上総国飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)

保科氏は信濃国内にいくつかの氏族がありルーツも諸説ある。
このページでは飯野藩保科家に絞り、先祖は保科郷に住んだ諏訪神族の流れで、戦乱で血統が途絶えると信濃源氏井上家の筋が継いだとされる系譜を追っていく。
 ※無断転載を禁じます

 
▲左写真は保科館が在った須釜、その南の滝崎の保科正保館跡を望む。右は向かいに嘉増山城跡

保科郷はほぼ現在の長野市若穂(わかほ)地域にあたる。『和名類聚抄』に高井郡の郷名として穂科 保之奈とあり、
初め保之奈、和銅6年(713)5月の好字令により「穂科」としたと考えられる。星名の字があてられることも多い。
伊勢神宮外宮の荘園である保科御厨が置かれ、観音山には古刹の清水寺が座し、
文治3年(1187)2月25日に源頼朝が相模三浦義澄邸で宴遊した際に、信濃國保科宿の遊女長者(遊女の代表者)が
訴訟で参住していたので召し出して郢曲(えいきょく。流行歌謡)を歌わせた記述が『吾妻鑑』にあり、
中世より鎌倉から信濃善光寺へ至る街道に含まれる保科道は街道宿として栄えたことが窺える。

 

■■平安時代の諏訪神家保科氏

諏訪氏は諏訪大明神建御名方命の斎孫として諏訪大社の祭祀を司る「大祝」を世襲していた。
一族の傍流は武士団を形成し、神職と武力を併せ持って土地を治める豪族であった。
歴史の中で他の信濃豪族と複雑に入り混じり後世では清和源氏流等の系譜も生まれる。

永承6年(1051)~康平5年(1062)までの奥州前九年の役で河内源氏棟梁の源頼義・嫡男八幡太郎義家らが挙兵し、諏訪家へ援隊を求めたが、大祝は現人神であり諏訪の地を離れられず人馬の血肉に触れる穢れを忌む神誓のため
大祝為信は、子の神太為仲を従軍させる。

治暦2年(1066)3月6日為仲は大祝を継ぐが、その後源義家に再び頼られ出陣する。為仲は武功をあげ、諏訪神の武神としての御利生を広く知らしめた。
寛治元年(1087)11月、後三年の出羽征討を終え翌年3月に凱旋上洛中の美濃国筵田荘芝原で、為仲は大祝としての神誓を破った報いか家臣が新羅三郎義光(義家の弟)の家臣と諍いを起こした責任をとり自刃してしまう。
(『諏訪大明神畫詞』『神氏系圖』等より要約)

為仲の子の神五郎為盛(信濃介。母は源為公の娘)は大祝を継がずに英多郷関屋(埴科郡。現松代町豊栄)へ移り、
母方の源氏を称した。
為盛の子の神太夫盛行は神氏に復している。

盛行の子の四郎太夫行遠保科郷堀ノ内(現在の上和田。付近に古代遺跡の星塚あり)に居住。
仁安年間(1166~69)に郷名を以って保科四郎太夫行遠と称し、諏訪社を建てたとされる。
行遠は北濃の武士団保科党(『源平盛衰記』では星名党。笠原時行、藤澤次郎清親、寺尾太夫業遠と弟の秀遠、関屋行光、三澤行衡、四宮成宗、大熊重衛等)として子(孫とも)の保科友衛と共に武勇を示す。

源頼朝が挙兵し、諏訪の大祝が源平どちらに付くか決めかねていた時に諏訪大神が梶の葉で白旗を指し示す夢を見て、白旗の源氏に味方したという。保科氏も含む諏訪家の氏族が梶の葉の紋である由来の一つの逸話である。
保科党や信濃源氏井上光盛(『平家物語』光盛『源平盛衰記』光基)は、源義仲(木曽義仲。頼朝の従兄弟)に呼応した。

治承4年(1181)6月14日千曲川の横田河原の合戦で井上光盛が保科党三百余騎を伴って、増援偽装の奇計を成功させ、平家方越後勢の大軍を撃退した。
…井上九郎光基ハ星名黨ヲ相具シテ三百餘騎赤旗俄ニ作出シ赤符ヲ白符ノ上ニ付隠シテ…(『源平盛衰記』)

寿永2年(1183)5月の礪波山倶利伽羅峠の戦いで先手をとるため星名党が差向けられた。
…其時義仲搦手ヘ廻澄シテ追手搦手北南ヨリ押合テ平家ヲ倶梨伽羅南谷ヘ攻落サント思フ也。去バ急馳向テ陣ヲ取ントテ信濃国住人星名黨ヲ差遣ス。(『源平盛衰記』)

その後源頼朝は源範頼・義経らに義仲の討伐を命じ木曾源氏は壊滅した。
戦乱の中で保科友衛が戦死し、近親も神野氏・笠原氏に分家しているため、神氏保科家の血脈は途絶えた。

以降は、保科党と共闘した井上光盛の同族、井上太郎忠長の血統が保科郷保科家を継承することとなる。

 

保科氏略系図【諏訪神族系】(諸説あり。『諏訪氏系圖』『神氏系圖』等から綜合)
建御名方刀美命─…(略)…─神太為仲──為盛──神太夫盛行┬─神太郎行長─…
                            └─保科四郎太夫行遠┬─行信・友衛(宗行)[戦死→井上忠長が保科氏再興]
                                      └─保科惡三郎行時(行通、行直)──行連─…[→笠原氏]

保科氏略系図【清和源氏井上氏系】(諸説あり。『保科家譜』『尊卑分脈』等から綜合。正利は『保科世家畧』に拠るが疑問が残る)

清和天皇─…(略)…─井上三郎頼季──井上三郎太夫満実┬─井上太郎遠光┬─(太郎光盛?)
                          │       └─次郎敦村
                          └─時田太郎光平──桑洞二郎光長┬─桑洞五郎清長──矢井守太郎忠長
                                          └─井上九郎光盛──光信

矢井守(保科)太郎忠長──保科太郎長直┬─窪小太郎長時┬─無関普門
                  │       └─太郎忠直──保科太郎光利──正知/正利┬─正則(弾正忠)─…[→高遠系]
                  └─窪二郎経長──三郎長基                └─正保(左近将監)─…[→保科村系]

 

■■保科氏を継いだ井上太郎忠長

井上氏は、清和天皇6世孫の清和源氏で信濃国に住んだ源頼季(掃部助。乙葉三郎)の後裔。
頼季は嫡子満実と共に井上郷(保科郷の北方)に移り住み、地名から井上を称した。

井上満実は神氏の娘を娶ったという。子の光平は、時田(鴇田)郷で分家して時田を称した。
光平の嫡子光長は桑洞(くわほり。桑淵とも)氏となり、光長の弟が時田を継ぐ。
(なお小県郡の常田/時田は滋野氏の流れとされる)
そして桑洞出の矢井守太郎忠長が井上嫡流(遠光の筋)の養子に入り、井上城の城主となった。

承安2年(1172)井上忠長(矢井守太郎)は入道し、その後保科郷に移り、姻戚の縁あってか跡継ぎが戦死してしまった保科家を後継したと伝わっている。
井上城主は井上光盛(『尊卑分脈』では忠長の叔父)が継ぎ、木曽義仲に味方して保科党と共に戦功をあげた。
『吾妻鑑』では保科太郎忠長の子の太郎長直が井上光盛の侍として書かれている。

「井上光盛」は謎が多く、『平家物語』の九郎光盛(満実の弟光明の子)、『源平盛衰記』の九郎光基、『承久記』『吾妻鑑』の太郎光盛は同一視されている。
『尊卑分脈』では満実の嫡孫の太郎光盛(勅勘を蒙り流人)、満実の曾孫の光盛(右大将家に誅殺)の二者存在する。

 

■■鎌倉時代の保科氏

寿永3年(1184)6月16日(『平家物語』は4月)、源頼朝が甲斐源氏棟梁の武田信義(新羅三郎義光の曾孫)の謀反を疑い、信義の嫡男一条次郎忠頼を鎌倉に招いて暗殺させた。
平家を京から追放した河内源氏木曽義仲、義仲を頼朝の命で討ち京の治安を護った甲斐源氏武田信義、同じ源氏であっても(あるからこそ)頼朝の粛清対象になった。
7月10日に、一条忠頼の同調者として、井上光盛が駿河国蒲原駅で誅殺され、井上領が没収されてしまう。
25日に井上光盛の侍、保科太郎長直らは頼朝に帰順の意を示し参じて御家人となった。
廿五日、辛亥、故井上太郎光盛侍保科太郎、小河原雲藤三郎等為降人参上、仍可為御家人之由被仰下、藤内朝宗奉行…(『吾妻鑑』)
長直は5年間鎌倉に奉公し源姓を与えられる。

長直の嫡男の小太郎長時は、系図に窪小太郎とある。
建暦2年(1212)長時の子の普門(忠良の兄とされる。南禅寺開祖、大明国師)は保科郷で生まれ、幼くして母に抱かれ越後の伯父、蒲原郡菅名荘正圓寺の寂圓法師の元へ連れられている。7歳で寂圓法師に依り寺童となり、13歳で落飾(出家)した。
京兆瑞龍山南禪寺沙門普門伝 釋ヲ普門、無関ト號ス。信州保科ノ人。世次ハ源姓…(『本朝高僧伝』)

建暦3年(1213)2月15日、御家人泉小次郎親平(信濃源氏。親衡)が源頼家(鎌倉幕府2代将軍)遺児の千寿丸を擁立して執権北条義時の失脚を謀る扇動が発覚し、翌日に加担者が多く捕らえられ『吾妻鑑』には「信濃國保科次郎」の名もある。27日に加担者はそれぞれの配所(流罪の地)へ送還された。
窪の改氏や普門の出家もこの沙汰によるかは定かでないが、次の伝承がある。
謀反者には有力な鎌倉御家人和田義盛の子らも含まれ、甥の胤長の赦免が聞き入れられず5月に和田一族を挙げて将軍御所を襲撃した。幕府勢による鎮圧後、流罪の加担者達は赦免されるも和田氏は許されず滅び、生き延びた和田一族の者が保科氏を頼り、保科郷に受け入れられた。和田氏が保科邸の南東に譲り受けた地が現在の和田地区で、和田東山城は和田氏の城ともされる。

保科郷の保科氏は復氏し、普門の弟の保科太郎忠直が継いだ。

承久3年(1221)後鳥羽上皇が北条義時討伐の院宣を出し、朝廷と鎌倉幕府軍が交戦した承久の乱が勃発。赦免された保科次郎が親子も北条方で参戦し『承久記』6月5日幕府軍方の東山道軍勢に「星名次郎親子」の名がある。
数年後に普門も一時信濃に帰り(出奔とも)鹽田に寄宿、十代の内に諸国行脚している。
保科氏の系図を見ると保科次郎親子は保科太郎長直の子の窪二郎経長(長時の弟)とその子三郎長基があてはまりそうだが、井上氏の系図では井上八郎経長(忠長の三男)・小太郎長基として井上領を継いでいる。

 
▲大本山南禅寺開山大明国師御生誕生霊跡碑・無関普門の顕彰碑

 

■■南北朝・室町時代の保科氏

建武2年(1335)後醍醐天皇と足利氏の建武政権に対して、信濃の諏訪三郎頼重・三浦介時継親子ら諏訪祝部一族と滋野一族等が相模入道(北条高時)次男の相模次郎時行を擁立し蜂起した。
7月14日に諏訪神氏流の四宮左衛門太郎と保科弥三郎を大将として埴科郡船山郷の青沼へ押寄せ足利方の信濃守護小笠原貞宗を襲撃するも破れなかったが、転戦と北条方残党の坂東武者との同調により時行党は鎌倉まで攻入り、執権足利直義の将軍府勢を退けた。
…同十四日、爲保科彌三郎・四宮左衛門太郎大将、押寄青沼之間…(『市河家文書』)
8月京の足利尊氏が下向し北条方を排撃、19日に鎌倉勝長壽院で諏訪頼重父子ら自害。

四宮(しのみや)氏は諏訪神族保科四郎太夫行遠の兄、神太郎行長の後裔。
保科彌三郎は不詳だが、この沙汰により保科郷の高井穂神社の神職が保科氏から竹内氏に変わっているようだ。
諏訪一族の領地や神職の座は情勢より翻弄されたが、間もなく南北朝が成り、北条(相模次郎)時行は後醍醐天皇の南朝と結盟し朝敵を免除された。

南朝天授3年(1377)1月13日「神使御頭保科某」の訃報が『守矢文書』内にあり、保科氏が諏訪上社頭役等をつとめていたことが窺える。

保科忠直の子の太郎光利は保科村の地頭として村内の寺社に寄進、造営の記録が残る。
※光利は他の保科太郎との混同がみられる。また『保科世家畧』では長時のあとに光利が続く

康正の頃(1455~1457)から保科郷の他に所在する保科一族も諏訪社上社神使御頭役等に従事していたことが『諏訪御符禮之古書』に記されている。
康正から文明(1469~1486)に河田郷(現在の若穂川田付近)の保科氏が代々勤めた。
古くは穂科(保之奈)郷は後の保科村と河田村を併せた区域であった。特に河田集落は保科氏館の堀ノ内と近接しており、支郷河田と併せた一帯を保科一族が連携し統治していたのであろう。

この頃、信濃北部の河田保科氏と共に信濃南部の伊那に保科一族が所在した。
長禄3年(1459)10月から伊那の藤澤代官保科筑前守家親が『諏訪御符禮之古書』に現れ
文明6年(1474)10月から「保科弾正殿」として家親の子の保科貞親にかわる。保科弾正貞親は藤澤代官を継ぎ、筑後守を称した。

 
▲保科川にかかる丹後橋は保科丹後守光利に因む橋という

 

■■信濃戦乱

 

霜台城は、前山の小出城跡に続く窪山の二つの高台を利用して築かれた保科氏の城である。
上の台は東西9間・南北12間、下の台は東西9間・南北10間。800m近い高さの上下の台地から周辺一帯が見渡せる。
麓の保科川は菱川とも呼ばれていた。
霜臺(霜台、そうたい)は「弾正臺」の唐名で、城主の保科弾正に因んだ呼称とされる。
築城者は保科正利、保科忠長等諸説ある。

戦国の世となり、光利の子の正利正知の改名か)は霜台城南麓の須釜の地に保科館を構えて侵略に備えた。
北信では信濃源氏の村上氏(埴科郡葛尾城主)が勢力を伸ばして井上一族の領地に攻入り、保科郷も戦火に見舞われる。

南信では前述の伊那の保科氏を初め諏訪系支族の内乱が繰り広げられた。
文明14(1482)6月30日に藤澤代官保科貞親と千野氏(茅野。保科氏と同じく神氏一門)が、藤澤を領する高遠の諏訪次郎継宗と伊那笠原で合戦し、諏訪政満の援軍を得て勝利。8月7日に保科貞親が栗木田城を奪取した。(『守矢満実書留』より要約)

 

■■高遠城主・大名保科氏の系譜へ

その後、正利の子の正則伊那の藤澤に移住し、後の大名保科氏の系譜の祖となるが、その時期は諸説ある。
近代編纂の伊那や高井郡の郷土史では長享年間(1487~88)に高井郡を村上顕国に攻められ移住した説を採っているものが多い。
……村上氏が高井郡を制するのは長享より後であり、この説の場合は村上氏は数度保科郷を襲い、その抗戦の最中に正則を伊那の保科氏の保護下に置いたと推察できる。

『保科世譜』では正則が6歳の時に諏訪有賀から移住とする。
……有賀は諏訪一族の有賀氏が領しており正則が諏訪一族の保護を経たか、他の保科氏との混同かは不詳。尚、長享元年(1487)7月27日高遠の諏訪継宗が有賀を攻めている。

『保科世家畧』では永正3年(1506)正利が没し、子の正則(後の筑前守)が弾正忠を称し、その後村上顕国に攻められたとする。
『保科御事暦』では永正4年(1507)5月21日に保科甚四郎正俊が藤澤で出生したとする。
……正則の子の正俊(後に筑前守、武田の将となる槍弾正)が誕生時までに正則は移住していることになるだろう。

『郡村誌』では天文年中(1532~1555)保科領主保科筑前守正則の長子掃部丞正英と弟の弾正忠正俊が移住し、天文18年に正英の長子八左衛門正満は分家し藤沢を称したとする。
……時期と正則を保科領主とする記述には疑問があるが、古くから在る諏訪神族藤沢氏とは別の保科から出た藤沢氏のルーツを掲示している。
なお藤沢村の個人蔵判物の記録(現在は所在不明)に天文15年8月9日付武田晴信(信玄)の朱印があり、保科掃部丞に伊那郡役所五疋分(伝馬免許)とある。

保科郷の保科氏と伊那の保科貞親との関係は不明であり、交えずにおくのが無難である。
だが憶測として正則・正俊親子は貞親の家系から筑前守・弾正を継承したという線も想像し得るだろう。

 

■■その後の保科郷

延徳元年(1489)保科郷に保科正利が現在の高下地区に広徳寺を創建したとされる。
永正3年(1506)8月17日に正利は没した。

永正10年(1513)3月、村上中務太輔頼衡(頼平。信濃守。義清の父)が高井郡に侵攻し、
須釜の保科氏の館と広徳寺伽藍が焼失。
※12年とも。また村上顕国と頼平は、親子説と同一人物説あり。
正則の弟の左近将監(さこんのしょうげん。左近充)正保は村上氏に降って残留し、保科郷を安堵され五百貫の地頭となる。河田(三百貫)は川田氏が地頭となった。

天文の頃、諏訪神使御頭選定にあたり高井郡の保科氏が引き役が続き宛がわれている。
※天文2年(1533)大縣介、天文14年(1545)宮付、天文15年(1546)大縣介。全1月1日、『神使御頭之日記』他守矢家文書

天文22年(1553)正保は村上頼衡の子の義清に属して旗本大将として上田原に出陣。
永禄の初め頃に武田に従った後、織田の家臣森氏、上杉氏に属して保科を領した。
『長野県町村誌』によると滝崎に正保の館跡があったという。

慶長3年(1598)3月上杉氏の会津移封で正保の子の美濃守正賢と共に浪人する。
明暦3年(1657)正賢の孫伝兵衛正具が真田氏に仕える際に滝崎の屋敷を売渡す。
安永9年(1780)に故あって断絶し、遺族は峯村と改姓した。※異説あり

 
▲広徳寺と霜台城址中腹の弾正岩(坪岩)
天文2年(1533)保科氏の館跡に保科正保により広徳寺が再建され、保科氏の館の焼け残った裏門が現在の寺の総門となっていると伝わっている。

※無断転載を禁じます

 

* * *

【余話】保科の星塚伝説
保科郷は星鎖石・落星石といわれる灰白色の「矢の根石(やのねいし、鏃石)」が多く発掘され、江戸時代の16世住職の楚賢の頃には広徳寺が所蔵していた。
上和田には「星塚(ほしづか)遺跡」がある。

故事として『信濃奇勝録』に「昔、保科弾正 悪星を射落として、星塚を築く」と挙げられている。まるで中国神話の羿が地を焼く9つの太陽を射落としたように災いの悪星を弓で射落としたというのだ。射落としたのは保科太郎忠長ともされる。
このことから保科は「空から(悪)星を無くしたことから星無または星名と書かれた」や「保科氏の家紋が九曜星となった」などの俗説も生まれた。
なお、九曜星の1つ羅睺は悪星ともされる。

←戻る