高遠城

白山橋から臨む高遠城址公園 高遠城大手門

三峯川に沿う約80mの崖を利用した天然塁塞の高遠城址と伝高遠城大手門
高遠城は三峯(みぶ)川と藤沢川が合流する要衝の、それぞれの川に削られた河岸段丘上の突端に築かれた平山城である。
江戸時代に大きく改修されたが、各郭は深い空堀で隔てられ、周囲は石垣でなく地形を巧みに利用した高い土累が廻らされた戦国期の遺構の面影は残されている。

高遠(長野県上伊那郡)は甲斐(山梨方面)・諏訪から伊那へ、南信濃から駿河・遠江(静岡方面)へ進出する交通や軍事的に重要な地にあり、古くは諏訪氏、南北朝の頃より諏訪支族(諸説あり)の高遠氏が一円を治め、後に大名家になる保科氏も高遠氏に従い諏訪・甲斐方面の防衛地である藤沢の代官を務めた
天文年間(1532~55)に武田晴信(信玄)が伊那に侵攻して高遠を支配し、天文16年(1547)3月に鍬立て(くわだて。起工の地鎮祭)を行い山本勘助が縄張(なわばり。設計等)をしたとされる。
信玄は高遠を南信州の拠点として、信任が厚い家老衆の秋山虎繁(とらしげ。武田二十四将)・親族衆の諏訪四郎勝頼(すわかつより。信玄4男)を高遠城代とした。
信玄が亡くなり武田家当となった勝頼は、弟の仁科五郎盛信(にしなもりのぶ。信玄5男)を城代に任じて防備を固めさせた。

天正10年(1582)仁科盛信が織田勢の大軍と戦い壮絶な最期を遂げ、そして武田・織田家が滅びた後、高遠城には徳川家康についた保科が入る。
豊臣天下となると保科正直は家康の関東移封に従い下総多古に移るが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで徳川方が勝利すると正直は高遠城に戻ることができた。
江戸時代には高遠藩3万石が置かれ、正直の子の正光が、その養子の正之が治めた。

寛永13年(1636)二十数万石の大藩、出羽(山形県)山形(最上)藩藩主鳥居忠恒(とりいただつね)は病弱で、死の間際に養子とした弟の鳥居忠春(ただはる。忠治)は幕府の定めた末期養子の禁令によって違法となり、所領没収となった。しかし、忠恒の祖父・徳川家の忠臣鳥居元忠(もとただ)の功績が考慮されて取り潰しは免れた。
当時、徳川秀忠の御落胤であることが公になって第3代将軍家光に寵愛された高遠藩主保科正之の20万石への加増、入れ替わりの形で忠春が3万2千石入り高遠藩主となる。
寛文3年(1663)に忠春が侍医の松谷寿覚(まつたにじゅかく)に斬られた傷がもとで没し、長男の忠則(ただのり)が継ぐが、元禄2年(1689)6月に家臣高取権兵衛が江戸城あかず御門の守衛任務の際に御側衆平岡和泉守頼恒の妾宅を覗いたとして訴えられ、家内不取締(家臣の罪は当主の監視不届きという幕府の刑罰)でに閉門を命じられ獄死。
鳥居家は減封で能登下村藩(石川県七尾市)へ移され、高遠は一時幕府領として松本藩主水野忠恒の預かりとなる。

元禄4年(1691)2月内藤清枚(きよかず)が高遠3万3千石の藩主となり、廃藩まで8代、180年間にわたって内藤家が城主であった。
明治5年(1872)新政府から城郭の取壊しが命じられ、城跡は明治8年頃から旧高遠藩士の手で桜の木が植えられ明治9年(1876)公園化し、現在コヒガンザクラ樹林は長野県の天然記念物とされ、花見の一大名所となって毎年4月は恒例の高遠さくら祭で賑わっている。

大手坂大手門石垣 高遠城大手門跡 高遠城郭の図大手坂石垣
大手枡形の石垣と大手坂上の大手門跡地
武田氏の築城当初、表門の大手は比較的なだらかな城東に、裏門の搦手(からめて)は城の背後を守る岸壁のある西側にあり、江戸初期に情勢が安定すると新たな城下町が形成された西側(現在の大手跡)に代わったとされる。
明治政府により大手、二の丸、本丸、搦手の4つの櫓門(やぐらもん)は全て取払われたが、三の丸に移設された旧高遠高等学校正門(記事一番上の写真)が、形は変わってしまったが旧大手門と伝わる。

高遠藩の藩校進徳館の門 高遠藩の藩校進徳館の建物
■高遠藩の藩校進徳館表門と二棟。正面軒上に内藤家の家紋「左十字」の鬼瓦が見える。
万延元年(1860)閏3月24日、高遠藩8代藩主内藤頼直(よりなお)は三の丸の老職内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて「三ノ丸学問所」を開校。その後「進徳館」と名づけられた。
文学部、武学部の2部からなり、藩士の子弟を中心に8~25歳までの生徒が幼年・中年の部に分かれて学んだ。
内藤邸は当時珍しい茅葺平屋八ツ棟造りで、この建物に続いて南北隅に筆学所、北裏に広い稽古場を設けた。
現存するのは写真の大玄関と脇玄関奥、東棟に生徒控所と寄宿寮。右の西棟に教場二部屋や教授方詰所。奥に儒学の祖孔子廟と高弟四賢人の五聖像が安置されている。

桜雲橋 問屋門
■桜雲橋と城下町の問屋門
現在は鉄筋コンクリートの桜雲橋(おううんきょう)の場所には当時は木橋が架かっており、当時も本丸側に櫓門がある作りで本丸の守衛となっていた。
問屋(とんや)門は昭和20年代に本町の問屋役所にあった門を移築したもの。

南曲輪 桜雲橋下の空堀 南曲輪からの中央アルプスの展望
南曲輪
本丸の南に位置し、幼少の幸松(保科正之)と母お静と移住した所と伝わる。
方形で、周囲は土塁で囲まれ、本丸とは堀内道で(現在ある土橋は近年通行の為に造られたもので橋は無かった)、二の丸とは土橋で繋がっていた。写真の堀の先が南曲輪。
中央アルプスが展望できる景勝地で、かつては南曲輪に茶室や庭園があったのか、古い絵図には瓢箪形池が描かれている。

保科正之とお静の母子像 高遠歴史博物館の保科正之像
▲高遠歴史博物館の保科正之・お静の母子像
正之像は保科の並九曜の紋服。3体のお地蔵様も幸松の成長祈願をし目黒成就院に寄進した地蔵菩薩を模して建立された。
高遠城本丸跡 太鼓櫓
本丸跡と時を報じる太鼓楼
本丸は段丘の突端に置かれ、二の丸、三の丸を廻らせた城郭三段の構え。
天守閣は無く、本丸中央一杯に平屋造の本丸御殿(藩主の住まい)が建ち、他に櫓や土蔵などがあった。
太鼓櫓は元々は搦手門の傍らにあり、楼上に3鼓を備え、時刻になると番人が予備の刻み打ちの後に時の数だけ時報の太鼓を打った。廃城後に有志により対岸の白山に新設されたものを明治10年(1877)頃に本丸と現在の位置に移され、朝6時から夕6時まで偶数時刻を打つことが昭和18年(1943)まで続いた。

高遠城二の丸跡 高遠閣 高遠城二の丸を繋ぐ空堀
二ノ丸跡と高遠閣、三ノ丸からの虎口の空堀
本丸の東から北に廻っている広大な曲輪で外周は堀切で防備を固めた。
役所向きの建物が置かれ、厩や土蔵等もあった。
二の丸の北東に、木造二階建て入母屋造の公会堂「高遠閣」が昭和11年に伊藤文四郎工学博士の設計で建設され、現在は有形文化財。

新城盛信神社 白兎橋 高遠城法幢院曲輪の堀
■新城・藤原神社と白兎橋、堀で隔てられた法幢院曲輪
天保2年(1831)7代藩主内藤頼寧(よりやす)は家臣中村元経の嫌疑により、天正10年織田の大軍を引き受け高遠城で壮烈な最期を遂げた仁科盛信の霊を五郎山より城内に迎え新城(しんじょう)神として祀った。先代内藤頼以(よりもち)が内藤家祖神藤原鎌足公を勧請した藤原社を合祀し、廃城跡の明治12年(1879)に建てられた。
法幢院(ほうどういん)曲輪は二の丸から堀内道に通じ、城郭の南端に位置し、東方に幅6m、長さ170mの馬場が続いていた。かつて法幢院という寺があり、高遠城落城の際に法要が営まれたが、一般にも参拝できるよう月蔵山の麓に移し桂泉院(けいせんいん)として現在に至る。
法幢院曲輪へと架かる白兎橋も近年造られ、文政の頃の高遠藩仕送役の酒造者で町の発展にも尽くした廣瀬治郎左衛門雅号・白兎(はくと)を、その曾孫が私有地となっていた法幢院曲輪を買上げて公園として寄付した折に架けた橋に名付けた。

高遠城勘助曲輪 高遠城勘助曲輪神戸邸跡 高遠城三ノ丸背後の新館橋
■勘助曲輪(かんすけぐるわ)と武家屋敷・神戸邸跡、高遠城の北面
曲輪の広さ769坪(2542㎡)で櫓や祭事事務所、硝煙小屋、稲荷社(西高遠相生町に移転した勘助稲荷)等があった。
山本勘助に由来する名称だが、当初はこの曲輪は無く、大手を西に移動した際に新しい大手の備えとして新造されたようだ。
北は武家屋敷と三の丸があり、かつては三の丸に沿って塀が設けられ、塀の外側は藤沢川の方向に切り立ったこの急斜面で、容易には攻め入られない造りであった。
写真は城北の藤沢川にかかる新館橋越しの高遠城。

高遠城二の丸東の堀と高遠閣 高遠城東搦手の大堀切 高遠城東搦手
二ノ丸の土塁東搦手の大堀切
二の丸を囲む空堀から高遠閣の裏手を見ると、高い土累が盛られているのが分かる。かつては更に土塁の上に塀があったようだ。
空堀からの道は、次の大堀切まで鍵の手を描いており主郭への容易な進入を防いでいる。当時は焼き払って通行を止められる木橋が架かっていたと思われる。
戦国時代は大手側で、他の3方に比べ、防備の弱い地形の東側を大きな二重の堀切で、城を島のように孤立させ防御性を高めた。
天正10年の織田信忠の軍も川と坂に阻まれた裏手でなくこちらの正面から攻め入っている。

高遠城は東武家屋敷の地 高遠藩士有賀家跡 絵島の囲い屋敷
▲高遠城の東面と高遠藩士有賀家跡、復元された絵島囲い屋敷
高遠城の東側に武家屋敷があった。
正徳4年(1714)に大奥の粛清に遭って遠流となった絵島が幽閉された囲み屋敷も城の東の花畑(場所の名)にあった。現在、高遠歴史博物館で復元されている。

高遠藩藩医馬島家 伊沢修二旧宅 坂本天山屋敷跡天山井戸
▲高遠藩士の邸宅跡(馬島家伊澤修二生家)と天山井戸
武士の邸宅は原則的に藩から貸与された。市指定有形文化財となっている政治家伊澤修二(音楽教育の草分けとなった)の生家は下級武士、藩医馬島家は上級武士の住まいの特徴が見ることができる。
天山井戸は高遠藩砲術師範の坂本天山が蟄居した殿坂の槃澗居(はんかんきょ)の井戸跡。

国史跡高遠城址公園
所在地:長野県伊那市高遠町東高遠2295(高遠閣)

▼高遠城関連サイト
伊那市:http://www.inacity.jp/
2016年高遠さくらまつり:http://takato-inacity.jp/h28/
▼参考資料
・『高遠町誌』
・伊那市教育委員会『高遠城跡ガイドブック』
・長谷川正次『高遠藩史』『シリーズ藩物語 高遠藩
・『高遠藩の参勤交代』
他、古地図、観光案内パンフレットや説明板等