上総国飯野藩保科家に因む蕎麦「更科そば」
■更級・さらしなそば
希少な一番粉である粗挽きでそばの実の芯(胚乳が)割れたものを細かく篩った白く細かい粉が主体のさらしな粉と
小麦粉(江戸時代は蕎麦粉よりも高価)の混合粉を湯捏ねした白い蕎麦。上等な食べ物の意味の「御膳そば」とも呼ぶ。
さらしなは信州(現・長野県)更級郡が蕎麦の集散地であった名残で、科の皮を剥いで流れに「晒し」たことにも因むという。
■更科そば(永坂更科の蕎麦)
更科は、江戸時代から続く蕎麦処・永坂更科の屋号。寛政元年(1789)に主家の飯野藩第7代藩主保科正率から許された保科の「科」の字を、
信州更級郡の「更」につけて「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」と看板を掲げたと伝わる。
更科蕎麦処で出す蕎麦は白く細い二八の水切りの蕎麦で、蕎麦の実の芯ではなく上割れと呼ばれるヌキ(外皮を剥いたもの)を擦合わせるように
石臼でひき、細かい篩でふるった蕎麦粉を使い、湯捏ねする。
明治時代には当主堀井家の研究と製粉技術が進み、純白の蕎麦となった。
更科そばの御前そばは、御膳そば(更級蕎麦に使われる上等な食べ物の意味)だけではなく、德川将軍家に「御前そば」の名を許されて
江戸城大奥や諸大名の御用を務めたことによる。
▲永坂更科発祥の地碑は江戸時代に永坂更科布屋太兵衛が在った地に建つ
現在の麻布にある3軒の更科蕎麦屋はそれぞれ別の系列である。
* * *更科蕎麦店の歴史* * *
上総国飯野藩の第3代藩主保科兵部少輔正賢(まさかた/1665-1714)は、元禄年間に保科家ゆかりの信州から江戸に出て来た信濃布を売る大物商の
清助 (~1693。信州下高井郡出身)を江戸の飯野藩邸の長屋に逗留を許し、布屋太兵衛を商号とし晒布の行商させたという。
※永坂更科発祥之地碑に「元禄年間江戸に郷里保科大名のご好意で麻布十番近くの保科兵部少輔邸内の長屋…」とあるが
飯野藩上屋敷は元禄初期は鍛冶橋内・後期は鉄砲洲(中央区湊)にあり、麻布へ上屋敷を移したのは清助の没後である。中屋敷は三田にあり。
寛政元年(1789)布屋太兵衛8代目清右衛門は、趣味で縁の信州から材料を取り寄せて美味しい蕎麦を打っていた。
その評判を知った飯野藩第7代藩主保科越前守正率(まさのり/1752-1815)は、清右衛門に麺舗の転業を薦める。
信州蕎麦は名高く当時から「さらしな蕎麦」は有ったが、布屋太兵衛は信州の地名「更級」の「更」と、保科家の「科」の一字を賜り「更科蕎麦」とし
飯野藩邸からほど近い永坂の三田稲荷大明神の近くに店を構えて「信州更科蕎麦処 永坂更科布屋太兵衛」の看板を掲げたと伝わっている。
以降、布売りであった屋号の布屋太兵衛を襲名のまま代々更科蕎麦屋を営んだ(8代目清右衛門が永坂更科初代)。
布屋太兵衛は代々信仰心があつく、僧侶達に蕎麦をご馳走したために諸国で住職となった僧が蕎麦の美味を話題にし永坂更科の名が広まったという。
そして徳川家の菩提寺として隆盛を極めた増上寺に保科家が報恩奉仕を仕った際の推挙で将軍家の御用を承り、銘柄を「御前さらしな」と記した。
白く細い上品な更科蕎麦は大奥に愛されて更なる高名を得た。
▲保科正率の頃に飯野藩保科家江戸上屋敷が在った場所(現麻布十番)
▲永坂の長い坂の上に永坂町があり、現在の永坂更科布屋太兵衛本社に「永坂更科發祥之地」碑がある
右の絵は昭和10年頃のこの地、永坂町13番地に在った永坂更科蕎麦店(村岡丘陽の写)
本社ビル屋上には、かつて永坂に面した階段を上った高台に在った三田稲荷(麻布永坂高稲荷)が移され鎮座している。
江戸時代に蜀山人(しょくさんじん。大田南畝)が詠んだとされる狂歌
「更科の蕎麥はよけれど高稲荷 森を眺めて二度とこん〱」
当時の更科蕎麦屋の背後に在った「高稲荷」の祠を「高い也」、森は蕎麦の「もり」、稲荷の狐の鳴き声コンコンを「来ん来ん」とかけている。
高貴な客に親しまれている更科蕎麦は庶民からすると美味ではあるが値段が高いからもう来ないぞという蜀山人の風刺であるが、『東京名所図会』には「その価を他に比して廉ならざるは、風味に対して至当なり」とある。
尚、この「森」が稲荷の近くにあった幕末の森要蔵道場を示すという俗説もあるが、蜀山人の時代にはまだ森道場は開かれていない。
※永坂と森道場については「千葉周作門下の四天王「森要蔵」」記事参照
その後の幕末には「永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の櫻と更科のそば」と詠まれていた。
岡の櫻は朝日桜とも言われ、江戸時代に御番医師岡仁庵邸の東寄りの辺に数株植わっていた大きな枝垂桜のことである。森道場は岡仁庵に屋敷の北側を借りており、上の切絵図を見ると永坂に面して桜花が咲き誇っていたのが分かる。それほど更科蕎麦は江戸の世人に評判であった。
▲永坂から保科家上屋敷の地を見る
右の画は明治31年の永坂更科蕎麦店(「東京名所図絵」を村岡丘陽が写し着色)で、丘上の鳥居が連なる先(左上)が高稲荷。
「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」 正岡子規
※永坂について高浜虚子も「永坂の邸に参る年忘」と詠っているが、こちらは保科邸でなく、子規や虚子達の親が仕えた旧伊予松山藩主(久松松平家)の
久松邸(当時の当主は久松定謨)との往路である。
明治8年(1875)の苗字必称義務令で、当主の布屋太兵衛(区会議員や麻布銀行取締役も勤めた名士の堀井松之助の父。布屋は屋号)は
「堀井」を苗字とした。
明治に入っても徳川家の口に入り、華族の婦人方に親しまれ、宮家にも出前が届けられたという。
明治20年代末~30年代初め頃に永坂布屋と、数奇屋橋の蕎麦屋「布屋萬吉」と、永坂布屋出入の吉野家(現・石森製粉)とで、
更に純白で香りある蕎麦粉を開発。
この頃本家「永坂更科布屋太兵衛」から分店(家族に店を分ける)や支店が生まれ、今も伝統を引継ぐのは
・布屋太兵衛のいとこ堀井丈太郎が本店の妹かねと結婚し、神田錦町に分店した「布屋丈太郎」※現「神田錦町更科」
・明治32年本家職人赤塚善次郎の深川「布屋善次郎」※現築地「さらしなの里」
・明治35年開業の支店「布屋源三郎」※有楽町更科(大正11年に日本橋の三代目から有楽町に移転)
……因みに明治期に本家が“更科”の商標登録を当時更科を名乗る600軒程の店と談判しなければならず断念する程、
他店で更科の名を使う蕎麦屋は数多く有った。
昭和の初めには永坂更科一門の店が増え、特に一族に近い店(麻布永坂本店・下谷池端仲町分店・神田錦町分店・牛込通寺町支店・芝日本榎西町支店・
品川町歩行新宿支店・京橋尾張町支店・麹町有楽町支店)は「お七軒様」と呼ばれるようになる。
また今まで永坂更科には種物はなかったがこの頃は御前そばと共に、必ず伊勢海老を用いたという天ぷら蕎麦も有名であった。
その後、昭和16年(1941)に昭和恐慌で(8代目良造言わく、父である松之助の放蕩も祟り)廃業する。
戦後、松之助から店名使用の許諾を受けた料理人の馬場繁太郎が永坂更科本店を開店し、店名を巡る裁判後に、
永坂の名称の後に空白を開けて明記する「麻布永坂 更科本店」となった。
▲麻布永坂 更科本店
住所:東京都港区麻布十番1-2-7
更科本店サイト:http://www.sarashina-honten.com/
続いて昭和24年(1949)元祖の「永坂更科布屋太兵衛」を再興させようと麻布十番商店街の小林勇会長らが働きかけて堀井家や職人を呼び戻し、
会社組織として「永坂更科 布屋太兵衛」を起業させ、昭和35年(1960)11月麻布十番に総本家永坂更科の店を新築した。
▲麻布十番で現在も伝統ある信州更科蕎麦処の板看板を掲げる永坂更科布屋太兵衛と、昭和の絵葉書(川村みのる画)
麻布総本店住所:東京都港区麻布十番1-8-7
永坂更科布屋太兵衛サイト:http://www.nagasakasarasina.co.jp/
昭和38年に有楽町更科の次男の伊島恒次郎が「布屋恒次郎」分店 ※現南大井「布恒更科」
そして昭和59年(1984)に、江戸時代創業の血筋の堀井八代目が総本家を称する蕎麦屋を独立開店。
他2店が商標登録を持つ名を避け苗字を冠した「総本家 更科堀井」に改称した。
▲総本家更科堀井
麻布十番本店住所:東京都港区元麻布3-11-4
総本家更科堀井サイト:http://www.sarashina-horii.com/
永坂の更科のはや夏布団
春麻布永坂布屋太兵衛かな 久保田万太郎
創業二百年をこえる伝統の更科蕎麦屋には複雑な歴史が有った……
参考資料
・藤村和夫 金子栄一 石森英三郎『さらしなの暖簾に伝わる変わり蕎麦』
・藤村和夫『蕎麦屋のしきたり』『そばの技術』
・総本家永坂更科『麻布の名所今昔』
・小林勇 藤澤龍雄『蕎麦絵巻』
・植原路郎『蕎麦辞典』
・『麻布区史』
・『東京案内』
・篠田皇民『東京府市名誉録』
・松本道別『東京名物志』
他、該当年間の江戸切絵図等
(2013年2月20日UP)※2017.6/8…公式サイトをオープンした店舗のリンク差換、住所等補足を追加
←戻る