『週刊ビジュアル江戸三百藩』62号に請西藩

本日発売の『週刊ビジュアル江戸三百藩』第62号に請西藩関連の写真を提供しました。

全号集めると江戸時代の全315藩が網羅できるという分冊百科です。
第62号の「三百藩総覧」特集藩は土佐・浜松・請西・高岡・今尾・三春藩。
今号が初登場の請西藩が筆頭ページで、大まかな藩史、年代・人物記として林忠英(貝渕藩初代藩主)のこと、本号の年代記の締めとして林忠崇の出陣について触れています。
他、コラム形式で請西藩や陣屋のあった木更津にまつわる風土の歴史を紹介。

これまでに他藩との混合の雑誌で請西藩が紹介されるとしたら、真武根陣屋跡と林忠崇の出陣について触れる程度だったでしょうが、きちんと順を追って紹介する試みのようです。
ナンバリングが完了していないので、今後の再特集で忠旭忠交に軽く触れつつ忠崇メインの人物記が続くのでしょうか。
請西藩に興味がある読者として欲を言えば、忠旭の印旛沼古堀筋普請御用・忠交の伏見奉行でのこともたっぷり掘り下げてもらえたらと(このあたりは私ものんびりと調べ途中なので)次が楽しみです。

週刊なので、書店での購入はお早めに!

▼以下、当誌の内容を含む感想です

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請西藩の記事で松平親氏銅像写真をバーンと持ってくる雑誌はなかなかないですよ!
林家は徳川恩顧~と文字で書かれても、井伊・本多・酒井・榊原等の徳川家康の側近達の印象が強いせいでイメージがわき難いところを、家康の祖先の時からの家臣なんだぞと分かりやすい誌面になっているのがさすがです。

そして「鼠小僧」のエピソード。鼠小僧次郎吉は義賊伝説が定着しているため、林忠英の侫人像を語る際に、他大名の盗難被害やその背景を伏せて「忠英は義賊の標的になった」と悪印象を付ける定番事件です。
忠英の経歴として扱うとなると次郎吉について伝説ではなくきちんとした資料を引き合いに一々解説しなければならないので、あえて別枠扱いにするものですが……この江戸三百藩ではきちんとフォローも入れて、かつ読みやすくまとめていて感心しました。

私の考えでは、次郎吉の行動範囲に貝渕藩邸があったからというそっけない前提から始まりますが、いずれこのブログでも書いてみたい題材です。

 

最後に個人的な蛇足。
市内に陣屋が存在した藩なので「木更津=請西藩」という図式で木更津市のことが色々紹介されてますね。木更津甚句は島屋の記事で子孫として名前をだした伊藤勇吉町長の奨励が再流行に一役かったそうです。
そして江戸時代の当地は実際は地区、時代ごとにそれぞれの領主がいました。
請西藩は主に貝渕・請西・桜井・太田・相里・烏田村を領しています。
かつての木更津村である現在の木更津駅周辺は飯野・館山藩領や幕府直轄領等経て幕末の頃は前橋藩松平家の領地でした。

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【不二心流四代目】大河内正道と戊辰戦争義勇隊

大河内正道藤原安吉
天保14年(1843)12月25日に上総国望陀郡木更津村で大河内縫殿三郎の三男として生まれ、阿三郎と名付けられる。
嘉永3年(1850)正月には8歳にして父や兄総三郎から不二心流の剣を学んでいた。
安政2年(1855)6月に13歳江戸にて神道無念流斉藤弥九郎に入門。
安政2年(1859)2月17歳で去り、3月に木更津村と西小笹村の大河内道場で初めて門人を取り立てて剣を教える。その後関東を遊歴し更に剣の腕を磨いた。
慶応2年(1866)2月に甲州甲府郭内旗本菅沼米吉邸(山梨県甲府市)で道場を開き、江戸に随行もしたが、病で辞して木更津で静養する。

 

戊辰戦争、撒兵隊に協力し義勇隊を結成

慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦が勃発し徳川慶喜が恭順の意を示すが、処遇に抗おうとする佐幕派の者達は方方で協力を求め、2月下旬に幕府撒兵(さんぺい)頭の福田八郎右衛門道直の使者が大河内家を訪ねてきた。
大河内兄弟は徳川のために立ち上がりたいと希望するが、縫殿三郎は79歳の老齢であり事態を静観した。
3月に福田の使者が再び訪れたのを機に、阿三郎は覚悟を決め、妻を実家に帰した。
老父縫殿三郎が詠んだ「行先はめいどの花と思へども 雪の降るのに桜見物」を以って決別し、江戸へ福田との面会に発つ。

4月9日に江戸を脱走した撒兵隊(さんぺいたい。さっぺいたいと呼ばれていた)が、寒川(千葉市)を経て木更津村に入った。
──房総には徳川恩顧の大名や旗本が多く、大多喜藩主大河内正質(島屋大河内家とは無関係)は老中格で鳥羽伏見の戦いの幕府軍総督を務めた。飯野藩は会津藩松平家の親族筋で藩主保科正益は第二次長州征伐の石州総督を務め徳川慶喜の助命嘆願所にも連名している。
彰義隊が江戸に在り、歩兵奉行大鳥圭介ら伝習隊・新撰組が下総に、榎本武揚の艦隊は安房館山湾に向かっている。その間にあって江戸への海路となり阿三郎のように熱意のある剣士もいる上総方面を目指したのであろう。
実際は時勢に合わせて大多喜・飯野藩をはじめ殆どの藩主が恭順の意思を示していたが、隠居中の先代藩主や土地の者にとって幕府の影響は薄れていなかった。

撒兵隊は「徳川義軍府」を名乗り選擇寺に本営を置いたとされ、「義」の字を染めた小切れを肩につけた隊士達が付近に分宿し、福田は島屋を宿所とした。
撒兵隊の後に木更津へ上陸した人見勝太郎伊庭八郎ら遊撃隊も島屋の側の成就寺に陣営を設けたという。大河内一郎(島屋当主幸左衛門。3年前に死去している)の息子大河内三千太郎は過去に江戸で伊庭道場に入門していたとされ知己であったのだろう。

義勇隊頭に選抜された阿三郎は島屋門を中心に参戦意思がある者を義勇兵として纏め、八劔八幡神社の拝殿を義勇隊の陣営とした。
境内には神主の八劔氏が大河内家に提供した町道場があり、当時は三千太郎と神官八劔勝秀の息子勝壽が剣を教えていた。若い三千太郎も義勇隊頭取として島屋門の者たちを率いた。

 

五井戦争敗退

4月下旬に撒兵隊は本営を砦に適した山間の真里谷村(まりやつ。木更津市真里谷)天寧山真如寺(しんにょじ)に移し福田が第四・第五大隊を率いて移動。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし、第一~第三大隊を北上させた。そして新政府軍は幕府脱走兵の掃討のため総州へ兵を向けた。
閏4月3日に市川・船橋方面で撒兵隊第一・第ニ大隊が敗退し、薩摩・佐土原・備前・大村・津・長州各藩兵が北姉崎に北上中の第三大隊を討つため南下する。
7日早朝、五井(市原市)根山(ねやま)で再集結した撒兵隊他義軍が養老川を背に新政府軍を迎え撃つも11時過ぎには敗退。

養老川を渡り真里谷へ向け押し寄せる新政府軍を食い止めんとし、中村一心斎の薫陶のもと幼い頃から剣の腕を磨いてきた大河内一族からは少年剣士も義勇隊に加わり19人斬りで敵味方を圧巻させた勇猛さが伝わっている。
…木更津の里に年頃剣術の道場を開き数夛門弟を集めて指南を業とし大河内某といふ者父子あり、閏四月七日五位、姉ヶ﨑辺の戦争中に門弟八十人を引連 横合より宦軍へ打て出て、花々しく血戦し、子某は歯纔(齢わず)か十五才なりしか、眼前敵兵十九人を斬伏せて、其身も討死し、父某も数十人と戦ひて、終に討蓮(れ)たり、此一手の目覚しき働き、敵も味方も皆肝をつぶし、只茫然と静まり…」(『日〃新聞』慶応四年「閏四月」記事。新聞なので誇張はあろう)

しかし剣の腕では新政府軍の砲撃に敵わず、退きながら抗戦または撤退し散り散りになった。
参戦した大河原一門は戦死した者、郷里の小笹村に身を寄せる者、箱館まで従軍する者と様々であった。

阿三郎は危機を掻い潜って真里谷村に帰還するが、馬上で敵に囲まれていた福田を見失ってしまった。
阿三郎は已む無く300人程で決死隊を結成し、新政府軍が捜索を続ける木更津村方面に押し出て江戸に渡る。

江戸に至ると福田も出府していた。
8月上旬、福田の出廷に阿三郎も同道し、尋問の上で放免となった。

 

結城藩成東陣屋の撃剣教授となる

明治2年(1869)6月に阿三郎は両親を訪ねて成東村に逗留した後、南房総へ発った。
その後、結城藩の水野日向守により成東陣屋へ招致の知らせが届き承諾し撃剣教授となる。
成東元倡寺の興譲館道場の師範役となり、弟の四郎信明と共に指導。
報国社を結成し社長として維新の廃刀令で衰退していく撃剣の再興に努め、直心影流榊原健吉らと撃剣会を開催した。

 

富津村で旧忍藩士田代家に養子に入る

明治13年(1880)陸軍工兵第一方面(東日本の軍用建築を担当)派出所出仕。
周准郡富津村で阿三郎の親族の旧忍藩士田代兵七郎氏方の養子となり、田代姓となった
明治14年(1881)9月6日に兄の宗三(総三郎)が亡くなり嫡流が途絶えた(宗三の実娘が入婿と離縁し子がなく、養子家族は紺屋を継ぐ)ため、阿三郎が不二心流4世を継承

明治15年(1882)11月3日元洲堡塁砲台建築所勤務中に成東で弟の四郎が37歳の若さで亡くなり、道場維持のため辞職を申し出るが聞き入れられなかった。

富津元洲堡塁砲台跡 富津元洲堡塁砲台跡通気口 富津元洲堡塁砲台跡

富津元洲堡塁砲台跡(富津公園「中の島」)と地下掩蔽部
砲座6門を東西に配置し両端に観測所を設けたという。大正4年除籍。中の島の他に富津岬の各所に現存するコンクリート製の観測所、警戒哨、隠顕式銃塔等はほぼ大正11年設置の第一陸軍富津射場(試験場)のもの。

 

復籍し正道と名を改め成東中学校の撃剣教師となる

明治16年(1883)初夏に許可を得て成東へ帰省。自宅敷地内に道場を新築する。
明治17年(1884)原籍に復帰。田代家は息子の精一郎を相続人とした。
明治21年(1888)名前を正道と改める
明治24年(1891)10月望陀郡根形村飽富神社に振武社が献じた不二心流奉額に連名。
明治33年(1900)4月成東中学校が開校し正道が撃剣教師となった。
大正2年(1913)5月に病を発症。
大正4年(1915)10月に中学校教師を辞職。
大正12年(1923)3月25日に東京府目黒町千番地にある嫡子の田代精一郎宅で没。
麻布山善福寺に葬る。超證院襗正道居士。

麻布山善福寺勅使門 麻布山善福寺本堂

麻布山善福寺勅使門と本堂
所在地:東京都港区元麻布1丁目6-21

■■不二心流と木更津「島屋」■■

林忠崇の書[2]熊野神社扁額

波岡熊野神社請西藩主林忠崇直筆の篆額 波岡熊野神社請西藩主林忠崇一夢翁直筆の篆額

請西藩林忠崇公直筆の扁額
一夢(忠崇の号)92歳の書。
 「 熊野神社  昭和十四盛夏 九十弐翁 一夢 」

 

寛文6年(1666)に烏田郷の一部を林光政から数えて9代目の林信濃守忠隆が領し、この地は上総国内で林家の最も古い采地にあたる。
                            
熊野神社は明治維新前は熊野大権現と呼ばれ、領主の林家の崇敬が厚く元禄8年(1695)9月に社殿修繕料を寄付し且つ社地山林の貢賦を免じた。※林家10代林土佐守忠和
明和4年(1767)10月に13代林肥後守忠篤が熊野略記一巻を謹書し社へ奉納。
天保9年(1838)11月に15代林播磨守忠旭貝渕藩林肥後守忠英の子)が銘「八幡大武神赤心報國天保九年八月日一心子利光」短刀一口、銘「濃州関孫六九代定藤原兼光」小抦一個を奉納している。

慶応4年(1868)閏4月3日戊辰の17代林忠崇の出陣時に病身で付き従い9日に館山で命尽きた請西藩士諏訪数馬の家は下烏田村で代々林家に仕えている諏訪家。
藩主自らが脱藩し、新政府軍と戦った請西藩の領地は22日に没収となった。  

長い月日を経た昭和14年(1939)縁は途切れず、忠崇が亡くなる二年前に熊野神社の額となる書を揮毫し、諏訪氏により奉献された。

 

波岡下烏田熊野神社鳥居 波岡下烏田熊野神社拝殿

熊野神社
祭神は伊邪那岐尊、素盞鳴尊、市杵島姫命、誉田別命。
宝暦6年(1756)4月社殿を造立し、慶応3年(1867)社殿再建。
明治6年(1873)に村社となる。
明治39年(1906)合祀令により八雲神社・厳島神社・八幡神社・中烏田八幡神社を合祀。
平成22年(2010)3月に本殿・幣殿・拝殿の改修と鳥居を建替えた。

熊野神社所在地:千葉県木更津市下烏田字熊野谷671

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旧領請西の日枝神社の昭和8年建立の石柱の社号も忠崇の筆です

【不二心流三代目】大河内総三郎と寺町「志摩屋」

大河内総三郎藤原幸経
文政7年(1824)下総国匝瑳郡西小笹村縫殿三郎と恵以子(のち喜佐子)の間に生まれ、幼少より中村一心斎に不二心流の剣を学ぶ。
長じて水戸藩剣術指南役宮田助太郎清喜(千葉周作門下。宮田一刀流)に随身し水戸と江戸水戸藩邸を往来した。総三郎は剣の腕を認められ、塾頭となる。
後に常陸国で不二心流の流れを継ぐ大河内家は、ここから繋がりが出来たのかもしれない。

天保13年(1842)9月22日、江戸で結ばれた鶴(砲術家の幕臣桜井啓介の次女)との間に娘豊子が生まれる。
安政2年(1855)上総国木更津村で4月建立の中村一心斎供養塔に連名。

慶応4年(1868)4月に江戸を脱して木更津を本営に定めた幕府撒兵隊南町の島屋大河内道場の者達が義勇隊として協力。
五井・養老川の敗戦後に皆北総へ逃げる中、総三郎は危険な木更津方面へ戻り、大寺(おおてら)村の商家「こうや・彌太べえ」に身を寄せ、乞食などに変装して義軍の支援活動を続けていたという。(宮本栄一郎著『上総義軍』より要約)

戦後は伊藤姓に戻し、伊藤宗三郎(後に宗三/そうぞう)と改名し再び染物屋を始めた。
明治4年(1871)6月24日に縫殿三郎が死去。
9月6日に不二心流正統三世を継承し、祇園村・大寺村に道場を開く。
一族で剣の腕も見込める新太郎を娘婿に迎え道場の継承者として考えていたが、不仲であったらしい。
そこで甥伊太郎の娘うたを養女として婿(福太郎)をとり孫の宗太郎が誕生する。

明治14年(1881)9月6日に木更津で死去。57歳。三晃院幸経日宗居士。
一心斎供養塔のある成就寺にかつては夫妻の墓があり、現在は他所に改葬されている。

 

■木更津寺町の志摩屋(しまや)

昭和4年千葉縣木更津町鳥瞰圖 千葉県木更津市中央の田面通り志摩屋跡付近

▲昭和4年鳥瞰図の田面通り(たもどおり)と志摩屋跡付近 ※鳥瞰図・下の古写真共に観光案内パネルより
鳥瞰図西(右下)の伊藤染店が「志摩屋」、東(左上)の伊藤染店が「紺茂」

木更津村寺町(現木更津市中央)の伊藤宅は明治の寺町家事で類焼してしまったようだ。
その後、昭和初期に総三郎の孫の宗太郎伊藤染店を経営しており当時の『大日本商工録』に流行・染物・印物一式を扱う「志摩屋」として屋号紋(の右上に┓)と共に記載されている。

木更津古写真田面通り紺茂跡地 紺茂跡から志摩屋を望む田面通り

▲昭和中期の田面通りの古写真と、紺茂跡から志摩屋跡に向けて撮影
古写真の若竹筆店(一番左の文具店)の場所に紺茂があった。
現在は平戸理髪店の建物のみ残り中村洋服店は私有地通路、紺茂の場所は月極駐車場になっている。

●大河内孫左衛門
孫左衛門の息子の茂三郎が天保11年(1840)生まれなので総三郎より年上であろう。
一心斎供養塔には総三郎の前(島屋当主幸左衛門の次)に名前が刻まれている。
戊辰の総州騒乱時に孫左衛門も義勇軍として出陣したが、五井・養老川の戦いで銃弾が右眼かすめ、下総に逃れた後に亡くなったという。
茂三郎が新しく出店した紺屋は彼の名前から「紺茂」と呼ばれた。
孫の伊藤勇吉も剣道を嗜み日露戦争で戦功をたて大正8年から昭和8年まで木更津町長に連続就任し木更津町の発展に貢献した。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

大河内喜左衛門・幸左衛門の墓所

西小笹村の藍商喜左衛門・木更津村の島屋幸左衛門ら、縫殿三郎の主な親族の墓。

大河内喜左衛門安吉・豊子夫妻の墓
縫殿三郎・幸左衛門(幸芳)の両親。

伊藤喜左衛門安吉と母豊子の墓 大河内喜左衛門の墓

寶林院慈灮覺應居士
宝暦10年(1760)生。弘化4年(1847)10月30日、87歳で没。大河内喜左衛門安吉。
紫玉院悲峰貞應大姉
安政4年(1857)3月23日、88歳で没。豊子。

大河内喜左衛門 大河内喜左衛門明治二年伊藤ト改ム

江戸時代の大河内家の墓に「喜左衛門
近年の伊藤家の墓に「大河内喜左衛門 明治二年伊藤ト改ム
元々伊藤姓であったが領主から大の字を賜り大河内(河内は祖先為安の河内守から取ったと思われる)を名乗る。徳川義軍府(旧幕府脱走軍)に協力した木更津の大河内家について、西小笹村の喜左衛門宅にも佐倉藩の捜索があった。そのような騒動があってか再び伊藤に復姓した。

 

幕末の島屋当主大河内幸左衛門一郎
三千太郎の父親。画像は木更津愛染院の墓だが旭川にも三千太郎が建てた供養墓がある。

諦厳院大河内一郎の墓 芳讃湛義妙貞信

諦嚴院喜山明鏡居士
文久3年(1863)7月17日没。大河内一郎の墓。
芳讃湛義妙貞信女
慶応2年(1866)3月28日没。家族の女性。三千太郎の実母だろうか。

美香保丸難破後に伊庭八郎が頼ったとされる伊庭軍兵衛の門弟「大河内一郎」は官軍に抗って捕縛されていたとするが、三千太郎の父親の一郎は伊庭が最初に木更津村に上陸した時には既に亡くなっている。
尚、江戸の伊庭道場には三千太郎が入門したと伝わっている。※三千太郎については別記事で後日紹介

 

大河内三千太郎の妻なお
大田村の惣名主地曳新兵衛の娘で、17歳の若さで亡くなったとされる。

大河内道太郎の妻なをの墓 大河内道太郎の妻大田村地曳新兵衛娘

栄樹院直心妙了信女
慶応2年(1866)5月9日没。

因みに、地曳新兵衛の家から男子が下烏田村(木更津市下烏田)の諏訪家に養子に入り、その子が慶応4年戊辰の林忠崇の出陣時に病身で付き従い館山で命尽きた請西藩士諏訪数馬。

 

南町島屋で最後に生きた幸左衛門

最後の木更津島屋当主の幸左衛門墓 伊藤幸左衛門

盛光院三執願應居士
慶応4年(明治元年)8月24日没。家族と思われる伊藤幸左衛門の墓に共に眠る。

木更津村の明王山持宝院(現在愛染院に合併)の過去帳にも記載されている。
殿三郎の弟(幸芳)と家族の墓か。もしくは一郎が亡くなった後で義勇軍を率いて北行してしまった嫡子三千太郎の代りに、急遽幸左衛門の名を継いだ者かもしれない。すると伊庭八郎が頼ろうとし官軍に捕縛された大河内一郎がこの幸左衛門(新しい代の一郎)という見方もできる。

三千太郎は箱館戦争まで従軍し、放免後東京を経て北海道へ渡った。
一郎(三千太郎の父)の後妻きたと次男(三千太郎の弟。分家)常盤之助の一家は木更津村寺町に残ったが、明治8年3月の寺町大火で類焼してしまい北海道へ転居した。

西小笹に移り伊藤に復姓した代の幸左衛門は、明治の合併で共興村となった際に助役となった。

■■不二心流と木更津「島屋」■■

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