上総国飯野藩初代藩主・保科正貞

飯野藩藩主保科正貞 保科正貞像(浄信寺蔵)
保科正貞(ほしな まささだ)は、上総国飯野藩初代藩主。弾正忠、従五位下。席次帝鑑間詰。
母は徳川家康の異父妹多劫姫。保科正光の異母弟、松平忠頼らの異父弟に当たる。室は京の公家の船橋二位清原枝賢の娘。
子は正景、正英(養子)、女子(永井大和守大江尚保室。養女か)

松平広忠─┬──於大の方──┬──久松俊勝
   德川家康   多劫姫(たけ/たこ)─┬─保科正直─┬─跡部越中守女
     │             保科正貞   保科正光
   德川秀忠                     │[養子]
     ├────┐                保科正之
   德川家光  幸松(保科正之)

保科正貞 年表

年号西暦保科正貞 経歴高遠藩・保科家関連
保科弾正忠正俊(越前守)・正直(筑前守)父子は伊那郡藤沢城を居としし、高遠城主の諏訪系高遠氏の代官を務めていた。
天文14年 武田晴信(信玄)が高遠城を落し、正俊は武田家に属して武功を立て槍弾正と呼ばれる。
元亀2年(1571)より飯田城入り、平谷・浪合方面の守備にあたった。
天正10年1582・2月14日 織田軍による武田攻めで、飯田城に加勢に入った小幡因幡盛と折合いが悪く、落城。(『矢嶋文書』等)
・3月2日 要の高遠城が落とされると正直は実弟の内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れ、昌月と共に北条家に帰属した。このとき正直の長男正光(肥後守)は武田家に質として甲斐に在り、妻の生家である上田の真田家に身を預けたという。
・8月中旬 織田信長没後の甲信の騒乱時に北条氏直が諏訪に侵入し高遠を奪還。その後、正直は徳川方に転じる。
・10月24日 家康から伊那半分の所領を与えられ、戦死した仁科信盛の後の高遠城主となる。
天正12年1584・7月 正直が家康の義妹(徳川広忠の五女)多却姫を室に迎える
天正13年1585・12月3日 正直が家康の真田攻めに出陣した隙をついて小笠原貞慶が高遠城を攻め、隠居の身である老齢の正俊が指揮し貞慶を撃退。正俊の活躍を賞した家康は包水の銘刀を送る。
天正14年1586多却との祝言で正直が岡崎へ赴く。
天正16年15885月21日 高遠城で保科正直の三男として生まれ、徳川家康から延寿小脇差が与えられる。(『保科家譜』)母は多劫姫
天正18年1590・8月 家康の関東移封に家臣団も伴い、正直は下総多胡(千葉県香取郡多古町)に一万石を与えられて9月に移る。正直は隠居し、正光が当主となる。
天正19年1591・9月6日 曽祖父正則没、法華寺に墓
文禄元年1592・2月 正光は文禄の役で家康に従い肥前名護屋に出陣
文禄2年1593・8月6日 祖父正俊(槍弾正と呼ばれ、保科家の宝刀は正俊の戦功による恩賞)が上州箕輪で死去、館林の茂林寺に葬られたとされる。87歳。法号月真。
文禄3年15947歳で家康・秀忠の仰せで、伝通院(家康生母)・家康・秀忠の前で実子のいない兄正光の猶子(養子よりは弱い義理の親子関係)となり、家康の側に候す。
慶長5年1600・6月6日 正貞の姉の栄姫(母は正貞と同じく多劫君)が黒田長政に嫁ぐ。
・7月 正光は家康に従い上杉景勝を攻めるため出兵するが、途中の下野小山で石田光成挙兵の報を受け西へ向けて転戦。
・9月 正光は遠州浜松城の守備、戦後は越前北庄の城番を命じられる。関ヶ原の戦後は越前の庄城の城番となる。
・11月 正光、高遠25000石拝領。
慶長6年1601正光が多古から移り、高遠城主となる。
・9月29日 正直、高遠城で死去。享年60。建福寺殿天関透公大居子(高遠の建福寺に墓)
慶長7年160215歳で甚四郎(正直や正光と同じ)に改名、秀忠に仕える。・6月20日 正則の妻(甘利備前守の娘)死去
慶長10年160518歳で諸大夫、従五位下弾正忠叙任。
慶長15年1610・10月20日 正光の正室(真田安房守昌幸の娘)死去。高遠の満光寺に葬り、霊牌は会津叶山願成寺
慶長16年1611・5月16日 幸松(こうまつ。後の保科正之)、秘かに二代将軍・徳川秀忠の庶子四男として北条家の浪人神尾伊予栄加の娘お志津の方(秀忠の乳母大姥局の侍女)を母に江戸で生まれる。

・小出大和守藤原吉英の三男、正英(まさふさ)が生まれる。母は正貞の実妹のヨウ(貞松院)
慶長18年1613・3月2日 幸松、老中土井利勝(佐倉藩主)の保護のもとで武田信玄の娘の見性院(穴山信君梅雪の後室)に預けられ、田安比丘尼屋敷に住む。
慶長19年1614 大坂冬の陣。秀忠の御座所(徳川本陣)の不寝番(ふしんばん)を務め警護。・10~12月 大坂冬の陣で正光は初め山城国淀城を守り、後に佐竹義宣(出羽秋田10万石)の後備えとして大坂へ出陣※今福の戦い
元和元年1615大坂夏の陣において、一説には不和であった養父正光の軍には加わらず、自らの志願で本多忠朝(上総大多喜藩主。忠勝の子。天王寺口先鋒大将)に兵を借りて参戦したという。
5月7日 天王寺口二番手(大将酒井家次)で出陣。
正午頃、天王寺南門前に布陣した豊臣方の毛利豊前守勝永の先手が先走り、物見に来ていた本多忠朝隊を銃撃して開戦。豊臣方の毛利勝永・真田信繁両勢が徳川家康本陣へ突撃をしかけ乱戦となった。
先手を取った毛利隊が忠朝を討ち取り徳川方の先鋒諸隊を突破。

野戦築城から鉄炮を激しく撃ち掛けられ味方が難儀する中、正貞は馬を乗下り、前方の深田を越えて鉄炮隊を乗崩した。先鋒隊救援の際に同じ信濃衆の小笠原兵部大輔秀政(信濃松本藩藩主)父子と出会い共に竹田永翁隊を撃破し、天王寺を左にして乗り込み槍を合わせ大野治長の兵と戦った。
しかし木村宗明(豊臣秀頼の乳兄弟木村重成の叔父)らが脇から不意打ちして側撃し、秀政は重傷を負い離脱(家康影武者説もあるが戦後まもなく死去したとされる)。
午後3時頃には形勢逆転し豊臣方は壊滅状態になり唯一奮戦していた毛利勝永が殿を務めて城内へ退却した。

正貞は体に槍傷3か所・鉄砲傷を1か所の重傷を負ったが、討ち取った首を家来の保科隼人に持たせ差し出すと、武功を徳川秀忠から称賛される。
・夏の陣では正光は伏見城で勅命を受け先鋒第三隊榊原遠江守康勝軍に属し、5月6日若江の戦いに参戦。
7日、秀忠が岡山(御勝山)に陣した際に丹羽長重と共に幕府の東に備え、先鋒として天王寺表にて奮戦。正光軍は首14級を得るが正光は負傷し家臣10名が討死した。
※正貞が正光軍の先鋒を務めた説もあり、両者の戦功が混同されている
元和2年16169月5日 正貞長男の保科太郎(甚四郎。後の越前守正景)生まれる。母は側室、上原氏の娘(家臣八田正勝の叔母)で、正貞と離別した時に懐妊しており、男子が生まれたら重代の短刀を授けよと正貞に与えられていた。
元和3年1617徳川秀忠上洛の供奉(ぐぶ)を勤める。

末に秀忠の落胤である幸松が正光の養子として迎えられ、正貞は廃嫡される。
・7月 幕府の仲介で見性院が正光に7歳の幸松養育を頼む。
・11月8日 幸松が高遠へ向けて江戸を発つ。(『譜牒餘録』)
(逸話では幸松は御堂垣外宿で正光には左源太という養子[正貞ではなく、妹婿の小日向源太左衛門の子]がいると噂話を耳にして「肥州(正光)には左源太という子がいるから行かぬ」と言い張り、母の説得で14日渋々高遠入りする)
母子のため高遠城三の丸に新居を設えられ、大坂の陣で正貞を助けた有能な家臣を守役にし、正光も在城の際には徳川将軍家の落胤として日に何度もご機嫌伺いをした。いずれは秀忠と幸松を対面させたいとも語ったという。
元和4年1618・正光、筑摩郡の地5000石加増で30000石。幸松の養育料ともされる。
・6月7日 長源院(多劫姫)没。享年75。
元和6年1620・正光、大阪城番に任じられる。
・4月16日 見性院が知行の一部を内を幸松に贈る(『会津家世實記』)
・7月22日 正光が重臣保品民部輔・篠田半左衛門・北原采女祐3人に『後継者に幸松を指名し、養子左源太にも加増や金子を与えること、弟正貞の義絶(親族の縁を切る)』等の遺言を記した「申置候次次第之事」を渡す。
義絶の理由を正貞が「前後気違者」とするが、秀忠の周辺警護を任され、後に藩主を務めた正貞の経歴からすると、正光の感情的な言葉と思われる。
元和8年1622養父正光との不仲のため35歳で高遠を去り、母方の叔父である伊勢桑名藩主(長島藩兼領)松平隠岐守定勝(家康の異母弟。久松俊勝の四男)のもとに寄食。
定勝は娘の嫁ぎ先(酒井忠行)の酒井雅楽頭忠世(幕府老中。前橋藩主)に正貞を託す。
寛永元年1624松平定勝が死去したため、酒井忠世の元へと長嶋から江戸に移る。
寛永4年1627・正月3日 保科左源太が急死。高遠の満光寺に墓。法源院殿伝誉隆相大禅定門。
・10月3日 左源太追善の法会を行う(『保科家過去帳』)
寛永6年1629酒井忠世を介して幕臣となり、廩米3000俵を下賜され後に廩米を改められ下総香取両郡内に3000石を与えられ43歳で旗本となる。
寛永7年16309月(7月) 大番頭となる・6月24日 幸松、将軍秀忠に初めて謁見(親子関係は名乗らず)(『寛永日記』)
寛永8年16318月 大坂城在番・10月7日 正光が71歳で死去。建福寺に葬る。大宝寺殿信厳道儀大居子。
・11月12日 幸松に正光の高遠3万石の遺領を与えられる。27日に元服し、28日正之は正光と同じく肥後守に任官し高遠藩藩主となる
寛永9年1632・台徳院殿(秀忠)が没し、正之の母お志津の方は剃髪し浄光院を名乗る。
寛永10年16334月 家光が正之に屋敷を与え(2月13日)、正貞が鍛冶橋門内に屋敷を拝領。
5月 上総望陀・安房長狭・近江伊香郡内にて4000石加増、7000石に。
寛永11年1634家光上洛時に供奉、日光詣でにも従い番を勤める。
寛永12年16354月 二条城在番を命ぜられ番士50人をもって勤番。・9月17日 正之の母浄光院、高遠城で死去。
寛永13年1636・7月21日 正之は17万石の加増で出羽山形藩20万石を拝領し移封。※鳥居家が高遠城主となる
・8月23日 正直次男(正光の弟、正貞の兄)保科壱岐守正重、京(江戸とも)で病没。(正直側室の母は真田家を出自とする小向日家の娘であることから、正重は徳川幕府から冷遇されていたという)
寛永14年16378月 大坂在番。
この年、保科家代々伝来の家宝文物を正之から譲り受け、保科家の本家となる。
・幕府から正之は、正之が所有していた保科家代々伝来の文物の正貞への返還(譲渡)の厳命を受ける。
寛永15年1636・7月 正之、6月に白岩領で一揆を起こした農民達を幕府の意向を聞かずに厳しく処刑。
寛永16年16399月 庶子(正景)が行方不明のため甥の小出正英主水(但馬国出石藩・和泉国岸和田藩主小出吉英の二男。29歳)を養子として迎える。・7月25日 保科正重の母(小向日氏女)没。
・12月14日 正英が養家に移る。
寛永17年16404月 二条城在番
寛永20年16438月 大坂在番・7月4日 正之が3万石を加増され家光・家綱の補弼役として陸奥会津藩23万石と大身の大名に引き立てられると、正貞に保科家累代の家宝その他を譲り、保科家の嫡流は正貞が引き継いだ形となる。
※正之が正式に秀忠の子と認められて将来的に松平姓を名乗る可能性が出て(正之自身は辞退したが、子孫は会津松平氏となる)保科家存続のため、正之に代わって正貞に保科氏を継承させようと家光(正之の異母兄)の配慮があった説有り。
慶安元年16486月16日 大坂城玉造口定番。
※大坂定番となり大坂に下った時、将軍家光から正景(正貞の実子だが離散していたため保科正之を頼っていた)に見参すべき旨を仰渡される。

摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増、新しく与力20騎、同心80人が加わる。また先役大番より与力10騎、同心100人を預かる。
正貞は1万7000石の大名として諸侯に列し、上総国周准郡飯野(現千葉県富津市)と摂津国豊島郡浜村(現大阪府豊中市)に陣屋を設け、飯野藩を立藩。

8月23日 江戸京橋口定番。
9月5日 玉造口番遭相勤。
万治3年16608月 正景に家督を譲り、正英には2,000石を分けて分家とする。
11月22日 老衰を告げて大坂定番を辞す。席を帝鑑間(ていかんのま。江戸城本丸表屋敷の白書院下段の間の東につらなる部屋で、主に江戸以前から徳川に臣従した大名が詰める)に定められる。
寛文元年16615月21日 玉造口番を跡役に引き渡す。
11月1日 江戸藩邸で死去。行年74。法名は源松院天永高本大居子。
芝伊皿子の大円寺(後に保科家菩提寺となる。現在は杉並区に移る)に葬られた。
閏12月26日 正景は正貞の遺領のうち15000石を賜る。
正景は延宝5年7月7日(1677年8月5日)大坂定番になったことから、丹波国天田郡の内に5,000石を加増され20000石を領し弾正忠となる。

 

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