上総国貝渕藩・請西藩林家 ※無断転載・使用を禁じます
上総国貝淵(かいふち)・請西藩(じょうざいはん)は現在の千葉県木更津市に置かれた小藩。
歴代藩主の林家は信濃国(静岡県)小笠原氏の流れで代々三河松平家に仕えた徳川譜代の家臣。
【家禄:10000石】【席次:菊之間縁頬詰】【散官:朝散大夫】【陣屋:貝淵陣屋・真武根陣屋】
家紋:丸の内三頭左巴下に一文字(拝領紋所)・三階菱 添紋:五七桐
貝渕・請西藩の略年表
※簡易表の都合、任期等の枠線はおおよそです年号 | 西暦 | 将軍 | 藩 | 藩主 | ◎家老 ▲中老 | 江戸屋敷 | 林家の出来事 |
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文政8年 | 1825 | 家斉 | 忠英 | [上]呉服橋内 | ・4月23日林肥後守忠英若年寄に任じられ1万石の大名となる | ||
文政9年 | 1826 | 貝渕 | ◎大野勘平 | ・貝淵陣屋を設置 | |||
文政10年 | 1827 | ・徳川家と林家の正月嘉例が再開し以降毎年12月に兎を献上 ・忠英が最樹院(徳川治済)の宝前に石燈籠を奉献 |
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文政11年 | 1828 | ◎大野勘平 ▲小倉小左衛門 | [上]呉服橋内 [中]蛎殻町 [下]菊川町 | ||||
天保3年 | 1832 | ◎小倉小左衛門 ▲大野真平 | ・忠英の四男武三郎(忠交)が生まれる | ||||
天保5年 | 1834 | ・12月20日 3千石加増(1万3千石) | |||||
天保10年 | 1839 | 家慶 | ・3月18日 5千石加増(1万8千石) | ||||
天保12年 | 1841 | 忠旭 | [上]蛎殻町 [下]菊川町 | ・4月16日 忠英が若年寄を免職され8千石減封(1万石) ・7月29日 林播磨守忠旭が継ぐ |
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天保14年 | 1843 | ・6月10日 利根川分水路・印旛沼古堀筋普請御用 | |||||
弘化2年 | 1845 | ◎大野真平 | ・5月8日 忠英が死去 | ||||
嘉永元年 | 1848 | ・7月28日 忠旭の五男昌之助(忠崇)が生まれる | |||||
嘉永3年 | 1850 | 請西 | ・11月23日 陣屋を請西村間舟台(真武根陣屋)に移し、貝渕の旧陣屋は地方役所とする | ||||
嘉永5年 | 1852 | ◎木村隼人 ▲小倉大三郎 (小倉多左衛門) | |||||
嘉永6年 | 1853 | 家定 | ・6月4日 湾岸警備 | ||||
嘉永7年 | 1854 | 忠交 | ・4月27日 弟の林肥後守忠交が家督を継ぎ、昌之助を養子とする | ||||
安政5年 | 1858 | 家茂 | ◎小倉多左衛門 ▲廣部民右衛門 | ||||
安政6年 | 1859 | ・8月28日 忠交が伏見奉行となる ・9月21日 廣部民右衛門が家老となる |
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元治元年 | 1864 | ◎小倉多左衛門 ◎廣部民右衛門 | ・5月29日 万里小路局が大奥を辞し請西藩江戸藩邸に身を寄せる | ||||
慶応2年 | 1866 | 慶喜 | [上]元飯田町 [下]菊川町 | ||||
慶応3年 | 1867 | 忠崇 | ・6月(5月)24日 忠交が伏見で急死 ・8月30日 忠崇が請西藩主となる ・10月20日 忠旭が死去 |
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慶応4年 明治元年 | 1868 | (取り潰し) | ・閏4月3日 人見勝太郎、伊庭八郎ら遊撃隊の要請を受け忠崇は脱藩し箱根へ。18日、請西藩の領地が飯野藩の預かりとなる ・7月21日 請西藩領を飯野藩から桜井藩に移管 ・9月 東北へ転戦した忠崇が降伏 |
■林家(中祖小笠原光政~)
[1]光政(みつまさ。藤助) 康正元年(1455)5月10日没。父小笠原清宗、母武田大膳大夫信昌の娘。
[2]光友(みつとも。八郎→藤蔵) 信州生。長享2年(1488)8月12日三州井田で討死(延徳2年2月20日とも) ※長政、信政
[3]忠長(ただなが。藤五郎→藤助) 三州生。明応8年(1499)7月2日三州にて没。 ※政村、政縁(まさより)
[4]忠満(ただみつ。藤五郎→藤八郎・藤助) 信州生。天文9年(1540)6月6日没(天文17年3月19日小豆坂で討死とも)墓所三河大樹寺 ※正通、縁正(よりまさ)
[5]忠時(ただとき。藤五郎) 永禄12年(1569)5月22日没(翌元亀元年6月9日没とも)墓所三河大樹寺 ※正忠、清忠
[6]忠政(ただまさ。藤五郎。道斎) 永禄7年(1564)三州生、病により総州に隠居し元和8年(1622)4月14日病死。墓所上総龍渓寺。
[7]吉忠(よしただ。藤四郎) 天正15年(1587)三州生。実父上林越前の長男。室河村善右衛門の娘。大番。500俵。元和元年(1615)5月7日大坂夏の陣で討死。墓所大坂一心寺・上総龍渓寺 ※吉正
[8]忠勝(ただかつ。兵四郎) 元和元年(1615)武州生。室天野孫左衛門重房(幕府の船手組)の娘。大番。500俵。寛永15年(1638)2月12日二条城番所で病死。墓所上総龍渓寺。
[9]忠隆(ただたか。藤四郎。信濃守) 寛永13年(1636)武州生。室高城清右衛門重胤(御目付)の娘。大番頭等。貞享3年(1686)11月16日3千石。本所林町屋敷在。元禄10年(1697)4月9日没、以降林家菩提所青松寺。
[10]忠和(ただかず。藤五郎。土佐守) 萬治元年(1658)武州生。忠隆二男で横田家の養子となるが兄の忠晟が早死し林家を継ぐ。御書院番、長崎奉行、江戸町奉行等。3千石。室は佐野與八郎正信(御船手)の娘。後妻に亀井貞右衛門徑矩の娘、中御門前大納言宣顯の娘。宝永2年(1705)3月12日没。 ※横田五郎→五郎三郎・藤五郎、忠重→忠朗
[11]忠勝(ただかつ。藤四郎。備後守) 延宝元年(1672)武州生。溝口伝四郎重時(御書院番)の次男。小普請、日光奉行等。3千石。享保17年(1732)9月20日病死。
[12]忠久(ただひさ。藤四郎。外記) 宝永5年(1708)9月28日武州生。室秋山十右衛門正億(火消役)の娘。後妻は内藤外記(百人組頭相勤)の娘。大坂船奉行、新番頭。3千石。宝暦13年(1763)11月1日没。
[13]忠篤(ただあつ。藤五郎。肥後守) 元文3年(1738)正月25日武州生。母内藤外記正主(百人組頭)の娘。室奥津伊代守正通(大坂町奉行)の娘。後妻水野日向守勝前養女(実父は植村土佐守恒朝)。御小姓衆、浦賀奉行等。3千石。寛政8年(1796)4月6日病没。
【14】忠英(ただふさ。藤助。出羽守→筑前守→肥後守。檪叟) 明和2年(1765)4月29日武州生。若年寄。貝淵藩初代藩主。文政8年(1825)4月23日1万石、後1万8千石。室は神保和泉守茂清の娘。弘化2年(1845)5月8日没。
【15】忠旭(ただあきら。銈次郎。播磨守) 文化2年(1805)2月6日武州生。貝淵藩第2代藩主、請西藩初代藩主。1万石。室は曽我伊豫守助順の娘。慶応3年(1867)10月20日没。
【16】忠交(ただかた。武三郎。肥後守) 天保3年(1832)生。伏見奉行。請西藩第2代藩主。1万石。室は久貝因幡守正典の娘。慶応3年(1867)6月24日伏見にて急死。墓所大坂一心寺。
【17】忠崇(ただたか。昌之助) 嘉永元年(1848)生。忠旭五男。請西藩第3代藩主。1万石。昭和16年1月没。
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