初期の飯野藩保科邸と吉良上野介邸

元禄江戸城周辺

▲元禄年間の絵図では鍛冶橋門内に飯野藩保科邸(兵部少輔正賢)と吉良上野介邸。
呉服橋門内に南町奉行所(能勢出雲守邸)、和田倉門近くに会津藩邸(3代藩主正)が在る

呉服橋の南には鍛冶橋(現在の東京駅八重洲口南側)がかかり、鍛冶橋門のそばに忠臣蔵のモデルでお馴染み吉良上野介義央が生まれたととされる屋敷の隣に飯野藩保科家の上屋敷(寛永10/1633年4月に2代藩主保科正景が賜わり元禄11年9月18日まで在)がありました。後の貝淵藩林邸の2軒隣の邸地です。

※米澤城主上杉綱勝を介して吉良義央と繋がる会津藩の保科肥後守…保科正之は、高遠城主時代の寛永10年2月に桜田門内に上屋敷(西の丸のすぐ脇。会津藩2代藩主保科筑前守正経の代まで在)を賜り、6年後の山形城主時代に芝新銭座を賜り下屋敷(正経の代から上屋敷。庭園を造り箕田園と呼ぶ)としています

元禄11年(1698)9月6日午前10時江戸の大火で吉良邸・保科邸が類焼してしまい、飯野潘3代藩主保科正賢(兵部少輔)は麻布村の地を与えられ、吉良上野介は呉服橋門内の後に北町奉行所が建つ場所に移りました。
鍛冶橋内の屋敷跡には10月5日に町奉行松前伊豆守邸が営造され、ここが南北町奉行所となります。

元禄14年(1701)3月14日、将軍家勅客式(朝廷から江戸城に下向する使節を迎える)当日に、勅使御馳人(使節の供応係)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)こと赤穂城主浅野長矩(ながのり)が私怨により、式の指導にあたっていた奥高家(幕府の儀式儀礼を司る)吉良上野介を松の廊下で斬りつけました。
夜に内匠頭は殿中(でんちゅう)刃傷(にんじょう)により切腹を申付けられ、彼の家臣達は主君と屋敷そして赤穂城をも失うことになります。

お咎めのなかった吉良上野介も自ら免官を願い表高家(非役中の高家)となりますが、8月19日に本所松坂町の松平登之助(駿河守)邸へ屋敷替えを命じられます。
12月11日に上野介は引退を願い出て養子の左兵衛佐義周(さひょうのすけ よしかね)が家督を相続しました。

元禄15年(1702)12月15日未明、内匠頭の遺臣大石良雄(内蔵助)と四十六人の赤穂浪士が本所宅を襲撃し上野介を刺殺します。享年62歳。
警備の行き届く呉服橋門内から、あえて討入りさせやすい場所に屋敷替えをさせたとも噂されました。

参考図書
・東京市『東京市史稿
・江戸幕府普請方『御府内往還其外沿革図書』
・義士叢書刊行会『赤穂義挙録』
・三田村鳶魚『元禄快挙別
他。江戸絵図等