西上総文化会報第84号「請西藩士大野家について(二)」掲載

西上総文化会の会報『西上総文化会報』第84号が発行され
5月15日の『新千葉新聞』誌上で紹介されました。



本号の拙稿は第82号「請西藩士大野家について」の続編で
林忠英の医者となった大野元貞の略歴等の追補と
葛田家資料『慶應四戊辰年 新聞一』(袖ケ浦市郷土博物館寄託)に書かれた請西藩士・大野静の母達の置かれた状況について考察を述べています。

会報購入や文化会へのお問合せは西上総文化会事務局まで。
前号の新聞記事内の連絡先と同じです

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さてTOPページにも記載した通り現在はオフラインでの発表に移行しており
ブログの間が空いてしまったので近況とこれからのことを簡潔に。

昨年末は地元の郷土誌講座で「明治の木更津芸者と剣術」を発表しました。


▲配布レジュメとプロジェクター資料の一部

今後の目標として北信(長野県北部)の「保科氏の伝承」をまとめて
クラウドファンディングを利用して私家本を発行したいと考えています。

病身であるからこそ今自分に出来ることを精一杯頑張りたいです。

西上総文化会報第83号「請西藩の時事でたどる藩財政抄録」掲載

西上総文化会の会報『西上総文化会報』創立70周年記念号(第83号)が発行され、17日の『新千葉新聞』にて紹介されました。

※記事画像は新聞社の転載了承済です

拙稿「請西藩の時事でたどる藩財政抄録」は林氏が大名となって以来
大御所徳川家斉の薨去に伴う忠英の罷免と減封、忠旭の代の印旛沼古堀普請手伝、湾岸警備と貝渕から請西への陣屋移転、忠交の伏見奉行就任による上洛と急死、忠崇戊辰出陣で取潰しとなるまで藩情勢は目まぐるしく、それだけに経済面での負担も甚大でした。
そこで本稿は大名林家の文献上の時事を辿りながら、それに伴う藩財政に焦点を絞り摘記した次第です。

なお今回校正ミスが数か所あり、次号にて正誤補記予定です。
また前号の拙稿「請西藩士大野家について」はコロナ禍中につきコラム相当の掲載でしたが、大野家についても掲載後に分かった事柄もあり来年には追報できるよう精進してまいります。


表紙は昭和30年に会員達が往年を偲び草鞋を履いて鹿野山詣をした際の写真とのこと。
今号掲載の論文・随筆・文芸・活動報告等内容、会報購入や入会の問合せ先は上掲新聞記事をご参照下さい。

飯野藩の茶園掛建立供養碑─藩と県

飯野藩 開發人一綂
明治二己巳年十月廿一日
無縁佛
御茶園掛

明治元年(1868)新政府下の房総では大総督府の知県事管轄の県と、従来または移封された藩が併置された。10月に諸藩へ政府基準の職制に改めるよう藩治職制を布達する。

明治2年(1869)3月、前年の藩治職制を受け飯野藩は房総諸藩で最も早く藩制改革が行われた。(『千葉県議会史1巻』)
また同月15日には飯野藩主保科正益は版籍奉還──諸侯が治めていた土地と人民を天皇へ変換すること──を新政府に上表している。
版籍奉還において旧藩主は政府のもと世襲ではない地方知事に任命され、6月22日に正益は飯野藩知事となる。(『千葉県誌』)

飯野陣屋に藩庁を置いた飯野藩では茶園掛を設けて茶園を開墾したことが、この明治2年10月21日付の供養碑から読み取れる。
詳細は不明で、碑に刻まれた文字の範囲で『富津市史 通史』でも茶園開墾時に出土した無縁仏を供養したものとだけ伝えている。
※隣の手水鉢は明治25年9月吉日とあり地蔵と共に追悼か移したものかは不詳

この年6月と翌年9月にも藩制改革を行うなど政府の意向に順応し、一方で正益は会津侯松平容保父子の家名存続の歎願に奔走する等多忙を極めた頃である。

明治3年(1870)10月4日に摂津・丹波・近江三国の飯野藩支配地を政府が接収し現地の兵庫・久美浜・大津県管轄になる。翌日周准郡に替地を下賜される。この際、1,363石強の不足高が生じた。

明治4年(1871)廃藩置県により正益は7月14日をもって飯野藩知事を免官
飯野県となるも同年11月13日に廃止となり木更津県に統合され、木更津県権令には柴原和が就任した。
翌5年(1872)2月7日に土地人民の引渡が行われる。
ここにおいて柴原権令は勧業として製茶を挙げ、茶種の売捌きについて布達している。
しかし飯野地区に製茶業は根付いた様子はなく、個人規模の茶畑がみられる程度に留まり、そのような茶畑も昭和の戦後には姿を消したようだ。
富津市の郷土誌でも旧周准郡域の製茶の項目は近代茶業の第一人者として著名な多田元吉について出身地(富津市富津)の縁で項を割いている。

以上のように飯野藩が仮に明治2年に茶園地を開墾したとすると廃藩まで約2年、茶樹の育成には数年かかるため、藩営の茶園は製茶まで至らなかったのかもしれない。
現在では内裏塚古墳の脇を通りかかった折に無縁佛の冥福を祈るばかりである。

所在地:千葉県富津市二間塚 内裏塚古墳そば

請西藩主林忠崇侯の乳母杉浦関女の墓


※個人管理の墓所につき詳細を求める問合せはご遠慮下さい

請西藩主従五位林忠崇侯御乳母
     杉浦関女齢八拾六年
妙法 精進院妙持日守大姉 霊
明治四拾壱申年拾弐月弐拾七日

木更津市史』に林昌之助をめぐる人々として乳母の杉浦関(せき)女が紹介されている。
慶応戊辰閏四月の出陣の際に請西藩主の忠崇は、請西村の名主林重五郎の家へ45歳になる乳母関を預けた。
大名林家と名主林家は血縁上の繋がりは無いが、頼める豪農の林家へ預けたのだろう。

市史の該当頁を担当した宮本栄一郎氏の著書『上総義軍』では関を知る豊次郎(重五郎の孫)ら古老達の話により「身長は十人並で、骨格はかつしりとしていた。顔は丸顔で上品、色は白く、性格は勝氣でいやしくもしなかった。晩年は腰がまがつてしまつたが死ぬまでしつかりしていた」と生前の様子が窺える。
重五郎の母が明治11年に亡くなった後、父五郎治の老後の世話をしていたようだ。

生前の関を知る一人であり『上総国請西藩主一文字大名林侯家関係資料集』をまとめた林勲氏によると関は市原郡牛久村の杉浦鐘太郎の養母。この鐘太郎が戊辰に従軍した請西藩士杉浦鐡太郎(銕太郎)と同一もしくは類縁かは不明。
同資料集引用の『林豊次郎日記』によると明治31年4月21日に林公が訪れ、関との再会を果たしている。

本誓寺の林忠旭寛永寺奉納石燈籠

 
▲江東区有形文化財「石造燈籠 林忠旭奉納寛永寺旧蔵

奉献 石燈籠 一基
東叡山
文恭院殿 尊前
天保十二辛丑年 閏正月晦日
従五位下林播磨守源忠旭

天保12年(1841)閏正月に逝去した十一代将軍德川家斉(文恭院)の霊廟に奉納するため、東叡山寛永寺へ諸大名が寄進した葵御紋入り灯籠の一基。
林忠旭は文政2年(1819)従五位下に叙されている。
なお、天保12年の4月に父である貝渕藩初代藩主林忠英若年寄を免職され減封、7月に隠居し忠旭が家督を継いだ。
 
文政10年(1827)に忠英が一橋家の徳川治済(最樹院。家斉実父)尊前の石燈籠を寛永寺に奉献しており、払い下げを経て昭和25年に千葉県木更津市の貝渕日枝神社へ献納された。
この忠旭奉納石燈籠もまた、住職さんの話では檀家の庭に在ったもので、忠英奉納石燈籠と似た経緯で本誓寺に渡ったのだろう。
江東区HPにも昭和58年に檀家総代の方から奉納された旨が記載されている。4年後に区文化財に登録となった。
 

当知山重願院 本誓寺
江戸時代には浄土宗江戸四カ寺の一つといわれ朱印寺領30石を与えられた
文亀元年(1501)相州小田原で飯沼弘経寺第三世曜誉酉酉冏創建。本尊の阿弥陀如来は漁師が海でみつけ安置されたものという。
天正18年(1590)の戦災により江戸桜田に移る。
文禄4年(1595)八重洲海岸に移り寺地5773坪を領して再興し改めて開山とした。
慶長10年(1605)馬喰町へ移り水戸徳川頼房の養母英勝院が修築。朝鮮通信使の宿舎にもなった。
天和3年(1683)に現地に移転。関東大震災後に称名院を合併。
(参考『東京名所図絵』『江戸川区史』)
本誓寺所在地:東京都江東区清澄3丁目4-23