上総国飯野藩保科家系譜・序(高遠系~)

飯野藩保科家の家系図

▲当サイト記事の説明用として、飯野藩保科家を軸に制作した家系図につき分かりやすく高遠系から、
 同一人物の可能性のある名も参考として個別にし、女性は法名としての院号も区別なく記し、一部を省略した

※保科の始まりは家紋「梶の葉」の由来の諏訪神系「保科村に住む諏訪の神氏保科神助貞重が諏訪神社造営の恩賞を源頼朝から受けるため鎌倉に上り5年の奉公により源姓を与えられた」
「建御名方命(大国主の子)から四十一代目後裔の神大夫盛行が保元の頃に初めて保科の地に住み、仁安の頃(1166~1168)に子の行遠(ゆきとう。四郎太夫)が地名を以って保科四郎太夫行遠を名乗り、その後の源平の乱で行遠の子保科行信(弟に惡三郎行直。行時、行通とも)と孫の友衛親子が戦死し神家の血筋は断絶。承安2年(1172)井上源氏の井上忠長(太郎)が保科太郎忠長を名乗り保科氏を継ぐ」等、諸説ある。
※保科氏のルーツ(伝承)については→飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)
 

1.保科村系保科家(諏訪神氏※保科の家系のみ記載、諸説あり

建御名方命─…(略)…神太夫盛行──保科四郎大夫行遠┬──行信──友衛 [親子戦死により井上忠長が保科家を再興]
                          └──保科惡三郎行直(行通)──行連──範行 [→笠原家(兄弟も同)]

 

2.保科村系保科家(清和源氏井上氏~)※保科の家系のみ記載、諸説あり

(井上)保科太郎忠長──長直──長時┬─忠直──光利──正利┬─正則─…[→高遠系]
                  └─無関普門      └─正保(左近将監)─…[→保科村系]

 

3.大名家の保科氏(高遠系~)

●保科正則(まさのり。弾正忠、築後守。筑前守とも)……信濃国高井郡保科に生まれ、これにより保科(ほしな)を称号とした説もある。長亨年間(1487-88)もしくは永正10年(1513)に村上顕国(頼平、頼衡)に攻められ、父保科正利(永正3年/1506没)と共に一時伊那郡高遠の別邑に退く。藤沢城を居とし、高遠氏(保科氏と同じく諏訪祝系)に従い藤沢の代官となる。天正19年(1591)9月6日没、法華寺に墓。法名栄壽。
 ├──[女子] 畑野伯耆守室
 ├──[女子] 上林但馬守室
 ├──[正俊]→
 ├──[甚右衛門] ※上杉家臣保科略系譜の権左衛門「保科弾正忠ニ男 豊後守正信 天正十年没」と同一か?
 ├──[女子] 小原美濃守室
 ├──[女子] 秋山備後守室
 ├──[新右衛門] 兄甚右衛門と同母
 └──[女子] 春日河内室

●保科正俊(まさとし。筑前守弾正忠)……永正4年(1507)5月13日に藤沢村で生まれ(5月21日または永正8年生とも)、甚四郎。天文14-5年(1545-6)頃から武田信玄、後に勝頼に仕え凡そ37度の武功をあげる。武田24将・信濃先方衆(120騎持)の1人で戦国の三弾正の槍弾正。嫡子の正直と共に飯田高遠下総多古そして再び高遠へ居城が移る。文禄2年(1593)8月6日没。享年83(87)。妻は小河内美作守某の娘。法名月眞。
 ├──[正直]→
 ├──[治郎正義] 天文13年(1544)11月10日生。後に弾正進。正俊が下諏訪逗留の際に土地の女が産んだとされる庶子。真田昌幸に仕える。
 ├──[善兵衛] 出生日不詳。天正10年高遠城にて討死
 ├──[源蔵(内藤昌月)] 天文19年(1550)生。上州箕輪城主内藤修理信量養子。大和守。子の直矩は会津松平家、その弟信矩は井伊直政(彦根藩)に仕えた。
 ├──[正勝] 母は小河内氏女。三河守。正之に仕え会津藩筆頭家老の西郷家の祖となり子孫に西郷頼母助近悳(保科頼母)等。慶長2年(1597)4月11日没。
 └──[女子] 小山田正貞室
   三河守正勝の子
    ・民部正近 室正光養女小山田備中信茂女・母甘利信量女→会津西郷氏
    ・女子 保科正重室(正重没後小畑孫市に嫁ぐ)
    ・女子 信州長官諏訪大祝室

●保科正直(まさなお。越前守・筑前守後に弾正忠)……母は小河内美作女。天文11年(1542)6月6日生。甚四郎。慶長6年(1601)9月29日高遠で66歳で没し建福寺に墓。淸信授法長元院。
 ├──[正光]→                                                                 
 ├──[女子] 小日向源太左衛門(真田信綱か)室→子に左源太[正光養子]
 ├──[正重] 壱岐守。靭負。母は光寿院(真田家御分の小日向氏女)
 ├──[大涼院(栄姫)] 天正13年(1585)生・母は家康の異父妹の多劫。慶長5年6月6日に黒田筑前守長政に嫁ぐ。慶長5年(1600)徳川家康養女として大坂城より輿入
 ├──[清元院] 母多劫・徳川家康の養女・安倍摂津守信盛室
 ├──[正貞] 母多劫・天正16年(1588)生。弾正忠。上総飯野藩初代藩主[正光猶子]→
 ├──[貞松院(ヨウ)] 母多劫・天正18年(1590)生・徳川家康養女・小出大和守吉英室・14歳で輿入→子に正英[正貞養子]
 ├──[高運院] 母多劫・尾張大納言義直養女・加藤式部少輔明成室
 └──[北条氏重] 母多劫・慶長元年(1596)生。久太郎。出羽守。遠江掛川藩藩主(北条氏勝の養子)

●保科正光(まさみつ。肥後守)……永禄4年(1561)生、母は跡部越中守女。初め甚四郎。信濃高遠藩初代藩主。室に青陽院(真田安房守昌幸の娘、船橋二位枝賢の娘。9歳の時に武田勝頼の子の信勝に仕えるため(人質とも)甲府に赴く。下総多古へ移封時に30歳で家督を継ぐ。寛永8年(1631)10月7日高遠で没し建福寺に墓。天永高本源松院。
 ├──養子[左源太]
 ├──猶子[正貞]→
 └──養子[正之] 徳川秀忠庶子。→会津松平家

保科正貞(まささだ。弾正忠)甚四郎。寛文元年(1661)11月1日74歳で没。天永高本源松院。大円寺に墓。→飯野藩保科家
 ├──[正景]→
 ├──養子[正英] 慶長16年(1611年)生。百助。主水。小出吉英と正直の娘ヨウの間に生まれる。分家。保科永次郎正棟の祖。
 └──[女子] 永井大和守大江尚保室

●保科正景……元和2年(1616)生。越前守後に弾正忠。飯野藩主2代目。母は上原氏。室は松平大和守忠国の娘。元禄13年5月16日に没。浄信寺に墓。眞譽帰元泰嶽院。
 ├──[宮之助] 早世
 ├──[女子] 九鬼大隅守藤原隆常妻
 ├──[女子] 戸田備中守藤原氏胤妻
 ├──[甚四郎] 早世
 ├──[甚太郎] 早世
 └──[正賢(正祥)] 寛文5年(6年とも)生。喜三郎。兵部将輔。飯野藩主3代目。
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