郎(共に小川町)等が浪士組に参加し、千野卯之助(小川町)はその後も新徴組として庄内で戦い、細田市蔵(入間市)は最後まで庄内に残留したという。
資料により記録が異なるが、横手銀二郎(日高市)は杉山銀之丞の名で振武軍に加わり飯能戦争で捕われ若くして命を散らせた。

 

甲源一刀流逸見氏練武道場(埼玉県指定有形文化財)※見学要予約
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄167

参考図書
・逸見光治『甲斐源氏甲源一刀流逸見家』『甲源一刀流逸見家続編』
・『飯能郷土史
・『小鹿野町誌』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物
関連サイト
・小鹿野町HP:http://www.town.ogano.lg.jp/(燿武館の紹介ページ有)

甲源一刀流逸見愛作寿碑

甲源一刀流逸見愛作寿碑 請西藩士檜山省吾や小鹿野町長田嶋小弥太の名

逸見愛作寿碑(へんみあいさく じゅひ)
発起人に請西藩檜山省吾やその息子田嶋小彌太の名もある

江戸時代から続く剣術甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)は逸見太四郎義年(1747~1828)が甲源(逸見家の祖甲斐源氏に由る)を名付け創始した一刀流の一派。
薄村小沢口(こさわぐち。小鹿野町両神薄)に道場「燿武館」を建て、隆盛時は全国から多くの門弟が集い、様々な時代小説に甲源一刀流の剣豪が登場している。

逸見家29世の逸見愛作は、村民から「小沢口の先生」と呼ばれ慕われた。
明治33年(1900)に門弟らが逸見愛作の還暦を記念して寿碑を建立した。篆額は文部大臣榎本武揚(えのもとたけあき)の筆、書と撰文は雨宮春譚(しゅんたん。寄居町の医師・教育者)。
4月26日の建碑式では門人約330名による記念試合も行われた。

逸見愛作の肖像写真 逸見愛作寿碑案内板

■逸見愛作源英敦(へんみあいさくみなもとのひであつ)
天保12年(1841)4月21日に剣世五代太四郎長英の嫡男として生まれる。
江戸へ出て、逸見道場門下であった強矢良輔の道場等で修業を積んだ。
文久年間(1861~3)領主の上州岩鼻陣屋(高崎市岩鼻町)代官所の剣術指南役に若くして抜擢され、激動の時代に見合う厳しい指導をした。

明治9年の廃刀令後も小沢口で修練と教導に励み、薄村の戸長も務めた。
甲源一刀流は郷里の様々な神社に奉額を奉納し、明治28年には三千余人もの門人の名が書かれた巨大な奉納額を東京の靖国神社に納め盛大な奉納試合が行われた。
この奉納額は大きさもさることながら豪華な彫刻が施され、数千の門弟の確認も手間がかかり奉納日が延期したほどだった。

大正13年10月2日没。享年84歳。甲源院敦武雄居士。

甲源一刀流逸見愛作寿碑(小鹿野町指定史跡)
所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄

参考
・逸見光治『甲斐源氏 甲源一刀流逸見家』
他、甲源一刀流資料館でのお話や展示物

正永寺[1]甲源一刀流師範・請西藩士檜山省吾の墓所

正永寺本殿 請西藩士檜山省吾の墓

霊鷲山正永寺本堂檜山省吾の墓
勝圓寺を檜山省吾が奇籍した菊池家の再興で現在の正永寺(しょうえいじ)に改称したという

 

檜山省吾(ひやましょうご)
天保10年(1839)6月23日、小森村(埼玉県秩父郡小鹿野町両神小森)間庭の小名間庭嘉平の次男として生まれる。幼名は英太郎
小沢口の逸見(へんみ)家の甲源一刀流練武道場耀武館(ようぶかん)で逸見太四郎長英に学び、後に師範となる程の剣の腕を持つ。

祖父の新井佐太夫信暁は、小森村・薄村(後に両神村に統合)と下小鹿野の一部を領していた松平中務大輔の郷代官を務めた幕臣で、以降間庭家が小森村名主を代々務めたという。
父の嘉平は鉢形衆の子孫と伝わる町田采女家から婿に入り、明治維新後は戸籍法制定で戸長となった。
兄の信太郎が家を継ぐため、省吾は17歳で、小森村の南の白久村猪鼻(秩父市荒川白久。幕末は忍藩松平下総守の所領)の高野家に婿入りをした。

しかし間もなく高野家と離縁し、請西藩檜山蔀の養子となる。小森村に隣接する上小鹿野村は請西藩主林肥後守の領地で、縁があったようだ。
間庭家は信太郎が出奔してしまい、間庭家は省吾の弟の犀平治(犀次。後に両神村長)が当主となった。

 

■請西藩士檜山省吾と戊辰戦争
慶応4年(1868)省吾が30歳の時、20歳の青年藩主林忠崇の決起に従い軍事掛として転戦し綴った日記が後に生まれる息子の小弥太により『慶応戊辰戦争日記』として複写され徳川再興を願う戦いと若き主君を護の請西藩士達の様子が今に伝えられている。

箱根に渡った後、6月の香貫村では長雨で腹を壊す者が多く出て、蟄居中の気保養にと忠崇や藩兵のために撃剣を披露していただろう省吾も患ってしまった。
しかし剣の腕に覚えあればこそ箱根関の戦いには病身で大雨の中、人見勝太郎率いる先行隊の加勢に発った我武者羅な振る舞いを、同郷の吉田柳助に諭され、その後の奥州磐城での戦いで大軍に少数の藩士で突撃する覚悟を忠崇が制している。
8月5日忠崇が仙台招致の要請を承諾し、相馬中村で藩兵を纏めていた省吾らを呼び会津を出発。
9月25日東北諸藩が次々に降伏し輪王寺宮も謝罪を決め、徳川家の存続が成った今、徳川のために戦ってきた意義が薄れ、これ以上は私闘となるため、忠崇は降伏を決めた。
顛末を請西藩関係者に伝えるため江戸に帰された省吾を除いた名簿を仙台監察熊谷齋方に差出す。

 

■小森村帰郷・小鹿野町転居
明治2年(1869)正月に省吾は小森村に帰郷し、その後は小森小学校兼薄小学校教員となった。
戸籍には明治4年(1871)4月14日「東京浅草西松山町八番地太田治郎兵衛方へ全戸附籍」
明治8年(1875)3月3日秩父郡「小森村間庭嘉平方ヨリ附籍」とある。

明治9年(1876)2月に未婚の菊池故う(こう)との間に小弥太(小彌太)が生まれたと思われる。故うは8年前に加藤恒吉との間に菊池群次郎(後に小鹿野銀行支配人)を生んでおり、故うにとって二男にあたる。
6月3日付けで省吾は南第11大区の27の小学校教員と保護役一同と共に農事休業願いを揖取熊谷県令に提出。許可が出ると以降は農林業に従事した。

明治10年(1877)4月5日に菊池家に附籍し、故うと共に小鹿野町(旧上小鹿野村)に転居。(戸籍上小弥太はこの年の12月25日生だが、菊池家に附籍後の出生として届出たのか、省吾が記した前年生が誤りかは不明)

明治14年(1881)春頃には剣道が大流行し(『柴崎家文書』)、省吾も小鹿野町警察屯所演武場等で剣道を指南している。
4月に耀武館の逸見愛作が宝登山神社(秩父郡長瀞町)に奉納した甲源一刀流の奉額に代師範として省吾の名がある。

 

■秩父事件で自警団を結成する
明治17年(1884)自由民権運動が盛んになり板垣退助(いたがきたいすけ。土佐藩士)を党首に結成した自由党が結成3年目にして急進派の制御が出来ず、埼玉でも4月17日に浦和事件が起き(自由党照山俊三が警視庁の密偵と看做され射殺される)6月に照山粛清の嫌疑で捕縛された村上泰治(たいじ。秩父自由党の若きホープとして影響力があった)の親友である自由党員の井上伝蔵(下吉田村出身)が、まだ18歳の村上を懲らしめた明治政府への反感を強め秩父方面で同胞を集めた。
そして10月29日の自由党解散直後、秩父で自由党の革命論に影響された困民党の徒数千人が、地租軽減・徴兵令改正等を求めて武装蜂起し、警官隊の殉職者も出し東京鎮台(日本陸軍政府直轄部隊の第一軍管区)からも鎮圧に出兵した秩父事件が勃発。

事件に際し省吾は戸長役場(こちょうやくば)に置かれた小鹿野町自警団の本部詰世話掛となり、戸長田嶋唯一(後に省吾の息子小弥太を婿に取る)と共に町の防衛に尽くし、事件後に報告書『小鹿野町ヘ暴徒乱入ノ状況』を提出している。

11月1日午後7時に徒党は下吉田村の椋(むく)神社に武装して集い、下吉田戸長役場を襲撃し村内の高利貸の家に放火。甲乙2隊に分かれ東から甲隊、西から乙隊が小鹿野町を挟撃する形で進み、三百人程の甲隊が下小鹿野村を襲撃した。
11時半頃に甲隊は小鹿野町へ到達。小鹿野役場と裁判所の所員は予め退去しており書類を持ち出して焼くのみに抑えたが同じく空の大宮郷警察署小鹿野町分署(分署長らは大宮へ撤退)には…対政府策として警察権力への誡めと報復か…外から射撃しから侵入し内部を壊し書類を焼いた。

乙隊四百人も西の巣掛峠より法螺貝を吹き鳴らして小鹿野町内に入り、甲隊と合流し、十輪寺裏手の高利貸タバケン(中田賢三郎宅)に放火。この際、耀武館師範宮下米三郎の消防団が延焼防止を交渉(世直しを目的とする困民党の方針で高利貸等に焼討の標的を絞っていた。但し下小鹿野村で民家1件を類焼させている)し聞き入れられたため飛火対策が出来た。
次に金融業も兼ねた商家ヤマニ(山二。柴崎佐平宅。『柴崎家文書』は町指定文化財)を狙うがヤマニは井上伝蔵(困民党では会計長)と旧知の仲で以前より農家の借金返済の陳情に柔軟に接しており、焼討ちを免れ小規模な破壊のみで済んだ。ヤマニの近くの戚柴崎得祐宅も佐平の親戚であったのと、商家常盤屋(加藤恒吉宅)も周囲に民家も密集している立地のため打壊しで済んだ。
時違わずして町外れの丸山(田島篤重郎宅)、磯田縫次郎と坂本徳松宅も打壊しに逢っている。
小鹿野町長田嶋唯一の胸像 小鹿野町指定文化財常盤屋
田嶋唯一の胸像と、町指定文化財として現存する3階建ての常盤屋

困民本隊は諏訪神社(現小鹿神社。後に請西藩主林忠交三男の館次郎も奉仕)に夜営し、2日午前6時に大宮郷へ出撃した。
しかし驚異は止まず、午後1時頃に西から数百人の乙軍別働隊が小鹿野町にやってきた。坂本宗作と高岸善吉が率いる別働隊は、本隊による被害が抑えられたヤマニや常盤屋を再度破壊。暴徒の中には逸見道場で腕を鍛えた経験もある近藤吾平の姿もあった。

省吾は唯一と宮下、耀武館門下大木喜太郎らと策略を巡らして困民党に工作員を送り、狭窄した街並の小鹿野町内より小鹿坂の要地に出る方が得策と工作員に進言させた。
そして逸見愛作に協力を仰ぎ、道場門下生を集め50人一組の自警団5組を編成して町を護らさせた。
夜11時に再び数百名が来襲するも自警団を見て尻込みし、11時半には町から去らせることができた。
3日午前6時に徒党を飯田村に追い詰めて近藤を宮下が切り伏せ、一名捕縛したことで表彰されている。

本陣寿旅館跡 小鹿野観光交流館 本陣寿旅館跡
▲暴動前に寿屋で困民党参謀長菊池貫平を説得した
寿屋は江戸時代に本陣として利用され、代々営まれた本陣寿旅館は平成20年に廃業し現在は宮沢賢治の宿泊地として交流館(観光本陣)に改修。寿旅館代官の間を再現し、明治後期~昭和の館主田嶋保日記の複製や小鹿野歌舞伎の資料等も展示されている

小森村の間庭家では蜂起の報を知った当主の犀治がひそかに東京へ出かけ、騒動がすっかり鎮まった後に帰宅した。両神村から加担者として尋問を受ける者が複数出ており、両神の有力者で知識人であった犀治も自由党思想を疑われたが、東京への旅程で泊まった宿の領収書の束を提出することで関与疑惑を晴らすことが出来たという(井出孫六『峠の廃道』参考)

 

■旧請西藩主林忠崇候と交誼を続けながら郷里に生きる
明治19年(1886)省吾は南埼玉郡登戸村(越谷市)の小島弥作の次女チエを忠崇に紹介し、結婚の仲介をした。
明治22年(1889)12月に秩父木炭改良組合を結成し、省吾が組合長となる。
明治28年(1895)正月に逸見愛作が願主として靖国神社(東京都千代田区)に奉納した甲源一刀流の奉額に師範の省吾と目代の小弥太の名がある。巨大な額のため製作日数がかかり奉納が予定より遅れるほど多数の門下生の名が刻まれている。

明治37年(1904)6月12日に66歳の生涯を終えた。一説に、腰の根の和田政蔵の家で亡くなったという。

正永寺の菊池家の墓地に、小弥太の筆で父省吾と母故うの墓がある。
雙樹院檜山忠省居士
菊寿院一貫省幸大姉
  請西藩主 檜山省吾 明治三十七年六月十二日歿 行年六十六歳
  俗名 菊池故う 明治三十八年三月二十七日歿 行年七十歳

田隝唯一は明治36年2月に小鹿野町長となり勤続、大正11年6月に72歳で亡くなり、27日に小弥太が町長を継承した。田隝家の『田隝家文書』は町の有形文化財に指定されている。

正永寺山門 正永寺山門の裏

元間庭家の門を移設した正永寺の山門
正永寺の山門は、間庭家の白壁の蔵のついた通り門を省吾が移した。

曹洞宗霊鷲山正永寺 所在地:埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野3585