樋口盛秀・野間銀次郎の切腹と断罪

 樋口弥一郎盛秀飯野藩領の摂津国浜村の医師の子で、文化5年(1808)3月10日に江戸品川邸で生まれる。保科家に仕えて昇進し禄高130石の次席家老となった。

 野間銀次郎行信(銀治郎橘行信)は野間道明(藩士60石)の長男として天保14年(1843)6月に飯野藩内で出生。講談社初代社長野間清治の伯父にあたる。
 書を好み、剣をうち、慷慨にして気節ある(意気が盛んで強い信念を持っている)人であったという。

 両者は戊辰戦争で飯野藩主が留守の間に幕府軍に協力した責任をとって命を絶った。
 その一週間後に、藩主保科正益の嫌疑が晴れて京都北野御前通導故寺旅館での謹慎を解かれている。

樋口盛秀と野間銀次郎の碑

浄信寺の樋口盛秀と野間銀次郎の碑

 

 慶応4年(1868)4月11日江戸城無血開城。これに不満の幕臣は上野彰義隊をはじめ各地に走る。
 撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい)頭福田八郎右衛門を将とする「義軍」2000人が江戸湾を渡り木更津付近一帯に布陣、兵による圧力をもって近辺の諸藩に義軍への協力を要請。

 幕府軍遊撃隊長伊庭八郎(いば はちろう)は人見勝太郎と共に榎本武揚指揮の幕府軍艦開陽丸に乗じて木更津に上陸し、請西藩藩主林忠崇(ただたか)と同盟を結ぶ。──文武両道で「将来閣老となるべき器」と称されていた21歳の青年藩主忠崇は他に迷惑が及ぶのを避け、閏4月3日藩主自ら脱藩し、藩兵約70名・遊撃隊士36人を率いて大砲を一発放って請西の真武根陣屋を出発。撒兵隊、佐貫藩の一隊を加え二手に分かれ、林軍と遊撃隊は飯野を経て前橋藩が守備する富津陣屋を包囲した。

 藩主京都へ上洛中のため飯野藩の運営は家老の八田正臣と次席家老の樋口盛秀らに委ねられていたが、閏4月4日林軍と独断で家臣を脱藩させ、幕府軍に協力させることとし野間銀次郎ら合計20人の藩士を参加させる。

 林軍と遊撃隊は5日佐貫藩、8日に勝山藩の協力を得て、幕府艦隊の応援で海陸から館山藩を威嚇し協力を要請。総員200人余となった。箱根に向かうまでには駿府藩・岡崎藩の脱藩者が加わり総員300人余。5月20日に箱根関所占拠し小田原藩の協力も得るが再び敵対した小田原藩と26日の湯本・山崎の激戦で敗れ、伊庭八郎は左手切断の重傷。このとき飯野藩士は館山藩士と共に第五軍に属し後方を守備していた。
 5月28日遊撃隊は未明に館山に到り、負傷者に暇を取らせ大部分の飯野藩士は帰藩したと思われるが、飯野藩士隊長の大出鋠之助などは箱館(函館)の戦まで参戦したという。6月11日に官軍へ差出した書類では大出鋠之助・小野悦之進・伊藤波三郎の3名が未帰還となっている。

 6月12日に樋口盛秀は「自分の指示によって出兵したので、他の預かり知らぬことである」として自ら罪を負って切腹。享年61歳。戒名は徳功院義誉忠純盛秀居士。

藤原盛秀辞世の句 「大幹や松の恵の露うけて 下草の木も育ちぬるかな」

 林軍に加わり第五軍二番小隊に属し箱根で戦った野間銀次郎も飯野藩隊士20人を代表して自ら自刃を申し出て罪に服した。まだ家を継いでいない身のために士分としてでなく断罪に処されたとも。
 享年26歳、戒名は慈考院淳誉義忠居士。

野間銀次郎の墓 樋口盛秀の墓

樋口氏の墓と野間銀次郎の墓
「慈考院淳誉義忠居士」「野間銀次郎橘行信 行年二十有六」「慶応戊辰年六月十有二日」

 佐貫城に在った新政府軍は捧げられた二人の首級に対してその節義に感じ入ったという。

 

樋口盛秀の碑  野間銀次郎の碑
故飯野藩大夫樋口盛秀君碑保科家盡忠士野間銀次郎君之碑 「明治元年六月十二日自尽」

参考図書
・富津市史編さん委員会『富津市史

静廣院の墓と会津の照姫のこと

 会津藩最後の藩主松平容保の義姉であり鶴ヶ城(若松城)籠城に際して奮闘した照姫(熈)は、飯野藩主の娘である。
 母は淨信寺に墓が有る側室静広院。

静広院の墓

▲照姫の母静広院の墓
「明治三庚午歳 静廣院殿邦誉操謐大姉」

 

 照姫は飯野藩九代藩主保科正丕(まさもと)の三女照は、側室の静広院を母として天保3年(1832)12月13日に江戸藩邸で生まれた。

 天保13年(1842)5月25日に11歳で会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となる。容敬の子が次々に夭折した為、美少女で教養の高い照姫を迎えたともいう。翌年、容敬に娘の敏子が誕生。

 嘉永2年、18歳の時に豊前中津藩(現在の大分県中津市)10万石八代藩主奥平大膳大夫昌服(まさもと。この時21歳)に嫁したが子宝に恵まれず不縁となり、弘化5年(1848)会津藩の江戸藩邸に帰る。
 敏子は美濃高須藩より銈之允(照姫の義弟、容保)を迎える。
 照姫は義姉として容保公を支えた。

 松平容保追討令が下され、照姫の実弟保科正益が継いだ飯野藩でも幕府と会津への義によって森要蔵などが脱藩し新政府軍と戦った。
 慶応4年(1868)照姫38歳の時、戊辰戦争の局面である会津戦争で鶴ヶ城籠城は8月23日から9月22日まで続いた。
 照姫は城内にあって六百有余の婦女子の指揮をとり、次々運び込まれる傷兵の手当・食料の調製・敵弾の防火処置など毅然として活躍し、女達は「照姫様のために」を合言葉に戦い続けた。

 鶴ヶ城開城式の後、容保公は滝沢村の妙国寺に謹慎、照姫もそれに従う。照姫は髪を落として照桂院と名を改めた。

荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
身にしみ増さる 夜あらしの声

 翌明治2年(1869)2月19日東京へ向かい、3月10日東京着、青山の紀州藩邸(徳川茂承)に預けられた。
 新政府から会津藩への伝達・伝令は直接新政府からでなく、大方は飯野藩主保科正益を通じてなされていた。
 5月18日、会津藩叛逆の首謀者として家老萱野権兵衛一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑された時に、照姫は次の歌を寄せた。

夢うつつ 思いも分ず惜しむぞよ
まことある名は 世に残れども

 12月3日、命によって照姫は飯野藩に預け替となり、27年ぶりに実家で起居することになった。
 しかし飯野で翌明治3年3月2日に母静廣院が亡くなる。

 照姫は明治17年(1884)2月28日、53歳で逗留先の東京牛込(旧会津藩家老山川邸)にて死去。新宿正受院に葬られる。

 

──と、まずは略歴。照姫や萱野権兵衛については今後も書いていくと思います。
ちなみに放送中の大河ドラマ『八重の桜』でのキャストは

照姫:稲森いずみさん
萱野権兵衛:柳沢慎吾さんです。

飯野藩第2代藩主「保科正景」と浄信寺

浄信寺山門 浄信寺本堂

福聚山泰嶽院淨信寺
慶長6年(1601)開基、元禄9年(1696)10月に正景公が本堂を再建。

保科正景(ほしな まさかげ/1616-1700)
 上総飯野藩の第2代藩主。元和2年(1616)9月5日、初代藩主・保科正貞の長男として生まれてから30年間行方不明だった。※正貞は廃嫡されて流浪した経緯があったため
 正貞ははじめ甥の主水正英(もんどまさふさ。但馬国出石藩・和泉国岸和田藩主小出吉英の三男)を養子として迎え、正景には家督相続権が無かった。しかし正貞が藩主として復帰し、正保3年(1646)正景が見つかると世子となり、寛文元年(1661年)に父の死去で45歳で跡を継ぐこととなった。正貞の遺領のうち長狭郡内2000石を正英に分与し15000石襲封。

 寛文5年(1665)には大坂加番(岩岐坂・青屋口)に任じられ、寛文10年(1670)には日光祭礼奉行となる。紅葉山仏殿火の番、江戸城雉子橋門番などを務め、延宝5年(1677)には大坂玉造口定番になり丹波国内で5000石を加増され20000石になる。藩政にも大きな治績があったという。

 貞享3年(1686)10月老を告げ四男の正賢に家督を譲って隠居し帰元と号した。貞享4年から飯野陣屋に居住し元禄13年(1700)5月16日に藩邸にて死去。享年85。眞誉帰元泰嶽院と号す。周准郡青木村(現富津市青木)の淨信寺に埋葬された。※飯野藩主で飯野に墓所が有るのは正景のみ

浄信寺保科正景公墓 正景の墓案内板

▲淨信寺の保科正景公の墓(富津市指定史跡)

浄信寺石燈籠 浄信寺石灯篭案内板

▲正景公が再建した浄信寺へ元禄9年(1696)に寄進した石燈籠
花崗岩製・六角形で高さ2m90cmある市内最大級の燈籠で、富津市指定文化財。

向かって右の石燈籠 並び九曜

保科家の並九曜。もう一基(左写真)には浄信寺の九曜紋が刻まれている。

「旹元禄九丙子年九月日 奉竒進石燈籠二基 施主
 保科弾正忠正景敬白 行年八十一歳
 上総国周潗郡青木村 副寿山浄信寺」

正景公の墓石

▲正景公が眠る墓
金石文「泰嶽院殿前従五位真誉帰元大居士 五月十有六日」

▲飯野藩士寄進の手水鉢
飯野藩重臣の大須賀三郎右衛門定久と多胡(與)惣右衛門政次が寄進

福聚山泰嶽院淨信寺
・所在地:千葉県富津市青木887
・浄土宗 千葉教区web:http://www.jodo-chiba.jp/

飯野藩の藩校「明新館」

飯野藩「明新館」跡地 木漏れ日の差す藩校跡地

 江戸時代末期に飯野陣屋内の三の丸、三条塚古墳の前方部から東側くびれ部にかけて飯野藩の藩校「明新館」が設立され、士族の子弟を対象に支那学(漢学)中心に教育した。

 2年を一期として六等級、入学は8歳で(素読生の六等)、12年間就学し19歳(講習生の一等)で卒業。卒業後は専門の学問を研究させる。
 正月17日から12月25日まで開校され、1、6の日が素読生と質問生の休みであるが、6の日は詩文会が催されるので余力のある者は参加しなければならなかった。試験は春・秋2回。

 職員としては学問教授、副教授が置かれたが、明治3年12月改正して学校教長、副教長、助教とした。教長1、副教長3、助教似2人がおり、当時生徒は83人居たという。
 後年下飯野北小学校となった。

 

明新館学則 [●専力(主たる教科書) ▲兼力(副読本) ■余力(準副読本)]

・素読生(漢文を音読する)授業:午前7時~9時
[六等]
●孝経、四経 ■三字経、千字文
[五等]
●詩経、書経、礼記 ■春秋、易経

・質問生(解読し質問する)授業:午前9時~11時
[四等]
●論語、孟子 ▲十八史略、国史略、蒙求 ■孝経、元明史略
[三等]
●左伝、学庸 ▲史記、日本外史、地球略説 ■漢書、作詩、文書規範

・講習生(教師から講習を受ける)
[二等]
●詩経、書経 ▲歴史網鑑、大日本史、瀛寰史略 ■資治通鑑、八大家文、作文
[一等]
●礼記、易経 ▲論衡、貞観政要、万国公法 ■博物新論、武経開宗、令義解

 

 学者の織本東岳(履道)が明治2年に飯野藩主保科侯に招かれて明新館の教授となり、更に校長を務め、同年10月に権大参事(幕藩体制での家老や現在の副知事に相当)に任ぜられた。
 通称は徳輔。明治初年に現在の富津仲町に学塾「始愛舎」開塾。
 小林一茶と交流のあった女流俳人織本花嬌の曾孫にあたる。

 

 また、嘉永年間(1848~1854年)頃から飯野村内に庶民にも読書・習字を教える寺子屋が多く在ったが、明治5年(1872)の学制発布によって廃業となる。

参考図書・サイト
・富津市史編さん委員会『富津市史
・千葉県教育会『千葉県教育史 第1巻』第五節 明新館
・富津市ホームページ http://www.city.futtsu.lg.jp/

飯野陣屋の屋敷稲荷(飯野神社)

飯野神社 飯野神社の石灯篭

 本丸の西に接する屋敷稲荷は最初、稲荷塚の墳丘上に鎮座していたが宝暦八(1758)年に第6代藩主保科正宜によって稲荷塚から今の場所に移された。
 明治政府が明治39(1906)年12月に一町村一社を原則に神社を統廃合し数を減らす「神社合祀令」を発布し千葉県下でも実施され、明治44(1909)年4月20日に堰田の八坂神社を始め、7月17日の下飯野神明神社を最後として二年間に飯野村内の全ての神社を取り壊し、15社を合祀して社号を飯野神社とし新しく社殿を増営した。

飯野神社

▲正面の綺麗な拝殿は平成に入って新築されたもの。

 

 案内板によると祭神は保食命、相殿神は建御名方命など。
 食物神である保食命は豊穣をつかさどる稲荷神社の祭神、建御名方命は保科家のルーツである諏訪の神なので、近隣の諏訪宮を合祀したよりも先に相殿神として祀られていたのでしょうか。(機会が有れば調べてみます)
保科家の家紋は「並九曜」と「梶の葉」であるが、梶の葉は保科氏が諏訪の神裔であることに由来するという。

 諏訪神としての建御名方命は諏訪に移った際に諏訪湖の龍神を征した経緯があるが、護国のため龍神となる伝承もある。飯野陣屋のお濠の水が枯れないよう雨乞いのため竜神の舞を奉納するという伝統行事にも関わるのかもしれない。

飯野神社

▲こちらの額の飯墅(飯野)神社の社号はだいぶかすれている

庚申塔の三猿と狛犬 飯野神社の石祠や石仏

庚申塔の三猿や明治初期の狛犬御嶽三柱大神の神号碑
 石祠や石仏が集められている

飯野神社 末社

 飯野神社稲荷口稲荷神社と共に合祀された神社は、記念碑に「本丸の楠稲荷神社」「内小平田稲荷神社」「堰田の八坂神社」「森山の日吉神社・末社の厄神社」「神明山の神明神社・末社の佐田社・住吉社」「上五畝田の八坂神社」「北御堂谷の菅原神社」「鹿島の日吉神社」「本谷の八坂神社」「向谷の日吉神社」「上の宮日吉神社」「本村の神明神社」「百目木の日吉神社」「東内裏塚の珠名神社」とある。

 祭神は、君津郡誌下巻の飯野神社の項目では、保食命(うけもちのかみ)、建御名方命(たけみなかたのみこと)、大國主神(おおくにぬしのかみ)、稚産靈命(わくむすびのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、迦具土神(かぐつちのかみ)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、誉田別尊(ほむたわけのみこと※応神天皇)、大己貴命(おおなむちのみこと) 、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、佐田彦命(さるたひこのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、菅原道真(すがわらのみちざね)公、聖神(ひじりのかみ)、末珠名(すえのたまな)とある。

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政令で一社にまとめたので仕方ないことですが、天津神も国津神も天神様もいっしょくたですね……

参考図書
・富津市教育委員会『富津市文化財ガイドブック』
・富津市史編さん委員会『富津市史
・君津郡教育会『君津郡誌