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建福寺-保科正直・正光二代の墓

建福寺本堂の屋根の棟の家紋 保科家と武田氏の墓域

建福寺本堂の棟に松平の葵紋と保科の九曜星。境内に保科氏と伝諏訪御料人の墓が並ぶ。
安元2年(1176)文覚上人がこの地で加持をし不動尊を刻んだ際に独鈷を落とした池、独鈷池(本堂の裏手)に建長5年(1253)鎌倉の建長寺開山の蘭渓道隆大覚(らんけいどうりゅうだいかく)禅師が訪れた際、神家のお告げにより鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を建立し、箱根・三島・送場三社を祀る鉾持大権現を造営し、隆盛したとされる。本尊は華厳釈迦如来。
弘治元年(1555)寺内に墓のある「乾福寺殿」が亡くなる。
永禄5年(1562)6月武田四郎勝頼が諏訪氏を継承し伊那の郡代・高遠城主となる。その後、勝頼が中興の開基となり駿河国清見寺住持東谷(とうこく)禅師を請待し中興開山し妙心寺派となる。
天正10年(1582)に保科正直が高遠城主に任じられ、以降保科家の菩提寺となり大宝山建福寺(けんぷくじ)と改号。
保科正直と正光父子と武田勝頼母の墓 4奉献石燈篭藤澤八右衛門源正意

▲右から乾福寺殿の墓保科正直の墓保科正光の墓。墓域左右に保科氏家紋の燈籠
花崗石の3基の墓標は、正直没後90年の元禄3年(1690)9月16日に会津藩松平家3代藩主保科正信(松平正客/まさかた。保科正之6男)が再建したもの。
比較的新しい保科家紋並九曜が施された石燈篭の奉献は「藤澤八右衛門源正意」とある。藤澤八右衛門は高遠藩領藤沢村(伊那市高遠町藤沢)御堂垣外の名主年寄に名が見える。藤澤(保科)八左衛門と同じく代々継ぐ名であろう。

保科正直の墓 保科正光の墓

保科正直・正光の墓

保科正光の墓碑文 保科正直の墓の碑文 諏訪御料人の墓裏側

3基とも裏・側面に長い銘文が刻まれている

諏訪御料人の墓 妙香大禪定尼銘石燈篭

▲乾福寺殿の墓と石燈籠

内藤家時代の高遠藩の家老の葛上紀流が安永8年(1779)に記した『木下陰』では3基とも保科石碑として「保科正直公御母堂」「保科正直侯」「保科正光侯」と記している。
文政年間に会津藩士松澤氏守が記した『保科御事歴』でも正俊の妻(正直の母)の説を採用している。

乾福寺殿の墓の銘文は苔むして判読し難いが、御堂垣外藤沢本陣役の藤沢家に伝わる建福寺の碑文内容や建福寺の口上覚書(元禄3年2月27日付)等では乾福寺殿は徳川家康の妹で正貞の母多劫(たけ)姫とする。しかし法名(長元院殿清信授法大禅定尼)や没年が大きく異なり、どうやら再建時に多劫のものと誤った(もしくは徳川将軍家と会津松平家の結びつきを強調する配慮で故意に)と思われる。

正俊の妻は小河内美作の娘とされ、保科家の系図上で正俊と正則(正俊の父)の妻は夫共々混同か誤記され没年を同じくして長清院殿「梅岩昌香」「梅月昌香」大姉と乾福寺殿の梅厳妙香に近いが乾福寺殿とは没した日が一致しない。

寛永13年(1636)保科正之の出羽最上(山形県)転封の際に建福寺5世住職の鉄舟(てっしゅう)が保科氏の位牌を保護してお供し、最上に新しく寺を建立したとされ、正之が会津藩主となると会津に高遠と同じ名で「大宝山建福寺」が建てられ霊屋に正直・正光父子の位牌を安置していた。
しかし寺は戊辰戦争で全て焼けてしまった。当時の住職が寺宝を背負って避難し、その後小庵を建てて位牌を安置したといい、現代の会津建福寺は住職兼任のため保科家の位牌等は会津実相寺にあるようだ。

明治時代の伊那の村誌に添えられた高遠の建福寺の絵図には門付きの垣の中に三基あり燈籠は無く「武田氏 保科氏の墓」としている。

諏訪御料人(すわごりょうにん)については保科家と同じく武田家が代々檀家の高野山成慶院の過去帳
『武田日牌帳』に乾福寺殿梅巖妙香大禪定門 淑霊位
同(諏訪)勝頼様之御太方 十一月六日…
別本の『武田家日杯帳』に乾福寺殿梅巖妙香大禪定門 神儀
信州高遠武田勝頼公老母奉為御菩提建立…と記されている。

高遠町教育委員会の文化財案内によると高遠建福寺の本堂に安置されている位牌の裏に武田勝頼母であることを朱色で書かれており(同形の正直・正光の位牌は朱色書きではないようだが)過去帳や位牌の項が後で書き加えられたのでなければ墓も勝頼母の墓であるといえる。

墓所案内板============================================================
建福寺・武田勝頼母の墓
武田勝頼の母は諏訪頼重の娘で、実名が不詳のため諏訪御料人と呼ばれています。
諏訪頼重は天文11年(1542)に武田信玄によって自害させられましたが「尋常かくれなき美人」といわれた御料人は信玄に恋われ、父敵の側室となって諏訪氏再興を願いながら勝頼を生みます。しかし、その後病の身となり、勝頼の成長を待つことなくわずか25才ほどで短い生涯を終え、ここの葬られました。諏訪御料人は井上靖著「風林火山」では由布姫、新田次郎著「武田信玄」では湖衣姫と呼ばれています。
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武田勝頼母の墓(右側)
弘治元年乙卯歳
乾福寺殿梅巖妙香大禪定尼 淑靈
仲冬初六日
これは武田勝頼母の法名である。勝頼の母は諏訪頼重の息女で、武田信玄が諏訪氏を滅ぼした天文11年(1542)若くして信玄の側室とされ、甲府に移り、天文15年に勝頼を生んだ。信玄は諏訪氏族の懐柔策として勝頼に諏訪氏の名跡を継がせ、諏訪四郎勝頼と名乗らせた。
勝頼母は、弘治元年(1555)勝頼10歳の時、没している。墓所については諸説あるが、武田家の菩提寺である高野山成慶院の過去帳や当建福寺(慶長以前は乾福寺という)にある位牌には、勝頼母の法名は乾福寺殿となっており、ここ建福時に葬ったと思われる。
勝頼は永禄5年(1562)から元亀2年11月には大龍山臨済寺(現静岡市)の鉄山和尚を招来して母の十七回忌の法会を高遠城で執り行っている。

保科正直の墓(中央)
慶長六辛丑歳
建福寺殿天関透公大居士 神儀
九日晦日
・正直は下総多胡城主であったが、慶長5年(1600)高遠城主となる

保科正光の墓(左側)
寛永八辛未歳
大宝寺殿信巖道義大居士 神儀
十月初七鳥
・正光は正直の子、高遠城主・会津若松城主保科正之の養父である
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建福寺の守屋貞治石仏群 建福寺の守屋貞治石仏群案内板 守屋貞治顕彰碑

▲建福寺は守屋貞治(もりやさだじ)ら高遠石工の石仏群が有名で貞治顕彰碑もある

臨済宗妙心寺派大宝山建福寺
所在地:長野県伊那市高遠町西高遠1824

保科家ゆかりの高遠樹林寺

樹林寺本堂 保科正之公頌徳碑と母お静の供養塔

樹林寺の本堂と保科正之公頌徳碑・正之の生母お志津の供養塔
月蔵山(がつぞうざん)の北側、高遠城の鬼門(北東)に建ち、開山は高野山金剛頂院前住祐譽法院。
保科正之が出羽最上(でわもがみ。山形)藩として移封となるまで高遠城に暮らしたことから、平成2年6月10日に保科正之高遠城主就任360年を記念し会津松平家13代松平保定(もりさだ)氏の書で頌徳碑が建立された。正之の母、お志津(お静。浄光院)の供養塔が並んでいる。

■樹林寺と保科家
天正18年(1590)8月の家康の関東移封に伴い、高遠城主であった保科正直は、下総多古(しもうさたこ。千葉県香取郡多古町)に一万石を与えられて移封となった。
正直は隠居し、長男正光が保科家当主となる。

多胡で保科家の祈祷寺としていた樹林寺の本尊の夕顔観音は、昔、寺が火災で焼けてしまったが、村人が夢で見た夕顔の中に尊像が在るとお告げ通りに焼け跡の側の夕顔の中から立像がみつかったことから夕顔(ゆうがお)観音と呼び夕顔を刻み添えた伝承があった。
正直が樹林寺に祈っていた保科家の高遠再任が叶い、慶長6年(1601)正光は高遠へ転封が命じられた。

樹林寺も高遠へ移そうとしたが、多胡の村民に懇願されたために移設は取りやめ、代わりに樹林寺の観音堂の下の土を運ばせ、夕顔観音を写した立像を作らせて本尊にして、正光は高遠城の鬼門にあたる位置に同名の「樹林寺」を建立した。
正直は高遠に戻ったその年の9月29日に亡くなった。
樹林寺は、高遠に移ってから寺が出来あがるまでの間は高遠城二ノ丸の東の武具蔵の地に一時的に置かれたとも推測され、正直は熱く信仰していた夕顔観音に見守られての往生だったのかもしれない。

夕顔観音は境内の観音堂に安置され、慶長9年(1604)保科家が峯山寺より引いて建立したという護摩堂の本尊は不動明王。

 

■保科家以降の樹林寺
保科家の後の高遠藩主となった鳥居家、内藤家にも引き続き祈願寺として信仰され、内藤家の時代には京都東山総本山知積院の末寺となり、大日如来を本尊とした。
また伊那の壇林で、八十八々霊場の四十九番札所として信仰を集めた。
現在、千手十一面夕顔観世音菩薩立像は本堂に安置され、高遠町指定有形文化財となっている。

保科正之の生母お志津の供養塔 お志津の供養塔の刻銘

▲お志津の供養塔
寛永十二年 九月十七日
法紹日恵大姉淑霊
行年 五十二才 俗名 志津

お志津の方は天正12年(1584)小田原北条家の家臣神尾(かんのお)伊予栄加と杉田氏の母の間に生まれた。
天正18年(1590)に小田原城が落城すると栄加は浪人となり、お志津は秀忠の乳母大姥局(おおうばのつぼね)の奥女中として江戸城に上がった。
密かに2代将軍徳川秀忠の寵を受けて身ごもったのが幸松丸、後の保科正之である。

秀忠は正室のお江を大事にして表立って側室を持たずに過ごしていたので、お志津は秀忠が大奥の侍女に手をつてたことが公になることを恐れて身を隠した。
慶長16年(1611)5月7日、神田白銀町のお志津の姉の夫の竹村助兵衛次俊の家で、秀忠の知るところ無く江戸で幸松は生まれ、3歳になると老中土井利勝の保護のもと武田信玄の娘の見性院(けんしょういん)に預けられ、江戸城田安門内の田安比丘尼屋敷に住む。
元和3年(1617)7月、幕府の仲介で見性院が、元武田家臣で今は徳川家に誠意を尽くしている保科正光に7歳の幸松の養育を頼み、11月14日お志津と幸松は高遠へ向かった。
母子のため高遠城三ノ丸に新居を設えられ、大坂の陣で正光の異母弟正貞を助けた有能な家臣を守役にし、正光も在城の際には徳川将軍家の落胤として日に何度もご機嫌伺いをした。正光は生前にいずれは秀忠と幸松を対面させたいとも語ったという。

寛永12年(1635)9月17日、浄光尼(お志津)は52才で高遠城で息を引き取り、当時西高遠に在った妙法山長遠寺に葬られた。その翌年、正之は17万石の加増で出羽最上20万石を拝領し転封となる。
後に会津藩主となった正之はお志津の墓所を会津の浄光寺、更に身延山久遠寺(山梨県)へと移した。

樹林寺の総門 樹林寺から高遠城址を臨む

▲樹林寺の門前から高遠城址を撮影

真言宗智山派稲荷山真定院樹林寺(とうかざんしんじょういんじゅりんじ)
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2330

高遠の満光寺[1]保科左源太の墓

保科左源太と系譜略図

高野山成慶院『保科肥後守様御先祖御過去帳』に「法源院殿傅譽隆相大居士 信州高遠保科左源太御菩提也  施主同名肥後守様 寛永四丁卯十月三日但正月御命日
常燈御供養として「法源院殿傅譽隆相大禅定門 神義 同保科肥後守様御養子同銘左源太」と記されていることから左源太(さげんた)が保科正光(まさみつ。肥後守)の養子であったことは確かであろう。

満光寺鐘楼門と本堂 高遠最古の五輪塔保科左源太の墓

▲満光寺鐘楼門と保科正之(ほしなまさゆき)公の義兄弟左源太の墓
親縁山無量院満光寺(しんえんざんむりょういんまんこうじ)は天正元年(1573)笈往(きゅうおう)上人親阿芳公大和尚の開山で、昔は中町に在った。鳥居家が領した頃は浄土寺と改称し、享保17年(1732)12月十四世遺誉和尚が満光寺に戻したという。鐘楼門は牛久保流の大工菅沼定次の作とされ全て科(しな)の木を使用し善光寺になぞらえて建てられていることから「伊那善光寺」「信濃科寺(しなでら)」とも呼ばれた。

 

■保科家と左源太
武田家臣保科正直(まさなお)の嫡男正光は正室(真田安房守昌幸の娘。青陽院殿)との間に子が出来ず、側室も置かなかった。
※輿入れ時期は不明だが、天正10年(1582)の織田勢による武田攻めの際に救出され上田(長野県上田市)の真田昌幸の元へ身を寄せた理由が妻の実家と考えるとそれ以前で、正光は9歳から13年もの間武田勝頼(かつより)の子の信勝(のぶかつ。当時3歳)に仕えるために甲府に在って、言わば人質の状態から戦乱の波に呑まれた境遇のためとも考えられる
正直は、側室(光寿院。正重の母)の実家の小日向(おびなた。小比奈田)家に娘の一人(正光の妹)を嫁がせ、小日向源太左衛門との間に生まれた子、左源太を正光の養子に貰い受けた。つまり正光は甥を養子にとったことになる。

小日向源太左衛門は真田幸隆の長男(正光の妻の父真田昌幸/源五郎の兄)で天正3年(1575)5月の長篠の戦で戦死した真田源太左衛門信綱という説もあるが、確証は無い。
後世、内藤家時代の高遠藩の家老の葛上源五兵衛(くずかみげんごへえ)も満光寺を「真田左源太の菩提所廟所位牌…」と記しており、真田一族であったのは確かであろう。

天正10年の織田勢の侵攻で飯田城に居た保科正俊・正直親子は城の防備について武田家重臣と意見が対立し飯田を去り、高遠戦後に松本の小日向家へ、前述の通り正光も上田の真田昌幸の元へ身を寄せた。高遠の戦いでは正直の弟の善兵衛が討死している。
保科家臣赤羽俊房(あかばねとしふさ。甚六郎)が記した家伝、保科記と呼ばれる『赤羽記』に正光の母、武田家臣跡部越中守の娘も家臣と共に3月2日高遠城内で自刃し、満光寺住僧牛王和尚が遺骸を引き取り火葬しこの満光寺に埋葬したと記している。戒名は成就院殿願誉栢心妙大姉(後に北条家で害されたともされ、成慶院過去帳には「柏心妙貞禅定尼 天正十三年三月三日御命日…保科肥後守御慈母…」とある)

正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ昌月と共に北条氏に帰属し高遠を奪還。
後に徳川方に転向し、家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となった。
天正12年(1584)7月に家康の義妹多却姫を後室に迎え、天正16年(1588)5月21日高遠で正貞が生まれる。正貞は正光にとって腹違いの弟、左源太にとって年下の叔父にあたる。

天正18年(1590)家康の関東移封に従った保科家は下総多古(千葉県香取郡多古町)へ移封となり、正直は正光に家督を譲った。
※一方、真田家は徳川に歩み寄りつつ周囲の北条・佐竹・上杉氏を警戒しながら沼田等の領地を守る為の戦いを繰り広げていたが、家康に沼田領を北条氏に差し出すことを迫られた事から、昌幸は次男信繁を上杉景勝へ人質に送って上杉と手を結び、閏8月に北条・徳川の軍を上田で迎えうった。上田合戦の勝利を契機に豊臣政権に入り込み、豊臣秀吉の家臣となる。

文禄3年(1594)伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で、正光は7歳になった正貞を養子にするよう命じられた。既に養子の左源太が居るが、正貞は猶子の形で親子関係になる。
正貞は家康の外甥である血筋から、家康のそばで養育され、15歳で保科家嫡子が名乗る甚四郎に改名することとなる。

正光が再び高遠城主となって間もなく正直(正光と正貞の実父)が、その後正光の妻(真田昌幸の娘)が亡くなった。徳川家が積極的に後押しする中で、真田一族の血を引くことは肩身が狭かったであろう。
しかし後の行動で正光は左源太を気にかけ、正貞は行き場の無い正重母子を突き放しはしなかった

元和元年(1615)の大坂夏の陣では正光率いる保科軍の先鋒を正貞が務めたとする説の他に、正貞は不仲であった正光の軍には加わらずに本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子)に兵を借りて参戦したという逸話もある。

元和3年(1617)老中土井利勝の要請で、密かに匿われていた秀忠の落胤の幸松丸(こうまつまる。保科正之)が正光の養子として迎えられた。正貞は完全に廃嫡されたようだ。(幸松は「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り高遠入りを渋ったという逸話もある)
翌年、正貞の生母の多劫姫が亡くなる。

元和6年(1620)に正光は幸松に家督を譲る旨の書置で、正貞を厳しく絶交を言い渡す一方で、左源太には配慮を見せている。
遺言状の記された2年後に正貞は高遠を去り、正光の養子としては左源太と幸松が残った。

しかし寛永4年(1627)正月3日に正光よりも先に、左源太が息を引き取った。
病死とされるが、毒殺の噂も伝えられているようである。
左源太に関する資料は乏しく「丈ひくい小男であった」と伝えられている。

保科左源太の墓の南無阿弥陀仏 保科左源太の墓の刻銘

左源太の墓の五輪塔は在銘のものでは高遠で最も古いとされ、正面に「南無阿弥陀佛」
台石に「傅譽(伝誉)隆相」「寛永四」「丁卯・正月三日」と刻まれている。

満光寺所在地:長野県伊那市高遠町高遠975