飯野藩保科家」タグアーカイブ

飯野藩第2代藩主「保科正景」と浄信寺

浄信寺山門 浄信寺本堂

福聚山泰嶽院淨信寺
慶長6年(1601)開基、元禄9年(1696)10月に正景公が本堂を再建。

保科正景(ほしな まさかげ/1616-1700)
 上総飯野藩の第2代藩主。元和2年(1616)9月5日、初代藩主・保科正貞の長男として生まれてから30年間行方不明だった。※正貞は廃嫡されて流浪した経緯があったため
 正貞ははじめ甥の主水正英(もんどまさふさ。但馬国出石藩・和泉国岸和田藩主小出吉英の三男)を養子として迎え、正景には家督相続権が無かった。しかし正貞が藩主として復帰し、正保3年(1646)正景が見つかると世子となり、寛文元年(1661年)に父の死去で45歳で跡を継ぐこととなった。正貞の遺領のうち長狭郡内2000石を正英に分与し15000石襲封。

 寛文5年(1665)には大坂加番(岩岐坂・青屋口)に任じられ、寛文10年(1670)には日光祭礼奉行となる。紅葉山仏殿火の番、江戸城雉子橋門番などを務め、延宝5年(1677)には大坂玉造口定番になり丹波国内で5000石を加増され20000石になる。藩政にも大きな治績があったという。

 貞享3年(1686)10月老を告げ四男の正賢に家督を譲って隠居し帰元と号した。貞享4年から飯野陣屋に居住し元禄13年(1700)5月16日に藩邸にて死去。享年85。眞誉帰元泰嶽院と号す。周准郡青木村(現富津市青木)の淨信寺に埋葬された。※飯野藩主で飯野に墓所が有るのは正景のみ

浄信寺保科正景公墓 正景の墓案内板

▲淨信寺の保科正景公の墓(富津市指定史跡)

浄信寺石燈籠 浄信寺石灯篭案内板

▲正景公が再建した浄信寺へ元禄9年(1696)に寄進した石燈籠
花崗岩製・六角形で高さ2m90cmある市内最大級の燈籠で、富津市指定文化財。

向かって右の石燈籠 並び九曜

保科家の並九曜。もう一基(左写真)には浄信寺の九曜紋が刻まれている。

「旹元禄九丙子年九月日 奉竒進石燈籠二基 施主
 保科弾正忠正景敬白 行年八十一歳
 上総国周潗郡青木村 副寿山浄信寺」

正景公の墓石

▲正景公が眠る墓
金石文「泰嶽院殿前従五位真誉帰元大居士 五月十有六日」

▲飯野藩士寄進の手水鉢
飯野藩重臣の大須賀三郎右衛門定久と多胡(與)惣右衛門政次が寄進

福聚山泰嶽院淨信寺
・所在地:千葉県富津市青木887
・浄土宗 千葉教区web:http://www.jodo-chiba.jp/

飯野藩の藩校「明新館」

飯野藩「明新館」跡地 木漏れ日の差す藩校跡地

 江戸時代末期に飯野陣屋内の三の丸、三条塚古墳の前方部から東側くびれ部にかけて飯野藩の藩校「明新館」が設立され、士族の子弟を対象に支那学(漢学)中心に教育した。

 2年を一期として六等級、入学は8歳で(素読生の六等)、12年間就学し19歳(講習生の一等)で卒業。卒業後は専門の学問を研究させる。
 正月17日から12月25日まで開校され、1、6の日が素読生と質問生の休みであるが、6の日は詩文会が催されるので余力のある者は参加しなければならなかった。試験は春・秋2回。

 職員としては学問教授、副教授が置かれたが、明治3年12月改正して学校教長、副教長、助教とした。教長1、副教長3、助教似2人がおり、当時生徒は83人居たという。
 後年下飯野北小学校となった。

 

明新館学則 [●専力(主たる教科書) ▲兼力(副読本) ■余力(準副読本)]

・素読生(漢文を音読する)授業:午前7時~9時
[六等]
●孝経、四経 ■三字経、千字文
[五等]
●詩経、書経、礼記 ■春秋、易経

・質問生(解読し質問する)授業:午前9時~11時
[四等]
●論語、孟子 ▲十八史略、国史略、蒙求 ■孝経、元明史略
[三等]
●左伝、学庸 ▲史記、日本外史、地球略説 ■漢書、作詩、文書規範

・講習生(教師から講習を受ける)
[二等]
●詩経、書経 ▲歴史網鑑、大日本史、瀛寰史略 ■資治通鑑、八大家文、作文
[一等]
●礼記、易経 ▲論衡、貞観政要、万国公法 ■博物新論、武経開宗、令義解

 

 学者の織本東岳(履道)が明治2年に飯野藩主保科侯に招かれて明新館の教授となり、更に校長を務め、同年10月に権大参事(幕藩体制での家老や現在の副知事に相当)に任ぜられた。
 通称は徳輔。明治初年に現在の富津仲町に学塾「始愛舎」開塾。
 小林一茶と交流のあった女流俳人織本花嬌の曾孫にあたる。

 

 また、嘉永年間(1848~1854年)頃から飯野村内に庶民にも読書・習字を教える寺子屋が多く在ったが、明治5年(1872)の学制発布によって廃業となる。

参考図書・サイト
・富津市史編さん委員会『富津市史
・千葉県教育会『千葉県教育史 第1巻』第五節 明新館
・富津市ホームページ http://www.city.futtsu.lg.jp/

飯野陣屋の屋敷稲荷(飯野神社)

飯野神社 飯野神社の石灯篭

 本丸の西に接する屋敷稲荷は最初、稲荷塚の墳丘上に鎮座していたが宝暦八(1758)年に第6代藩主保科正宜によって稲荷塚から今の場所に移された。
 明治政府が明治39(1906)年12月に一町村一社を原則に神社を統廃合し数を減らす「神社合祀令」を発布し千葉県下でも実施され、明治44(1909)年4月20日に堰田の八坂神社を始め、7月17日の下飯野神明神社を最後として二年間に飯野村内の全ての神社を取り壊し、15社を合祀して社号を飯野神社とし新しく社殿を増営した。

飯野神社

▲正面の綺麗な拝殿は平成に入って新築されたもの。

 

 案内板によると祭神は保食命、相殿神は建御名方命など。
 食物神である保食命は豊穣をつかさどる稲荷神社の祭神、建御名方命は保科家のルーツである諏訪の神なので、近隣の諏訪宮を合祀したよりも先に相殿神として祀られていたのでしょうか。(機会が有れば調べてみます)
保科家の家紋は「並九曜」と「梶の葉」であるが、梶の葉は保科氏が諏訪の神裔であることに由来するという。

 諏訪神としての建御名方命は諏訪に移った際に諏訪湖の龍神を征した経緯があるが、護国のため龍神となる伝承もある。飯野陣屋のお濠の水が枯れないよう雨乞いのため竜神の舞を奉納するという伝統行事にも関わるのかもしれない。

飯野神社

▲こちらの額の飯墅(飯野)神社の社号はだいぶかすれている

庚申塔の三猿と狛犬 飯野神社の石祠や石仏

庚申塔の三猿や明治初期の狛犬御嶽三柱大神の神号碑
 石祠や石仏が集められている

飯野神社 末社

 飯野神社稲荷口稲荷神社と共に合祀された神社は、記念碑に「本丸の楠稲荷神社」「内小平田稲荷神社」「堰田の八坂神社」「森山の日吉神社・末社の厄神社」「神明山の神明神社・末社の佐田社・住吉社」「上五畝田の八坂神社」「北御堂谷の菅原神社」「鹿島の日吉神社」「本谷の八坂神社」「向谷の日吉神社」「上の宮日吉神社」「本村の神明神社」「百目木の日吉神社」「東内裏塚の珠名神社」とある。

 祭神は、君津郡誌下巻の飯野神社の項目では、保食命(うけもちのかみ)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、大國主神(おおくにぬしのかみ)、稚産靈命(わくむすびのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、迦具土神(かぐつちのかみ)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、誉田別尊(ほむたわけのみこと※応神天皇)、大己貴命(おおなむちのみこと) 、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、菅原道真(すがわらのみちざね)公、聖神(ひじりのかみ)、末珠名(すえのたまな)とある。

* * *

政令で一社にまとめたので仕方ないことですが、天津神も国津神も天神様もいっしょくたですね……

参考図書
・富津市教育委員会『富津市文化財ガイドブック』
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌

飯野陣屋濠跡

飯野陣屋濠跡案内飯野陣屋濠跡案内板

濠跡は幅約5メートル、底部がV字形の薬研掘で、濠に沿って高さ約2メートルの土塁の一部も形をとどめている。延べ面積は6620平方メートル。
土塁には唐椎(マテバシイ)が茂る。

飯野陣屋濠跡の角 飯野陣屋濠跡 東側 

▲[左の写真]南東の角、[右]東側の外濠

飯野陣屋濠跡北西部 飯野陣屋濠跡南西部

▲[左の写真]北西の角、[右]南西の角

飯野陣屋濠跡の北西 飯野陣屋濠跡の南側

▲[左の写真]濠の北側、[右]南側

 

▼濠の生物たち。水の生き物が苦手な方はクリック(拡大)注意

飯野陣屋の濠 飯野陣屋濠跡の鯉 飯野陣屋の濠の蛙

南側の濠のそばを歩いてると寄ってきます。

飯野陣屋の構造

飯野陣屋縄張
 内邸への入口は本丸東側の大手門、三の丸西側の搦手門、そして本丸南側の門の三ヵ所。
 本丸は飯野陣屋東南部、東西約210メートル、南北約160メートルで、面積は約34000m2ある。本丸と二の丸の間に内濠と土塁。
 東南の大手門から入ると高さ2mの桝形と呼ばれる四角形をした土塁で囲まれ、二か所の中門を通ると藩の役所、藩主の邸宅等。土蔵、米蔵、営繕小屋、柔・剣道の道場、馬場等も有った。戸を閉める門は一番奥に有る。

飯野陣屋大手口

▲現在の大手口は飯野神社の参道
大正4年に飯野神社までまっすぐに広い参道が舗装され、藩庁への道を守っていた当時の桝形は残っていない。

飯野陣屋北東の枡形

▲東側外側の枡形の張出し部分から北西へ街道筋が伸びる

 

 二の丸は本丸の北側と西側とを囲むような鍵形をしており、面積は約31000m2。三の丸との間に内濠。

 本丸を囲むように上級武士の邸宅が鍵の手に並んでいたが、ほとんど江戸藩邸で生活していたという。東側(本丸の北)の稲荷塚古墳のある場所に煙硝蔵が建つ。
 本丸の西に接する稲荷神社(陣屋の屋敷稲荷、現飯野神社)は、宝暦8(1758)年に6代目藩主保科正宜によって稲荷塚から今の場所に移され、本丸側になる東側以外の三方向を土塁で囲まれていた。(※現在は西側の土塁のみ痕跡)

煙硝蔵跡

▲煙硝蔵が建っていた周辺

 

 三の丸は二の丸の北側と西側とを囲むような鍵形で約51000m2。巨木が茂る山林と、西に飯野陣屋の物見櫓的な役割であったとされる三条塚古墳(前方後円墳/墳丘長122m)。墳丘南側に八田家、仙石家、橘川家など上級藩士邸が並び、西側には搦口に当たる内邸への入口。入口から南側は防御のために土塁を二重にしていた。
 江戸時代末期、墳丘東麓をコの字に削って平らにした所に藩校「明新館(めいしんかん)」が建つ。
墳丘西側には弓の稽古場である角場(弓・鉄砲の練習場)が設けられていた。

藩校 明新館跡地 三条塚古墳跡

▲墳丘の東側に藩校である明新館が有った
[左]神社の裏から三條塚古墳に向かって撮影 [右]三條塚古墳の前

 

 内邸の西側、濠を隔てた外邸は約48000m2。邸には中級藩士邸と、下級藩士が住む長屋が9棟あった。
 西側の外側周濠は飯野陣屋三の丸の濠の一部として利用され、外邸と外部との間にも細い濠があった。
飯野陣屋外、本丸南側に牢屋。牢屋の南側には亀塚古墳(方墳)。
 濠外の北側には割見塚古墳・蕨塚古墳があり、藩士の邸宅がその周辺にまで及んでいた。森要蔵の屋敷は割見塚のほとりにあったという。

 

※陣屋図は案内板の概略図と明治時代の陣屋図や以下参考図書の文面を元に描きました。

参考図書
・富津市教育委員会『富津市内遺跡発掘調査報告書』(各飯野陣屋関連)
・君津郡市文化財センター『君津郡市文化財センター年報』(各飯野陣屋関連)
・牧野まさ江『飯野藩 飯野陣屋跡』
・富津市史編さん委員会『富津市史