上総国飯野藩最後の藩主・保科正益

飯野藩藩主保科正益 保科弾正忠正益は、上総飯野藩の第10代藩主。幕末の江戸幕府の若年寄。

保科正益 年表

年代西暦保科正益の出来事飯野藩の出来事
天保3年1832・正月7日 保科正丕次男の捨五郎が江戸で出生。母は側室の民(重枝とも)
・7月16日 捨五郎が死亡する。
・12月13日 正丕の三女凞(照姫)が江戸で生まれる。次男と同母。
天保4年18332月3日 飯野藩第9代藩主・保科正丕の三男として江戸屋敷で出生。照姫同母。病弱なために正丕は幕府に出生届を出さなかった。幼名は咸六郎または成三郎。
天保7年18362月2日 長男(徳五郎)と次男が相次いで早世し、咸六郎の出生届が提出される
※長女の押(つね)と次女の茂世も早世している
天保11年1840玄武館四天王と謳われた森要蔵が藩主正丕の御前試合で勝利をおさめ、飯野藩剣術指南役に。
天保13年1842・5月25日 照姫が会津藩主松平容敬の養女となる。
弘化1年1844・11月3日 江戸城造営に500両上納
弘化2年1845・飯野藩独自で領分の周准郡青木浦の保科の陣場「三番手」(現在の農協辺り)「二番手(飯野藩所有の山『との山』)」「一番手(鯨洲辺り)」に土塁を巡らし外国船見張番所を設置
弘化3年1846・閏5月26日 浦賀にアメリカのジェームズ・ビッドルが通商を求め軍艦2隻で来航し、6月5日浦賀奉行大久保忠豊・同一柳直方が小田原・六浦・飯野・館山各藩主に檄を伝え、正丕は浦賀へ警衛動員する
弘化4年1847世子となる・2月 正丕は二回目の大坂加番を命ぜられ大坂へ
嘉永元年18487月16日 咸六郎、父正丕死去のため16歳で家督を継ぐ・3月17日 正丕が大坂加藩在任中に大城中で病死(享年48)
嘉永3年18505月 将軍家慶に初見
6月23日 元服
8月15日 就封により江戸に登営
12月16日 従五位下、弾正忠に叙任される
嘉永4年18512月16日 江戸城馬場先門番
4月2日 日光祭礼奉行(合役は永井信濃守)
8月15日 就封により江戸登営
10月13日 会津藩所管の富津(上総国周准郡)屯所を巡見
12月15日 参府により江戸登営
・領内の損耗高を幕府に申し出る
嘉永5年18523月1日 江戸城田安門番
8月15日 就封により江戸登営
12月14日 参府により江戸登営
嘉永6年18536月4日 ペリー来航につき青木浦へ一番手を動員
8月 幕府へ米国国書に対する意見書を提出
9月25日 就封により江戸登営
12月15日 参府により江戸登営
・江戸城門番(一橋門)
嘉永7年
安政元年
18548月15日 就封により江戸登営
・異国船が再び来航し青木浦の警備動員
安政2年18558月15日 就封により江戸登営
9月10日 明秋、大坂加番に服したい旨を幕府に請う
12月23日 参府により江戸登営
安政3年18562月8日 大坂城の中小屋口加番に任命される
安政5年18582月 江戸城竹橋門番
10月5日 就封により登営
12月15日 参府により江戸登営
安政6年18592月16日 江戸城一橋門番
4月 日光祭礼奉行代
8月15日 就封により江戸登営
12月15日 参府により江戸登営
万延元年18604月 日光祭礼奉行代
8月15日 就封により登営
12月15日 参府により江戸登営
・2月26日 飯野藩領である丹波国天田郡で専売制の撤廃などを要求した五千石騒動と呼ばれる強訴が起きる。
文久元年1861正月 紅葉山警固
8月15日 就封により登営
9月 江戸城一橋門番
文久2年18628月 大坂中小屋口加番
文久3年18635月8日 大坂加番として在城中に、大坂京橋口定番(山崎藩主本多肥後守忠鄰代)に任命される
元治元年18641月17日 真忠組討伐に藩兵を出す
7月16日 定番就任中に京都守護職松平容保・所司代松平定敬・老中稲葉正邦へ、萩藩士等の上坂制止に関して意見を連署
12月 飯野藩で水戸浪士25名を飯野藩邸に預かる(慶応4年春の赦免まで)
※尊皇攘夷派浪士の松平熊太郎・三浦帯刀有国・楠音次郎正光等が真忠組と称して下総国八日市・上総国小関・茂原村に屯集し、付近を剽掠。佐倉・福島・飯野・一宮・久留里・多胡・大多喜藩主が幕府より討伐を命じられ、帯刀ら捕斬。

・3月27日 水戸藩の尊皇攘夷派の天狗党が筑波山に挙兵、保守門閥派の諸生党に分かれて争ったが、水戸藩主は幕府に鎮圧を依頼しこれを鎮圧。那珂港で降伏した者のうち士分の者のみ各藩へ預けられた。
※水戸浪士達は囚われの身であっても漢学の細密な講義をなすほど勉学に長けており、これまで武術を奨励し小藩では常陸国笠間藩と並び称された飯野藩はこれを期に学問にも目を向けて藩校明進館を設立したという。
慶応元年1865・3月27日 幕府が飯野等諸藩に水戸藩士等の処分決定を通達
・閏5月 大多喜藩主大河内正質の征長従軍により預中の常野浪士を飯野等諸藩に引渡す
・12月 幕府が飯野等諸藩に常野事件降人の寄場奉行交付を命じる
慶応2年18665月26日 に若年寄に昇進
6月1日 幕府の命で先手組(さきてぐみ。若年寄に属す取締組織)に摂津長興寺村の火薬庫を警衛させる折、臨時に藩兵を出す
6月28日 征長出陣により征夷大将軍徳川家茂から陣羽織を賜わる
7月25日 長州征討軍石州口における幕府軍総督を命じられる
8月3日 講武所隊兵及び津藩兵約2000人を率いて大坂を出発。途中播州(兵庫県)と伯州(鳥取県)の雨天増水で足止め
8月22日 出雲国(島根県)松江に着陣し、大村益次郎指揮下の長州軍と対峙
9月14日 芸州口(広島県)への転戦を命じられ、作州(岡山県)勝山まで来たところで老中板倉伊賀守から休戦を知らされる。老中水野出羽守忠誠(沼津藩主)に代って事務処理
10月13日 大坂へ帰着
10月17日 入京し京都西陣に旅営
10月24日 照徳院(家茂)遺品の文台と硯箱を拝領する
11月30日 大将軍宣下に関する事務取扱を命じられる
12月21日 大将軍徳川慶喜の参内に京都守護職松平容保・所司代松平越中守定敬(桑名藩主)・老中板倉伊賀守勝静(備中松山藩主)・若年寄京極主膳正高富(峰山藩主)・高家中条左衛門督信禮らと共に従う
・2月9日 飯野藩保管の清末藩没収地、江戸麻布古川町を普請方に交付

・6月7日 第2次長州征伐。しかし徳川家茂が征長の途上大坂城で病(脚気衝心)に倒れる。
・6月16日 石州口(石見国、現在の島根県)戦闘開始。長州は大村益次郎の実戦指揮を担当(指揮役は清末藩主・毛利元純)。中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻。武聰は病に臥していたために指揮が執れず山本半弥率いる藩軍は壊滅。
・7月18日 浜田城陥落。天領の石見銀山は長州が制圧した。
・7月20日 大坂城にて家茂薨去。享年21。(崩御の発表は8月20日)
※家茂の死を公にし慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息(小倉方面は翌年和約)。よって正益の芸州口への転戦の命は形式的なものと思われる。幕府にとって長州征伐は諸藩からの不評をかう結果となった。

・8月3日 幕府の命で保監中の常野降人柴田定之丞等11人を評定所に交付
慶応3年1867正月2日 京都を発つ。府中駅で病により3日逗留
1月19日 江戸着
6月25日(29日とも) 病により退役を願い出るが、まず養生を言い渡される
7月9日 再び願書を出す
7月11日 退役の願いが聴きいれられ、若年寄を辞任
9月11日 惣髪を願い出る
11月3日 非常時の江戸府内馬場先門外の警固にあたる
11月16日 朝召を辞すことを請う書に幕府帝鑑間席の藩主らと連署
12月18日 江戸市中でおこる強盗暴行に対し屋敷周辺の巡邏を命じられる
12月26日 旧幕府は江戸五宿に関門を置き、城門警備の部署を改め正益は28日から翌年2月24日まで品川宿関門(東海道から江戸に至る重要な関門)の警固を受け持つ
・正月3日 鳥羽伏見の戦。(朝廷は薩摩、長州、土佐に官軍の称を与える)
慶応4年

9/8明治改元
1868正月 藩政改革の為就封の暇を請う
朝廷から上洛の命が下り(正益は新政府側に与する代わりに前将軍・徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたともいわれる。『保科家記』には「勤王のため」)一旦飯野に戻る
3月1日 乗船、2日 飯野着
3月11日 青木浦から手船で出帆。浦賀へ上陸し尾張藩の船に乗り換え、18日 伊勢国四日市より上陸
3月21日 家臣74人・小銃31挺を携えての上京に他意はなくとも、東征軍が江戸に向けての進軍中であったためか、東海道草津駅(近江国栗太郡)で関吏に入京を差止められる
4月3日 入京が聴きいれられる
4月5日 京都北野御前通導故寺旅館に到着。だが親戚に当たる会津藩主松平容保が徹底抗戦の構えを取ったために、連座によって謹慎処分となり屏居
※4月26日 飯野藩老臣大須加貞右衛門・附添の八田助左衛門尉と進藤健造(もしくは大出十郎右衛門)が東下して東海道先鋒総督府に上り、正益の無断西上の陳謝と共に、且勤王証書を差出し正益の謹慎を釈すことを請い(重ねて閏4月7日・閏4月23日とも)
閏4月24日 謹慎が解かれる
5月4日 書を先鋒総督府に上り、撒兵隊が再び木更津駅に召集するとの伝聞を報告
※6月7日付で総督府へ重臣大須加貞右衛門・差添の大出十郎右衛門による嘆願上申書
6月12日 飯野・安房勝山・前橋藩兵を箱根戦に加勢させた罪を問われ、飯野藩では首謀者として藩士樋口盛秀を切腹・打首、野間銀治郎を打首にした。藩士富樫弥助が軍監の筑州藩へ報告書を差出す。
※正益は京で罪を待っていた。18日に親戚の丹後峰山藩主京極備中守高陳(たかのぶ)も正益の為に嘆願を上申する
6月29日 首謀者を誅したとして飯野藩の罪が赦される
7月18日 高島藩主諏訪伊勢守忠礼が帰藩と正益の摂津の別邑に赴くことを請い、20日に許される
7月26日 摂津国の領地へ出立
7月28日 浜村の陣屋が手狭のため石蓮寺村(現大阪府豊中市若竹町付近)真福寺に滞在
※9月22日午前10時鶴ヶ城開城後、新政府から会津藩への伝達・命令のほとんどを飯野藩主保科正益を通して行われた
10月2日 主上行幸につき東京へ参覲を願い、聴入れられる
10月8日 東京へ出立
10月23日 東京着新掘邸着
12月5日 東京市中取締を命じられ藩兵を指揮
12月 飯野陣屋に戻る
・2月22日 前名古屋藩主徳川慶勝、飯野藩含む諸藩及旧幕府交代寄合等四百四十七人の勤王の証書を携え7月13日までに5度朝廷に上る

・4月11日 江戸城無血開城後、幕府側の撒兵隊「義軍」2000人が木更津付近一帯に布陣、兵による圧力をもって協力を要請。
飯野藩では藩主京都へ上洛中のため藩の運営は家老の八田正臣と次席家老の樋口盛秀らに委ねられていたが、義軍に対し米300俵・槍20本を提供した。

・ 閏4月4日 藩主不在の飯野藩は請西藩脱藩元藩主林忠崇軍と遊撃隊伊庭八郎らに決起を促されて独断で家臣を脱藩させ、幕府軍に協力させることとし飯野藩士大出鋠之助(70石)を隊長に、服部左源太・山下廣之助・本田梅之助・大出熊次郎・樋口謙蔵・玉置銑之助・深沢弥三郎・富樫紀一郎・小野金平の士分、小松大助・山田金三郎・磯貝波衛・近藤徳之助・木村久治郎・猪口春造・野間銀治郎・小野悦之進・小野芳助・伊藤波三郎、合計20人の藩士を参加させる。

・閏4月7日 東海道先鋒副総督兼鎮撫使柳原前光が下総国佐倉に至り飯野含む等諸藩の重臣を召す。9日佐倉・飯野の2藩が供億を申し出る
・閏4月18日に飯野藩は林忠崇の旧領請西藩を預かり、請西村祥雲寺に30人余が駐屯していたが、5月16日滞陣慰労の演芸会後の夜、義軍を称する貫義隊19人ほどが寺の屋根に松明を投げ入れ斬りこんだために藩兵は退去。夜襲で少年武士三宅茂之助17歳・飯野藩仲間仙蔵56歳・市蔵42歳・倉吉51歳が討死。後に飯野藩は祥雲寺再建の為に献金している。
襲撃者達の追討のために派遣された官軍に林忠崇に協力した藩士の情報が漏れた前橋・勝山・飯野藩は西軍総督府に咎められた。各藩それぞれ幕府側に与した家臣を切腹させ謝罪することで贖った。

・林軍と遊撃隊は5月20日に箱根関所占拠し小田原藩の協力も得るが再び敵対した小田原藩と26日の湯本・山崎の戦(このとき飯野藩士は第五軍二番小隊に属し後方を守備)で敗れた。
遊撃隊は幕府艦隊に合流し、負傷者や要請に加わっただけの郷士らには暇を取らせ5月28日未明に館山に到るが、飯野隊士隊長の大出鋠之助などは帰藩せずに函館五稜郭の戦まで参戦したという。6月11日に官軍へ差出した書類では大出鋠之助・小野悦之進・伊藤波三郎の3名が未帰還となっている。

森要蔵も会津と飯野との関係を重んじて、家老らと黙約の上で閏4月末に脱藩した。会津救援に同行するものは藩の同志と門弟たち及び次男の虎雄でその数は28名(38名とも)であった。7月1日森親子は羽太方面で板垣退助率いる土佐藩八番隊と戦い戦死。
名前の判明している飯野藩士は●森要蔵(60歳)・●森虎雄(16歳)・勝俣音吉・小野光好・△小野悦三郎(悦之進とも。15歳)・小松維雄(20歳)・野間好雄・玉置仙之助(27歳か)・松田某・樋口盛孝(17歳)・佐々木信明・深沢為済・●花沢金八郎(18歳)・●多湖宗三郎・△大出鋠之助・●大出小一郎(23歳。鋠之助の弟)・△本田某・鶴田某・△服部左源太(箱根戦での副隊長)・伊藤英臣(14歳で最年少。当時小林)・林田某・田村某・△青木利右エ門・●小林寅之助 [●戦没者△箱根戦の大出鋠之助隊から会津救援に加わった者]
皆良く戦い、8月23日以降の会津籠城戦に加わり開城後に猪苗代へ幽囚の身となった者は6名であったという。

・7月17日 新政府が江戸を東京に改める。
・7月21日 請西藩を(4月18日林昌之助脱走につき)房総知県事柴山文平役所へ引き渡し、桜井藩主滝脇丹後守信敏(元小島藩主)に移管。
・8月5日 藩主不在の飯野藩は新政府の命を受けて官軍として旧幕府脱走兵の掃討に従事。

・8月23日から9月22日まで続いた鶴ヶ城籠城戦で照姫が奮闘し鶴ヶ城開城式の後、会津藩主松平容保公は滝沢村の妙国寺に謹慎、照姫もそれに従う。

・10月(11月)10日 村替。保科家は上総国周淮郡、石高2180余
明治2年18691月24日 会津藩戊辰戦争首謀の臣を田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛の三家老と新政府に申告
2月15日 元会津藩主松平容保父子の援助を請う
3月12日 版籍奉還の上表を新政府に進達
5月18 朝議より萱野権兵衛を斬に処す命令が下る。正益は政府の命令の処刑をさせず、飯野藩士沢田武治の介錯をもって切腹の作法通りに扇腹の形をとらせ、政府の斬罪の要望と、権兵衛に対し会津武士の面目両方を保させた。
6月22日 版籍奉還し、飯野藩知事に任じられる
9月29日 明治天皇が松平容保の実子、慶三郎をもって松平家相続を願い出よと正益に伝える
明治3年1867・3月2日 母静廣院が飯野で死去。
・10月4日 村替
・11月 飯野藩佐貫藩常備兵を編成。
明治4年18687月14日 廃藩置県で飯野県となり飯野藩は廃藩で免職。のちに子爵に列せられている
明治17年1884・2月28日 照姫東京にて死去。
明治21年18881月23日 死去。享年56。青山墓地に埋葬。法号高岳院殿徳雲雅馨大居士

・保科正益短冊
 山家早秋 日ぐらしの群も 枯ゆく木末より
      うつるもはやき 秋のさまかな

 

 妻は伊達宗紀(伊予国宇和島藩10万石の第7代藩主)の娘(宗城の妹にあたる)・節子
 正益の長男・保科家11代正昭(まさあき)は貴族院議員。妻は北白川宮能久親王(奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された輪王寺宮)の第3王女(香淳皇后女官長)武子(たけこ)女王。
 次男・咸次郎は楠田英世(新潟県知事)の婿養子となった。
 長女寧子は三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥に嫁ぐ。娘に澤田美喜
 次女尚子は海軍軍人の佐野常羽に嫁ぐ。
 三女建子は沢田鋓義(底倉温泉宿の主人。三菱財閥の4代目総帥岩崎小弥太の娘(三菱重工業社長の牧田與一郎夫人)の養父)に嫁いだ。

 孫娘(正益の次男咸次郎の娘)は元三菱銀行頭取の田実渉に嫁ぐ。
 民族主義者の牧田吉明(與一郎の四男)は正益の曾孫にあたる。
 正昭の子の正光(みつまさ。外交官)は太平洋戦争中の昭和20年4月1日大東亜省次官武内氏の随員として南方に出張した帰途の赤十字船阿波丸沈没事故で若くして亡くなった。妻は徳川宗家17代家正の三女の順子。子は正興(まさおき)。

 

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