上総国請西藩第3代藩主 林忠崇  無断転載・使用を禁じます

林忠崇 慶応4年閏4月3日忠崇20歳 出陣時の姿と家紋 ※年表中の年齢は数え年
上総国請西藩第3代藩主の林昌之助忠崇(はやし まさのすけ ただたか)は戊辰戦争時に徳川のためにと藩主でありながら脱藩し、兵を率いて戦った。
そのため請西藩は全ての領地を没収された唯一の藩となった。忠崇は昭和16年まで生きたため「最後の大名」とも呼ばれる。

槍と剣は伊能矢柄宝蔵院槍術伊能派。佐原伊能家・貝淵藩槍術指南役伊能一雲斎の子)に、弓は旗本坂本氏に、洋学砲術や馬術(西の丸の馬場で行った)は旗本山本氏らに教わり、文武をよく学ぶ。狩野派の狩野董川中信に画を学び、詩歌をよく詠んだ。
号は「如雲(じょうん)」「閑山」 後に己の生涯を一場の夢として「一夢(いちむ)

箱根戦争ブログ記事まとめ

忠崇年表 嘉永元年~慶応3年

年号西暦林忠崇 経歴関連事項
嘉永元年18487月28日 忠崇(昌之助)、林家15代播磨守忠旭(ただあきら。林家14代肥後守忠英の子)の五男(『林家譜』六男)として江戸藩邸上屋敷(浜町蛎殻町)で生まれる。
母は沼津藩の重臣曽我伊代守助順(すけゆき)の女。
嘉永3年1850忠旭は陣屋を貝淵陣屋から請西間舟台に移し真武根陣屋と称す。
嘉永7年18544月 忠旭隠居。子の忠崇が幼年であったため、弟忠交(ただかた。忠崇の養父)を養子にし家督を譲り、忠交が請西藩第2代藩主となる。
12月16日 忠交が従五位下肥後守に叙され肥後守となる。
安政4年1857忠崇の義弟の藤助(忠弘。忠交の子)が生まれる。
安政4年閏5月18日 忠交が大番頭となる。
安政6年18598月28日 忠交、伏見奉行となる。
元治元年1864万里小路局(まて様)が大奥を辞し請西藩江戸藩邸に身を寄せる
慶応2年186610月14日 忠崇の母、諦観院(曽我伊予守助順の娘)没。

10月22日の幕府遊撃隊発足。奥詰であった伊庭八郎秀穎(いばはちろう ひでさと)も12月21日に編入。
慶応3年18679月 藤助がまだ12歳の為、20歳の忠崇が林家17代当主として請西藩主となる。

10月16日 幕府、忠崇に清水御門守備を命じる。

11月15日 徳川慶喜の政権奉還による朝廷からの諸侯呼び出しに、忠崇ら縁頬詰(えんぼおづめ)の菊之間の諸侯は、辞退を嘆願する連署を幕府に差出す。

12月15日 忠崇は閣老稲葉美濃守に、上洛せず清水門警備に励む由の見込書を提出。
18日に意見提出を求められ、19日に命を投げうって粉骨砕身御奉仕仕るべき覚悟を記す。
23日の菊之間で慶喜の奏文を示しながらの上坂の達しに対し27日に少人数で上坂の願書を提出。これが聞き入れられ29日清水口御門番御免の書を受けてから、上坂の準備を始めた。
5月24日 忠交が35歳で病死。
※緊迫した情勢下の京で重要な伏見奉行であった為1か月伏せられ翌月公表か


10月20日 実父の忠旭死去。63歳。

12月 人見勝太郎(ひとみかつたろう、後に寧/やすし)が遊撃隊に抜擢され二条城の君側に勤仕。下旬に慶喜に供奉し大阪城に入る。

忠崇年表 慶応4年・明治元年(1868年)

忠崇経歴請西藩・遊撃隊・諸藩士等
▼慶応4年正月3日に鳥羽・伏見の戦が勃発。徳川が賊軍に貶められた報に、徳川に忠義ある青年藩主林忠崇は藩兵を率いて出立するが、慶喜の江戸帰還により兵を引く。
12~62日 人見らは主君上洛の御先供の令で澱川を上り翌日明け方に伏見着。夕方開戦。
4日に伏見竹田の両道より従軍したところ全軍引揚の命令がかかる。人見ら遊撃隊隊士数名は会津藩士数十人と供に鳥羽街道筋、伏見通路、澱川沿いと戦いながら移動したが澱まで引揚ると自軍の影もなかった。
小艇1艘を買って負傷者を乗せ6日に大阪に着く。負傷者を天満組屋舗の族舎に収容。
6~86日夜10時頃に慶喜は密かに老中の姫路藩主酒井忠惇(雅楽頭)と松山藩主板倉勝静・会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬・外国奉行山口直毅・目付榎本道章らを従えて大坂城を脱出。八軒屋から軽舟に乗り停泊中の米国艦に泊まる。8日に幕府艦開陽に乗船。

一方、登城した人見は残っていた会津藩士に事の次第を聞き、更に監察妻木民弥に面会し軍は紀州和歌山に向かうことになった旨、負傷者達は人見に一任すると達せられる。
人見らは負傷者を運搬する釣台人夫を雇うため奔走し、安治川口御船役所に赴くが乗船には至らず、敵兵が迫り火の手も上がる危地に際した人見らは抜刀し脅す強行手段で大船に乗り込んだ。
8日に和歌山に着く。人見らは三ヶ保丸で由良港を出航。
9午前9時頃、兵士一小隊と大砲一門を率いて九段坂の江戸屋敷から出発。
日本橋の利倉屋某宅で兵を休ませてから数艘の小舟に乗り組み、品川に停泊する大船の神妙丸まで漕ぎ着けるが連日の強風で停泊する。
11~1212日午後2時過ぎに出航。軍艦5、6艘と行き合い、しばらくして徳川慶喜の帰還の噂を聞く11日 開陽は品川沖に投錨
12日 慶喜が江戸に帰城
13浦賀に着き、江戸に入った人見らは同じ遊撃隊の山高鍈三郎邸(牛込赤城明神下)に居候する。人見は赤坂本氷川坂下の勝海舟邸で勝と初めて接し卓論を聞く。
14~1714日に慶喜の帰城の報を受ける。
16日に出航、17日品川沖着。
18未明に兵糧と共に小舟に乗込み、午前10時頃に日本橋着。
利倉屋某宅で兵を休めてから江戸屋敷に帰邸。
下旬※当時の請西藩在家兵数は隊長1人・司令士2人・嚮導4人・銃士1小隊・大砲指揮役打ち手供8人・大砲一門(2月21日届書)人見と岡田斧吉は、大監察堀錠之助が徳川臣代表として東海道先鋒総督府に哀訴嘆願する使節の末班加入を望み、後日随行の命が下る。
2上旬人見らは堀邸を出発し3泊を経て甲府に着く。近藤勇が挙兵し甲州進軍の噂があり、現状確認を優先する堀に反発した岡田・人見が任務を強行して先鋒総督府の参謀海江田と木梨らに嘆願書を託す。

11日に慶喜が恭順の意を示し翌日上野寛永寺大慈院に移り謹慎。
17忠崇は病を理由に上洛を断り、名代として鵜殿伝右衛門・副田中兵左衛門を京に残す(連絡は1/29か)
下旬23日 彰義隊結成
27日 小田原藩が勤王を誓い翌日総督府に箱根関所警備を命じられる
▼3月、房州が不穏なため、藩地の請西へ。4月、徹底抗戦する為に幕府を脱走した撒兵(さん・さっぺい、)隊や、遊撃隊が忠崇に協力を仰いだ。
37忠崇は馬に乗り、木村隼人・小幡輪右衛門・小倉左門ら3騎と共に出立、曽我野宿泊。
8五井を経て飯沼村村長宅で休憩。姉ヶ崎から神納村村長宅で夕食。
貝淵郡で休み、日暮れに請西帰る。
上旬~14徳川慶喜の水戸謹慎が決まり遊撃隊は慶喜を奉送することとなるが、人見は伊庭八郎・和田助三郎、佐久間貞一郎、岡田斧吉らと供に千住大橋まで奉送後に脱走挙兵する計画を講じて、実行準備のため銃器・弾薬を集めていた折に、海軍副総裁榎本武揚(釜次郎)が幕府軍艦を率いて脱走するとの噂を聞き、伊庭・宮路・佐久間らと下谷の榎本邸を訪れ、榎本と同盟を結ぶ。乗船準備のため夜に兵器を神田川和泉橋の船宿より品川沖へ運搬。
14日に遊撃隊隊士は長鯨丸、人見ら4人は榎本の居る開陽丸に乗船。
499日 撒兵隊(さっぺい、さんぺいたい。御目見以下の御家人で編成。隊長福田八郎右衛門道直、兵数一大隊およそ400人で計2千~3千人)が江戸を脱走。
11,1211日 大総督府に江戸城が明け渡され、慶喜は水戸へ移る。
大総督有栖川宮の江戸城入城のため本営の池上本門寺から品川へ進入する様子を人見らが開陽丸の艦上から望見していたその時に、榎本が2艘の艦隊を一斉に品川沖から抜錨した。房州館山(千葉県)へ渡り館山湾に停泊。
※稲葉正善(館山藩主)家記に館山陣屋海岸新井浦沖へ徳川家軍艦7艘碇泊、多人数上陸し町屋に対談して薪水等物資買入の様子が記されている
※太政官日誌には軍艦7艘、乗組凡そ二千人許。観光(6門)・蟠龍(4門)・咸臨(12門)・朝陽(12門)・富士山(12門)・回天(11門)・開陽(26門)

12日に撒兵隊が望陀郡(木更津市)に上陸。
13,1413日 撒兵隊の宿割りが行われ藪箇村に宿陣。本陣は泉著寺(選擇寺)・染物屋島屋等諸説ある。
14日に久留里藩(上総国望陀郡/千葉県君津市・3万石・藩主黒田直養※恭順姿勢)が撤兵隊(撒兵隊)に強談され玄米100表を与えている。
16榎本のもとに、大総督府の幕府軍艦引渡要求の交渉のため勝が単身で来訪。榎本が2、3艦を引き渡すと応じたことに遊撃隊は反対し憤懣に耐えず人見ら3、4名が抗議したが覆らず、上総(千葉県)上陸を決断。
17撒兵隊の福田が協力を求めて請西に来たが、自ら称した「徳川義軍府」の名に驕り素行が悪く、領民が迷惑を被ったために忠崇は協力をためらい、金・物資のみ援助した。榎本は品川沖に戻る(24日に富士山・翔鶴・観光・朝陽4艘を大総督府に引渡す)こととなったが、遊撃隊とは同盟を結んだ誼で、上陸に適した小艦の行速丸に榎本自らが乗り込んで送った。隊士達は榎本の友誼の厚さに感謝して木更津付近に到達。徒歩で上陸し寺院に泊まる。
その夜はじめて軍議を開き、遊撃隊を2隊(1軍隊長は人見、2軍隊長は伊庭、以下参謀・軍監・輜重長を振り分け)とする。

この日、木更津滞陣の撒兵隊が光明寺で東照宮祭を行う。
18~23兇徒に備える通達を受けて、翌日忠崇は賊状を上申する。18日に新政府から上総国の請西久留里飯野(周准郡/富津市・2万石・藩主保科正益※藩主は恭順)・一宮(長柄郡/長生郡・1万3千石・藩主加納久宣※恭順)・佐貫(天羽郡/富津市・1万6千石・藩主阿部正恒)・鶴牧(市原郡/市原市・1万5千石・藩主水野忠順)、安房国の館山(安房郡/館山市、1万石、藩主稲葉正善)、勝山(平郡/鋸南町・1万2千石・藩主酒井忠美)の8藩に、兇徒が現れたら捕縛するよう通達。

撒兵隊は真里谷の真如寺を本営に定め、福田は第四・第五大隊(隊長戸田掃部・真野鉉吉)を率いて妙泉寺を経て真如寺に入る。第一隊長の江原鋳三郎は国府台進出を作戦とし第一~第三大隊は北上。
28この頃、人見、伊庭ら率いる遊撃隊が請西を訪れた。
遊撃隊は文武両道で将軍の身近に在った奥詰めからなる隊なので、規律正しく統制もとれており、忠崇は彼等に真の忠義を感じ取って協力を受け入れた。
※一軍・二軍の遊撃隊に続き三軍に林率いる請西兵が編入
▼閏4月、忠崇は脱藩して遊撃隊と共に真武根陣屋を出陣。上総・安房(千葉県南部)諸藩の協力を督しながら南下し、館山港を出港する。
閏4忠崇は出陣の際に乳母杉浦関女を請西村本郷の名主林五郎兵衛に預けた。
3朝6時頃に、主と共に戦うことを決めた請西藩士67名(中間小供22)と遊撃隊36名の前で、忠崇が軍律を朗々と読み上げ、大砲を一発撃ち鳴らして真武根陣屋を出陣した。
忠崇は藩主のままでは徳川慶喜と示し合せての挙兵と疑われる恐れが有り、恩のある徳川に迷惑をかけぬよう浮浪人として自分の意志で決起したと示すために脱藩したという。

貝淵役所で遊撃隊と合わさる。「徳川第一臣」の御旗と「徳川遊撃隊」の小旗が掲げられていたという。

林軍・遊撃隊は(…辰巳の屈曲の表坂を下り右折して陣屋門下を通り真船谷坂(おつる坂)を降りて)海岸沿いに桜井村に到り、畑沢より左折に浅間神社下から山中に入り、曲坂(高坂)を通り坂田に山を下り(下揚江~二間塚を通り)飯野陣屋に到る。飯野藩に協力を要請。
藩主保科正益が上洛中で不在の為に揺れたが、藩士大出鋠之助を隊長として20人が加わった(第5軍)。
山道から前橋藩(上野国郡馬郡厩橋/群馬県前橋市・17万石・藩主松平直克は在京中)が警備を担当していた富津陣屋に向かう。

陣屋を包囲し、人見と伊庭が単身独歩で入り協力を求めた。
強談判の結果前橋藩士は陣屋を明け渡し、脱走扱いで台場の歩卒23名を提供し、大砲六門・小銃50挺(10挺)、遊撃隊に金千両(内500両は返金)・撒兵隊に糧米若干を贈った。
江戸湾防衛のために置かれた富津陣屋・台場は前橋藩町奉行兼勧請奉行の白井宣左衛門以下113名程が派遣されていたが、安房地方の不穏な動きを察し家老の小河原左宮(おがさわらさみや。多宮。三弥の説あり)と大目付服部助左衛門も送られていた。

撒兵隊は桜井村から人見山麓を通り青木、西川を経て、佐貫藩の一隊と協力して富津陣屋を挟撃する形で包囲する。

引き渡しの談判中に、小河原は席を外し隣室で責任を取って切腹した。
陣屋襲撃に協力した41人の佐貫兵はその帰藩したという。
撒兵隊は援軍要請を受けて船橋へ出発。
4林軍・遊撃隊は富津に滞陣
5・6朝8時に富津を出て正午過ぎに佐貫に着く。
忠崇は家臣の大野静を使者として佐貫藩主阿部正恒へ佐貫城下での宿陣を告げさせ、佐貫藩主からは安否の言葉と金300両と兵器を若干贈られる。
午後2時に佐貫を出て天神山に一泊。

請西に移り住んだ万里小路局から長楽寺の万丈を使いとして必勝祈願の護摩札供物や金子が贈られる。
5日 万里小路局が長楽寺で忠崇の武運祈願に大般若経を転読。

この日、浜手で榎本艦隊が五大力(ごだいりき)舟うけ場に来て砲を打ち鳴らし、6日に出航した。
7朝6時に天神山を出発し保田に着く。芝台(しばだい)付近に宿陣。
江戸から請西藩士の大野友弥・伊能矢柄(伊能一雲斎の子で忠崇の槍剣の師でもある)・高橋護・木村嘉七郎・吉田恒作・小倉由次郎・桐石清左衛門らが到着して隊に加わる。

勝山藩より安否を尋ねる使者が遣わされる。
8朝6時頃に保田を出発し、10時頃に勝山着。
勝山藩の少年藩主酒井忠美(さかいただよし)が上洛中、家老の酒井勇雄(いさお)は蝦夷地出張で不在のため、勤王証書(4月に藩主が提出)にも署名した福井小左衛門と、楯石作之丞ら勝山藩の脱藩兵が加わる。

午後2時に勝山を出て館山藩営下入り。館山湾海上の榎本武揚率いる旧幕府艦隊も呼応して軍艦一艘が港へ乗込み大砲を数発撃ち鳴らし、「各隊ハ太鼓ヲ打チ鳴ラシ、法螺貝ヲ吹キナガラ、堂々ト館山ニ入ル」(『忠崇私記』)
藩主が恭順を示して上洛中のため、人見・伊庭両人が前藩主稲葉正巳(紅隠。幕府重臣であった)と面談。兵食・馬3頭・兵器若干与えられ、更に十数名の脱藩士と農卒兵が加わる。

一行は長須賀の来福寺付近に宿陣。
官軍が撒兵隊敗軍の鎮圧に真里谷真如寺へ向かったが、既に残党は大多喜方面に退いていた。

午前9時過ぎに請西と貝淵に留めておいた鹿島央等の請西藩士が示し合せた通りに陣屋を焼き払った。

勝山藩脱藩者として報告されたのは藩士3名・農兵23人の計25名だが実際はそれを超え、勝山藩士は第一軍一番大砲隊長人見揮下の一番隊として31人が編成された。

館山藩は家臣5名を脱藩させ、残りの兵は人宿(ひとやど。人材斡旋の店。主人を寄親と言う)相模屋妻吉の寄子(よりこ。寄親に斡旋された人)で補ったという。
9林軍・遊撃隊一行は作戦の一つ、東西交通の要である箱根の関所を占領し、新政府軍の往来を絶つために伊豆への渡航を企てるが、豪雨により出立できず。

伊庭が豪雨の中を小舟で、館山湾に停泊していた幕府艦隊(軍艦の開陽・回天・蟠龍・千代田、輸送船の咸臨・神速・美嘉保・長鯨)の大江丸に乗り付け、渡航を依頼する。
朝6時台、労咳の病身でありながら従軍していた請西藩士諏訪数馬(父を早くに亡くし祖父諏訪頼母に養われ幼くして前藩主に仕えていた)が出陣困難を苦にして、遺状を懐に入れ33歳(出陣記の30は誤りか)で自害。他、病の御供人25人に暇を与える。

この日、官軍が貝渕役所の林家の御宝蔵を打ち壊して接収。

※人見・伊庭ら主戦派は勝機が十分にある艦隊重視の戦略案を作成し、榎本武揚(えのもと たけあき。和泉守、幕府海軍副総裁)に決起を迫ったが、徳川家臣団の楽土を蝦夷地(北海道)に求める榎本自身はこの時はまだ静観していた
10午前10時に一行は柏崎から三百石積と二百石積の2艘の和船に分乗。
午後4時に幕艦大江丸に引航されて渡海。
官軍が請西御屋敷を接収。荷物を持出す際に火事場泥棒の賊も紛れ、村人の目には官軍の狼藉に映ったという。
11夜に強雨に遭う大江丸は林軍・遊撃隊への協力を悟られないよう退船。
12午前10時頃、相模(神奈川県)真鶴港から上陸し、江ノ浦に滞陣。
箱根の関所を警固する小田原藩(神奈川県小田原市・11万3千石・藩主大久保忠礼)を説得するため、吉田柳助と遊撃隊三軍和田助三郎の4人を伴って入城を試みたが拒まれる。
夜にようやく入城出来、三の丸にあった小田原藩家老杉浦平太夫邸で老臣渡邉了叟・加藤直江らと面接するが、既に大総督府参謀から林軍の警戒を命じられていた藩主は面接を拒み、翌日に建前的な協力を伝言されたが器機金穀の支援しか得られなかった。
14明け方に小田原城を出て、船で根府川に着岸し関門を通過。
江ノ浦に着き、待機させていた軍を率いて午後4時頃に吉浜に着く。
官軍が木更津から退陣。
15朝6時過ぎに雨のなか吉浜を出発し、熱海峠を越えようとするが濃霧により兵を休めて伊豆山の麓に掛かり、熱海に着く。食事をとり、天候が回復した午後4時頃に韮山(にらやま。伊豆国田方郡/静岡県)に着く。

韮山の代官江川太郎左衛門英武が上京中で談判が成立せず、ゲベール銃・金穀の援助のみを受けた。

沼津藩(駿河国駿東郡沼津/静岡県沼津市・5万石・藩主水野忠敬)の捜索隊が応接し、遊撃隊は人数が多い為ひとまず待機の場所として御殿場(ごてんば。小田原藩領では東西交通の要所)への移動を告げる。
※忠崇の母方の縁のある沼津を頼ったとの見方もある
資金工面のため請西藩士北爪貢は吉浜から小田原へ戻る。

※韮山代官先々代の江川英龍は農兵育成・幕府の海防強化・西洋流砲術導入に努め、子の英敏が引継いで韮山反射炉(鉄精錬の炉)を完成させており、軍事面で重要な勢力として見ていたと思われる
16午前10時頃に韮山を出発。非常な暑さの中の強行軍となる。三島に出て佐野村(現裾野市)で夕食。気温も涼しくなり夜も道を急いで深夜12時頃に御殿場に着く
移動中は沼津藩兵が見張ったが、問題も起こさずに規律正しく進む遊撃隊を見た沼津藩士の角田太作は、これを討つのは忍びないと書き残している。
しかし遊撃隊を直に見た現場者達は同情的でも、物見の報告は忠崇らの機敏な進軍と要所宿陣から手ごわさを伝え、また沼津藩に在る首脳陣は討伐の意志を強めていく。
広部周助がまて様からの軍資金百両を携えて合流。

※3月に甲州勝沼で甲陽鎮撫隊(新撰組ほかから成る)の戦いが行われ、既に甲府城代(沼津藩主)は新政府側であり、伊豆に向かった遊撃隊に対しても閏4月9日の時点で沼津・田中・金沢・小田原藩と旧幕府韮山代官所・横浜の岡山藩兵に追討令が出ている。
17軍規を定める北爪貢が小田原からの支給金を携えて戻る。
18田安中納言(徳川慶頼)の命で大鑑察山岡鐵太郎(鉄舟)と石坂周造が兵を納めるよう説得に来る。
忠崇は上意を新政府軍の総督府に差出を依頼し、甲府(山梨県)で10日再命を待つと取り決めた。
この日、東海道先鋒副総督府に命じられて請西藩の封地が飯野藩の預かりになる。
19朝に御殿場を出発し、巣走、山中、吉田等を過ぎ川口に泊まる。警戒の為に伊庭が一隊を率いて峠に陣する。
20~朝に川口を出発し三坂峠を越えて藤ノ木で中食をとり、甲斐国黒駒駅(東八代郡御坂町/現山梨県笛吹市)に到着。甲府を目前とした地のため宿陣中更に各隊三坂峠に番兵を置く。
伊庭の策で城兵を疲弊させる為に一小隊を巡邏させた。

25日 請西藩の村領が飯野藩の預かりとなる。また、富津陣屋の前橋藩の役人が木更津で兵器類の捜索。
この頃、貫義隊 が木更津南町の成就寺を屯所とする。
27~末晦日まで黒駒滞陣。27日に田安家の使いの水沢文蔵が来訪。翌日も使いの石坂周造が兵士結髪料百両を持参するが十万石大守の田安殿らしくないと見抜いた大野友弥が退けた。
箱根役時の編成人数(【】は隊長。時期により離脱・加入者があるので凡そ)
■第一軍【人見勝太郎(一番砲兵隊長)】遊撃隊士9名、駿府与力2名、甲州農夫2名
・一番小隊【勝山藩士 福井小左衛門】勝山藩士25名、福井従者2名、同小者3名
・二番小隊【前橋藩脱走 滝沢研三】前橋藩脱走士21名、小者1名

■第二軍【伊庭八郎(二番砲兵隊長)】遊撃隊士9名、三浦三崎与力1、伊庭家来2名
・一番隊【遊撃隊士 前田條三郎】遊撃隊士14名
・二番隊【駿府脱藩 蔭山頼母】駿府脱藩24名、小者従者9名

■第三軍【岡崎脱藩士 和多田貢】岡崎藩士23名、小者従者2名

■第四軍【総督 林昌之助】請西藩士53名、請西藩足軽5名、小者2名

■第五軍【山高鍈三郎】
・一番隊【館山藩士 山田市郎右衛門】館山藩士13名
・二番隊【飯野藩士 大出鋠之助】飯野藩士18名

□参軍…山高鍈三郎(第五軍隊長兼)、遊撃隊3名、三崎役頭取締1名、甲府与力従者1名、他2名(遊撃隊1・従者1?)

□軍目…遊撃隊2名
・輜重方取締…騎兵隊1名     ・輜重会計掛…遊撃隊1名、書記役1名、同番助輜重筋1名
・輜重掛器械総督…遊撃隊1名、駿府方1名、請西藩2名、館山藩1名、飯野藩1名、精雜隊1名、三浦1名、他1名(三浦?)
・輜重小者 2名(参軍小者 甲州百姓3名)

1~5軍合計251人 参軍等合計25人※1名重複 総数合計275人(間諜他出28人)
▼5月、箱根戦争へ
51甲府へ軍を進ませるため上黒駒今宮に到る。
徳川家から桑名藩の水澤文助・石坂周蔵の2名が説得の言葉を伝え、沼津から服部金平・丸山勘太郎等が進行を止めることを勧めに来たので、林軍・遊撃隊一行は沼津表で10日を期限として命を待つことに同意。夜に黒駒に戻る。
この日、三河岡崎藩の佐幕者達が遊撃隊らに加わるための会議
2~4黒駒を出発し、藤之木、三坂峠を越え川口泊。翌日発ち、山中で昼食をとり須走着泊。
4日に須走を発って富士村で休み富士佐野に着泊。
5佐野を出発し沼津藩兵に引率されて沼津に着く。遊撃隊を城下最寄りの香貫村(かんき、かぬき。駿東部)霊山寺と付近の農家4、5軒に謹慎させる。
表向きは謹慎の体を装うが、裏の香貫山に物見所を設けて斥候を放ち油断はしていなかったという。

江戸から請西藩士の磯部克助・岩田弘・清水半七が来て加入。
食糧は韮山代官が担当して三食を与え、沼津藩の待遇は良いが、長雨で腹を壊す者が多く出た。
兵の鬱気を払うため(請西藩士檜山省吾は忠崇の徒然を慰むためと記している)に昼は撃剣夜は相撲を行い、遊撃隊士による狂句戯言の娯楽に興じることもあった。
6岡崎から船で沼津へ渡った20名余りの脱走兵が加入し遊撃隊らの士気があがる
15※上野で長州藩の大村益次郎が指揮する新政府軍に彰義隊が敗れる
17約束の期限も過ぎる中、彰義隊の決起の急報が届く。
遊撃隊と農家に謹慎中の人見は自軍(第一軍)を率いて徳川廟所の警急に駆けつけることを決意。
京都に居た請西藩老臣田中兵左衛門・鵜殿伝右衛門が、脱藩した忠崇に代わり弟の藤助(忠弘)を上京させ従事させることを嘆願するが、新政府は27日(29日とも)に請西藩領・京都屋敷の没収と家臣の入京禁止を宣言。※6月3日に再嘆願
1818日の夕方に軍目の澤らが澤六郎と木村好太郎名義で三島宿の問屋で翌日の宿割と人足の手配。
※林候を筆頭に全軍が通過する手配と思われ、人見の抜け駆けは足止めの形で切迫した状況打破のきっかけを作るために忠崇達と示し合わせた(おそらく沼津藩の温情もあっての)策と見られる
夜半に沼津軍監和田藤之助(大村藩士)が小田原藩と通じて遊撃隊討伐の準備をしている情報が届く。
19払暁、人見は置手紙を残して暴風雨のなか人見隊は洪水の木瀬川を横断し狩野川を渡って上野目指して出陣した。
残された伊庭と忠崇は「沼津藩へは抜け駆けという軍紀違反を犯した人見を討ち取りに渡船したいが川は荒れ、残った霊山寺の兵を動かせば再脱走者の対応も困難になるので動くことができない」と軍議の結果を申し出た。
沼津藩はそれを承諾せず、大砲2門と二小隊の沼津藩兵を監視につけた上で霊山寺の兵の中から脱走兵の追捕を出すように命じた。
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香貫村を出た林軍・遊撃隊らは三島駅で兵糧を用いて休憩した。この時物見隊10人が潜伏中の彦根藩士4人を捕えたが、請西藩士の高橋護が彼らの助命を唱えたため、服と刀を取上げて逃がした。

険しい嶺を登り、箱根間近な山中村に構えた本営(齋藤億右衛門方)から、箱根関所へ請西藩士伊能矢柄率いる19人の精鋭の援兵を出した。
以降、忠崇はこの本営での指揮に徹する。
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関所を守る小田原兵は侍大将吉野大炊介以下小銃隊四小隊と山野砲隊半隊ら300人超。
人見と面会した小田原藩士関重麿は戦火を避けるため間道からの進軍を説いた。
平和的な通過を申し出た人見も、拒まれると武力行使を宣言し(西方入口に畳で胸壁を構えて威嚇射撃を始めたともされる)2時間もの談判に及んだ。
やがて小田原方が高札場辺から発砲しはじめ、小田原兵が箱根宿近辺に火を放った。
関門へ退き守備につく一方、火をかけながら進軍してきたため、遊撃隊らは民家の消火に努めながら高所へと散兵して応戦することとなった。
※小田原側は遊撃隊が放火したと報告している
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請西藩の19名が疲弊した先行隊と入れ替わりで砲撃戦に応じる。
十二斤砲の発射と小銃を地に伏せて撃ち掛ける砲撃隊を正兵とし、前田篠三郎を隊長に請西兵・遊撃隊の中から精鋭を選んで奇兵隊を組み裏路より危険を冒して接近し、敵が大砲発射のため関門を開くのを待った。
明け方、雷雨に乗じて遊撃隊の前田条三郎(第二軍一番隊隊長)・岡崎藩士松田宇右衛門らが、和田の宿泊する沼津下本所肴屋直右衛門方を襲撃し書記を殺害して密書数通を奪うが、和田は逃亡。
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午前に三島に着いた人見隊は、砲を構え白地に日の丸の旗を翻し新関門(三島明神前に新しく置かれ、徳川旗下の松下喜兵衛(嘉平次)が関門長として警固)に迫るが通行を拒まれた。
三島宿本陣の世古六太夫が調停し、三島明神の神主矢田部盛治の機転で松下を佐野陣屋へ報告に行かせることで三島は戦火を免れ、人見隊は留まらずに箱根へ走ることが出来た。
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※監視の沼津兵達は人影も判別しがたいほどの豪雨に喘ぎながら戸倉村に着くが、全ての遊撃隊が駿河国三島駅に到着したことが判明したのは翌日になってのことだという。
この時沼津藩士の田辺貞吉が追撃軍の隊長吉田喜左衛門に空砲を撃たせて遊撃隊を逃がしたという逸話もある。
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小田原では箱根関門襲撃と、江戸方面の彰義隊決起(遊撃隊側の加藤音彌(小田原脱藩)による情報でその後の壊滅までは伝わらなかったともみられる)の報を受けて夕刻から軍議が開かれ、小田原藩が佐幕に転じた。

遊撃隊に和議を伝えるため深夜に用人関小左ヱ門を向かわせる。
20午前4時過ぎに発砲が止んだので、前田は意を決して単身で関門に入った。
佐幕に転じた藩命により侍大将吉野は停戦し、朝8時頃遊撃隊側も山中の本営に伝達。小田原藩と和睦となる。

午前8時頃、関門守衛を請西兵から岡崎兵に交代。
午前10時頃、遊撃隊総軍が箱根関門に着き宿陣。
21開戦時の小田原藩兵の放火を請西兵と遊撃隊が住人と共に消化活動をし住民を労わったため、感謝した住民に餅を数器贈られる。

忠崇は山中本営で戦況を海道諸藩に伝えて聯合を説き、伊庭は盟約の談合のため小田原城内へ、人見は海上から旧幕艦の開陽に応援を請いに行く。
明け方、主張先の平塚から引き返していた大総督軍監中井範五郎を、小田原藩抑徳隊・遊撃隊士らが途中の新谷の辺で見つけ、飯野藩士富樫紀一郎の従僕(前橋藩の滝沢研三とも。岡崎藩士とする説もある)が首級を揚げる。※遊撃隊らの軍規では敵の首をとるのは中井のような大将格のみ

午後に小田原藩は小田原藩士関重麿と横井春江を和睦を伝え救援を求める使者として江戸に向かわせた。江戸藩邸の藩士達は驚き関らを説得し、監察職中垣謙齋を代表として小田原に帰城させた。(このあと横井は軍目として山崎で戦い、関は佐幕を覆さずに榎本艦隊の奥州行に加わる)
この日、江尻駅に在った佐土原藩兵が林軍征伐の救援を請われて沼津へ進む。
22伊庭率いる遊撃隊先鋒100名が畑村から湯本辺に出兵。
この日、榎本から7発砲を贈られる。
23小田原藩が再び新政府への恭順に転じ、遊撃隊に領外退却通告を出す。
保身の為に何度も意見が変わる小田原藩に対し伊庭は「反覆再三怯懦千万堂々たる十二万石中復一人の男児なきか」と武辺者らしく笑っている。※『岡崎脱藩士戊辰戦争記略』
伊庭が小田原へ出張。
小田原藩は遊撃隊へ小一隊を派遣するが、説得に駆け付けた中垣が彰義隊は壊滅し東方の勢力が逆転している実情を説くと、再び藩論が新政府への恭順に転じた。
この時江戸から大軍が攻めてくると噂が入り馬入川まで兵を出している。
24一軍・二軍は小田原城へ出張
25小田原藩の裏切りに対して、伊庭は追撃に備えて湯本三枚橋に退いて陣を敷き、少数の兵で大軍を防ぐ為の策を巡らして山崎の高台に堡塁を築く。
付近の住人に協力させ道の左右の大木を伐採した。遊撃隊の隊士が食料を求めると農民たちは放火を行わないことを条件に差出すが、そんなことはしないと約束し代金まで払って避難を勧め、約束も守った。
岡崎兵は畑宿に一泊し翌朝湯本着。
26午後4時に山崎の戦の報。忠崇は箱根関所内で各方面の注進を伝えた。
5時頃には総員関門の守衛にあたる。

三島山中口からも沼津兵800人が押し寄せて来たため、夜に請西藩士伊能を隊長に20人を伏兵として山中へ出兵。

深夜0時頃に手負いの伊庭が峠に到り、忠崇が畑宿に医師を手配したとみられる。
小田原兵の後に鳥取・長州・岡山・藤堂藩兵が続き、合わせて2500の兵が三方面から山崎を攻撃。
小田原藩兵は多くの田村矢(矢を大砲で一度に撃つ)を射かけたが、手を結んだばかりの相手を討つ状況で個々の士気は低かったという。
遊撃隊が小田原方先鋒荻野山中藩(おぎのやまなか、厚木市、1万3千石)兵と交戦。少数の遊撃隊が地の利で押していたが、後方に控えていた新政府軍4藩が早川の対岸の向山から砲撃を開始し激戦となった。

岡崎兵も本陣(湯本)の道々右手山上から発砲音を聞き山に登り打ち合う。撤退する小田原兵の追撃中、三枚橋から2~3丁先の山から三枚橋方面での自軍の苦戦を目撃。
辺りが暗くなった頃、伊庭が三枚橋で腰に銃弾を受けた所を追討ちに来た長州隊との激しく交戦中に、傍へ寄った小田原藩兵の高橋藤太郎が伊庭の左手元を斬りつけ、高橋は伊庭の部下に撃たれた(伊庭が右手で斬ったとも)
重傷の伊庭は兵士の助けで湯本に引き揚げ、伊庭に代わってよく防いだ副隊長の前田も大軍を前に兵を消耗し夜に箱根宿に引き揚げた。

先鋒として前橋藩兵と共に第一線にいた勝山藩兵は戦死15・戦傷10・行方不明者2(史料によって戦死者はそれを超える)という壊滅状態になった。
勝山藩兵は三枚橋から逃走中の旧街道の凹地で両崖から狙撃されたと伝わる。
湯本に火の手があがり、岡崎兵も畑宿に退陣。箱根までの撤退戦となる。
小田原藩兵の死者は33名、翌日からの掃討戦で3名の死傷者を出す。圧倒的な兵数の差でありながら被害数は同等なことからも伊庭達の凄まじい死闘の様子が窺える。
27夜明け前に間者が敵の畑宿進軍を伝え、忠崇は請西兵10人と遊撃隊13人に各歩兵をつかせ芦ノ湯道等要地に出兵させた。
忠崇自身も討死覚悟で出撃しようとするが、徳川家再興の大望のためにと午前10時過ぎに箱根撤退を決議。
鞍掛山を経て日金山を超え熱海に向かう。忠崇らと遊撃隊一行は旅館から隅々まで支払をし運賃を高く支払い(箱根から熱海まで宿駕1挺5両・長持1棹13両)狼藉皆無で進んだ。

山崎の敗戦で山中に出兵の伊能らは逸見静馬ほか9人に託して引き揚げたが、山中に総軍撤退が伝わったのは他の隊の退却後で、砲一門を擁して山上から駅に入ろうとした時に小田原兵に襲撃されてしまう。
小田原兵の背後に因州藩の環視がついており、これまで連勝の新政府軍が敗戦したことを挽回しようと勢い凄まじく、7人が首を斬られ、1人が忠崇の下僕のため生捕にされた。請西藩で戦死したのは秋子松五郎・小倉由次郎・清水半七・大野静・政田謙蔵・篠原九十太・重田信次郎。負傷した秋山宗蔵が日金山熱海坊で討死(翌日か)

午後5時頃に熱海着。
遊撃隊の沢六三郎(軍目)と三橋準三(伊庭隊)は間者として前夜から熱海に在り、酒屋に泊まり数十の小舟の用意を済ませていた。
薄暮れに残兵115人が乗船(押送船1艘に3両支払)して網代に到り、夕食後すぐに待ち合わせていた榎本艦隊の3艘に乗り込む。
夜9時頃に出航。忠崇は長崎丸に乗り、房州館山へ渡った
日の出頃に岡崎兵が箱根に到着。
撤退が決まってから、芦ノ湯道の兵も退かせ昼頃から箱根を去る。
※箱根権現坂に出した請西藩10人のうち8人戦死2人捕縛とも(箱根戦争を通して捕らわれてたのは逸見静馬・吉田収作、小者の兵助)。遊撃隊は13人のうち12人が戦死。

人見は旧幕艦開陽から帰り熱海に着いている。重症の伊庭も海上から密かに榎本の居る蟠龍に乗り込んだ。
28明け方に館山港に着く。館山には榎本の長崎・千代田・大江の3艦が着港していた。
忠崇のもとに仙台藩士佐藤文助が訪れ奥州同盟への加勢を説く。
忠崇は午前9時頃に咸臨(かんりん)丸に乗船。
榎本も奥州行を望んでおり、奥州への転戦を決めた。
仙台藩(陸奥国宮城郡/宮城県仙台市・62万5千石・藩主伊達慶邦)は新政府の会津討伐に対して、何度も謹慎の意を見せている会津藩(陸奥国会津/福島県会津若松市・28万石・藩主松平喜徳※容保の養子)前藩主松平容保を救済する嘆願を行っていたが、断じて認めない新政府に失望した上、新政府軍の中で嘆願連署の奥州藩全てを敵視する兆候もみられたため、仙台藩が中心となって奥羽越列藩同盟が結ばれた。

佐貫の三宝寺に新政府軍の屯所が置かれており、生還した勝山藩の19名が差し出されて地蔵堂に監禁された。
28~3030日まで軍議。
負傷者・病人・老人等には暇を出し、重傷の伊庭も療養の為に品川へ留まる。
請西藩士の鹿島長兵衛・外山源之丞、そして濕瘡(ひぜん。重い疥癬)に罹った渡辺勝造も帰国させる。
前日の退却が遅れた遊撃隊第二軍一番隊士のうち10人が堂ヶ島の近江屋に潜伏した所を小田原兵が襲撃し、近江屋主人の半兵衛が米びつに隠した小林隼之助1人を除き9人が皆殺された。
戦死・処刑された遺体の頭部は湯本早雲寺(後年人見が「遊撃隊戦死士墓」建立)に埋葬。胴体を埋葬した常泉寺に近江屋(本姓高木)半兵衛が供養塔を建立、先祖代々の位牌の中に戦死した9名の戒名と俗名を、生き残ったとされている兵士の俗名を刻み供養した。
前田條三郎、由井藤左衛門、関岡金次郎、市川元之丞、太田瓶吉、内藤鐐吉、関藤(敬)治郎、小笠原正七郎、松田隼之助(手負いとも)
※生き延びた小林隼之助は郷里の近江に無事帰郷したという。また『稿本底倉温泉史』では生き延びたのは飯野藩士の猪口春造(沢田武治門弟)とする
▼6月、海路から奥州へ転戦。奥羽越列藩同盟を結んでいる磐城(※明治からの区域、福島県)3藩を支援し戦闘。今まで本営の指示にあった忠崇も直接戦った。7月に相馬、会津へ。
61一行は長崎丸に乗り込み、夕方出航
3午後7時過ぎに奥州小名浜(陸奥国石城郡/福島県いわき市)に上陸。
守衛の仙台藩士山本丹後と面会し駅に泊まる。
4小名浜を出る際に木村隼人と大野尚貞が暇を乞い上総へ帰る。
湯本宿で食事をとり平(たいら)に着く。
平藩(同いわき市・3万石・藩主安藤信勇※美濃に在、恭順)の佐幕派の安藤鶴翁(信正。先々代藩主)から磐城3藩の平・湯長谷(ゆながや。平の分藩。1万5千石・藩主内藤政養)・(2万石・藩主本多忠紀)藩の救援を求める使いが訪れ、これに応じることを決めた。
5~15新政府軍が平藩・相馬中村藩(宇多郡中村/福島県相馬市・6万石・藩主相馬誠胤※恭順姿勢をとるが奥州列藩同盟成立で同盟参加)を狙って浜街道筋から北上する進路を予想し、それを食い止めるため平に到る途中に位置する湯長谷へ。
5日に平城を出て湯本に到り、15日まで滞陣する。
遊妓を買う奥州兵とは対象に、遊撃隊士らは色欲に浸る者は無かった。
新政府軍監の矢野安太夫は勝山・飯野・前橋の3藩に首謀者の処罰を命じ、12日、勝山藩では福井小左衛門と楯石作之丞が切腹。前橋藩では奉行白井宣左衛門が切腹して贖った。
飯野藩でも樋口盛秀・野間銀次郎が命を以て断罪した。
16常州平潟(福島境に近い茨城の港。仙台藩士大江久左衛門の守備)辺に新政府軍の船渡来の報があり澤六三郎が確かめた後、夜10時過ぎに出陣。
新田峠の辺りで戦わずに撤退してきた仙台・平藩兵と会う。新政府軍は薩摩・熊本・佐土原・大村藩(3艦)兵1000人、続いて数百の岡山・柳河藩兵等、計2000人ほどの大軍が上陸したと聞き、忠崇は仙台・相馬・磐城3藩の兵500人を従えて新田宿まで出張し軍議を開く。
人見は早急な交戦を主張し遊撃隊を指揮し、新田山(泉藩領)へ向かう。
磐城三藩は山に沿い、遊撃隊は本道から、仙台藩士は海岸より進み平潟出撃を明朝に定めて兵達に休息を取らせた。
※奥州側の資料では奥州兵の行動を悪い解釈はしていませんが、ここでは主に遊撃隊視点を採ります
17明け方、三道に分かれて村田村から仙台・磐城諸藩連合軍と共に出撃し忠崇らの隊は殿を務める。
この頃奥州同盟軍は白河に戦力を投入しており、海岸防衛任務の仙台兵の足取りは重く、人見が後方から鼓舞し進ませた。
山上で待ち構えていた新政府軍が遊撃隊に向かい射撃し、交戦。遊撃隊一隊も仙台兵を率いて戦ったが、銃撃戦の中で逃げ出す仙台兵が相次ぎ、敗走。遊撃隊山田戦死。

林軍・他遊撃隊らは関田宿(黒田村の大字)まで進む。
先鋒大岡の苦戦の報に至急仙台・相馬兵の援軍を向かわせるが、正午頃に先に進んでいた仙台兵らが敵兵に追われて引き返して来た。
忠崇らは松原で新政府軍を迎え打つも、味方の奥州兵は我先に逃げようと散々に崩れ、馬上の忠崇が踏みとどまるよう命じても抑えられなかった。
忠崇はここで討死を覚悟したが、65歳の老齢の身で常に忠崇の傍で主を支えていた家老北爪貢が、忠崇の馬の轡に取り付いて泣きながら諌めたので退陣を受け入れた。

新政府軍の大村兵は官道・海道から、薩摩兵は山から迫り来るが、砲撃の中で忠崇は落ち着き払って家臣を指揮し防戦に努めた。
林軍と遊撃隊らは日暮れに孤軍抗戦しながら湯本に退き、夜半に平城入りした。
支援藩兵の軟弱さに憤った人見も、兵に覇気がなく内部は恭順・抗戦派で割れ信用が置けない藩は見限って、会津支援に向かうことを忠崇に勧めた。
先鋒の大岡幸治郎(第1軍遊撃隊)率いる二小隊は新政府の大軍に勝ち追撃したが、海岸の伏兵として配したはずの仙台兵が持場放棄して逃走していたため敵軍に背を突かれてしまう。少ない兵を割いて分隊し苦戦しながらも窮地を逃れた。

撤退時の殿は岡崎兵がつとめた。岡崎藩医であった和多田貢が背中を撃たれ胸を貫いたが、屈せずに撃ち返そうと弾を込める。しかし力尽きた和多田の首を同じ岡崎藩士の小柳津要人が掻き、預かった澤六三郎が馬を馳せて渡邉村萬福寺に葬った。

奥州兵の中でも勇敢な者はおり、平藩の軍事方山田省吾が四斤山砲で新政府軍の富士山艦に三発命中させ上陸を防ぎ、艦を平潟に一時撤退させた。
18会津転戦の意志に対し、仙台陸奥守の名代の古田山三郎らが平身して、磐城滞在と明日到着の国元からの援軍の指揮を強く請うので、止むを得ず、滞在を延ばす。
夜に軍議を開き、忠崇は安藤正信と面談。
遊撃隊は再度湯長谷への出兵を決めた。
野州口から会津の純義隊が到着。

湯長谷出兵と同時に、笠間藩(城郡笠間)の壁屋砦(笠間藩の飛地の神谷にある陣屋)攻撃を参軍の和田助三郎率いる隊に託す。
19~22林軍は兵を3分して2隊を湯長谷、一隊を平城下に置き休息させ、交替させる。
23新政府軍が平城目指して進軍し、遊撃隊は朝8時頃に湯長谷の隊を植田宿へ出撃させる。
植田八幡山で敵を待ち受けるために2手に分かれ請西藩兵・遊撃隊1隊・平藩兵は街道から、純義隊・遊撃隊1隊は山手から侵入する
24八幡山を挟んでの攻防となる。請西藩足軽水田万吉が平藩士13人を率いて岩や藤蔓を伝って後方に回り射撃、一瞬で50人以上を撃ち倒し、新政府軍の一大隊半をたった14人で崩した。敵の反撃で水田は浅手を負い、平藩兵は4人の犠牲が出たが、太鼓を鳴らして急襲成功報せてたため味方は多く敵を討ち取ることができた。
激しい砲撃戦の後、数に劣る同盟軍は湯長谷に退却。
植田宿の敵本陣を撃破し、鹿児島兵が置き去った食糧を味方兵が食べようとしたが、請西藩の伊能が止めて動物の餌にしたところ毒であった。
28薩摩・備前・大村藩兵が泉陣屋(湯長谷のすぐ南に位置する)を占領。
同盟軍が崩れる中、佐土原・柳川等の大軍迫る新田山に出兵した請西兵は大野喜十郎の戦略で弧軍奮闘したが相馬兵が逃亡して大軍を防ぎきれず、左足を撃たれた大野が退際に背を討たれ戦死。
篠原竹次郎ら3人の戦死も見届けられた。
宮崎亀之助、愛之助が未帰還となる。
※箱根で討死の大野静はこの時に生捕られ斬首されたともいわれる
29請西藩士の杉浦鉄太郎、高橋護も戦死し多く犠牲者を出したが、小幡直二郎と水田万吉等負傷しながらも生き延びた者が朝になって5人、3人と群を成して平城へ帰還した。
長橋端から新政府軍を砲撃で撃退するも、平城主・泉城主らが仙台兵と共に逃げ退いたため守備が手薄になる。それでも留まって戦おうとする忠崇を、人見が諌めて会津支援に向かうことを説得する。
各軍の疲労の色濃く、兵を休める為に午後3時、忠崇は彼の左右に従う19人・遊撃隊20人・歩卒30人の合わせて69人と共に相馬中村(平より北へ位置する)へ向かう。
この夜は久ノ浜に一泊。
徳川家70万石に取立られた報が伝わる(5月27日)
71~6久ノ浜を出発し、木戸宿で二泊。
新田の戦から未帰還だった篠原愛之助が合流。宮崎亀之助(戦死)や他の遊撃隊士と共に潜伏していたが、愛之助は山間から辛うじて平城に辿り着き、更に追ってきたという。
3日に富岡に泊まり、4日に浪江泊。
相馬中村藩(宇多郡/福島県相馬市・6万石・藩主相馬稲葉守誠胤)領に入り中村藩重臣相馬弾正が出迎える。
6日原ノ町で休む。
2日 輪王寺宮、仙台城北の仙岳院に入る(5月25日夜に榎本の協力で品川沖停泊中の運送船長鯨丸に乗り28日に平潟に上陸。会津・米沢を経て仙台入り)
7~18原ノ町を出発し中村城下に着き、本町館屋という平右衛門の商家に滞陣。
中村藩藩主相馬稲葉守から重臣宅で供応が振る舞われた。
9日、藩主に面会。
16日に仙台から招きを伝える使いの氏家晋が来るが断る。
13日 輪王寺宮、白石出陣
19再び仙台から前島省吾が使いで来る。
同時に会津に居る旧幕府陸軍奉行竹中丹後守重固からも救援を乞う書が忠崇にも届く。
夕方、川俣に着泊の人見も会津に向けて出立。
20~22忠崇は北爪貢・吉田柳助・広部周助の3人を伴わせ会津に出発。
翌日、川俣で会津に向かう遊撃隊士梅沢に会う。
22日、二本松を通行し会津須津沢村に着泊。
21日 新政府は飯野藩主保科正益に命じて請西藩領を桜井藩主滝脇信敏(丹後守・元小島藩主)に移管させる。
23・24会津若松城(鶴ヶ城)下に着く。
翌日、竹中丹後守、大鳥圭介らと面会し軍議。
※大鳥の著書によると出陣中の大鳥が城下に着くのは26日以降
25若松城で松平容保父子と面会。互いに「お察し申す」の言葉のみ交わしたという。
藩士の記録では、同じくする志を述べて涙を落として嘆じたと記している。
29忠崇は吉田柳助を庄内藩へ連絡へ出す。
▼8月、忠崇は会津から仙台へ。
83・4これまでに2度仙台藩主の伊達陸奥守慶邦(よしくに)の使いの仙台招致を断っていたが、3度目に特使の国分平蔵が忠崇に宛てた藩主自らの親書を携えて来た。
翌日、若松城で会津中将公竹中大島に相談の上、仙台行を決めた。
5家来の北爪貢・広部周助を若松に留めて、滞陣の兵の引率に吉田柳助を中村に送り出す。
忠崇は中村から来た木村嘉七郎・檜山省吾ら2人を伴い国分平蔵の案内で会津を出発。
檜原駅に泊まる。
6檜原駅を出発し米沢領の細木駅を過ぎ峠を下る折に、中村で会津出撃を待っていたはずの遊撃隊の行軍と偶然行き逢う。忠崇を迎えるために敵軍も迫った長い道のりをやってきたらしく、忠崇と道中で巡り逢ったことで全軍大いに喜んだ。
軍は忠崇が仙台から戻るのを待って会津に帰ることを願ったので一旦、共に米沢城へ戻る。
8・9忠崇は米沢を出て湯ノ原に一泊し、兵士は二井宿に泊まる。
翌日から下戸沢に着いた兵は湯ノ原に到って射撃訓練などをしながら忠崇の帰りを待つ形になった。
10白石城下に着く。
忠崇は上野の敗戦で避難していた輪王寺東宮公現親王(北白川宮能久親王)に親しく謁見する。
12岩沼に出陣中の伊達慶邦父子に面会し、会津を救うべく評議する。
14・15仙台城下に着き、松ノ井邸に宿泊。翌日仙台府御宮町東照宮の社に参拝。
18仙台を発ち、槻木駅着泊
19白石城下に着き、忠崇は再び輪王寺東宮に謁見する夜、旧幕府の軍艦開陽・回天・蟠龍・千代田形、運送船長鯨・神速・美嘉保・咸臨の8艦に榎本武揚やフランス陸軍教官ブリューネら二千人余名が乗り込み品川沖を抜錨。伊庭が美嘉保丸に乗船。咸臨丸には元小田原藩士の関が乗船している。
20渡瀬着旧幕府艦隊は房総南端を迂回し北へ向かう
21湯ノ原着。忠崇を待っていた軍の元へ帰る。旧幕艦は鹿島洋(銚子沖)で暴風雨に遭い離散。開陽に曳航されていた三嘉保は綱が切れて漂い、流された蟠龍・咸臨は伊豆へ針路を変更。
22湯ノ原を出て米沢城下に泊まる。この頃会津の国境が新政府軍に破られ猪苗代へ近づいている噂を聞く。夜、南の空に敵が会津に迫っていることを現す烟焔を見る。
23会津に向けて米沢を出発するが、雨が強く歩行困難のため綱木駅に泊まる途中、会津の中沢五郎に行き逢い、会津城下に新政府軍が突入したことを知る。
救援に向かおうとする忠崇を、小森・沢の二人が今は入城困難であり兵を無駄にしないためにも米沢に戻り策を練るのが得策であると説得する。
24米沢城に着き討論の末、忠崇らは輪王寺ノ宮を守護し今後の生死は輪王寺ノ宮の御運に任せるのが少なくとも本懐に叶うだろうと決意し、大野友弥・伊能矢柄2人を白石へ遣わせた。旧幕府艦の長鯨が松島湾入り(次いで千代田形、26日に回天も到着。27日午後4時頃に開陽が寒風沢沖に入港。9月5日に神速、18日に蟠龍も松島に着く)各港で修理し、名東浜に集結する
25米沢を出て高畠着泊
26高畠を出て湯ノ原着泊大野・伊能2人は白石で輪王寺宮執当覚王院僧都に面接し、覚王院に福島出兵を論弁される。

三嘉保丸が犬吠崎北の黒生海岸に座礁し破船。乗船していた伊庭らは銚子港に漂着。伊庭は上総に向かいその後遊撃隊士本山小太郎導きで江戸を経て横浜の尺振八の元で潜伏。
27湯ノ原を出て渡瀬着泊
28・29渡瀬を出て白石着泊。覚王院僧都の主張を受け、仙台藩を援けて時機を待つことに決める。
翌日、兵は留めて忠崇は大野友弥・木村嘉七郎・伊能矢柄・長谷川源右衛門の4人を伴って白石城下を出発。仙台への道中を急ぎ、中田に着泊。
▼奥州諸藩が次々に降伏して輪王寺宮も謝罪に至り、抗戦理由の徳川存続も決まったため、ついに忠崇は降伏を決断する。
91中田を出て午前に仙台城下に着く。国分町福田屋を宿とする。榎本武揚ら仙台城下に入る
2忠崇は人見と面会する。寒風沢(さぶさわ。宮城県塩竈市の浦戸諸島で仙台藩の軍港がある)港守衛の任務に就いていた人見は、この地を共に守ることを忠崇に提案した。
話がまとまり、白石城下の兵を仙台府に引き揚げる。
北爪貢が上野利根川村で捕縛、斬殺される※降伏後に病死とも

旧幕府艦咸臨が清水港に入るが新政府軍艦隊に襲撃を受け拿捕される(蟠龍と共に伊豆に漂着し駿河湾で修理していた。この時蟠龍は伊豆の安良里港に居て咸臨の拿捕に気付かず)
4忠崇、仙台城下で初めて榎本武揚と面会する。
※後日忠崇が榎本について2、3度会ったが深い付き合いが無いと記者に述べている
米沢藩が降伏
9・10兵達が白石から到着。恭順した相馬藩の兵が先鋒で仙台国境へ進軍しているため、援軍を駒ヶ嶺へ出す。10日に再び庄内に向かわせた吉田柳助が消息不明となり、後に遺品の毛髪と愛刀が旧幕府奥医の浅田宗伯により郷里の小鹿野に届けられた
中旬米沢藩の降伏の報が伝わる。同盟藩の要の藩が次々に降伏している状況に、旧幕府軍は近々艦で蝦夷に渡り再起を図ることを決し、諸隊が塩釜に移動。
大野友弥・伊能矢柄・長谷川源右衛門・中村三十郎、ほか檜山省吾ら5人が従行。
15日 奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩が降伏

19日 榎本ら城下を出る
20仙台藩から、降伏謝罪すべき旨の書が届く
21忠崇は奥州同盟が解散し諸藩は投降、輪王寺宮も謝罪を決め、また徳川家の存続が成った今、これ以上戦えば戦うための戦…私の戦となるため、自身も降伏して天刑に就くことを決断し、謹慎する旨を伝えるため供を仙台へ遣わせた。

遊撃隊ら戦う意志のある者は命惜しさの口実であろうと詰り怒りながら転戦していったが、忠崇は降伏の際に「真心のあるかなきかは屠り出す腹の血潮の色にこそ知れ」と切腹を乞う覚悟の辞世を詠んでいる。
榎本は旧幕府陸軍(大鳥圭介・土方歳三等や人見の遊撃隊ら)2千5百余名と仙台額兵隊兵・会津藩士ら2千百余名を、開陽・回天・蟠龍・長鯨・神速・太江・鳳凰の7艘に分乗させる。
22石切村まで引き揚げる鶴ヶ城開城。上旬に仙台城北の仙岳院に戻っていた輪王寺宮も平潟口総督府に謝罪の書を提出
24忠崇は謹慎のため八ツ塚林香院に退去。
2525日 江戸へ事情を報告に出した檜山省吾を除く名簿を仙台監察熊谷齋方に差出す。
家来19人(内士分10人)大野友弥・伊能矢柄・木村嘉七郎・長谷川源右衛門・中村三十郎・北爪善橘・岩瀬詮之助・小幡直次郎・加藤雄之助・安藤信三郎
小倉鍨三太・中野秀太郎・橋本松蔵・加納佐太郎・水田萬吉・篠原愛之助・篠原竹次郎・小林清太郎・滑川彦七
※檜山は顛末を請西藩関係者に伝えるため江戸に帰されたという
2727日 降伏謝罪の実効として所持していた銃(短筒)七挺・動乱8・弾薬2袋を仙台城に持参し引き渡す
102~53日 裃上下着用の大野友弥を参謀宿所の片倉邸に遣わせ降伏謝罪の歎願書を提出させる。
5日 午前8時頃に忠崇が片倉邸に出院。
10~13旧幕艦開陽が折ヶ浜に廻り、13日に宮古湾へ向けて出航
14午後10時頃、仙台の監察田村尋松が平潟口総督四条隆謌の参謀からの「降伏謝罪被 聞召届死一等被免東京護送候條御達有之候事」の下達を携えて訪れ、片倉邸への同行を命じられる。
正装した忠崇は片倉邸へ到るが、深夜の為就寝を促される。
林昌之助家来十九人 内士分拾人
大野友彌 伊能矢柄 木村嘉七郎 長谷川源右衛門 中村三十郎 北爪善橘 岩瀬銓之助 小幡直次郎 加藤雄之助 安藤信三郎


夜に上総から広部周助が赴く。
15忠崇の護送は伊州藩が担当し、本日伊州藩から100人程をつけて東京に出立する旨が告げられる。
林香院に戻り旅装を整え午後2時頃、片倉小十郎邸へ。
帯刀を仙台の監察久世平八郎に渡す。忠崇にとって帯刀を許されなかったことは心痛であった。
護送は錠をおろされた籠で、周囲を鉄砲を担いだ兵が警衛し、忠崇の家来30人ばかりが無腰で赤い毛布を引っ掛けて籠の後ろから歩いた(縄付きではなかったようだ)
片倉邸を発ち、岩沼駅に泊まる。
他にこの日護送されたのは新遊撃隊(旧幕府脱臣)と輪宮寺執刀龍王院・覚王院
16~3016日 槻木から大河原泊。17日 宮から白石泊、20日まで逗留。21日 越川から桑折泊。
22日 八丁目から二本松泊、25日まで逗留。26日 日和田から郡山泊。
27日 須賀川、28日まで逗留。29日 小田川から白河泊、30日まで逗留。
111~611月1日 蘆野から越掘泊。 2日 大田原から佐久山泊。 3日 氏家から宇都宮泊。
4日 小金井から小川泊。5日 古河から幸手泊。
6日 粕壁から草加泊。忠崇はこの日伊州藩監察青木準平に面会し護送された人々の預け先を聞く。
7忠崇は正装で草加出立。千住宿にて単身で伊州藩から唐津藩隊長に引き渡される。
一人でも供を請うが許されず、一生の別れとなるかもしれない家臣達と涙で衣を濡らしての別れとなった。
請西藩の臣下19人はそのまま伊州藩兵の護送で山下御門外松平図書頭邸へ送られる。

忠崇は江戸外桜田の小笠原佐渡守長国(肥前唐津藩6万石藩主、中務大輔。本筋にあたる)に御預となる。
座敷牢(牢屋でなくただの座敷)に入れられ、監視2人がついたが礼を尽くして夜具を敷いたり畳んでくれた。
遊撃隊は駿州、他脱藩者は尾張藩に引き渡された
127死一等を減じ小笠原長国に永預けが決まる。以降3年間の幽閉中、日夜文学に励む。この時、唐津藩家中の者から算術を教わった。
鶏を飼う。
幽閉中に脚気に罹るが手当てを受けた。
伊庭が外国船で箱館に渡る。箱館戦争では17日に勝山藩士の三宅熊五郎が戦死。

請西藩で降伏後病死した者は木村嘉七郎、小倉鐙三太。

忠崇年表 明治2年~昭和16年

年号西暦林忠崇 経歴関連事項
明治2年186911月10日 弟の林忠弘(12歳、幼名藤助。忠崇の養父忠交の子。牛込区弁天町110居住)を以て林家再興の恩命、禄300石を下賜され士族となり、東京の八幡町に邸宅を結ぶ。
※300石の下賜に次いで75石、そして35石に減らされた。
明治4年18711月 忠崇は禁固を免ぜられ、忠弘方に附籍となる。
明治6年1873忠弘に寄宿は心苦しく思い、請西村に戻って旧陣屋址に別居し帰農。石渡金四郎邸離れ屋に隣接して旧領地の陣屋跡に自ら鍬を振って農地を開墾した。25歳。

12月 亡父と親しかった東京府知事の大久保忠寛(一翁)に頼り東京府十等属に即決で採用され、学務課勤務となる。
明治8年187512月 中属に昇進する中、事務上のことで楠本東京府権知事と意見違いし、後に黒田課長らと共に辞職。※初任時の知事は大久保一翁。
北海道の函館に渡り、豪商の仲栄助の番頭となって各地の取引所に出張し2年間商業を学ぶ。
明治10年1877栄助の店が閉店。大阪府属となる。6月8日 忠崇の長女が死亡。
明治12年187910月 深川区西森下町11番地に住む。
明治13年1880神奈川県座間市の龍源院に住む。この頃の画号は「如雲」
明治19年1886次女ミツ生まれる。
檜山省吾の仲介で、南埼玉郡登戸村(越谷市)の小島弥作の次女チエと入籍。忠崇39歳。
明治22年188910月 大坂市北区堂嶋北町120番屋敷にチエと居住。
明治23年189011月27日 次女ミツを正式に忠崇の籍に入れる。
明治26年189310月30日 旧藩士の復権運動が実り、弟忠弘が男爵として華族列にせられる。
明治27年18943月20日 47歳で従五位に叙せられ、華族の待遇を得る※授爵は無し

5月5日 赤坂区新町3丁目40に住み、印刷局に勤務。

9月 東宮職・庶務課勤務。後に病を理由に退職。
明治30年18974月3日 鹿野山(千葉県君津市)に請西藩士招魂碑(榎本武揚書)建立除幕。

10月 祥雲寺等を訪ねる。浪岡村下烏田に家臣諏訪数馬の家を弔問し数馬を描いた絵と和歌を遺す。
明治31年18984月21日 請西の林重五郎宅に乳母人杉浦関女を訪ね、同伴して上京も。
明治32年18997月22日 栃木県の日光山東照宮神職(拝殿詰)に雇われ奉仕。宮社内に居住。
明治34年19017月5日 東照宮神職退任
明治35年1902帰京
明治37年19049月25日 信州里山辺林の曹洞宗広沢寺の先祖の廟に詣る。3月22日 妻チエ、順天堂病院(本郷区湯島)で死亡。享年51歳。
大正4年1915ミツの嫁ぎ先の岡山県津山の妹尾順平方(真庭郡大山村大字下方1298。妹尾銀行経営)に移る。その後ミツの孝養のもと詩を吟じ平穏な日々をおくる。隠居名「一夢」
大正5年191612月9日 忠弘が60歳で死去。
大正6年19171月20日 古稀(数え年70歳)で御紋付銀盃1個と酒肴料を賜る。1月22日 義弟の館次郎(忠弘の実弟)が55歳で死去。
大正8年19191月 大阪市(南区天王寺町阿部野筋1丁目3899)に居住。
昭和2年19271月 傘寿(80歳)に達し御紋付銀盃1組と酒肴料一封を賜る。
東京に移り、芝区三田四国町15に住む。
昭和3年192811月3日 宮内省より銀盃と白羽二重一匹を賜る。
昭和5年19303月1日 豊島区高田南町1丁目101高田荘に転居の旨を華族会館に提出。ミツが妹尾順平と協議離婚。
昭和8年1933芝区三田四国町15でミツと住む。
請西日枝神社に忠崇の書で社号の石柱建立。
昭和12年19371月15日 卒寿(90歳)に達し御紋付銀盃1組、絹1匹と酒肴料等を賜る。

11月15日 菩提寺青松寺(東京芝愛宕下)で戊辰戦没者の招魂70年の法要を行い「追哀墳」と刻んだ記念碑を建立。
昭和13年193811月3日 宮内省より銀盃三ツ組と白羽二重一匹を賜る。
昭和14年1939夏 下烏田熊野神社扁額を揮毫。
昭和15年19403月1日 東京都豊島区高田南町1丁目8-1高田荘に転居。
昭和16年19411月22日 94歳の天寿を全うした。松涛院殿忠崇一夢大居士。青松寺に墓。旧請西藩家老田中兵左衛門の孫の田中正(田中印刷合名会社、現富士美術印刷株式会社会長)が死床に侍した。

「幼少時」等の時期が曖昧な逸話は省略。請西藩視点での手記等を優先しているため事実や他藩の報告と異なる箇所があります
※それぞれ個別記事で補う予定です

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